五.透明

 重々しい黒の棺の蓋を、黒い衣の者どもが二人がかりでゆっくりと持ち上げる。

 細い黒い箱の内側で、その人は色を失くした手を重ね、唇もまぶたも閉じて、冷たく存在していた。

 棺の前に片ひざをつき、青の鈴蘭をその手の上に重ねる。

 控えていたハイスレイ公が私に深々と頭を下げ、かの人の白いドレスの横へ黄の花を置く。正妃様とアレクシス兄上が花冠を手向ける。沈痛な表情のジルケとヤスミーン様が白い花を入れた。ヤスミーン様が膝をつき、棺の端に口づけた。

 カーリン様と、その腕に抱えられたアルマが赤と水色の花束をそっとかの人の足もとに添える。目を伏せるカーリン様に、アルマは困ったような顔をして抱きついた。

 暗い——否、黒の色で満ちた安置所。

 再び棺の前に跪き、縁に手をかけて額を当てる。

 祈りを——。

 皆が花を手向ける間、ずっと、その色のない顔を見つめていた。

 一つも動かぬ体。冷たい手。白い顔。もう、目は開かない。生命を失ったその身は、ただの屍だ。

 ……実感が湧かない。もう母上の声を聞くことも、笑みを見ることもないのだと、わかっているのに……心は、どうしてか静かだった。

 報せを受けても、葬儀の準備をしていても……こうしてその棺に触れようと、何も湧き起こってこないのだ。何も変わらない。

 どうすれば、いいのか。

 ……母上。貴方と道をたがえた瞬間に、私たちは一つだった心をも違えてしまったのでしょうか。

 私はきっと、貴方を愛していたし、貴方に愛されていたのだと思う。だが、もう、何も戻らぬのだ。

 どうか、安らかに……などというのは、あまりにもありきたりにすぎるが。どうか、安らかに、もう何事にも惑わされずに、お眠りください。

 私は、救えなかった。母上は救われぬまま行っておしまいになった。ならばどうか、私のことなど……貴方を救えず、これからも背くだろう私のことなどお忘れください。

 これが、別れです。

「さようなら、……母上」

 強く目を閉じ、ぱっと開く。

 黒衣の二人が、花で満たされた棺の蓋をゆっくりと戻した。立ち上がり道を開けた私の傍らを、黒衣の者たちが棺を抱え通り過ぎてゆく。


 びゅうびゅうと風の吹きつける、王宮の裏の小高い丘の上に、いくつもの墓標がある。

 そのうちの一つに、〝ウルリーケ・ハイスレイ=ユースフェルト〟と刻まれている。その上に、花輪をかけた。

 今日という日にふさわしい曇天。

 今にも雨の降り出しそうな灰色の雲が、空を覆い尽くしていた。

 空を見上げ立ち尽くす私の髪を、風がぐちゃぐちゃにかき乱した。

「……殿下」

 背後で、埋葬を終えた黒衣の者たちがうごめいている。私のすぐ後ろに立ったカスパーが、ためらいがちに声をかけてきた。

「戻りましょう。雨が降っては大変です……」


 世界が、何もかも。


 暗く重苦しい色に。


 塗り潰された、という気がした。


 二日間。母上の死を知らされて、後宮や王家に連なる者たちのほとんどは、慌ただしい対応に追われた。真実の確認。葬儀には王家が参列する。そして、埋葬されるまで。

 何と言えばよいのか。どんな顔をすればいいのか。

 何も思いつかなかった。

 私はおかしいのだろうか。

 悲しいとか、つらいとか、胸が痛むとか、喪失感というべきものすらない。心を支配したのは、ただ平坦な冷たさで。

 どう反応すればいいのかわからずに。

 一人、自室のソファで静かに目を閉じた。全てが終わった後だ。どうということもないのに、体が重く感じられて、動けなかった。

「……殿下?」

 モニカの控えめな声。

「眠ってしまわれたのかしら。殿下?」

「——大変! 殿下が……!」

 アリーセの声が、どこか遠くに聞こえた。意識の向こう側で、ざわめきを聞いたのだけ覚えている。


 私は、どうすればよかったのだ?


 そんなことばかり、ずっと考えていた。


 母上の死因は、栄養失調でも気の病でもなく、落下死だった。

 王都からハイスレイ公領へ行き、そこから療養によいという田舎の屋敷まで行くというので、途中で人員を交代したのだという。しかし、それが仇となった。

 山道を行く途中、私も注意した封印の魔道具の腕輪を、頼み込まれた従者が外してしまったのだそうだ。封印の魔道具は、意図的な魔力の操作、つまり魔術を使えないようにするものだった。魔力の正しい反応を抑制するのだから、具合が悪いように感じることもある。……病人に気分が悪いから外してくれと頼まれては、きつく注意されたのでもない従者が外してしまうのも、無理もない。

 結果、危険な山中を進む馬車の中で、母上は風の魔術を暴走させ、馬車の戸は壊れ、騎士や使用人も怪我を負い……母上は崖から転落し、帰らぬ人となった。

 私の、あずかり知らぬところでの事故だ。それでも、もっと強く言い含めておけば、私がついておけば……いや、それよりももっと前に、あの方の変調に気づけていれば、と意味のない考えがぐるぐる回って、そして、どうにもならん、と諦観だけが後に残る。

 母上を亡くして、私は本当はどう思っている?

 悲しみか? 痛みか? いや、何も感じない。後悔? それはすぐに諦観へと変換された。お前にはどうしようもなかった、ともう一人の私がささやく。

 喪失の穴が空くと、先人は大切な者の死を知って言った。なのに、それもわからない。

 私は、母上を……それほどまでに大切とは、思えていなかったのだろうか。

 それは例えていうなら、切り離されたようだった。全てから断ち切られ、取り残されたような感覚。痛みも不安も、悲しみも喜びも、何もなかった。


 ◦◦◦◆◆◆◦◦◦


「ヴィンフリートが?」

 アレクシスが声を上げる。

「はい、お眠りになったままで……微熱が続いておられるようです」

 侍従長が頭を下げた。


 ◦◦◦◆◆◆◦◦◦


「アリーセ、お兄様は……」

「あにうえさまあ」

 王女たちが兄の部屋の戸の前に不安げに貼りつき、侍従に問う。

「大丈夫ですよ、もう少ししたら目を覚まされますから……さ、今はお静かになさって、母君方のもとへ戻られませ」

 とアリーセは二人を伴って扉を離れた。


 ◦◦◦◆◆◆◦◦◦


 目を覚ますと、寝台の上にいた。

 既に日は高く昇っていて、窓から光が差し込んでいた。

「……殿下! お目覚めになられましたか」

 アリーセの嬉しそうな声に、体を起こす。

「今は……」

 問うと、アリーセは眉を下げて、

「お昼の時間です。お疲れになったのでしょう、熱を出されたようだったのでこちらへお運びさせていただきました。第一王子殿下からは休まれてよいとのご伝言をいただいておりますから……」

「……そうなのか?」

 頭がぼんやりとしている。

「はい。今日はお休みになってくださいませ。何か召し上がれそうでしたら、そこに果物がありますからぜひ……何か入り用なものはございますか?」

 ぼうっとしたまま首を横に振ると、アリーセは一礼して、

「私は退出いたします。ご用があればすぐお呼びください」

 と寝室を出ていった。

 ……そんなに疲れていただろうか?

 少し熱っぽくて体がだるかったので、寝台横の小卓にあった水と果物をつまんで、寝転ぶと、すぐに眠りに落ちてしまった。


 それから三日の間、少し寝ては覚醒するのを繰り返した。ここから出て、何かするべきとは思うのだが、上手く起き上がれなくて、眠ってはぼんやりと窓の外の庭を眺めるのの繰り返しだ。手洗いに用を足しに行くほかは寝台の中にいるだけで。

 医者には、精神性の発熱だと言われた。

「魔力が乱れておられます。今はお体を休めるのが大事です」

 と。

 ……心が上手くいかなくて、体に不調が出ることもあるのだな。

 相当、私は何も知らぬようだ。何より守りたかったものを失くした時、どうすればいいのかのやり方も知らない……。

 一日目は、ヤスミーン様が訪ねていらして、果物を置いていってくださった。

 二日目の昼には、姫たちが押しかけてきて粥を食べさせようとしてくれたのだが、手つきが危なっかしすぎて丁重に断らざるを得なかった。勢いがよすぎて困るな、姫たちは。

「早く元気になってください、お兄様」

「あにうえさまとあそびたいです……」

 と二人が布団の上からしがみついてくる。

「……わかっておる。元気になったらまた遊びに誘ってくれ」

 私は二人の髪をさらさらとなぜた。

 鐘後には、風が吹いたのか黒雲がさっぱりいなくなって、青天の下で草花が揺れていた。

 三日目の朝には、いくらかすっきりと目を覚ました。

 風たちが遊ぶように中庭や宮をすり抜けていく。

 ……死した体は土にかえる。魂はどこから来てどこへ行くのだろうと、誰もが言う。四大神したいしんの神官は、体は大神たいしんのもとへ行くのだから、魂はそら女神めがみのもとへ帰るのだと言うが。

 今は、自由になっていればいいと思った。

 母上が、自ら壊してしまったその心も、あの方の力であった風となって、好きに空を駆けまわっていればいい、と。もはや何にも縛られることはない。自由の象徴である風のように。

 その日の鐘後、部屋の戸を叩いたのは、予想したような人々ではなかった。

「殿下! 第一王子殿下がお越しになっています。お話がされたいと、お通しいたしますか?」

 と部屋の戸の外に立っていたカスパーが、珍しく慌てて言う。

 私はまず驚いて、すぐにうなずいた。

「ああ、お通ししてくれ」

 戸を開けて、入ってきた兄上はいつもの優しげな微笑をたたえていた。

「お前の部屋は庭に近いのだね」

 私は慌てて寝台から下り、傍まで歩いていった。入ってこられるのが早うございます、兄上。

「ええ……何故こちらへ?」

 首を傾げる。

「渡したいものがあって、ね。……来てくれるか?」

 と兄上が戸を差す。私はうなずいた。

「アリーセ、上着を持ってきてくれるか」

「殿下? お体は大丈夫なのですか」

 アリーセが戸惑い気味に問うが、うなずいてみせると素早く上着を取って来てくれた。それを寝巻きの上に羽織って、兄上の後を追う。

 兄上は廊下をゆっくり歩みながら、口を開いた。

「今後のことについてなのだが。……内宮へ移らぬか?」

「内宮へ?」

 また驚かされる。

「ああ。前から話は上がっておったろう? ごたついてそのままにしてしまっていたが、お前ももう十三だしな。このまま後宮におっても、進歩は得られまい」

 兄上の手が扉を開き、中庭を目の前にした回廊に出る。中庭にあふれる光に、目を細めた。

「お前にはもっと成長してほしいものだと思っておる。私には力が必要だ。お前にも力になってほしい、叶うものなら」

 と兄上は緑玉の瞳にきらめきを映して言う。私はじっと兄上を見上げた。

「内宮に移れば、私もより助力できよう。どうだ? ……ここにいては、ウルリーケ様のことも、つらくなるだろう」

 心配そうにこちらに目を向けられる。

 ……お優しい方だ。

 私は昔からずっと、尊敬し申し上げている。この方のお力になりたいと、そう思う。

 だが、

「……私に、務まるでしょうか」

 少し、不安だ。

「私では、母上を……お救いできませんでした」

 視線から逃れるようにうつむき、ぽつりと呟く。

 すると兄上は、上着の懐から何か小さな包みを取り出した。

「私はお前を求めているのだが。お前は私と同じ血を引く兄弟で、はるか昔からこの地を治めてきた王家の一員。力がないなどと、そんなことはなかろう。……それに、お前はその証さえ手放してもいいと思うほど、母のことを考え、手を尽くしたではないか」

 包みから取り出されたのは、金の指輪。

 紫の宝石の奥に六角星ろっかくせいの紋が刻印された、王家の証の指輪だった。

 母上が取ってしまった……。

「ウルリーケ様を護衛していた騎士から預かった。お前に返そう」

 それが、ころと手の中に転がり落された途端。

 遠い記憶がよみがえった。

 ……まだ八つくらいで、幼かった私の右の親指に、紫の宝石に金の輪の指輪をはめて、母上は嬉しそうに笑んだ。

『可愛いヴィンフリート、よく似合うわ。それはお前が陛下のお子であり、王家の者である証よ。大切になさい』

 十二になって、中指にはめられるようになった時には、

『もうすぐ独り立ちね、私の王子』

 とほめてくださった。

 転んで泣いた幼い日も。穏やかに笑い合った日も。成長を喜び合った日も。

 ……ああ、忘れてなどいない!

 私は確かに、気づいた。在りし日の私も母上も、我がことしか考えぬ愚かで無知な者だったと。恋に溺れ、己を失った母上を見てからは、嫌に思いながら守りたいという、矛盾した想いを抱えていた。

 だが、だとしても、そうだとしても、ああ、忘れるなどあり得ない!

 私はあの方を愛していた、私は確かにあの方に愛されていた!

 私は、誰より大切だったお方を亡くしたのだ——母上を亡くしたのだ……!

 一息に、心の内から何かがあふれた。それは激情だった。それに名前などつけられない。

 それは信じられぬほどに透き通った、透明な光のような感情だった。

 ぱた、と指輪の上に雫が落ちた。

 次々に零れては落ちていく。

「……っ」

 止められなくて、あふれるままに任せて涙をぬぐった。ぽん、と頭に温かい手のひらが置かれる。

「あれ、あにうえさまがないてる⁉」

 高い声と軽い足音がして、小さな二つの温かいものが腰の辺りに飛びついてきた。

「どうしたの? なかないで、あにうえさま」

「お兄様、お兄様っ」

 おろおろと姫たちがそれぞれに声をかけてきて、

「だめなの、わらって! ほらあ」

 とアルマが変な顔をしてみせてくる。

「こらっ、アルマ! そんな顔っ」

 とジルケがアルマの小さな両手をその頬から叩き落とすが、ぷくっとふくれたアルマを見て笑い出してしまう。

「ふ、あはは、ちょっと……アルマ!」

「……っく、はっ」

 可愛らしすぎて、思わず笑い声が零れた。

「っは、あはははは! もう……お前たち、」

 泣き笑いのようになって、ぐいと強く顔をぬぐった。ぎゅっと力強く二人を抱き寄せる。

「もう大丈夫だよ。……ありがとう」

 二人に笑いかけ、兄上に向き直った。

 兄上はまぶしいほどの笑みを向けてくる。

「……わかりました。内宮へ参ります。兄上のお役に立てるよう、努力しますから、お傍へ置いてください」

 私も笑みを返した。

 ——強くなりたい。亡くした人のことを忘れぬよう、目の前の大切な者たちを、今度こそ守れるよう。

 指輪を、中指にはめる。

「私もこの地の王に連なる者です。その誇りを忘れたことはありませぬゆえ」

 きらりと、太陽の光を反射して紫の底の六角星が輝いた。

 兄上は私の肩に手を置き、

「よろしく頼む、ヴィンフリート」

 と笑った。



 使用人たちが渡り廊下を通って荷物を運び出してゆく。服はもちろんだが、持っていた本と、それから気に入りのソファだけは持ってゆくことにした。

 中庭は、いつもの通りきらきらと輝いている。

「さみしいですわ……お兄様まで内宮の方になってしまわれるなんて」

 とジルケが唇を尖らせる。

「そうは言うが、私は役目上、聖曜日はこちらを訪ねるし。アルマ、お前ともまた遊べるから」

 あれから数日、今日はちょっとした引っ越しとなっている。私は兄上のお部屋もある廊下の部屋へ移ることが決まった。

 とはいえ、使い慣れたものも移すし、侍従長の管轄内なので、アリーセにモニカ、カスパーもそのまま私に仕えてくれることになっている。

 その上、兄上が私に課した役目は公務に出ている王族と後宮の者たちの連絡役だ。これまで聖曜日を休みにすると言っていたのが、聖曜日に後宮を訪ねる役になるというだけで、やるべきことには変わりない。

 それでも生活をともにしなくなる寂しさは、特に姫たちには大きいもので、ジルケはすねた顔をしてみせるし、アルマに至っては姉君のスカートの後ろに隠れている。

 移る前にと思って、昨日は一日遊んだのだがな。

「アルマ?」

 名を呼ぶが、首を振って出てこようとしない。私は仕方なくその小さな金の頭をなでて、

「また会いに来るから。……いい子で待っていなさい」

 と告げた。

 ジルケの焦げ茶の髪もなでてやって、妃様方にも礼をする。

「色々と、ありがとうございました」

「いいえ、殿下。いつでもぜひいらして。もうアルマは、仕様がないのだから」

 とカーリン様は怒ったふうに赤茶の髪を背に払う。

「わたくしのほうこそ、でございますわ。聖曜日を楽しみにお待ちしております」

 とヤスミーン様は穏やかに笑う。

「殿下! こちらへ」

 渡り廊下の真ん中でカスパーが呼んでいる。

「今行く!」

 返事して、私は四人に背を向け、後宮を踏み出した。



 

第一章 後宮にたゆたう 了

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