箱の庭【KAC20243】

天野橋立

箱の庭

「それでは、また声をかけてくださいね」

 担当のカウンセラーは、そう言って面談室を出て行った。私は一人、目の前に置かれた「砂箱」に向き合うことになる。

 白い砂の入った、長方形の浅い箱。その広さは、学校の机と同じくらいだろうか。箱の底は濃いブルーに塗られている。

 そばの棚には掌に乗るくらいの人形や動物、木々や建物や乗り物のミニチュアがずらりと並んでいた。


 箱庭療法。心身症などに有効といわれる治療法で、重度の精神障害には向かないらしい。

 だが、孤独な職場でのストレスで疲れ切った私にはちょうど良いのではないかと、カウンセラーは勧めてくれた。

 公園の砂場で遊ぶのと同じで、思うままに地形を作り、好きなようにミニチュアを置く。ルールは何もない。その作業が自分自身の深い所と向き合うことにつながり、治療につながるのだという。


 最初は途方に暮れた。自由に砂遊びをしてくださいと言われても、どうして良いのか分からない。子供のころなら、そんなこと何も迷わなかったはずなのに。

 とにかく、好きな景色、見たい場所を再現してみることにした。治療として意味があるのかどうかは分からなかったが、カウンセラーは「大丈夫。思うままに、自由でいいのですよ」と言ってくれた。


 箱の底がブルーなのは、やはり水面ということなのだろう。

 南の島の風景に憧れていたから、私はその青い海の上に、島やビーチを作ってみることにした。ミニチュアの中には、ちゃんとヤシの木も用意されている。

 並木が続く海辺の道に、カップルが乗った赤いオープンカーを走らせて、海を見下ろす丘の上には三角屋根の家を建ててみる。もちろん、そこには私が暮らしているのだ。海に浮かべた立派な客船は、遠い国からやってきたに違いない。私に新たな出会いと冒険とをもたらすために。


 遠い島への旅行など絶望的な激務の日々の中で、私は思いもよらぬほどにその作業に心をひかれた。暗い窓の向こうでは雪が降り続いていたが、降り注ぐ南国の陽射しを私は感じることができた。


 作業を続ければ続けるほど、箱庭の中には様々な物語が生まれて行った。はじめは断片のようだった物語たちは、次第に意味を持ってつながりはじめて、その向こう側には一つの広大な世界が姿を現し始めたようだった。

 それこそが、私にとっての本当の世界、本当の人生を送る場所らしいと気づくまでに、時間はかからなかった。ならば、形を与えて、残さなければ。私は、それらの物語を書き留めるようになった。

 箱庭の前を離れても、私は物語を綴り続けた。そこが終電の中でも、仕事のわずかな合間に立ち寄った牛丼チェーンのカウンターであっても。


 何度も書き直したそれらの物語群は、ついには何万字もに及ぶ小説の形をとるようになった。現代においては、自作の小説を発表する手段はたくさんある。私の世界への入り口は、その物語を読む人たちに向かって、今や解き放たれたのだった。


 数は多いとは言えなくても、私の小説を読んでくれる人たちがいる。

 だから、もはや私は孤独ではない。多くの人々が一緒に旅してくれるのだ、私の作った広大な箱の庭を。

 人生が続く限り、その旅に終わりはないだろう。

(了)

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箱の庭【KAC20243】 天野橋立 @hashidateamano

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