箱の中

中村ハル

封印された箱

 子供の頃、祖母の家で、茶碗を割ってしまった。

 その桐箱には触ってはいけないと、口うるさく言われていたのに、あんまりうるさく言うものだからそれが却って気になり、棚の奥、赤い毛氈の上にちんまりと載せられていた桐の箱を手に取った。

 朱赤の組紐をそっと解いて蓋を開く。そろそろと絹を除けると、鶴亀の絵付けの綺麗な、古びてまろやかな茶碗が現れる。幼い両手にそれを掲げた時の、背徳感を伴った鼓動を思い出す。強張る指が、それをつるりと取り落とした。心臓が、ぎゅっと痛いほど縮む。目の前が暗くなり、足元の地面が消え失せる。割れた瞬間は覚えていない。

 覚えているのは、茫然と、砕けた欠片を見下ろしていた背後で、襖が開いた気配だけ。

 あれを、絶望と呼ぶのだと、後になって知った。


「どうされたんですか」

 はっと我に返る。

 スーツを着た男が、私を覗き込んでいた。

「いえ、ちょっと」

 眉間を指先で擦って、軽く頭を振る。

「厭なことを思い出して」

「この状況で、更に厭なことを」

 男は少し笑った。

 上林さんは不動産屋の担当である。かみはやしさんだと思ったらかんばやしさんだった。母が亡くなって以降そのままになっていたマンションの部屋を片付けて、売りに出す予定だった。母とは長らく音信不通で、まあ、すなわち私が一方的に連絡を絶っていただけなのだが、空っぽにしたと思っていた部屋を上林さんに見てもらっていた時に、それを見つけた。

 押し入れの下段の真ん中に、ぽつんと置かれていた桐の箱に、私は祖母の家で割った茶碗を思い出したのだ。何故、そんな記憶が喚起されたのかはさっぱりわからない。だって、目の前の箱は似ても似つかない物だった。

 大きさは両手に収まるくらいの小ぶりの木箱で、表面には古い紙が幾枚も貼られていた。その一枚一枚に、黒と朱赤の墨で何やら文字と絵のような物が書かれている。端が剥がれたり破れたり汚れたりしているそれらは、知識の乏しい私が見ても、御札にしか見えない。ただでさえ薄気味悪い箱は、細く赤い糸でぐるぐるに巻かれて禍々しさを増している。

 何故、こんな物が押し入れに。

 その絶望感が、あの時の気持ちと重なったに違いない。

 だが、絶望は直ぐに消え去り、代わりにわき上がってきた感情を認識するより前に溜息が零れて、私は気付く。面倒臭い。思わず舌打ちが出そうになって、顔を歪める。

 死んでもまだ、面倒ばかりかけやがって。

 忌ま忌ましさを奥歯で噛みつぶして、もう一度溜息を吐く。

「全部、片付けたはずなんですけど」

「ああ、わかりますよ」

 お察ししますというように、上林さんは眉を下げて微笑んでみせる。違う、別に私は、疲れているわけでも傷心してもいない。だが、肉親を亡くして心ここにあらずと思われているのなら、その方がよいのだろう。人として、親を喪った子供として、きっと正しい。

「お持ち帰りになりますか」

「ええ、と」

 上林さんは禍々しさをものともせずに、その箱に手を伸ばして拾い上げる。唖然とする私に、落としたハンカチでも渡すみたいな気軽さで箱を差し出すものだから、つい、受け取ってしまった。でも、そうして掌に乗せてしまえば、それはただの小汚い箱で、それ以外の何物でもなかった。私はまた溜息を吐いて、両手でそれを握り込む。

「ずいぶん綺麗に、使われていたみたいですね」

 部屋をぐるりと見回して、上林さんは満足げに笑みを浮かべた。

「部屋っていうのは、箱ですから、開けてみるまでは中に何が入っているかわからないでしょう」

 上林さんが壁を撫でながら、ねえ、と同意を求めてくる。

「開けてみたら、汚くて絶望したりすることも多いんですよ」

 ああ、と合点がいって、私は浅く頷いた。母はいわゆる孤独死だったけれども、玄関扉を開けて倒れていたので、隣人が気付いて直ぐに救急に連絡してくれたという。

 扉の内側や窓には、古いものから真新しいものまで御札が幾枚も貼られていて、まだ怪しい宗教に嵌まっていたのかと腹が立った。せめてもの救いは、それらがマスキングテープで申し訳程度に留められていたことくらいだ。それ以外は質素というより寧ろ貧しい暮らしぶりで、片付けも楽だった。お金がなかったはずはないのに、残されていた通帳の残高は、僅かな蓄えが残るのみだった。

「これは、事故物件になるんでしょうか」

「ええまあ。でも、直ぐに次を見つけますよ。箱は空のままにしておくと、よくないですからね。ここは窓も塞がっていたようですし、どうしても空気が淀んでしまいます」

 剥がし損ねたマスキングテープを窓枠から摘まみ取って、上林さんはこちらを振り返って笑った。

「お母様が、玄関を開けて倒れられていたのは、不幸中の幸いです」

 不謹慎なと思ったが、あまりにも清々しい笑顔でそう言うので、私もこくりと首肯する。管理している物件がそこそこのダメージで済んだとあらば、笑顔の一つも出るだろう。

 ましてや、住民が怪しげな札など室内に貼っていたのだ。

 私は掌の中の小箱に視線を落とす。

 これだって、ひょっとすると、母が高額な金銭で買わされた物かもしれない。

 箱に貼られた札は、古さがまちまちだ。玄関に貼られていた札同様に、元は白木の箱だった物に、理由を付けては買わされた一枚一枚が重ねられていったのだとしたら、札の傷み具合にばらつきがあるのも頷ける。

「こんな物に、いったい幾ら注ぎ込んで」

 思わず唇を割って零れた声が鼓膜を揺すって、慌てて口を噤んだ。

 上林さんが、小首を傾げて、箱をじっと見詰めた。

「開けてみたら如何です」

「え?」

「気になるのなら、開けてしまうのがよいのではありませんか」

 目をしばたたいて上林さんを見ると、なぜか照れたように後ろ頭を掻く。

「いやあ、正直、僕も何が入っているのか気になって」

 好奇心に満ちあふれた少年のような笑顔でそういわれて、怒っていいのか呆れていいのか判断に困る。気持ちはわからないでもない。

「じゃあ、見ます?」

「いいんですか」

 あからさまに喜ぶ成人男性に、若干引いたが、正直私もここで開けてしまいたかった。こんな薄気味悪い物、家に持ち帰って捨てるのは厭だし、ひとりで開ける勇気はなかった。どうせ碌でもない物が入っているに違いないが、万が一、高価な物だったらと思うと、開けずに捨てるのも惜しい。

 上林さんが鞄から書類を出して床に敷いてくれたので、その上に箱を乗せる。大の大人ふたりが膝を突き詰めて、怪しげな開封式というのもいかがなものか。

 固いフローリングの床が、正座した膝を痛めつけて眉を顰める。

 箱をひっくり返して、執拗に巻き付けられた赤い糸の端を探したが、見当たらない。縦横無尽に幾重にも絡げた糸の結び目を早々に諦めて、上林さんに助けを求めた。

「鋏はありますが、止した方がいいんじゃないですか」

「でも、こんなのいちいち解いてたら日が暮れちゃうし」

 破れかけた札が糸を隠していたり、巻かれた上から新たに札が貼られて、そもそも結び目が表に出ているとは限らない。苛々と札をせせる爪の先を見て、上林さんはしょげた犬のような顔をした。

「なるべく慎重に剥がした方が」

「好きなんですか」

 ぶっきらぼうな声がつい出てしまう。

「上林さん、こういうの好きなんですか。私はさっさと開けてしまいたいんです」

「そうですか」

 叱られた犬の目をして、上林さんは鞄を探ると、小さな銀色の鋏を渡してくれた。

 少々申し訳なく思いながらも、鼻から息を吐いて、私は冷たい銀の刃物を受け取る。箱を手に取り、糸が重なった部分をざきり、と札ごと切り裂いた。

 糸が爆ぜる衝撃がほんの微かに鋏を通して手に届き、幾分か爽快な気分になる。ざまあみろ。何故だか、そう思って、唇が綻ぶ。

 めりめりと、纏めて札が幾枚か、かさぶたのように剥がれた。

「ゆっくりですよ」

 上林さんがおろおろと両手を挙げて私を宥めにかかる。知ったことか。

 中指の爪で箱の表面を引っ掻いて、浮いたところを一気に剥がす。糊が古くなっている箇所はぺり、と小さな音を立てて、まだ新しいところは頑なな抵抗をみせて、札が次第に剥がれていく。指に纏わり付く細く忌々しい糸を振り払う。

「御札って、中に入らないようにするのと、中から出ないようにするのがあるでしょう」

 上林さんが正座した膝に両手をついて、箱が姿を現すのを見ている。

「どっちだったんですかね」

「封印、っていうのは、出ないようにじゃないの」

「新しい物が紛れ込まないように、もあるんじゃないんですか。手紙とか、取り換えられたら困るでしょう」

「そうね」

 べりり、古い札も新しい札も、糸も、剥がれる。上林さんが敷いてくれた紙の上は、破れた封印が散らばっている。

「ふと思ったんです。この部屋、この箱を封印する箱だったんじゃないかって」

 顔を上げると、上林さんはにこにこと私を見ている。

 ばつん。銀の鋏で、糸を切る。まとめて札が、ばさりと落ちる。

「それで、このマンションは、この部屋を封印する箱なんじゃないかって」

「何言ってるの」

 爪ががりりと、白木の表面を引っ掻いた。もう札は、ほとんど残っていない。

「お気づきになりました? 入り口に張り紙がしてあったの。あれ、一件注意書きなんですけどね、よく見ると、封印なんです」

 古すぎて木肌と一体化したような札に爪を立てる。

「空の器をそのままにしておくと、魔が入るっていうでしょう。マンション全体を箱だとすると、空いたままの空間に、よくないものが入る。存在しない部屋とか」

 爪の隙間に、古い札の滓が挟まり、気持ちが悪い。

「この部屋ね、載っていないんです」

 にっこりと上林さんが言う。

「だから、あなたから連絡が来た時に、どうしようかなって」

 頭の中で疑問と困惑と若干の怒りが渦巻いて、指先に力を込める。

 ずるり、と、突然札が剥がれた。

「おや」

 上林さんが眉を上げて、嬉しそうな声を出した。

「剥がれましたね」

 ぶるり、と怖気が身体を走った。

 いつの間にか、窓の向こうはうっすらと翳っている。

 腰から背骨、首の後ろがひどく寒い。

 この箱の中を見てはいけない。見たら、見たら? 見たらどうなるというのか。

 そう思いながらも、指先が箱の継ぎ目を指でなぞっている。視線が、上蓋の合わせ目を嬲る。

 震えながら、私はそっと、木箱の蓋を開けた。

 ぎぎ、と軋む振動に尻が凍える。

「これ」

 箱の中には、割れた茶碗の欠片が入っていた。

 鶴と亀の茶碗。祖母の家で、私が割った。

「おや、かごめかごめだ」

 楽しそうに、上林さんが手を合わせた。

「鶴と亀が、滑った。めでたい印が壊れる、とはね」

 後ろの正面、だあれ。

 びくりと肩が揺れる。

 あの日、割った茶碗を見下ろしていた時、後ろに立っていたのは、祖母だ。

「私」

 私は、咄嗟に祖母を突き飛ばして、逃げた。だって、祖母が大切にしていた茶碗だ。絶対に触ってはいけないといわれていた茶碗。それを割ってしまったのだ。

 木箱を持ち上げた手が、震えた。

 茶碗の陰に、何か入っている。

 ひい、と喉が鳴って、私は木箱を投げ捨てた。木箱は床に撥ねて、中身を散らす。零れ落ちたのは、鶴と亀の割れた欠片と、小さな白い骨。

 あれは、祖母の遺骨ではないか。

 私が突き飛ばして壊した、祖母の骨。

「見てしまいましたね」

 ぜえぜえと、肩で息をする私の傍らに、上林さんがしゃがみ込む。

「大丈夫です。それはお祖母様ではありません。お忘れですか」

 耳元で、上林さんの声がする。目尻から、涙が零れて落ちる。

「それは、あなたですよ」

 ほら、思い出して、と上林さんの囁きが内耳に滑り込む。

「でも、だって」

「大丈夫です。落ち着いて、数を数えるんです」

 目を片手で塞がれる。ひんやりとした冷たい手。ひいふうみい、と数える声。

 後ろの正面、だあれ。

 聞こえてくるのは幻聴か。

 ああ、でも。

 床に突いた手が、何かに触れた。恐る恐る手探りでそれを拾う。ひんやりと冷たいのは、白い骨か、茶碗の欠片か。

 私はそれを握りしめたままで、膝を抱える。膝を抱えて背中を丸める。胎児のように丸くなる。

 そうだ。箱の中に入っていたのは、私。この箱の中で死んでいたのは、私。

 母はどこまで知っていたのだろう。

 上林さんの手が離れていく。欠片を握って、私は目を閉じた。

 次の鬼は、私。


「さて、お望み通り、あなたは箱の外へ」

 上林はにっこりと微笑んで、玄関の扉を開けた。

 女は戸惑うように身体を見下ろし、動作を確認するみたいに指を開いたり握ったりする。それから満足して上林に笑顔を返すと、頭を下げて外に出て行った。

「箱は、空のままにしたらいけない、魔が入り込むから」

 上林は嬉しげな顔をして、床に座った。散らばった札と糸を、床に敷いた紙で包む。拾い上げた鶴亀のめでたげな絵付けの欠片を、元の木箱に納めて、真新しい骨片を小箱に入れて札を貼る。

「空き部屋のままではよくない物が入る。だからこれは、魔除けの代わり」

 赤い糸を箱に絡げながら歌うみたいに呟いて、封をした箱を押し入れの中へと納めた。

 すたん、と襖が閉まる。

 それから、足音が遠去かり、玄関の扉が閉じた。

 薄暗い部屋は、箱の中のように静かだった。

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