屈服
館に戻ると、ガウン姿のお嬢様がリビングで寛いでいた。
オレを見るなり、白い歯を覗かせて笑う。
「……きたわね」
ソファの前で突き飛ばされ、前のめりに倒れた。
「はい」
渡されたのは、一枚の紙。
内容は、誓約書だった。
「前の契約書では不十分だと判断したわ。徹底的に奴隷として自覚してもらわないといけないもの。奴隷は死ぬまで奴隷。主人に逆らったらダメ。お分かり?」
短い文章で、こう書かれている。
『今後、一切リヴァ・ガトウィックに逆らいません』
勘の良い奴も、悪い奴も、すぐに気づく文章だ。
逆らわないという事は、財産だろうが、自分の意見だろうが、命だろうが、全部リヴァの物ということ。
バカでも分かる直接的な支配だった。
「こっちでは、印鑑証明って文化があるのでしょう。いいわ。さ、指を押し付けなさい」
オレの指紋を紙に押す。
つまり、指紋まで取られるのだから、判子のようにつくられた物とは訳が違う。
「どうしたの?」
「銃弾で教えてやろうか?」
リヴァが頭に足を乗せてきて、横からはライリーさんが銃を押し付けてくる。
目の前に朱肉を用意され、オレは交互に見た後、一つだけ提案した。
「頼みがあるんですがね」
「……立場分かってるのか?」
「ええ。煮るなり焼くなり、好きにしてくれりゃいいです」
朱肉に親指を押し付ける。
力を込めると、溜まっていたインクが親指の側面にまで溢れてきた。
「明日。……明日の、昼頃。話があるんですが……」
「今言いなさいよ」
「今はダメです」
「あらら。どうして?」
「質問を頭で整理してるんです。大事な話ですので、漏れたりしたら後悔だけが残ってしまう」
足の陰から見える、リヴァは眉をひそめていた。
鼻先をぐりぐりと踏みつけ、相変わらず整った顔立ちは、さながら薔薇のようであった。
美しいのに、毒の棘を持つ最悪の花。
オレの桜は、まだ咲いちゃいない。
だが、蕾は緑色になっていて、時間の問題だった。
「ダメですかい?」
リヴァは考える素振りを見せる。
オレはジッと待った。
窓の方を見て思案する事、数分。
「まあ、いいわ。何の話かは知らないけど」
「ありがとうございます」
「それより、さっさと押しなさいよ」
「……はい」
指に染み込んだ朱肉の汁。
紙に書かれた名前欄の横に、思いっきり押し付けた。
目だけでリヴァの顔を確認すると、勝ち誇った笑みを浮かべているのが見えた。
「ぷっ。……あ、っはっはっはっは!」
「こんなもの押すのに。どれだけ時間掛けてるんだ」
リヴァが勢い良く立ち上がると、オレの手をどかし、紙を奪い取る。
目を凝らして、指紋がちゃんと押されている事を確かめると、リヴァはにんまりと笑った。
「やったあ! これで、やっと、……パパはわたくしだけの物!」
「まったく。わがままも程ほどにしてくださいよ」
「聞けない相談ね」
リヴァが紙をオレに向けて、現実を突き付けてくる。
「あなたに人権はないから。命だって、わたくしが死ねと言えば死ぬの。
「……」
「感謝しなさい!」
腹を踏まれ、仰向けに倒れてしまう。
「あ、ありがとうございます」
「ぜ~んぜん、ダメ。ねえ。わたくし、パパの土下座が見たいわ。く、ふふふ」
座り直し、額を床に擦り付ける。
「ありがとうござ――」
後頭部に何かが乗った。
足だろう。
重さで、額を圧迫され、言葉が途切れてしまう。
「キャッハッハッハ! ね~ぇ、パパぁ。わたくしを裏切って、お仕置きをされるのって、どんな気持ちかしら? あっはっは! 教えてよ。ね~ぇ?」
色々溜まっていた分をここぞとばかりに発散してくる。
オレは黙って踏みつけられ、声に耳を傾けた。
「あなたのスマホ。……初期化しておいたわよ」
「……っ」
ただ回収して終わりじゃないだろう。
どうせ、スマホを警察に渡したところで、現行犯なのだから関係ない。
本来の法律の形なんて、どこにもないのが現実だ。
だから、「おかしいだろ」という言葉が、近年では続出してる。
「色々と撮ってくれたわね。わたくし、悲しくて涙が出そうよ」
「すいません、でした」
「謝罪は結構。行動で示してくれないとね」
そうだよな。
現実がどこまでも絶望的で、神も仏もないクソみたいな状況だってのは、よく見れば誰だって気づくんだ。
『俺は希望を捨てちゃいない』
タマオ。
お前、すげえよ。
お前みたいのがいてくれたから、オレだって諦めきれなくなる。
言葉があれば十分だ。
あとは、気持ち次第。
死にたければ勝手に死ぬ。
でも、オレはまっぴらゴメンだ。
都会に産まれようが、田舎に産まれようが。
誰だって苦しむために産まれてきたわけじゃない。
生きてりゃ、やりたい事の一つや二つは、自ずと見つかってくる。
理屈なんてくだらねえよ。
産まれたからには、生きるために、活きるんだ。
そのためなら、オレはバカでいい。
この世界中のありとあらゆる人間が、所詮は馬鹿野郎だ。
「ぱ~ぱ。足……舐めて……」
目の前に差し出されたつま先。
口に入れんばかりに、グリグリと押し付けてくるのだ。
「お嬢様。はしたないですよ」
「これぐらい良いじゃない。犬に舐められるのと何も変わらないわ」
「……まったく」
差し出されたつま先を手に取り、オレは黙って舌を這わせる。
「ちょっと。ソックスを脱がせなさいよ」
「うぐっ!」
顔を蹴られて、もう一度足を手に取り、丁寧に靴下を脱がせた。
白い足先は、爪の光沢まで綺麗だった。
「……ふふん♪ わたくしが舐めてもいいのだけど」
「お嬢様」
「分かってるわよ」
親指。人差し指。
指の一本、一本を丁寧に舐めていき、口に含んでいく。
「気が済んだら、きちんと洗ってきてくださいね」
「分かってる! 余韻に浸らせてよ!」
これだけ屈辱的な事をされているのに、オレは心が動じなかった。
心から覚悟を決めると、人間誰しもが別人のようになる。
体感して初めて分かることだった。
舐め終えてから、リヴァの顔を見上げる。
鼻息を荒くして、勝ち誇った笑みを崩さずにいた。
口の中に広がる鉄の味を呑み込み、オレは徐々に自分の中で小さな意思が肥大化するのを感じた。
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