二.お妃様の見る夢は

「今日は母上の様子はどうだ?」

 兄上がいらした日から三日経ち、私はまた母上の部屋を訪ねた。ここのところ毎日のように通っている。

 もう戸が閉ざされて二週間だ。何が起こっているのか知らねばならぬと思えて、私の心は焦っていた。

 戸が閉ざされている間、きちんと食事をしていたのかさえ怪しい。私は妹姫たちに誘われて彼女らと食事をともにしておったが、それにも姿を見せない。

「どなたも通してはならぬとのご命令で」

 騎士も少し申し訳なさそうにするようになってきた。

「……食事などはとっておられるか?」

「申し訳ございません、私では何とも……ですが、侍従が食器を運んでいるのは見かけました」

「そうか……」

 ため息がこぼれる。

「ありがとう。また来よう」

 騎士に礼を言って、扉を離れる。

 その繰り返し。

 扉が開いたのは、それからさらに三日も経ってのことだった。

「母上がどうしておられるかはわからぬのか?」

「侍従たちにも問うてはみたのですが、彼らも短い時間しか留まることを許されないそうで……」

「やはりそうか……。いや、よい。ありがとう、カスパー」

 話す中で聞き出した騎士の名を呼んだ時だった。

「うふふ……」

 戸の向こうで楽しげな笑い声がした。

 次いで、声がかけられる。

「ねえ、陛下をお呼びして? 私、準備ができてよ」

「母上?」

 何度戸を叩いても反応のなかった母上が、久しぶりに声を聞かせてくれている。慌てて扉に近づくと、嬉しげな声が返ってきた。

「あら、もういらしたの? やだ、とりあえずお入りになって、少し待っていてくださいな」

「母上?」

 かちゃりと鍵が回る音。戸を強めに叩く。うふふ……という笑い声が遠ざかってゆく。

 ……何か、おかしい。

 一瞬ためらったが、すぐに取っ手に手をかけた。鍵が開いている。

「殿下」

「ここで待っておれ」

 止めようとしてか声をかけてくるカスパーに命じ、素早く部屋に入り、扉を後ろ手に閉める。

「母上」

 応接間になっている部屋を見回す。変わったところは何もない。二週間前、母上がお針子を𠮟りつけていて、着替えが終わるのを待っていた時と、何も。

 それがかえって不気味だった。何一つ触られた痕跡がない。

 窓際に飾られていた青色の鈴蘭の花が、枯れていた。母上の瞳と同じ色の、気に入りだった鈴蘭の花。

 母上が、隣接する寝室の扉を閉めるのが見えた。

 走っていって、その扉を開く。

 ——異臭が、した。

「なっ……⁉」

 母上は、部屋の真ん中に棒立ちになっていた。

 大きな、水色を基調にした寝台の周りに、汚物が散乱している。割れたカップや、皿。腐った肉、かびの生えたパン、ぐちゃぐちゃに潰れた野菜。

 その中心に、母上はただ立っていた。

 細く、やせこけた手足。骨ばった足首が、水色のヒール靴とあまりにも似合っていなくて、ぞっとした。輝いていた金髪もくすんだ色をして、櫛も通していないのか、ばらばらになっている。

 母上が、ゆっくりとこちらを向いた。

「陛下、来てくださったのね」

 その目もとは隈ができていて、頬も唇も色を失い青白かった。

「母上……?」

 何が、起こったのだ。

 どうして。

 これは、どういうことだ……?

 くらりと、視界が揺れた。

「陛下……」

 立ち尽くす私の頬を、骨が浮き出た、手入れの一切されておらぬ指がなでる。思わず、その手を払った。

「陛下……?」

 母上が固まる。

「母上、わ、私は父上では」

 かける言葉を探すうちにも、その瞳は見る見る見開かれて、

「陛下、どうして……?」

 ごおっ、と窓も戸も閉ざされた部屋に、強く風が吹いた。

 窓が、戸が、戸棚が、がたがたと派手な音を立てる。

「っは、母上……! やめっ」

 立っていられず、よろけた足が寝室を一歩出る。

 ガンガンと入口の戸が強く叩かれた。

「殿下!」

 くぐもったカスパーの声。

「来るな!」

 叫んでいた。だが、間を開けず戸が開かれる。

「殿下、失礼します!」

 強風が部屋を吹き抜けた。胸がむかつくような臭いがする。

 寝室の手前から振り返ると、カスパーと、その背後にアリーセと侍従長が立っているのが見えた。

「——にかあったの?」

 小さく、耳に姫たちの声が届いて、まずいと思った。

「来るな!」

 もう一度叫び、私は右手を空中に掲げ、思い描いた——この強風を押し返す風を。

 びゅうと風が吹き、一瞬、応接間の風がやむ。

「アリーセ! 姫たちを近づかせるな! カスパー、戸を閉めろ!」

「っはい!」

 アリーセがたっと扉の前を離れる。

「はっ!」

 直後にカスパーがそれを追うように戸を閉める。

 それで、気を緩めてしまった。

 強く肩を押され、ダン、という音が響くのを聞いた。気がついた時には、床に押し倒されていた。

「っは……!」

 息が詰まる。

 目の前の母上の瞳は、ただ、青くて、

「陛下……これでよいでしょう? 私は、ちゃんと、愛される女でしょう?」

 ただ、青くて、空虚だった。

「殿下!」

 カスパーの慌てた声。どこか遠くから聞こえるようで、頭の上を吹き過ぎていく風にはばまれているのだと思った。

「王妃の証をくださいませ、陛下」

 虚ろな言葉とともに鋭く母上の手が伸びてくるのと、私が身をよじって起き上がろうとしたのは同時で、

「っ!」

 がり、と長い爪が手に当たった。母上が、私の指から、王家の宝石の指輪を抜き取っていた。

 母上はそれを宙に掲げて、嬉しそうに高く笑う。

「ほほほ、証よ! 王妃の証! 私が陛下の妃だという証! ねえ、嬉しいでしょう、陛下?」

 すっとその指輪を自らの指にはめ、笑い続ける。

「あの女などより、私の方が、もっと美しいでしょう? もっと、お守りくださるべきでしょう? もっと、愛されるべきでしょう? 私だけが、貴方様の妃なのですよ、ほほほ、ほほほほほ!」

 その言葉に、ああ、と声にならぬ声が漏れた。

 ああ、この方は……。

 己だけなのだ。父上だけなのだ、見ているのは。

 私のことなどどうでもよいのだ。

 ああ、もう、いない。 かわいいヴィンフリート、と名を呼んでくれる母上は、もういない。

 誰より正しかった母上は、誰より間違った者になってしまったのだ。もとより誤った心映えを、より違えて、そのまま。

「殿下!」

 弱まった風の中をカスパーが駆け寄ってくる。

 私は血の流れる右手を、母上に向かって掲げた。風を一気に収束させ、その首の辺りを囲んで狭める。

 笑い声が止まる。目を見開いて、母上は床にくずおれた。

「大丈夫ですか⁉」

 カスパーに助け起こされて起き上がり、私は母上を見やった。侍従長がその横にしゃがみ込み、首もとなどを触っている。

「……殿下」

 彼女は振り返って、複雑そうな顔をして私を見た。きっと私も、同じくらい複雑な顔をしているのだろう。

「このような……」

 呟いて、侍従長は口をつぐんだ。わかっている。

 こんなことになるなど。……なっていたなど。

「……父上は、母上を選ばれなかったのだろうな」

 ぽつり、と言葉がこぼれる。

 父上には四人の妃がいる。

 母上は寵妃と言われていた。父上は正妃様には冷たく、第二妃ヤスミーン様のもとへはめったに寄りつかず、第四妃カーリン様にはほとんど興味を持たず、——第三妃たる母上だけを愛しているというかのように願いを叶え贈り物をし続けた。

 正妃様とカーリン様が王家に嫁いだのは、純粋な政略であったと聞く。

 母上とは政略に等しい結婚であったが、母上は父上に恋をした。

 では、ヤスミーン様は? 体も弱く、家も目立たぬ侯爵家であったヤスミーン様を、父上は何故娶ったのか。

 かつて、父上はヤスミーン様を想っていたという話がある。結果として、ヤスミーン様はよく病に臥せるようになり、父上はそのもとへは訪れなくなったが。

 母上が、あの苛立っていた時に父上に会いに行って、聞いた答えは何であったのか。

 ……わかってしまうような気がした。

 誰が悪いでもない。何が悪いでもない。強いて言うなら全てに責はなく、全てが罪ある結びつきをしたのだ。

 それに、私には何の激しい感情も湧いてこなかった。

 ただ、母上はいなくなったのだという事実を、それに付随する淡い悲しみのみを見つめていた。

「侍従長」

「……はい」

 侍従長が沈んだ声で応じる。

「母上を、別の寝室に移せ。それと、ここの片づけを」

「はい」

 侍従長が一礼して、部屋の窓を開けた。

 ひゅうと新鮮な風が部屋に吹き込み、枯れた青い鈴蘭の花びらが一枚散って落ちた。



「お兄様、何があったのですか? ウルリーケ様のお部屋で、魔力がうずまいているのがわかりましたわ」

 ジルケが私の上着を掴んで問いかける。

 ジルケには〝わかる〟のだ。私に風が音を〝拾ってくる〟ように、その〝力〟は祖先から受け継がれてきたものであった。

 赤の間のソファに腰かけたカーリン様は、眠るアルマを抱いてその柔らかな金髪をなぜていた。目を覚ましていなかったアルマは何も知らないだろう。穏やかな眠りはカーリン様の力だ。

 カーリン様は目を伏せて己が幼子のみを見つめていた。彼女の赤茶の長いまつげが、光を受ける白い頬に影を作っていた。

 私はジルケにかぶりを振ってみせた。

「心配するな、ジルケ」

「ですが」

「どうも体調を崩されていたようだ。意図せず風の魔術をお使いになったから、安静にしていただけるようにお眠りいただいた。しばらく母上の周りは静かにしておかねばならぬが、それさえ守れば大丈夫だ」

 背をかがめ、目線が合うようにして語りかける。

 ジルケの、母君譲りの薄紫色の瞳が不安げに揺れていて、私は安心させたくて微笑みかけた。

「心配をかけたな。お前がそのように優しい子で兄は嬉しいぞ。……さ、ここにいても何もない。ヤスミーン様のもとへ戻れ。私は母上を見舞ってゆく」

 肩に手を置く。ジルケは迷うようにしながらも、こくりとうなずいた。

「……はい、お兄様」

 聡い子なのだ。医師がやってきたのを見て、何かあったと感づいてしまうほどには。

 しかしまだ幼い。ただでさえ混乱の続く今、これ以上重いものを持たせたくはない。

 それはカーリン様も同じであったようで、すやすやと眠るアルマを抱えたまま立ち上がり、

「ジルケ様も、こちらへおいでなさいな。アルマはもう寝てしまったようなの。この子を寝台に寝かせるのを手伝っていただけないかしら?」

 とジルケを呼んだ。

「っはい、わかりましたっ」

 ジルケは顔を上げ、カーリン様の足もとへ駆けてゆく。カーリン様は目線を上げて私に目配せし、二人を連れて出てゆかれたので、私はジルケに悟られぬよう少しだけ頭を下げてそれを見送った。

「殿下」

 アリーセの声に振り返る。

「母上のご様子は?」

「今、医師が診察を終えたところです。お話を聞かれますか」

 とアリーセも、落ち込んだ様子で言う。

「聞く。案内しろ」

「ではこちらへ……」

 アリーセの先導に従い、後宮の、私たちが普段使っている部屋があるところとは離れ奥まった小部屋のあるところへ向かった。その部屋は余計な空間もなく、シーツの端の細かな蔦模様の刺繍と木の小卓以外に色もなかった。

 丸眼鏡の医師は、淡々と説明をする。

「体が衰弱しておられます。魔力の消費も激しく、安静が第一です。暴れてしまわれるといけませんので、このようにしてございますが、ご容赦ください」

 母上は寝台に寝かされていて、自然な様子だったが、よく見ればその掛け布団は寝台の両側に縫いつけられていた。

「気が高ぶられると、魔力も乱れます。ここまで乱れてしまわれると、落ち着かせるのも難しいほどかと……。一通りの措置は侍従長殿にお伝えしましたが、できる限り早く専門の医師にお見せになり、安全な生活ができるようになさった方がよろしいかと思われます」

 落ち着いた声だったが、言いにくいことをきっぱりと告げてきたにしては、沈んだ声だった。

 それほど悪いのか、とかえって冷静になる己がいる。

「殿下……」

 アリーセが泣きそうな声で私を呼ぶ。

「わかった。世話をかけたな。何か起こればまた呼ぶ。下がってよい」

 答えて、母上の眠る顔を見つめた。

 白い、やせこけた頬。折れそうなほど細い首。閉じられた目を飾る薄い金のまつげ。

 医師が一礼して退室し、しばらく呼吸の音さえ聞こえそうな静寂があった後、侍従長が尋ねてきた。

「殿下、どうなさいますか」

 そんなもの、こちらが聞きたい。

 ただでさえ問題ばかりなのに、新たな問題を生み出して、その上それは醜聞にも等しい私事だとは。外に知られれば、また王家が責を問われる。

 私にはどうすることもできん。私一人の力では、何も。

「……侍従長、内密にことを運べ。どのようにしてもいい、こうした病に詳しい医師を手配しろ。やり方は任せる」

「……承りました」

 背後で侍従長が頭を下げるのを、私は黙って感じていた。

「姫たちには決して悟られるなよ。……兄上にも、できれば伝えるな」

 寵妃とされ後宮を一手に握っていた母上がこうして倒れた今、後宮で最も力を持ち、責を負うべきは私になるはずだった。

 こんな、母上のわがままとでもいうべき歪んだ愛情が原因の騒ぎで、王宮をわずらわせてはならぬだろう。こうすることが、きっと正しいのだ。


 それから一週間、毎日母上の病室を見舞った。

 母上はほとんど目を覚まさなかった。そういう時、私はその細すぎる手に己の手を重ねた。

 目を覚ましている時は、うわ言のように意味の通じぬ呟きを繰り返すだけであった。

「へいか? そこにいらっしゃるの? どうかこちらへ……わたし、あかしをてにいれましたのよ」

「……母上」

 声をかけても、その瞳はすでに私を映すことはなかった。私の方を見ることさえなかった。

「あいしているといってくださいませ、へいか。……わたしはあかしをもっているのですから……」

 何より大事なものだと言うように決して離さぬ、王妃の証などではあり得ぬ私の指輪。それを取り戻すことも、私にはできなくなっていた。その暗い瞳が紫の宝石の輝きを映すとき、力の入らぬ顔にも虚ろながら笑みが浮かぶことを知ってしまったから。

 侍従長が王都の医師だという者を連れてきて、母上を見せた。だが、その優しげな風貌の男も、安静にさせること以外には、直接の原因を取り除くしか手立てはないという。

 父上に言って、うそでもなだめてもらうことも考えたが、それも無理だった。王宮へ向かった侍従長が、父上は宮の外に出されたらしいと告げてきたのだ。

 何もできないのだ。ただ、体を休めてもらうことしか。

 食事をほとんど口にしないから、ただでさえやせた体がよりやせ細っていく。それを見ているしかできなかった。


 樹曜日じゅようびのことだった。

 母上の眠る寝台の横の椅子に座り、開いた窓から差し込む光が母上の顔をなでるのを見ていると、後ろからかたりと物音がした。

 振り向いて、私は驚きに目を見開いた。

 長身で細身の女性が、戸口からのぞく格好で立っている。

「殿下……」

 彼女はいつ聞いても清流のような声で私に呼びかけたが、本当に見ているのは私ではなく、母上の方のようだった。

「ヤスミーン様……」

 それ以上何を言うべきか思いつかず、私は口をつぐんだ。

 母上は女性にしては背が高いのだが、その母上よりも少し高いかもしれないくらい背丈があって、しかし体が弱くよく体調を崩されるのもあってかほっそりとした手足ははかなげだ。さらさらと揺れる焦げ茶の真っ直ぐな髪は腰の辺りまである。色の薄い唇は何かを堪えるように結ばれ、薄紫の瞳は心配そうに細められていた。

 実を言えば、あまり母上と仲がよくはなく、臥せることの多いこの方とは、それほど深く話をしたこともなかった。

 だが、ジルケを見ていればわかることもある。愚かにも人を見てこなかった私でも、心の奥底では気づいていたほどに。

「……ウルリーケ様は」

 ヤスミーン様は部屋に踏み入られぬまま、そっと問いかけられた。

「今は、眠っております。……お入りになりますか」

 私は少し緊張しながら答えた。

「失礼いたします」

 この方が動くと、流れが見えるような気がする。濁ることのない清らかな流れが。

 彼女は丁寧な足取りで入ってくると、じっと母上を見つめた。

 私はその横顔をしばし見つめ、席を立った。

「私はもう行きます。……失礼いたします」

 静かに部屋を出る。ヤスミーン様はじっと立ったままだった。

 戻る道を、裏庭の廊下を通る方にして、私は立ち止まり、庭へ下りる階段のところに腰を下ろした。

 しばらくして、かたん、と椅子に座るような音が、開けられた窓から風に乗って聞こえた。私はその音に耳を澄ました。

「……ウルリーケ様」

 ヤスミーン様の声。

「……夢の中でしょうかしら。そこで貴方は幸せ?」

 呟くような声だ。

「……貴方は大丈夫だと思っていたのに」

 口をつぐまれたのか、音が聞こえなくなる。

 さわさわと、草の間を通り抜ける風の音がした。

「ずっと、妹のように思っておりましたのに」

 語りかけるように、清流の声が言葉を紡ぐ。

「貴方がここにいらした日から。貴方にここの暮らしも、生き方も、わたくしがお教えしたつもりでしたのに、……馬鹿な子ね」

 ぱた、と水滴の落ちるような音。

「教えてさしあげたでしょう? そのような考え方はおよしなさい、と……聞きわけのない子ね、と何度も。……貴方には、わたくしにはできなかったこともできるようでしたから、それでも大丈夫でしょうと……幸せにおなりなさいと、お教えしましたのに」

 音のない悲しみが彼女の頬を伝っているのだろう。私は目を閉じた。

「馬鹿な子……わたくしから何を奪ってゆかれても、わたくしは何も欲しくはないのだから、全て貴方にやりましたのに。わたくしが愛せなかったここも、貴方が愛するならばと……ウィルマーの妹にしてやったように差し上げましたのに。貴方は本当に聞きわけのない子で……本当に……馬鹿ね」

 す、と布のこすれる音。

「早く目を覚ましてくださいな、ウルリーケ様……夢から戻っておいでなさい。そうしたら、今度こそ、ぱたいてでも止めてさしあげますから……」

 それきり、声は途絶えた。

 ……ヤスミーン様ほど強い方を、私は知らない。母上がかの方に何をしたのか、私も幼いながらに見知っていた。

 それなのに、母上のために涙を流すような、そんな者はこの宮に彼女以外にはおらぬのだ。

 ほんの少し接するだけでわかる。体ではなく、その心が強い方なのだと。ジルケがあれほど聡明な娘に育ったのも、この方に育てられた故なのだ。

 今ならわかる。

 母上の言うことだけを信じ、使用人たちを見下していたかつての私でも、この方の強さにだけは気づいていた。本当は母上よりも尊敬すべき方だと、……今はもうわかっている。

「みゃお」

 小さな声と、何かに手を舐められたような感触に、私は目を開けた。

 小さな猫が、階段の横に座って私を見上げている。

「ああ、前の……白いの」

 そっとその頭に手を伸ばした。小さな額を指でなでる。

 猫は気持ちよさげにごろごろと鳴き声を立てたが、ふいにぴんと耳を立て、草むらに飛び込んでしまった。

 猫の消えていった裏庭を眺めていると、かつ、と靴音がした。振り返ると、ヤスミーン様が微笑んで立っていた。

「何を見ていらしたのです?」

「……庭を」

 戸惑いながら答えると、彼女は小さく笑った。

「風は殿下にはよいものでしょうが、あまり長居するとお風邪を召されますわ。わたくしと一緒に戻ってくださらない?」

 差し出された白い手に、時が止まったような気がした。

 まじまじとその手のひらを見つめていると、彼女はおかしそうに、

「できれば、連れていってくださると嬉しいのですけれど。わたくし、一人でここへ来てしまって、迷ってしまいましたの」

 私はさらに驚いて、それからふっと笑ってしまった。

 まことにすごい方だ。

 護衛騎士や侍従にも秘密で母上を見舞いに来たのだろう。最近人の数が減っているゆえ気にしておらなんだが、考えてみれば日々をほとんど自室で過ごされるヤスミーン様にとって、後宮を一人で歩き回るのは想像以上に大変だろう。

 ついでにいえば、私の知る限り、ヤスミーン様は後宮のよく知っているはずの場所でも度々迷われる。

 どうやってあの部屋までたどり着かれたのか。いくら魔力がわかるお方だとはいっても、今私に聞いてきているように限界はあるはずだ。どれだけの強い想いがあったのか。

「かしこまりました。ご案内しましょう」

 私はそっとその手を取った。はかなげなその手は、思ったよりも温かだった。ジルケのもとまで連れ立ってゆくと感謝されてしまい、私は逆だろう、と内心で苦笑するしかなかった。

 礼を言うべきはこちらの方なのに。



 一日に一度母上を見舞っては、その手に手を重ねた。

 それは祈りであったかもしれない。

 何を祈っていたのか、今となってはもうわからない。


 後宮の扉が乱暴に開かれたのは、次の風曜日ふうようびのことだった。

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