第9話 涅槃2
これも愛犬の、朝のお散歩中の話。
あの<ネハン>を探していた老人(第5話参照)を見かけなくなってから、1年余り経った頃だろうか。
散歩中に、ご夫婦らしい老人たちを見かけるようになった。
ご主人らしい方は、スーツを着てネクタイを締めていらっしゃるし、奥様らしい方もきちんとした服装で、並んで下から歩道を登って来られた(作者注:うちの近所は坂道が多い)。
上から歩道を下る俺に向かって、奥様らしい方が笑顔で会釈されたので、俺も慌てて返す。お二人とも、小柄で穏やかな雰囲気だった。
それから毎日のように、同じ場所で、お二人を見かけるようになった。朝の散歩の時間は、ほぼ毎日同じなので、お二人も毎日同じ時間に上って来られているということだ。
そしてご主人らしい方は、いつもスーツを着てネクタイを締めている。奥様らしき方も、毎朝きちんとした服装だ。俺は他人の服装を覚えるのが苦手なので、判然としないのだが、多分毎日着替えてるのだろう。
それにしても、毎朝早くからきちんとした服装で、どこに行かれるのだろう?
妻にそのことを話したら、
「あなたの会社は服装がカジュアルだし、そもそも在宅勤務がほとんどだから、そう思うだけじゃないの」
と言われた。
なるほど。世間の皆様は毎日きちんとスーツを着て、オフィスに出勤して仕事をされている訳だ。考えて見れば俺も以前勤めていた会社では、常にビジネススーツ着用だったな。
そう思って妙に納得する俺だった。
そんなある日。
その日も日課の散歩に出て、いつもの下り道に差し掛かった。
すると今日に限って、前方から登って来たのは、奥様らしき方だけだ。
――ご主人、病気でもされたのかな?
俺がそう思っていると、彼女はかなり慌てた様子で俺に近づいて来た。
そして、
「毎朝、お見掛けする方ですよね?」
と、俺に話し掛けてくる。
「はい、そうですが」
俺が答えると、
「主人を見かけなかったかしら?」
と、かなり焦った様子で訊いてきた。
「いえ、お見掛けしませんが」
俺が答えると、奥様は早口でまくし立てる。
「困ったものねえ。家を出る時は一緒だったのに、途中で主人とはぐれたのよ。私を出し抜いて、抜け駆けでもしようというのかしら」
「はあ」
俺は不得要領で答える。足元でうちの愛犬が、不思議そうに俺たちを見上げていた。
奥様は、そんな俺たちに構わず、一方的に話し始める。
「まったく、うちの人にも困ったもんだわ。お互い抜け駆けは止めましょうねって、あれ程約束したのに。ねえ、あなたもそう思うでしょう?」
「え、えっと。何のことを仰っているのか、よく分からないのですが…」
「あら、あなたご存じないの?」
「何がでしょう?」
「ネハンよ。ネハン」
――げっ、まずい。
俺は咄嗟にそう思ったが、後の祭りだった。
「私たちね。ネハンを探しているのよ。あなたご存じない?」
「あ、あの。ネハンというのは仏教の『涅槃』のことでしょうか?」
俺が前回と同じ問いを発すると、返ってきた答えも同じだった。
「何を言ってるの。ネハンはネハンでしょう。仏教とかどうとか、訳の分からないことを言わないで欲しいわ」
奥様、少しご立腹である。そして俺が口を挟む間もなく続けた。
「今日こそ見つけようと思って、朝主人と一緒に家を出たのよ。そしたら途中でいなくなっちゃって。困ったものね。迷ってるのかしら。それともやっぱり、私を出し抜こうって魂胆かしら。昔からそういう、せこい所があるのよね。とにかく私は先を急ぐので、あなた、もし主人を見かけたら、私は先に行ったと伝えて頂戴ね。それじゃあ」
そう言い捨てると、彼女は山に続く道を、さっさと歩いて行った。
その後姿を、俺は呆然と見送るだけだった。
そして翌日。
いつもの時間にいつもの道に通りかかると、下からスーツを着た老人がやって来るのが見えた。老人は俺を見ると近づいて来て、
「このところ毎朝お見掛けする方ですね?実は妻を探しているのですが、あなた、妻を見ませんでしたか?」
と、予想通りの質問を俺に投げかけて来た。
俺が昨日奥様をお見掛けしたことと、先に行くという彼女からの伝言を伝えると、ご主人は地団駄踏むように憤慨して言う。
「何てことだ。あれだけ抜け駆けはしないと約束したのに」
「あなたもネハンを目指していらっしゃるんですか?」
「そうですが、あなたはもしかして、ネハンがどこにあるかご存じなんですか?」
俺の問いに、老人は顔を輝かせて問いで返してきた。
「申し訳ありませんが、私はネハンが何かも、どこにあるかも知らないんですよ。奥様にもお訊きしたんですが、ネハンとは何なのでしょうか?
「おや、ネハンをご存じないとは意外ですね。ネハンと言うのは、文字通りネハンです」
やはり予想通りの答えが返ってくる。
「もしかしてネハンには、亡くならないと行けないのではないのですか?」
「何を言っている。死んだらネハンに行けなくなるじゃないか」
老人は少し憤慨したように言った。そして、
「それでは私は先を急ぐので、失礼」
と言うと、昨日彼の妻が向かった方へと、足早に去って行った。
俺はネハンが何なのか、物凄く興味が湧いて仕方がなかったのだが、反面、それ以上深入りするのは危険だという警鐘が心の中で鳴り響くのを感じていた。
そして、足元の愛犬が催促するのを見て、散歩を続けるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます