四.後宮の外
翌朝、寝衣から着替え、上着を探そうと寝室を出たら、
「……おはよう。何をしておるのだ?」
とりあえず声をかけると、モニカは飛び上がって、
「殿下! おはようございます」
と慌てて挨拶してきた。
モニカはアリーセと同年代で若く、黒の巻き毛に、深緑の瞳をした色白の女性だ。アリーセと同じく、つい最近第三王子付き——つまり私の侍従になった。
後宮に来てからの日も浅いらしく、かつての私のわがまま放題の所業を知らぬ珍しい者でもある。それをいいことにきちんと名前も聞き出した。モニカ・ルーテルというのだ。ここは侍従長の人選に感謝すべきだと思っている。
そのモニカは、主が起きてきたというのにまだ動かないでいるアリーセを揺さぶった。
「あら、アリーセ! しっかりして、殿下のご衣装を持っているのは貴方でしょう!」
それでアリーセも気がついたらしく、あたふたと私の方を向くと、
「きゃ、殿下、おはようございます! 申し訳ありません、ぼうっとしていて……」
と謝る。
「よい。何かあったのか?」
尋ねると、アリーセはいつものように私に上着を着せながら、
「殿下、それがもう、私たち本当に驚いてしまって……!」
と興奮気味に言い、一枚のカードを差し出した。
四隅に装飾のある、地味な茶の地だが美しいカード。そこには、
『ヴィンフリート
本日の
アレクシス』
と手習いの手本にもなりそうな流麗な筆跡で書かれていた。一番下には兄上の署名。
「——王宮に……?」
呟いた私は、そのまましばらく先ほどまでのアリーセたちのように固まっていた。
私が暮らしていたのは、本当に小さな世界だった。
たくさんの侍従に護衛騎士、そして物心ついた時には既に六人だった王家の、多くの人々が数多の部屋を使って暮らしている、後宮。
幼心には、十分に広い世界だったが。
大きくなるにつれ、外にも世界があることを知ったが、守られるべき立場から、その外へ出ることは数えるほどしかなかった。
王宮を囲む周壁をくぐったのもハイスレイ家に行った数回のみであるし、そもそも、後宮を出たことすらわずかにしかない。内宮には新年の挨拶や宴のある時には父王を訪ねていたが、王宮は控えの間以外にはほとんど立ち入った記憶もない。
そんな場所に、これから行かねばならないのだ。
「殿下、大丈夫ですわ。王宮からの使者は、案内の者を遣わすと申しておりましたから」
とモニカ。
「ええ、迷う心配はないかと。殿下も本当なら今頃は内宮にいらしたはずなのですし、一の
アリーセも励ますようにつけ足す。
「……そうだな」
上着を直して、うなずいた。
父王の話があってもう一月強経つとはいえ、宮内から母上も去ってしまった今、私がどうなるのかは見当もつかん。
朝食を終えてすぐ、来訪者はやってきた。
「ご案内申し上げます、第三王子殿下。どうぞよろしくお願いいたします」
その薄茶の短い髪の騎士は、見目もまだ若く十八かそこらに見えた。薄緑の目は小さな輝きに満ちていたが、礼をする身のこなしは固く、緊張しているようだった。
私も随分緊張してはいたが、どうやら、己より怯えている者を見れば守ってやりたくなり己が怯えも去るものだから、他者に目を向けよ、というフーベルトゥスの言は真実だったようだ。
私の方が余裕があるように思えて、私は彼に微笑みかけた。
「私の方こそ、よろしく頼む。お前、名は何という?」
すると、騎士はぱっと顔を明るくさせ、
「ベンノ・シリャと申します」
と嬉しそうに言った。
どこに行くのかと問いたげな顔のアルマに手を振り、後宮の戸を歩み出る。
内宮へ続く渡り廊下も、久しぶりだった。
後宮と内宮の間の中庭は、名も知らぬ草花が育っていて、陽の光を浴びて輝いていた。いつ来ても中庭は煌めいている。影になっていることの多い、薄暗い裏庭とはやはり異なる。裏庭は強い風ばかりだが、この中庭にはそよ風しか吹かない。
穏やかな春の日なのに、どうしてこうも息の詰まるような思いをせねばならんのか。
かつては、息が苦しいような時は全て乱暴に吐き出すように、使用人たちにきつく当たっていた。今はもうそんなことをしようとは思わんが、こういう時、他の者はどうするのだろうと考えた。
「殿下」
内宮の戸に手をかけて、ベンノが声をかけてくる。
「これより、第一王子殿下のおられる執務室へご案内いたします」
私は小さくうなずいてみせた。
内宮は全ての廊下に赤の絨毯が敷いてあり、王家にふさわしい格調高い空間だ。
中庭に近い辺りは空き室で、少し進むと廊下は左右に分かれ、右には国王と王妃様の部屋、左には一の兄上の部屋がある。だが、今はその主も不在であるようだ。内宮の一帯には
ベンノに続いて、素早く内宮を抜ける。
王宮への通路は薄暗かった。天井が高く、上の方にある窓と左右の出入り口からの日だけが光源になっている。床も壁も石造りの基盤が見えている。文官や騎士だろうか、離れたところにちらほらと人がいる。
「こちらです」
ベンノがその通路を横断するので、私もついていった。
王宮の廊下はしんとして、滑らかな石敷きの床に二人分の足音が響く。じきに円形の空間に出た。
大きな扉が一つ。その前に大柄な騎士が一人、立っている。
「第三王子殿下をお連れしました。戸を開けてください」
とベンノがその騎士に声をかける。騎士は一度私をじろりと見て、振り返ると扉を叩いた。
「入れ」
戸の向こうから声がして、騎士が扉を開ける。
その部屋は、書物の香りがした。壁一面の棚に、本や書類と思しき紙の束、いくつかの置き物が所狭しと並んでいる。正面にある大きな窓の前に、重そうな机があり、そこに兄上が座っていた。
「よく来たね、ヴィンフリート」
そう言って、兄上は少しだけ微笑んだ。その背後にはいつもの側近の男が控えていたが、大窓からの光で顔が影になっていて、表情までは見えない。
「ご苦労、ベンノ。下がってよいぞ」
「はっ」
ベンノはすぐに退出してしまった。ぱたりと扉の閉まる音を聞きながら、兄上に礼をする。
「おはようございます、兄上」
「おはよう。突然呼び出してすまんな」
「いえ……」
答えながら、ちらと表情をうかがう。少し顔色がくすんで見えるのは、光の加減か、それとも疲れていらっしゃるのか。
「まあ、話をしようか」
言って、兄上は顎に手を当てた。
「この度のウルリーケ様のことに関してだが、まず、ハイスレイの者たちは昨日のうちに王都を
何と、行動の早い。
「ハイスレイは医術が盛んだ。よい医者も見つかるだろう」
「……はい」
悩んだがうなずいた。
母上のことを思ってくださるのはありがたかったが、私には母上がどんどん離れていってしまったという感じがして、心細かった。もとより近しいというわけでもなかったが、それでも、誰より近い血を持つお方と別れるのはつらい。
「しかしこれで、後宮に問題が生じてしまった」
「それは……何でございましょう」
その言い方に不安が首をもたげる。あのような騒ぎになったことに、問題がないなどとは思わなんだが。
「お前の問題でもあるのだよ、ヴィンフリート。お前がウルリーケ様の
言われ、はっとする。
あの時は、隠すことが最善だと思った。静けさが必要な母上のためにも、母上の乱れた姿を外に見せぬためにも、兄上のお手を煩わせぬためにも。
だが、それは兄上の、先を考えてほしいという心遣いを無下にすることではなかったか。兄上は今、全ての責を負っているのだと、知っていたのに。
「報告が必須だとわかっていながらお前の命に従ったナッケンも、本来ならば処分が必要だが……私なら嘘を見破れると知っていてそう行動したのだから、今回は流すことにした。結果的に真実を伝えたわけだからな。それから、ウルリーケ様に仕えていた者たちにも、処罰があるべきだが」
どくん、と心臓が不気味な音を立てる。
侍従長も、母上の侍従たちも、私のせいで処罰を受けるところだったというのか?
「ウルリーケ様のお力やご性格を考えると、対応の不適当さも仕方ないことではあろう。そもそも今残っている侍従たちは、王家に忠誠を誓っているか、身寄りのない者が多い。侍従たちは配置変えをさせることで決着がついたが、問題はあの護衛騎士だ」
……カスパーも?
私のしたことは、何と大きく影響するものであったのだろう。
私は、どうすればよかったのだ?
「彼はウルリーケ様のご病気がわかった時、
「……っお待ちください。彼は、カスパーには責はありません。処罰なら私が受けます」
急き込んで言う。私が命じたばかりに、カスパーの役目まで下ろされるなど……。
すると驚くべきことに、兄上は笑った。
「ふ、……ではしばらく私に従ってもらおうか、ヴィンフリート。騎士の罪を肩代わりするのは、
「え……」
私はぽかんとして兄上を見つめ、
「あ、ありがとうございますっ」
慌てて頭を下げた。
私がカスパーの主となる……そうすれば彼への処罰は私のものへすり替えられるということだ。
「もうこのようなことのないようにな。後宮のことについても報告を義務づけるか……ふむ」
言って、兄上はまた顎に手をやる。
「よし、ヴィンフリート」
「はい」
「お前には連絡役になってもらおう。今日から王宮に通い、後宮の方々と我らをつなぐ橋渡しの役をしてくれ。これはお前の仕事だが、しばらくはただ働きだ。それがお前への罰の代わりだ」
私は何も言わず、ただ深く頭を下げた。
その程度のことなら、罰でなくともしたものを……兄上の優しさに救われたのだと、強く思った。
「とはいえ、今は王宮も慌ただしく、お前の仕事は……まずは王宮を知ることだが、中々難しいだろう。今日は初日であるし、ジークベルトに案内させよう。ヴィンフリート、ジークの言うことにはちゃんと従うのだぞ」
兄上の言葉に、控えていた側近が一礼する。
「ジークベルト・フォレーヌと申します。アレクシス殿下の近衛騎士隊長を務めさせていただいております。どうぞお見知りおきを」
髪も瞳も赤茶で、目の方はより濃く赤の色をしている。兄上よりも少し背が高いようで、体格もよく、腰にはいた長剣が似合っている。近衛騎士の着る赤色のベストには、他の者と違って金色の飾りがついており、隊長の印だろうか。
「よろしく頼む、ジークベルト」
応じると、騎士は硬い表情のまま、
「では参りましょうか、王子殿下」
と執務室の戸を開けた。
円形の廊下に出る。
「本日は、王宮を大体見て回りましょう。細かいことはまた後日ということで」
うなずく。
「まず、先ほど殿下が通ってこられたでしょうあの通路から行きましょう」
ジークベルトは私を例の通路まで連れていった。やはり文官や騎士、使用人などがばらけて姿を見せる。
「ここは表玄関から見ますと、謁見の間やアレクシス様の執務室よりさらに裏の、周壁内の様々な建物や通行口につながる大通りですので、『
なるほど、確かにどの者も急ぎ足で渡ってゆく。
「向こうが内宮になりますね。王族の方は毎度ここを通って仕事場へ行かれますから、殿下も道を覚えておかれるとよいでしょう」
私はまたうなずいた。
高い窓から差し込む日が美しい。ジークベルトは平静な表情を変えぬまま私を見ていたが、
「……では、見て回ってゆきましょうか」
とまた歩き出した。今度は廊下を少し戻って、十字路に出た。
「こちらを真っ直ぐに行かれると、先ほどの執務室です。まずは左から……」
王宮の、後宮から見て左側は、厨房、
右側は騎士たちが書類仕事をする場所で、
中央には兄上の執務室、正面玄関からは美しい応接間が並び、その間に謁見の間があった。
「この扉は、王家の方々がお入りになる際に使うものです」
とジークベルト。
彼の口調は淡々としたものだった。兄上に長年仕えてきているのだろうから、王宮の構造など珍しくもないのだろうが、私にとっては違う。
本当にほんの少しだけではあったが、王宮で働く人々の暮らしぶりを、初めて目にすることができたのだ。
大勢の人。書棟からはペンの音。話し声。武棟からは剣戟の音。熱気。歴史ある装飾品に、知らなかった建物の形。
正直に言えば、最初は緊張していた。王宮を歩くのは後宮とは勝手が違う。
案内人もこの調子だ。昨日、兄上とともに後宮に来た時、私を問い詰めた態度や、案内する間もどことなく冷ややかな声音から、この者が私をよく思っていない……あるいは警戒しているのではないかと思っていた。
だが、もうそんなことはどうでもいい。この場所の美しさに、私は感動していた。
人の集まる場所というのはこういうものなのか。色々な声があふれている。様々な色が、少し移動するだけで目に入る。後宮にはない訪れる者たちのための像や、仕事に追われる者たちの影で忙しく動き回る使用人たち。
ジークベルトの案内がいいのか、目立たずに人々を見て回ることもできた。
今いるのは、兄上の執務室の前の円形の間から廊下を進んだ、重厚な扉の前だ。細かい模様が彫られていて、手の込んだものとすぐわかる。
「中には入れんのか?」
私は大分興奮していた。弾んだ声をしているのが己でもわかる。
ジークベルトの赤茶の瞳が、意外そうに色合いを変えた。
「そうですね……今なら入っても構わないかと」
考えながらという声で言われる。
私はそっとその重そうな扉を押した。
広大な空間が広がっていた。入ってすぐ右横に、数段高くなった
床は白と黄土色をした石で模様が作られていた。壁は白く、金の燭台がいくつも、大窓と大窓の間に並んでいる。天井は裏大路と同じほど高く、金属製の飾りが見えた。窓からの光に、金がそれを反射して輝いている。
「建国祭では踊り場ともなり、また儀式の場ともなります。平素は王が民の陳情を聞く場として使われています」
無人の広間に、ジークベルトの解説が少し響いて聞こえた。
「……美しいな」
呟いた。
王のための場だ。他の何でも代えられぬ、王宮の中心。
「……」
騎士は返事をしなかった。
広間の中央まで歩いていく。ごおん、と低い鐘の音がした。三回繰り返される。昼の合図だ。裏大路の傍にある塔と、王都の神殿の塔の上に、鐘があると聞いている。
「もう昼か。早いな」
独り言ちていると、ジークベルトはこちらへ歩いてきて、謁見の間の入り口に立った。
「殿下」
「何だ?」
白い大扉の前まで行って問うと、彼は
「……街をご覧になられますか?」
と口を開いた。
私は驚いて、彼をまじまじと見て、それから勢い込んでうなずいた。
白い扉を通り、客間の入り口が並ぶ長い廊下を抜け、玄関に出る。磨き抜かれた床の向こう、その巨大な扉は開け放たれていた。白い石造りの三段の階段の向こうに、石畳が広がり、金の開かれた門があり、王都へ下る坂道があり——街が見えた。
小さな家々の屋根。石畳の大通りに、遠くに見える緑の山々、そして、遮るもののない青空。
爽やかな風が吹いていて、私の髪を揺らし、金が視界の端に揺れた。
「……すごい」
始めて、まともに街を見た。私の暮らす国の、人々が暮らしている街。
正門から外の景色を眺められる時が来るとは。
空は、こんなに広いのか。こんなに民の家々は美しいのか。山はこれほど青いのか。絵で見たよりも、ずっと、ずっといい。
鳥の声がする。風を感じられる。街の音が昇ってくる。
これを、外と呼ぶのか。
後宮の窓から、中庭から、馬車の内から、そうした閉ざされたものから平面的に見てきたものと、この台地の上から見る景色は全く違った。
……ずっと、小さな世界の中で生きてきた。
こんなに広く、大きく、美しいものを見てしまったら、かつてに戻ることなどできない。
やっと、〝外〟に触れたのだと思った。兄上は、私がそうすることをお許しくださったのだ。
「あれが塔か?」
一番高い、細い建物を指差す。
「はい」
騎士はうなずいた。
「……すごいな。こんなふうに見える景色が、あるものなのだな」
言うと、騎士はふいにおかしそうに口もとを緩めた。
「アレク様に似たようなことをおっしゃる」
「兄上に?」
目を瞬かせて聞くと、彼はうなずく。
「ええ。……あの方も初めて遠乗りに出られた時、同じようなことをおっしゃっていましたよ」
遠乗りか。
兄上は、私などよりもっと、外を知っておられるのだろう。……私も、より多くのことを知れたらいい。
「それは、よいな。私も兄上のように素晴らしい人になりたいものだ」
言うと、ジークベルトは、
「でしたら、兄君に正しく従ってくださればよいものかと」
と私の言を流した。
……まだ警戒はされているらしい。
「そろそろ戻りましょうか。昼には執務室にとの仰せですので」
いや、少しは解けたか。
昼食は執務室で運ばれてきたパンを食べた。兄上は私に王宮の地図を渡し、
後宮に戻ると、姫たちがくっついてきた。
「お兄様、王宮へ行ってらしたのでしょう? 何かおありになったの?」
と心配げなジルケ。
「一のあにうえさまにおあいした?」
アルマは無邪気に聞いてくる。
「色々あったゆえな。一の兄上にももちろんお会いしたぞ。お話をしてきたのだ」
二人の髪に手を置く。
「王きゅうはすてきでしたか?」
アルマが興味一杯という顔で問うてきた。
「まあ、アルマ」
ジルケはとがめるように妹の名を呼ぶが、王宮のことを聞きたそうでもある。
「そうだな、初めて目にするものばかりだった。……そうだ、丁度ここに地図がある。お前たちにも見せてやろう」
思い立って、赤の間の低い卓の上に地図を広げた。姫たちが目を輝かせる。二人も私と同じで、まだ外を知らない。
「きれいな地図! このまるいお部屋は何ですの?」
「かんむりがかいてあるわ! ここが王さまのおへや? わあ、この大きなおへやは、なんというのですか?」
口々に言う姫たちに今日知ったことを教えてやる。
「そこは兄上の仕事部屋の前なのだよ、ジルケ。それからそこの広間は、謁見の間で、踊り場にもなるところだ」
「こんなに広いところなんですのね、えっけんの間って……すてきですわ」
「そうです、あにうえさま、わたしもおどりをちょっとだけならったのです! わたしもおどってみたいです」
姫たちの話につき合い、聞いてきた話を繰り返す。後で見て道を覚えるだけはしようと思っておったが、こうして姫たちに見せた方がずっと役に立ったな。
はしゃぎ疲れて寝てしまったアルマの髪をなでてやっていると、ジルケがこうささやいてきた。
「ふしぎですわ。いつも思うのですけれど、お二人の金のかみは、同じ金ですのに、色がちがって見えますの」
九つの女の子らしい話題だ。私はくすと笑った。
「そうだな。兄上や王妃様も金の髪だが、やはり私にもお二人のは私たちとは違って見える」
「やはりそうですのね! アルマは、ほら、細くてきらきらして、日の光のようですけれど、お兄様のはだれより色がこくて……だいだい色を金にしたような感じですわ。アレクシスお兄様は、白に近いような色で……ひとみのせいでしょうか、緑のようないんしょうがありますわ」
ジルケが語るのを、私は微笑んで眺めていた。
かわいい妹。大人しいが、誰より芸術性があるかもしれない。
「おもしろいものだな。私も母上の髪は、白に近くて、青のような感じがしていたし」
「ああ、お兄様と同じ、こい青のひとみですものね!」
嬉しそうに手を合わせるジルケ。
「兄上と王妃様の色は似ているな」
「まあ、そうなんですの? さいきんお会いしていなくてよく思い出せませんわ……お兄様は王妃様にもお会いして?」
ジルケが口もとに手を当てて言った。
「ああ、いや。今日はお会いしておらぬが、前にお姿を見かけた時思ったのだ」
「そうなんですのね」
私が言うと、彼女は感心したようにうなずいた。
そんな話をしたせいだったかもしれない。
翌日、再び王宮からやってきた使者は、一枚の手紙と、本日は案内人は参りません、という一言だけを残していった。
手紙は兄上からで、私を後宮と王宮とをつなぐ有事の際の伝達者とする、職務としては
毎日王宮へ、と言っているのに今日は案内はないということは……今日からは一人で参れと?
兄上は中々お厳しいようだ。
玄関口で出かける支度をしていると、目ざとく見つけたアルマが駆けてきた。
「あにうえさま! きょうも王きゅうへいくのですか?」
手にはまりを持ち、残念そうな顔をしている。遊んでほしかったのだろう。
私はかがんでアルマに目線を合わせ、言い聞かせるように告げた。
「そうだな。実は私は、一の兄上から大事な役目をたまわったのだ。これからはよく王宮に行かねばならないが、聖曜日には後宮にいられる。それまで待っていろ」
「せいようび?」
アルマは悲しげに私を見上げた。何というか……置いていきたくないな。心にくる。
「それはいつですか? あにうえさま」
「ええと……二日後だな。明後日だ」
言うと、アルマは少しすねたようにしながらも、
「ふつか……なら、あねうえさまとあそびます。せいようびにあそんでください」
と行儀よくまりを抱えた。くるりと背を向け、白の間の方へ走ってゆく。
「……あねうえさま! まりであそびませんか?」
「まあ、アルマ。どうしたの?」
二人のかわいらしい声が届いて、私は少しだけ口もとをほころばせた。
後宮を出る。中庭の渡り廊下を通り、内宮を歩き、裏大路を足早に渡って、薄暗い廊下をくぐり抜ける。何とか無事にたどり着いた。
我ながらよく覚えていたものだ。昨日妹たちに話したのが効いたのかもしれん。
執務室の前には、昨日と同じ大柄な騎士が立っていた。近づいてゆくとじろり、と睨まれる。感じの悪いやつだ。
「兄上はこちらか?」
尋ねると、その騎士は暗い目で私を見て、
「……そうです」
とだけ答える。
「入ってよいのか?」
負けじと問いを重ねると、騎士は一層苦々しげに、
「ご勝手に」
とのみ告げる。
よいうわさも聞かぬ、主たる一の王子に近づくたかだか三番目などに扉を開く腕はない、とでもいうことか?
「ふん、ならそうさせてもらおう」
じろりと見上げ返して、騎士の横をすり抜け、戸を叩く。合図は通例、二回だ。
「入れ」
くぐもった声に、戸を押し開ける。
眩しい光が差し込む大窓に目を細めた。執務机にいらっしゃるはずの兄上の姿は、ない。
「……兄上?」
部屋を見回す。背後で扉がぱたりと閉まった。
「ヴィンフリートにございます。お呼びとうかがいましたが」
声を張ると、思いもかけぬところから返事があった。
「こちらだ、ヴィンフリート」
……左?
見れば、本の壁の向こう、左の奥側に扉があり、向こう側へ少し開いていた。よく見ると、右奥にも扉がある。
私は歩いていって、その中をのぞき込んだ。
——その部屋は、まるで本箱だった。ずらりと並ぶ、細長い黒の本棚が、何列も続いている。
何だ、ここは?
踏み入ると、本の香りに包まれるようだった。静かで、硬い、そんな雰囲気。
「……兄上?」
もう一度、今度は控えめに声をかけると、棚の奥から兄上が姿を現した。
「おはよう、ヴィンフリート」
兄上がにこりと笑う。
「おはようございます、兄上。ここは……?」
挨拶もそこそこに問いかけると、兄上は小さく笑い声を立てて、
「王族の資料室だよ」
と秘密をささやくように言った。
「王族の?」
「そうだ。こちらにおいで」
促されるままに、その後についていく。部屋の右最奥に、棚と同じく黒に塗られた机があった。
「今日から、お前はここで勉強しなさい」
と兄上。
勉強? 言われて、まず浮かんだのは疑問符だった。ここで、と言われても、教師もいないのに何を?
「勉強……でございますか?」
放った言葉は、思った以上に疑問の色が濃かったらしい。兄上はおかしそうにしながら、こう告げた。
「うむ、そうだ。ここにある本は、全てユースフェルトとその王家にまつわる歴史や伝承の記録なのだ。後宮を出た王族の子は、ここの資料の内容を把握できるよう努めるのが通例。今は少々、不安定な状況であるし、お前は内宮に移ったわけでもなく、私も教えることなどはできんが、気になるものからでもここの本を読むといい」
と部屋を見回し、兄上は目を細める。
「王族が王宮へ出てきた以上、知っておくべき知識だ。……お前は、後宮で教師から習っていた時は優秀だったと聞いているし、大丈夫だろう?」
優秀、か。
どうなのだろう? 後宮では、そう言われたら胸を張ってその通りだと答えるような子どもだったが。
本は好きだ。知ることはおもしろいし、教師も母上も、歴史や外国語は特によくほめてくれたから、嬉しくて頑張っていたのは、まあ、そうだ。
だが兄上を見ると、その〝優秀〟も、思っていたより数段下で、兄上がここの本を読んだ時に比べれば、まだまだというものかもしれぬと思う。気に入らぬものには怒鳴り散らしていた私に、果たして正当な評価はくだされていただろうか?
……わからんが、とにかくは。
「どうかは存じませんが……本は、読んでみたいと思います」
言うと、兄上は嬉しそうに微笑んだ。
「そうか。ここの本は区分けされて置いてあるから、資料の位置も覚えるといい。私は、たまに古地図など必要になって取りに来ることがあるが、便利だぞ」
といたずらっぽく笑って、
「何かわからぬところがあったら、質問しに来ていい。私は大体執務室にいるから。……では、頑張ってくれ」
私がうなずくと、執務室の方へ戻っていかれた。
……ふむ。
まずは、どんな本があるのか見て回ることから始めようか。
王室の記録。年表。歴史本に古地図。能力について書かれた本。王宮の歴史や内実。魔術書もあれば建築の本もある。王家について知れと言われたからには、教師の授業で習っただけではない、細かい事実を学ぶべきなのだろう。
ユースフェルト王家の系図が書かれた本を黒い机に広げた。
——遠い昔の時代。
初代王アルトゥールは、星海の傍らで生きていたユーザルと呼ばれる民族の〝星の姫〟アストリットを妃に迎え、その力でもってこの地を治める証を得て、国の名をユースフェルトとしたという。アストリット妃の力についてはよく伝わっていないが、一説には星海の星くずを集めることができたとか……。
それが何にどう使われたのかは不問のこととなっているが、確かにユースフェルト王家の紋章は星の輝きを模した
アルトゥールの子アレクシス一世は、父王の立てた国の基盤をより盤石なものとし、都市を整備したという。妃にはアルトゥールの仲間の一人の娘、グートルーンを迎えている。
……長い歴史の中で、王国はいくつもの転換点を迎えている。
例えば六代目、女性では二人目の王ブリギッタは隣国セゼムとナベルト山脈を挟んだ不可侵条約を結んでいる。十四代目エドゥアルト三世は、傭兵国ティエビダからベルタ妃を娶った。次のヴェンデル一世の時には、
十八代目ジルヴェスター三世の時代、四人の王子が王権を争って内乱が起きる。長子アンドレアスが三年後にアンドレアス二世として即位し、王朝は続いた。
ヴェンデル二世の
——そして現在。先王エドゥアルト五世の長子は夭逝したため、第二王子がアンドレアス四世として即位。正妃にモウェル公国のエルヴィラ王女をめとる。次いで第二妃ヤスミーンがウィルマー侯爵家から後宮入り。第一王子アレクシスが正妃エルヴィラのもとに生まれ、一年後にはヤスミーン妃が第二王子ゲレオンを出産。
数年後、ハイスレイ公爵家のウルリーケが入宮。寵妃とされ、翌年には第三王子ヴィンフリート——私のことだ——が生まれる。
また、豪商を多く抱えるミレネア男爵領から第四妃としてカーリン妃が嫁ぐ。ヤスミーン妃が第二子として第一王女ジルケを産む。その二年後にカーリン妃に第二王女アルマ出生。
ここで記録は終わっている。
頁の一番下に書かれた己の名を指でなぞった。私の名はハイスレイの祖ヴィルフリートから来ている。一の兄上の名は初代王の王子アレクシスからだ。正妃様が名づけたのだろうか。
兄上はこの系図をなぞった時どう思ったのだろう? アレクシス一世はユースフェルト繁栄の礎を作った賢王だ。次にその名を継いだ十一代目アレクシス二世の治世も平和を重んじるものだったという。兄上が王となれば、その名に恥じぬ
昼になって兄上に呼ばれ、昼食を取ってからまた資料室に戻った。兄上もジークベルトも、書類を片手に何やら話し込んでいる。ちらと見えたがセゼム語のものだった。
建国からの国土の移り変わりを地図で追っていると、ふいに壁の大窓の向こうから声がした。
何だ? 人?
気になって大窓から王宮の中庭へ踏み出た。短く刈られた草を長靴がさくりと踏む。こっそりと執務室の大窓をのぞいてみるが、兄上たちはいない。
……気のせいか? どこか遠くの音を拾ってしまったか。
辺りを見回したところで、左方からさく、と草を踏む音が背後でした。
「⁉」
慌てて振り返ると、美しい女性が立っていた。兄上と同じ、白金色の髪に宝玉のように透き通った緑の瞳。長い髪を編んでまとめてあり、若いというよりは少し年を重ねた、しかし真っ直ぐな背筋や穏やかな微笑みに威厳を感じられる美しさを持っている。
一目見てすぐ理解できる、貴いお方だと。私はすっと頭を下げた。
「王妃陛下……失礼を」
口ごもると、彼女はくすりと笑って、
「顔をお上げなさい。貴方がヴィンフリート殿下、そうよね?」
声に従うと、正妃様は
「話は聞いているわ。急に押しかけてごめんなさいね? わたくしの王子がよく気にかけているものだから、顔を見たくて」
と笑った。
「いえ、そのような……お目にかかれて嬉しゅうございます」
言うと、笑みを深められる。
「アレクシスがどこにいるか知らないかしら? 探しているのだけれど」
「申し訳ありません、今はどちらか存じ上げず……」
困った。執務室にいないとなると、その他の候補は思い浮かばない。
「そう? ……武棟にでも行ったのかしら。わかったわ、どうもありがとう。勉強中だったのでしょう? 邪魔をしたわ」
手に持ったままだった本を見てか、王妃様が言う。
「いえ」
「励みなさい。きっといつか力になるわ。……またお会いしましょう」
そして、ふわりとドレスの裾を翻し、中庭を去ってゆく。残された私は、本を胸にかき抱いた。
ああ、驚いた!
まさか王妃様にお会いするとは。……やはり兄上とよく似ておられる。
小さく息をついて、また大窓から資料室に侵入した。
「お兄様、王妃様とお会いしましたの?」
ジルケがフォークを置いて問いかける。
「ああ」
「どんなかんじだったの?」
アルマがパンを食みながら聞いてくるので、カーリン様が怒ったふうに、
「アルマ、食べながら話してはお行儀が悪いわ」
と叱っている。私はくつくつと変わって、
「相変わらずお美しい方だったよ。兄上に似ていらっしゃる」
「昨日お話してましたものね」
とジルケ。
「そうだな」
「ねえ、あねうえさま、きょうまりが……」
アルマが口を挟んでくる。
「あら、大丈夫ですわ、アルマ様。明後日には直りますわよ」
ヤスミーン様がそれに答えた。
毎晩、夕食の時ばかりは後宮の住人達は交流を持つ。食堂は絵画のかかった壁に、大きな食卓が目立ち、今は五脚の椅子が並んでいる。
私の向かいにはジルケ、その隣にヤスミーン様、私の隣にアルマ、そしてカーリン様という順だ。本来、母上がいれば私の目の前にお座りになるのだが、席をずらしている、といったところだ。
幼い頃は何も考えておらなんだが、席順というのは会議や会食の際は非常に重要になる。まだ私は出たことがないゆえ、正確には言えんのだが。
普通は、卓の細い一辺にその場の主、あるいは王が座り、そこから序列順に座っていく。王から見て左隣が次だ。その次はその向かい。これを繰り返す。卓の反対側には相手方の主だ。その主の左から向かいへ着席するのは相手も同じ。最終的には対になった形になる。
後宮における主は王だ。従って王の座る席は空のまま。今は来たくとも来られぬのだろうが、かつても父王がここに座ったのは数えるほどしか記憶がない。
父王の席の左隣が私、その向かいが母上、本来なら次いでジルケが私の隣に、アルマがその向かいに、それから順にヤスミーン様、カーリン様となる。側妃よりは王の血を引く子の方が序列は上だ。とはいえ、王の子らの中で最も年上の私でさえ幼かったから、母上がその代理として後宮の責任者として王の隣に座る栄誉を与えられていたのだ。それも今では、母上の椅子も欠けてしまっている。
もっとも、母上は父王のおらぬ食卓など、と思ってか、晩餐も欠席することが多かった。私とてそういう母上につき合って、部屋で食事を取ることの方がこれまでは多かったのだが。
「あにうえさま、あしたも王きゅうにいくのですか?」
とアルマが首を傾げる。
「明日はまだ
そう私はさとしたのだが、アルマは、
「ええ、あしたも? むう……わかりましたっ、あしたはあねうえさまとあそびますっ。あにうえさまとはあそびませんっ」
とむくれてしまった。
妃様方も、私たちを見て笑い出してしまう。全く。
翌日も兄上の執務室へ向かい、昨日の続きをしようと古地図を広げた。
ユースフェルトとセゼムの境にはナベルト山脈が、ジョルベーリとの境にはケルジュ山脈がある。二つの山脈の境から、勇者アルトゥールはユースフェルトの地に入ったと言われている。
星海の沿岸を右へなぞってゆくと、
ぼんやりと本と地図を眺めていたが、何か外が騒がしくなって顔を上げた。裏大路の方か? 鎧が擦れるような音、慌ただしげな足音。騎士だろうか。
隣の部屋で声がした。本を持ったまま椅子を立ち、扉の方へ歩いてゆくと、
「……何だと! どういうことだ!」
兄上の怒声と思しき声。珍しい。
「——、はず——しまったと——」
知らぬ男の声。
がちゃり、扉を開く。
兄上とジークベルトが、厳しい顔で銀の鎧姿でひざまずく騎士を見下ろしている。
騎士は何かを堪えるように、苦しげに口を開いた。
「馬車は壊れ、第三妃様は崖から……落ちなされ——命を落とされました」
……え?
今。……なん、と?
手の力が抜けて、本が滑り落ちる。床に当たって硬い音が響いた。
「……ヴィンフリート!」
兄上が焦った声でこちらを向くが、もう、何もわからなかった。その騎士の銀の鎧の光だけを、鮮明に覚えている。
「……それは、まことか?」
己のものとは思えぬ声が、耳の奥にぼやけて響いた。
「まことに……ございます……っ」
騎士はうつむき、つらくて仕方ないというように、絞り出すような声で告げた。
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