第22話 涅槃4

愛犬の散歩道の途中に、私鉄の線路沿いの道がある。

ある朝その道を通りかかると、道路の脇に奇妙なものが置いてあるのを見つけた。

それは3cm四方の銀色の正方形の板で、樹脂のようなもので作られているようだ。その板の中心には、ライフル銃のスコープのような模様が描かれている。

何だろうと思ってしげしげと眺めていると、10m程先の道にも同じものが置かれていた。俺は何となく誘導されるように、それに近づいて行く。更に10m先にも同じものが置かれていて、その先もずっと続いていた。まるで何かの道標のように。

俺は一瞬躊躇したが、何故か誘惑に勝てず、その道標に従って先へ先へと進んで行く。

どれだけ進んだか途中から分からなくなったのだが、やがて俺はどこかの場所に到達していた。そしてそこには、人が立っていた。満面の笑みを浮かべて。

俺はその笑みに違和感を覚えたので、右眼を閉じて左目だけでその人を見た。

実は俺は昨年の暮れに網膜剥離をやっていた。手術を受けて視力は回復したのだが、左目だけで見ると、世界が歪んで見えるようになっていたのだ。それだけなら、病気のせいだから仕方がないと思うのだが、何故か左目で見ると、人の中に紛れた、人ではないものが見えるようになってしまった。右眼だけや両眼で見ると人に見えるのだが、左目だけで見ると、明らかに人ではないものが見えてしまうのだ。

最初は驚いたが、半年も経つと慣れてしまった。

つくづく自分は能天気だと思う。

そして俺の目に映ったその人は、やはり人外だった。両眼で見ると人の姿に見える。

「おや。あなたは私の真実の姿が見えるのですね。これは特別な方が来訪されたようです」

人外は言った。

「ここはどこなのですか?」

俺は人外に問う。

「ここはネハンですよ。あなたもよくご存じの」

「私はネハンという名前は聞いていますが、それがどのような所かは知りません。ネハンとはどのようなところなのでしょうか?」

「そうですね。ここはあなたの住んでおられた世界とは、異なる世界です」

「それは仏教でいう涅槃であったり、キリスト教でいう天国のような場所ですか?」

「あなた方人類が、概念として想像された涅槃や天国とは異なります。正確とは言えませんが、異世界という言葉が最も近いでしょう」

「私が会った3人の方々は、ネハンを目指していると仰っていました。あの方々が目指していた場所はここなのでしょうか?」

「その通りです。私たちがその方々を導いて、ここにお招きしました」

「ここはどのような場所なのでしょうか。何故あなた方は、ここに人を招くのですか?」

「ご説明しましょう。私たちの住むこの世界は、あなたの住む世界とは異なる時空に存在しています。そしてこの世界は、あなた方の理解しやすい言葉で言えば、生命エネルギーに満ち溢れているのです。しかし過剰なエネルギーは、世界の滅亡に繋がりかねません。まさに私たちの世界は、エネルギーの暴走による滅亡に直面していたのです」

「世界の滅亡ですか」

「そうです。そこで私たちは、このあり余るエネルギーを消費いただける方々を探そうと考えたのです。そしてあなた方の世界は、私たちの目的にとって、うってつけの世界でした。何しろ、長命を望まれる方々で満ち溢れているからです」

「私の世界から人をさらって、エネルギーの消費に使おうという魂胆なのですね?」

「少し違います。私たちはあなた方人類に、決して何事も強制しません。ただ望まれる方々を、ここにお招きするだけなのです」

「すると私が合った方々は皆、ここに来ることを望んでおられたのですか?」

「その通りです。あなたが最初に会われた方は、余命が数か月しか残されていませんでした。そのことに、ご本人も感づいておられたようです。その上でなお、より長く生きることを望まれていたのです。次にお会いになられたご夫婦は、子宝に恵まれず、係累もいなくなってご夫婦だけの暮らしでした。そしてご夫婦揃っての長命を、強く望んでおられたのです。3番目にお会いになられた方は、あなたがこの世界に導かれた方でしたね。この方は奥様を病気で亡くされたのですが、重度の認知症を患っておられたせいで、奥様のご遺体をどの様に取り扱ったらよいか分からず、キャリーバッグに入れて、途方に暮れておられたのです。皆さま、今はこの世界で安穏に暮らしておられますよ」

「この世界で暮らすメリットは何なのですか?」

「溢れるほどの生命エネルギーを享受することで、不老不死となります。さすがに若返りや死者の蘇生は無理ですが、病や怪我の治療は可能なのです。残念ながら、あなたが導かれた方の奥様を蘇生することは叶いませんでしたが、私どもで丁重にお弔いはさせて頂きました」

「つまり皆さん幸せに暮らしておられるのですね?」

「その通りです」

「あなた方にとって、人類をこの世界に招くことのメリットは何なのですか?」

「先程も申し上げましたが、この世界は生命エネルギーに満ち溢れています。私共がお招きした方々が、それを消費して下さることで、エネルギーの暴走は防がれます。そして消費して下さる方々は、この世界で不老長寿になることが出来るのです。Win Winということですね」

「なるほど」

「さて、あなたはどうされますか?このままこの世界で暮らされますか?あるいは元の世界に戻られますか?私共は、何も強制することはありません。例えば、この世界から去ることを希望される方は、ちゃんと元の世界にお戻しします。どうされますか?」

俺は即座に決断した。

「私は元の世界に戻ります。妻や家族や猫たちや、こいつがいますので」

俺の足元には愛犬が座っている。

「そうですか。では元の世界までお届けしましょう」

「その前に1つ教えて頂けますか?」

「何でしょうか?」

「ネハンとはどのような意味なのでしょうか?」

「ああ、そのことですか。ネハンを逆さまに読んで見て下さい」

「逆さま?ローマ字ですか。NEHAN。NAHEN。なへん。ああ、奈辺ですか」

「あなた方の言葉は面白いですね。どこかの世界という意味で、奈辺という言葉を当て、すこし工夫してネハンという風に読み替えて見ました。仏教という宗教の用語の、涅槃を文字ってもいます」

「なるほど。納得しました。では、元の世界に戻して下さい」

俺がそう言った瞬間、世界は一変し、いつもの散歩道に戻っていた。

足元では愛犬が嬉しそうに尻尾を振っている。

俺は愛犬を促し、我が家に向かうのだった。

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