三.見つからぬ願いの在り処
「第一王子殿下のご訪問だ! 道を開けろ!」
急に後宮の扉を開き、騎士たちがどっと宮内に入ってきた。
侍従たちが叫び、白の間にいた私は怯える姫たちに出てこぬよう言いつけて、素早く廊下へ出た。
「何事だ! ここは王家が住まう場所だぞ! 静まれ!」
できる限りの大声を響かせる。
私の目の前で、押し入るように大股で歩いてきた大男の騎士が靴音高く止まった。
「これは第三王子殿下! 我ら第一王子殿下のご用命にて、第三妃様の
とどろくような大声で騎士が言う。
「何?」
兄上の
姫たちには悟られぬよう、と言ったというのに! 白の間で怯え縮こまっていた姫たちを思う。
「では、なぜこのように立ち入った! いくら兄上の命といえど、後宮を騒がせてよいなどという道理はない!」
感情のままに怒鳴りつけて、そこでぐっと己を抑えた。
このままでは、私までもが二人を怖がらせてしまう。かつてと同じやり方では、何も解決しまい。
「騎士隊よ、ひとまずはここで待て。誰か一人——そこの、」
一番後ろから入ってきた若い騎士を差す。
「兄上をお呼びして参れ。私はこのようなやり方には賛成できん」
「はっ、はい!」
若い騎士が慌てて走り出す。
私は騎士隊にくるりと背を向け、白の間に戻って妹たちを呼んだ。
二人は侍女たちに守られるようにしていた。怯えた顔が私を見てほっと緩んだようで、私も安堵する。
「二人とも、母君のいらっしゃる部屋へ行け。何か手違いがあったようだ、兄上が後宮のことを確認する必要があるとおっしゃったらしい」
姫たちの頭をなでて告げる。
「だが安心しろ、何も悪いことはない。ただ、ここにいては兄上や調査をする騎士たちの邪魔になる。母君方のもとにいてくれた方が、私も安心だ」
「わかりましたわ」
ジルケは大人しくうなずいたが、涙目で侍女のスカートにしがみついたアルマは、
「あにうえさまは? あにうえさまも、ははうえさまたちのところへいきますか?」
と私の上着の裾も掴んで問うてくる。
「私は調査にご協力申し上げる。後から行くから、先に行って待っておれ」
と柔らかな髪をなぜてやる。
「はい……」
アルマはのろのろと手を下ろした。
「アルマ、行きましょう。お母様もお前の母上様も、
ジルケがアルマの小さな手を握る。アルマは少し不安そうに、だがこくりとうなずいた。
「姫たちを紫の間へ」
姫たちについていた二人の侍女に指示し、白の間の入口へ通じる方とは反対の戸から出す。
廊下に戻ると、しびれを切らしたらしい大柄な騎士が、
「殿下、第三妃様はどちらなのです? 姫君方には知らせておられぬようですが、一体何があるのですかな?」
などと言ってきた。
苛立ったのが己でもわかった。冷たい目で見ていたに違いない。
「な、何ですかな。私はハイスレイ家の騎士ですぞ」
騎士がうろたえたように言った。
「ハイスレイ?」
私は意外に思ってそれを見上げた。そういえば、この騎士隊は王宮の騎士の証であるベストを着ていない。代わりに白地の上着をまとっている。
ハイスレイ公爵家は母上の生家だ。それが、何故ここに?
「そうでございます。まあ、殿下が私をご存じないのも仕方なきことかと存じますが」
何か無性に苛立つ態度だ。
「ふん、王家のものでもない騎士が、このように後宮に立ち入って許されるとでも思っておるのか?」
「な、第三妃様は王の」
許されるわけもない、と言外に含ませて言うと、騎士は慌てたように弁明しようとする。
「そうだな。で、貴様は? 王家に連なると? 何と信じられぬことを言うやからもいたものだ」
腕を組んでため息をついてみせる。
「兄上直々の命かどうかもはっきりせぬ者どもを、幼い姫たちと貴い妃様方のおられる宮にずかずかと立ち入らせるほど私は愚鈍ではない。別に私は逃げたりせん。ここで兄上をお待ちする。何か隠していると思うのなら、好きに探せばよい。後で咎を受けるのは貴様だ」
言い放てば、騎士は悔しそうに押し黙った。騎士隊も静観の構えを見せる。
どうやらこの男が隊長だったようだ。まことに兄上が任命したのか? 子どものいうことにも反論できぬ、くだらぬ論を振りかざすような者を。
しかし、まずい。
兄上のお手を煩わせぬよう後宮で処理しようと思っていたのに、これでは結局兄上に知られてしまう。
しんとした廊下に、がちゃりと戸の開く音がした。
走らせた若い騎士が、侍従長と年老いた男、それに側近を連れた兄上を通す。
「……兄上」
私が頭を下げると、騎士たちがざっと割れて兄上のための道を作り、腰を折る。
「顔を上げよ」
鋭い声に応じて、兄上を見上げる。背中に嫌な汗が伝った。
宝玉のような緑の瞳が、強く私を見すえている。私は負けじと見返した。ここさえ乗り切れば、兄上を納得させられよう。
「これはどうしたことです、兄上」
非難するように言うと、兄上は少し表情を和らげた。
「騒がせてすまんな。騎士を先行させてしまったのは悪かった」
「……いえ」
やはりこの騎士の独断か。
「姫たちは母君のところへやりましたから」
「そうか、すまん。……だが、ヴィンフリート。ウルリーケ様が病だというのはまことか」
はっきりと問われて、私はぎゅっと両の手を握った。
一つ深く息を吸う。
兄上の後ろに控えるように立っている侍従長が申し訳なさそうにこちらを見てくるのが目についた。
「侍従長。内密にことを運べと言ったはずだが」
「……申し訳ありません」
侍従長が深く頭を下げる。
「命を破ったのか」
「いえ。……第一王子殿下には隠しごとは叶いませんでした」
兄上の方が見破った?
そんな馬鹿な。侍従長の長年王宮に仕えてきたが故の余計な感情を表さぬ顔は、私でも読み取るのが難しいのに。
兄上に視線を戻すと、兄上は厳しい顔をしていた。
「わかった、許そう。……ですが兄上、何ゆえです?」
言うと、兄上はため息をついた。
「やはり本当か。……何か怪しいとはこの
と後宮を騒がせたことを謝られてしまう。
そうか。
「それは、兄上の〝能力〟なのですか?」
「そうだな」
「わかりました……では、」
兄上の能力は、どうやら不審な言動を見破るものらしい。それについては置いておくことにして、私はその後ろにいる男の方を向いた。
「何故、ハイスレイ公爵がここに?」
その男は年を取っており、黒髪はほとんど白くなり、顔にもしわが寄ってもとより小柄な体つきも細くなっていたが、濃い青の目だけは得体の知れぬ力強さに満ちていた。
母上の父君。私の祖父だ。
この男には数回しか会ったことがない。だが、母上を育てた男なのだ。そう考えればわかるだろう。ああなってしまう前の母上や、気づく前の私と同じ、己のことしか考えておらぬ人間だ。
「お久しぶりです、殿下」
ハイスレイ公爵は堂々と礼をしてきた。
「……久しぶりだな、ハイスレイ
好んで会いたい人物ではないというのに、何故よりによって今顔を合わせることになっているのか。
「丁度訪ねてきておってな。ウルリーケ様のことを心配するので、ともに来るのを許可した」
と兄上が説明する。
心配? そんなもの、欠片もしておらぬだろうに。
この男にとって、娘も孫も、王家に連なるための駒に過ぎぬのだ。母上がハイスレイ家に下がることがほとんどなかったのも、この男の冷淡さを嫌った故だ。
ぼんやりと過ごしていたかつてでさえそんな印象を抱いて反発していたのを、こんな時にどうして快く迎えられようか。
「ウルリーケ様のもとへ案内してくれるか」
と兄上。
私はきつく拳を握った。
「……それは、できかねます」
「なぜです?」
鋭い声が放たれた。兄上の側近の騎士だ。
何だ、私は兄上にお答えしているのに。
じろりとにらむが、彼は表情も変えずに私を厳しく見すえていた。
「お答えください、第三王子殿下」
その髪よりも赤に近い茶の瞳は、強い光で私を射抜くようだった。
この男は違う。
私とは違うのだ。正しさを追求できる心を持っている。
「……母は臥せっており、兄上の御前にお目にかかるのもできぬような状態です。今は一度、お引き取り願えませんか。姫たちも怯えてしまっています。このような時に、政務に滞りが出ているでもないものを、わざわざ荒立てるのは得策とは思えません」
声が、震えていた。
母上の姿を見せたくなかった。あんなふうにやつれた顔を。意味をなさぬことばかり言う姿を。
見られたくなかった。知らせたくなかった。あの美しかった母上が、恋に狂ってしまったところなど。兄上には、絶対に。
「——問題が起きてからでは遅い、ヴィンフリート」
空気が揺らいだ。兄上の白の上着の裾が、ふっと私の横をすり抜けていく。
「なっ……」
ばっと振り返る。私よりもずっと高い背が、もう廊下を曲がろうとしているのが見えた。
「あ、兄上! お待ちください……っ」
それを追って走り出す。
兄上は足を止めなかった。ためらうことなく廊下を進んでゆく。私は必死になってそれを追いかけた。
背後で騎士たちがざわめくのが聞こえる。気にしてなどいられなかった。
母上の部屋の戸の取っ手に、兄上が手をかける。
「まっ……」
制止の声も虚しく、思い切りよく戸が開かれる。
ごお、と風が吹いた。
前に進めず立ち止まる。後ろでざわめきが大きくなった。
母上は寝台の上に半身を起こしていた。薄い寝衣から伸びる枯れ枝のような腕を掲げ、右手の中指にはめた指輪を見つめながら。
眼前で、兄上は表情なく、母上を見ていた。
——知られた。
足の力が抜けて、私はぺたりと床に座り込んだ。
「殿下……っ」
侍従長が駆け寄ってきて、そっと肩に触れてくる。
母上はずっと小声で何かを呟いていた。
「……へいか……して……よ……ああ……」
兄上はそれをじっと見ているのみ。
どう思われたのだろう……私は間違ってしまったのか。隠すのではなく相談するべきだったのか。だが、母上のこのさまを誰にも見せたくなかった。……誰かが母上に触れて、壊れてしまうのではないかと怖かった。もう、とうに壊れていたのに……。
かつ、と高い靴音が鳴った。
老いた指が動いて、母上を差す。次の瞬間、母上は動きを止めて、何かに押されたように寝台に倒れ込んだ。
唖然として見れば、母上は目を閉じて寝息を立てている。
穏やかならぬ眠り……何の魔術か。
ハイスレイ公は指を下ろし、兄上に向かって、
「第三妃様はお預かりしましょう。何、先にも申し上げましたが、よい医者がおりますゆえ」
と告げた。
「……ああ、頼む」
兄上がうなずく。
「まっ、お待ちください。母上は……」
手を伸ばした私に、ハイスレイ公は不気味な笑みを浮かべた。
「ご安心ください、第三王子殿下。このまま第三妃様が後宮にいらしては、殿下のご負担も大きいでしょう。我が領地にはよい医者が多くおりますので、私の方で療養なされる館を用意させます。大切な娘でもある妃殿下のことですから、丁重にお迎えいたします」
と私を説得しようとするかのように言葉を紡ぐ。
「どうか何もおっしゃらず、私どもに任せていただけませんか」
母上を……。
頭が混乱したままで、どうにかなりそうだった。
この男が母上を後宮から引き取るというのか。私には母上を看病するだけの資格もないというのか。
「殿下」
侍従長が耳打ちしてくる。
「酷なことを申し上げるようですが、このまま宮におられても、第三妃様のご容体がよくなられるとは思えません。ハイスレイ公爵も、王の妃を無下に扱われはいたしますまい。——第一王子殿下のご厚意です、うなずかれたほうがよろしいかと」
わかっている。
満足な治療もできぬだろう後宮に母上を留め置いても、状況がよくなるなどあり得ぬということくらい。専門の医師もおらず、母上を慰めるものより傷をえぐるものばかりで、芯から思いやれる者もおらぬここでは。
「……わかった」
呟いて、それから力を込めてハイスレイ公を睨みつける。
「決して、母上を害するようなことはせぬと、約束しろ」
公爵は暗青色の目を細めた。
「もちろんでございます。さ、殿下、お手を」
そして手を差し出してくる。私は勢いよくその手を払った。
「貴殿の助けは求めん」
手を膝について、立ち上がる。
ハイスレイ公は笑みの形を崩さぬまま、己の騎士たちに振り返り、
「王子殿下は独立心がお強いようだ。さて、お前たち、妃殿下をお運び申せ」
と命じた。
若くよく鍛えられた背格好の騎士が、母上の体を布団ごと抱き上げる。
私ははっとして、その騎士を呼び止めた。
「待て! 一つ注意しろ」
母上の手を取り、魔力が少ないのを確認する。これならば大丈夫だろうとは思うが。
「持っていれば、魔道具で魔術を阻むものを使え。母上は魔術に長ける。風の刃に切りつけられたくなければ、移動中は決して外さぬように」
騎士は少し驚いたようにこちらを見やって、
「……はっ」
とうなずいた。
「外へ!」
ハイスレイ公が退出を促す。騎士隊がぞろぞろと去っていく。
「それでは、ナッケン。今後も後宮を守るように。——ヴィンフリート」
「……はい」
厳しい声に、少しばかりびくつきながらも兄上を見上げた。兄上の瞳は、感情を見せぬ平坦な色をしていた。
「
「はい」
唇を噛みうなずく。
兄上はふっと短く息をついて、何故か私の髪にぽんと手を置き、騎士たちの後ろから歩み去った。
開けられたままの扉から、去ってゆく人影を見送った。最後の一人が、内宮の戸口をくぐって消えてゆくまで。
……母上は、いなくなってしまった。
見送る言葉一つ、見つけられぬうちに。
何を祈ればよいのだろう。病気が治るように?
だが、私はもう、もとの母上に戻ってほしいとは思えない。己が願いだけが叶うべきだと信じているような、身勝手な人には。
それでも、毎日あの部屋で手を重ねたのは。
「どうか……」
その後に言うべき言葉が見つけられぬまま、公爵家の一行が去ってからも、私はそこに立ち続けていた。
◦◦◦◆◆◆◦◦◦
「……あの布団にくるまれているのは何ですの?」
中庭に面した紫の間の窓に手をついて、ジルケが尋ねた。
「きしさまがいっぱーい」
二つ上の姉と同じように窓に近づいて、アルマも言う。その後ろからそれぞれの子を抱き寄せた二人の妃も、その一団を目にしていた。
ヤスミーンは片手で口もとを覆い、ただ、その列を見つめている。カーリンはそれに気づき、困った顔をして、
「ジルケ様……あれは、お病気の方を、お医者様のあるところへお連れしているのですよ」
と第一王女に教えた。
「そうなの? ははうえさま?」
アルマが不思議そうに母を見上げる。
「そうよ」
答えて、カーリンは娘の柔らかな金の髪を優しくなぜた。自身はきゅっとその小さな唇を引き結んで。
ジルケは衝撃を受けたように戸惑った顔をしてカーリンを見上げ、それから母を見て、驚いてその頬に手を伸ばした。
「どうなさったの、お母様。なぜ泣いていらっしゃるの?」
「ジルケ……いいえ、ただ……」
ヤスミーンはそっと己の頬を拭う娘の手を取り、頭を振った。
「いいえ、母はただ悲しいだけですわ……何も悪いことがあったのではありませんもの……」
しかし、その白く冷たい頬には涙が伝う。
「……あれは、ウルリーケ様なんですの?」
ジルケは意を決して問うた。
ヤスミーンは涙を流しながら娘を見つめる。
「えっ、そうなの?」
アルマは円らな瞳をさらに丸くして、窓にくっつくほど顔を近づけた。
「どうして? 出ていっちゃうわ。ほら、もう、おにわからうちみやにいっちゃう」
「アルマ……」
カーリンは形よい眉をひそめて娘を見やる。
アルマのことはあまりウルリーケと関わらせぬようしてきた。その上幼く、何が起こっているのかもわかるまい。
しかしジルケには、何となくでも伝わってしまうだろう。仕方なく、カーリンは娘に答えた。
「……ウルリーケ様はご病気で、それは後宮で休んでいらっしゃるだけでは治らないものなの。だから、宮を出てゆかれるのよ」
「……?」
アルマは首をひねるばかりだ。
だがジルケはこくりとうなずいて、
「お母様、泣かないで……わたし知ってたわ、ウルリーケ様がひどいお病気でいらしたの」
と言って、己の手を取る母の手を包む。
「お部屋を静かなところにしても、ずっと魔力がにごっているの、感じていましたわ……でも、後宮を出て、それがよくなるのなら、よいことだわ」
そう微笑む。
「もう戻ってこないというわけではないのでしょう? なら、泣かないでお見送りしてさしあげなきゃ。アレクシスお兄様がこちらへいらっしゃる時、泣いてお引き止めするよりも、笑顔で手をふってさしあげた方が、お兄様よろこんでくださるのよ。ウルリーケ様も、きっとそうよ」
「そうね……」
ヤスミーンは唇に微笑みを浮かべた。
ジルケの言うことは、まだ世を知らぬ幼子のものだ。それでもその優しさに、ヤスミーンは救われた心地がした。
——例えもうお会いできなくとも……。
「……どうかご無事で」
呟いて、ヤスミーンは窓の外を見つめた。
◦◦◦◆◆◆◦◦◦
その夜の宮は、ひどく静かだった。
これまで通り五人でした夕食も、母上が出席していないというのではなく、おらぬのだと思うだけで、どこか違って見えた。
……私は、これからどうなるのだろう。
ぼんやりと、湯気に満たされた浴室で、考えだけがまとまらずに過ぎてゆく。
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