第5話 涅槃1

毎日のように家の近くでその老人を見かけた。

いつも駅の東から西に向かって、線路沿いを歩いている。

路上生活者という雰囲気ではなかった。

着ている物は決して上等という感じではないが、かと言って垢じみている訳でもない。近くを通っても、異臭がする訳でもない。それでもその老人が目を引くのは、いつも破損した黒い傘を背負っていたからだ。晴れの日にも。

そう言えば、雨の日にはその老人を見かけた印象がない。

ある日俺は、家族を連れ、車で近くの山道を走っていた。子供たちをキャンプに連れて行くが目的だった。山を縫うようにワインディングを登っていると、山の中腹あたりで人影を見つけた。

――危ないな。車道なのに。

通り過ぎながら、その人影を見ると、あの老人だった。老人と目が合う。

――こんな場所まで来ていたのか。

正直俺は驚いた。

その場所はかなりの標高である。しかも車道で、普通は歩行者が歩く道ではない。

俺の家からは3km以上はある。しかも急な山道だ。

――もしかして、あの老人は毎日ここまで登って来ていたのだろうか?

――何が目的で?

2週間くらい経った頃。

近所のコンビニに買い物に行くと、店の外に老人が座っていた。

コンビニで買ったらしい、パックのコーヒーを飲んでいる。

俺と目が合うと、老人は言った。

「この間、山の上で会ったな」

俺は関りになるのはまずいと思いつつも、好奇心を押さえきれず、つい訊いてしまった。

「毎日あんな所まで、登ってらっしゃるんですか?」

「ああ、そうだよ」

老人は応えた。

「どうして、あんな高い所まで、毎日登っていらっしゃるんですか?」

「ネハンを探してるんだ」

「ネハン?仏教の涅槃ですか?」

「何だそれは。よく分からん。ネハンはネハンだ」

「そこに行って、何をなさるんですか?」

「何をするかって?することに意味はない。いくことが大事なんだ。しかし全然見つからない。君はネハンがどこにあるか知らないか」

「申し訳ありませんが、私には分かりません」

「そうか。そうだろうな」

老人は心底残念そうに言うと、立ち上がって去って行った。またあの山道をいくのだろうか。

それから老人を見かけることはなかった。

彼はネハンにたどり着けたのだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る