ターリーク

 波の音が聞こえる。息子のメフラクに揺り動かされて、セペフルは長い夢から目を覚ました。セペフルが寝ている間も、幼い息子は二人が乗る小さな舟を自在に操れるようになっていた。メフラクは彼の母から継いだ黒い肌に汗の珠を光らせて、風に合わせて帆を動かし、海の向こうを指差す。

「お父さん、もうそろそろ着くよ。あれがそうなんでしょう」

 セペフルは起き上がり、船の行く手を見る。その波の向こうには、かつて栄えていた港の跡があった。そこには誰もいない。さまざまな肌の色をした船乗りたちが行き交っていた港だったのに、もう誰もいはしない。ただ一人、その岸辺で彼らの到着を待つ白髪の青年を除いては。

 船が着くと、白髪の青年が近付いてきた。セペフルに美しく笑う。その笑顔は年相応の年月を感じさせて、しかし、昔の彼のままだった。

「セペフル、メフラク、よく来ましたね。船旅は大事なかったですか」

 船から岸に飛び移ったメフラクは目を丸くする。

「僕の名前知ってるの? 初めて会ったのに」

 青年はメフラクに向かって微笑んだ。

「お父さんと手紙のやり取りはしていましたから。実は私はあなたの名付け親なんですよ」

「あなたはなんて名前?」

「シャンギヤンといいます」

 シャンギヤンはメフラクの肩に手を置き、海風に白髪をなびかせながら、セペフルを見る。

「あれから西の豪族たちが何度も攻めてきましたが、毎回内紛を起こしてどこかに行ってしまうんです。さすがに懲りてしまったのか、この数年はもう攻めてくることもありません。私のせいなのでしょうね」

 セペフルは大きくため息をついてから、シャンギヤンの肩を叩く。

「馬鹿なことを言うんじゃない。案内してくれるか」

 シャンギヤンは爽やかに笑った。

「いいですよ。案内するほどのものも残ってないですが」

 シャンギヤンが前を歩き、セペフルと息子はその後ろを付いて行く。港から出ると、かつて大通りがあった場所に出た。大通りがあった場所は、そこの記憶を持たない者に、そこにはかつて道があったのだと示すものが何もない。ただ、廃墟になり毀たれた家が時折姿を現す。それはセペフルが船でこの土地を去った時の記憶よりも更になだらかになっていた。そして、一面に薄紅の花々が咲いている。見渡す限りのペグナーズの花が、強い匂いで己を誇りながら広がっていた。息子は瞳を輝かせるとその花園を駆けだす。春の光が幾条か薄く差し込んでいた。

 セペフルとシャンギヤンはその光景を眺めている。「どうですか?」そう聞かれてセペフルはかすれた声で呟いた。「美しいね。とても美しい」そうして、廃墟に咲き誇るペグナーズの花々に目を囚われたまま、身動き一つできないセペフルの肩をシャンギヤンが抱いた。折しも強く吹いた風に、花々は花弁を散らしていった。

 その大通りをはるか先まで進んでいったところに、巨大な宮殿の跡がある。黒く煤けたその宮殿は、かつての白亜の白さを辛うじて残していた。七つの小宮殿は至る所が崩れ去り、それらの上を覆っていた色とりどりの丸屋根はもうどこにもない。きっと中庭があったのだろう。小宮殿と小宮殿の間に開かれた空間があって、薄紅の花々に囲まれて、黒く炭になった木が一つだけ残っていた。

 彼らは宮殿の跡から去り、門の前の道を曲がってしばらく歩く。都の外れ、彼らの小さな屋敷があった場所へ。

 そこはただの花畑になっていた。ただ、かつての間取りに従って、敷かれた礎石が花と花の間に横たわっている。セペフルは言葉もなくその礎石を歩いて巡る。過去の景色を撫で、確かめていく。その彼をシャンギヤンは外で見守って、メフラクはシャンギヤンと手を繋いだまま、不思議そうに見ていた。

 屋敷から離れ、さらに外れの方に向かうと、小川が流れていた。

「川にね、魚が増えたんです。誰も獲る人がいなくなったから、私が食べるには困らないだけ魚が獲れます。昔はここに魚がいるなんて知らなかった」

 そう言って、シャンギヤンは魚を何匹か釣り上げた。メフラクに持たせた網に魚を入れていく。それを聞きながらセペフルは小川のきらめきを見る。かつて、父と母が出会ったというその小川を。

 小川のほとりで火を起こし、魚を焼いた。その魚を隣で食べながら、シャンギヤンとメフラクはもうすっかり打ち解けていた。

「シャンギヤンはお父さんの友達なの?」

「いいえ、私はセペフルの兄です」

「じゃあ、なんでそんな言葉遣いなのさ」

「ふふ、昔は名前さえ呼ばなかったんですよ」

 見上げれば星々が、過去にはなかった煌めきで天球に散らばっている。


 夜も更けてくると、シャンギヤンの家に入り、そこに三人で泊まった。家と言ってもほとんどあばら家のようなもので、最後の豪族たちが引き揚げてから、廃材をかき集めてシャンギヤンが作ったらしい。寝台のようなものはなく、三人で床に寝そべった。息子は初めて来た土地に興奮しているらしく、なかなか寝付けないようだ。

「ねえ、ここはどこなの? 昔は何があったの?」

 セペフルとシャンギヤンは息子に優しく笑いかけた。

「それはとても長い話になるな」

「そうですね」

「ええ? いいよ。聞かせてよ」

 二人は互いに顔を見合わせると、懐かしく目を細めて、あの日々を思い出した。彼らの少年期の始まりと終わり、そして彼らが暮らした王国を。彼らはやがてどちらからともなく語り始めた。低く穏やかに、打ち寄せる波のように、彼らの語りがあばら家に滲み込む。

 ――これは、ターリークという王国の物語。

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ジュレン・ダースタン 辰井圭斗 @guyong

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