アルダーグ

 二月ふたつきの後、王都の攻略戦は始まる。馬に乗るオルホジャの戦士たちの叫びに山は木霊で返し、大地は百万の蹄に震えた。王都の守備軍は果敢に応戦した。アルダーグの四つの門を鎖し、城壁の上から盛んに弓を射かけ、石を落とし、破城槌によって門が破られれば、剣を持って雪崩れ込む騎兵に応戦した。

 だが、数日ももたなかった。かつての世界に冠たるターリークの都アルダーグは、辺境の遊牧民に完全な侵入を許し、それはそう時も置かず掠奪に移ろう。彼らが手綱を握る馬が街路を縦横に駆け、火を放ち、残っていた王都の兵を射殺し、刺し殺し、戦の興奮に、やがて民衆までも手に掛ける。オルホジャの民には、長い間彼らの抗争を誘っていたターリークへの積年の憎しみがあった。そして、その王国とそこに暮らす一人ひとりの民衆の区別をほとんどつけなかった。

 大通りに炎が走る。かつて白い花弁を王都に降らせていたジャスミンの樹は瞬く間に燃え上がった。大通りを塞がんがばかりの大量の馬が並んで駆け、人々を蹄にかけ、踏み潰していった。

 かつて商人たちが量っていた宝玉の類や黄金はもうどこにもない。馬に乗る略奪者たちは、目の前にそれらがあれば欲しがったであろう。しかし、彼らも知らないまま、その輝かしい宝物は炎に包まれた。

 もうここには鍛冶屋と象嵌師が共作していた宝刀もなければ、それを作っていた彼らもいない。錦の織物もなければ、それを肩に掛け微笑んでいた花嫁もいない。異国からの隊商が絶えてからもいくらか商われていた色鮮やかな果実はその店ごと炭になった。

 大通りに面した家に住む老夫婦は、妻の脚が弱く歩けなかったので、家の中に取り残された。早く自分を置いて逃げるようにと言われた夫は首を振って妻の手を握り締めた。今更お前を置いてどこへ行けようか。そうして互いの手を固く握りながら、声もなく火花がはぜる音を聞いていた。間もなくして家を焼いた炎に二人は動かぬまま呑まれた。

 若い夫婦は、二人で逃げ惑うなか人の波に引き離された。そして互いのことを探し続けながら人の流れに抗ううちに転倒し、何十何百もの人々に踏み潰され息絶えた。二人の死体は距離としてはさほど遠くない場所にあった。それに似たようなことはこの王都で何十も起こった。

 アルダーグの外れに店を広げていた商人はこの破局にあってどうしても自分の商品を諦められず、炎に照らされるばかりの店の中で呆然としていた。そこに入口から敵が馬ごと入って来て、棚や壺を覆した挙句、手慰みのように商人の首を飛ばした。

 この混乱に逃げずに隠れようとする者たちもいたが、各地で掠奪をはたらいていた遊牧民たちは、こういう時に人間がどこに隠れるかということをよく知っていた。だから咄嗟の判断で物陰に隠れた者たちは悉く彼らの刃に貫かれた。

 官衙にいた官吏達は、火のついた官衙から逃げ出して、彼らが書いていた文書の紙が黒焦げになって宙を舞っているのを言葉もなく見つめていた。そして、彼らのもとに押し寄せた民衆はもう何をしても遅いというのに、彼らを散々打ち据えて叩き殺してしまった。そして、官吏たちを手にかけた人々が虚ろな目をしていると、馬のかたちをした黒い嵐が、道の向こうから迫って来ていた。

 巨大な火獄。それがこの世の花たる都だったアルダーグの姿だった。


 その中で、セペフルとシャンギヤン、あの二人の双子は。

 セペフルとシャンギヤン、そして彼らの母が住む小さな屋敷に火の手が迫っている。すでに庭の木には炎が燃え移った。セペフルは屋敷に残ろうとする母を一緒に逃げるよう説得している。シャンギヤンは屋敷の奴隷に、もうどこへなりと逃げろと言おうとして、彼らの部屋が既にもぬけの殻になっているのを見つけた。扉の枠に手を掛け身体を支え、それはそうだと思う。自分だってそうする。シャンギヤンは暗い奴隷部屋から去ると、セペフルと母のところに戻り、一緒になって母を説得した。二人で説得すると、やっと母は動く気になったようだった。

 三人は住み慣れた小さな屋敷を離れ、共に街路を走った。セペフルはどこへ逃げればよいのかわからなかった。だが、四方を火に囲まれた屋敷にあのままいてはならないのは確かだった。とにかく、四つあるどこかの門からアルダーグを出た方がよさそうだった。シャンギヤンが「南西に向かいましょう」と言う。オルホジャの遊牧民たちは北東から攻めてきたからだ。セペフルもそれに頷く。

 遅れる母を振り返り振り返り、大通りに差し掛かったところで、向こうから駆けてきた騎兵が、下卑た笑いを浮かべて母の襟元を掴み引きずって行った。セペフルは遠ざかっていく母に手を伸ばし叫ぶ。

「母上!」

 そして、通りの向こうへ瞬く間に小さくなった母の方へ走ろうとして、シャンギヤンに腕を掴まれた。

「駄目です坊ちゃん! もう助かりません」

「母上はまだ生きている!」

「あちらは馬ですよ! 絶対に追い付けません。私たちはこのまま逃げましょう」

 セペフルは唇を噛んで、シャンギヤンの手を振りほどくと、母が引きずられていった方へ走り出した。シャンギヤンは追いかけようとして、逃げる人々に正面からぶつかられる。白髪の少年は罵倒を受けながら、身をよじり、その場から抜け出し、叫ぶ。

「坊ちゃん!」

 入り乱れ逃げ惑う人々と暴威を振るう騎馬の中で、シャンギヤンはセペフルの姿を完全に見失った。


 かつての王の側近、ダーラーは。

 ダーラーは街に火の手が上がると、己が家を飛び出した。ほうら言わんこっちゃない。俺が言った通りだ。俺が危惧した通り、王国は崩れ去ろうとしている。しかし、俺は忠臣、祖国が滅びかけたとて、見捨てはしまいぞ。

 ダーラーは巨体を揺らし、街路を走り、官吏や兵士が駆け回る宮中へ参上し、小宮殿の一つに入った。すでに王宮にも火の手が上がっている。地下への階段を降りると、王の宝物庫の前にはもう番人もいなかった。

 ダーラーは宝物庫に入り、王の宝物を無遠慮に漁る。汗を拭き拭き壁に掛けられた宝刀を叩き落とし、飾られた指輪を己の二十指すべてに嵌め、宝石を口に詰め込む。そうして祈っている。気付いてくださいよ、と祈っている。陛下、お国の一大事に気付いてくださいよ、と祈っている。彼にできることは宝物を貪ることだけで、もう時の順序も理路もありはしない。かつての才気溢れる文官、彼の正気は幽界に消えてしまった。

 持てる限りの宝物を手にしたダーラーは宝物庫から出ようとして、閉ざされた扉がぴくりとも動かないのに気付いた。押せども押せども微塵も動かぬ。王宮を這う火の手に金具が溶けてしまったのか。それとも地下の天井が崩れて、扉の前に重石でも落ちているのか。とにかく、ダーラーの力では到底開けられそうになかった。

 ダーラーは宝石を口に頬張ったまま呆然とする。外で膨れ上がる天を衝かんがばかりの業火に炙られて、宝物庫の中の空気は次第に熱せられていた。身体に伝うは滝のような汗。しかし、それも瞬く間に白く塩の痕を残して消える。座り込んだダーラーは床に脚を焼かれながら、口から流すように宝石を吐き出す。そして、最後の一つを吐き出した時、ふと正気に戻って、自分は何をやっているのだろうと思った。自分が何のために宝物庫にいるのかわからなかった。

 空気は致命的に熱せられる。息を吸えば、かつては甘かった宝物庫の空気が容赦なくダーラーの喉を灼いた。ダーラーは足をばたつかせ、喉を搔きむしりながら、目に滲む涙の向こうに懐かしい女の面影を見る。決して、糸杉の背も黒壇の髪もしていなかったが、この最期の瞬間に心の底から会いたいと願ったのは彼女だった。ダーラーは現世のものはほとんど映さなくなった目で、流した瞬間に蒸発する涙を流しながら、声なき声で「すまなかった」と泣く。

 彼女がダーラーに手を伸ばし、ダーラーがそれに応えて手を伸ばすと、彼女はダーラーの手を優しく包んだ。ダーラーの世界は白く光を受けて消えた。


 奴隷市場の長トゥーラジは。

 歴年の奴隷商人トゥーラジは、奴隷市場の門の前に立って彼の商品を守っていた。トゥーラジは貧弱な男で、武器の一つも持っていなかったが、ここを離れるつもりは毫もなかった。ここが、彼の生涯をかけて積み上げた財産だったからだ。ここに比べれば、彼の命など惜しくはなかった。やがて、三騎の敵兵がやって来て、彼に弓を向け、何事かを言った。それが、およそ「そこを開けろ」といった意味であるのはトゥーラジにもわかったが、聞く気はなかった。やがて、弓を引き絞り矢をつがえた騎兵の指がぱっと開いた。

 奴隷市場の長トゥーラジは、北方の山岳地帯の生まれだ。ターリークの東部にあるアガダ山から遥か西にまで伸びる大山岳地帯。そこには、高原の花々と鉱石以外何もなかった。少年の頃から山羊を飼うのが生業で、ほとんど黒に近い蒼穹の下、万年雪を戴く高嶺が彼を見下ろしていた。

 やがて青年になったトゥーラジは己の中で夢を育んでいた。時折噂に聞く王都。己が生まれた王国の最も繁華な都に行ってみたい、そこで一旗揚げたい、この一度きりの生をここで終わらせたくない、そう思った。

 トゥーラジはある春の未明、親や兄弟には告げず、家を後にした。持ち物といえば、最低限の水と食料を持っているに過ぎず、ほとんど着の身着のままだった。冷たい朝の空気の中しばらく歩いていると、自分の脚の影が鮮やかになって、東の方、山の向こうで太陽が上がったのだとわかった。振り返れば彼の故郷の峻厳な山々が朝日を受けて雪積もる稜線を赤く輝かせている。それは、彼が生涯で見た景色の中で紛れもなく最も美しい一片だった。戻ろうかと思った。だが、それをするには、彼の内で膨らんだまだ見ぬ都への憧れが強過ぎた。トゥーラジは彼の袖を引くその光景から強いて視線を切ると、アルダーグへの遥かな道を歩き出した。

 山から都に出てきただけのトゥーラジに、彼が望むような仕事はなかった。だが、奴隷市場は人手を求めていた。奴隷のいない山岳で育ったトゥーラジは、それを賤しい商売だと思ったが、自分の飢えには勝てなかった。彼は奴隷商人の仕事に慣れ、その商売に対してはじめ抱いていた抵抗も次第に心から消えていった。

 長い奴隷商人としての生活で、トゥーラジはあの朝のことを忘れたし、誰にも語ることがなかった。故に、トゥーラジの美しい朝のことを知る人間はこの世のどこにもいない。

 奴隷市場の門は開け放たれた。三人の遊牧民はその中に入って、ほとんど裸の人間ばかりが繋がれているのを見て、ひどくがっかりした。あの貧弱な男が大事そうに守っていたから、穀物蔵か宝物庫だと思っていたのだ。三人は火の手が迫るその奴隷市場をさっさと後にする。三本の矢によって絶命した奴隷商人は門と競売の舞台の間で、襤褸切れのようになって転がっていた。


 ターリークの国王ファルザードは。

 ファルザードは玉座から立ち上がり、宮殿を歩く。臣下には逃げるよう促されたが、逃げたところでもうどうにもならないことは、ファルザードが最もよく知っていた。巨大な炎がアルダーグを包んでいる。彼がこの世の限りの繁栄に導いた王国を、炎のかたちをした大きな手が滅ぼしている。それは、この宮殿の中からでもありありとわかった。ファルザードは戦慄と憂いに思わず手を目元にやって、気付いた。

 ――余は、ターリークの滅びが見たい。

 己はかつてそう言った。なぜか今まで忘れていたが、間違いなく己は己の物語の果てにそう言った。誰に言ったのか。知れたこと、あの女奴隷に言ったのだ。

 この稀代の名君だった男は宮中を行く。中庭を過れば、シデの木と花々が燃えていた。幻想が消えて行く。この宮殿でファルザードを包んでいた幻想が。兄がいたあの日々を覚えている。兄が死んだと聞かされたあの日を覚えている。王位を継いだあの日を覚えている。そして、処刑場に送り込んだ時の、父の大臣たちの悪鬼のような顔も。

 そこからは、昼に駆ける白い馬と夜に駆ける黒い馬が飛ぶかのように巡って、瞬く間に時が過ぎ去った。彼が見込んだ大臣や将軍たちを信任した。遥か彼方から彼の即位を祝って他国の王が来た。大量の奏上と地方の報告を来る日も来る日も処理した。然るべき河と河の間に運河を引いた。人々から妥当な税を取り、天災が起これば速やかに減免した。王位に即いて初めてアルダーグの街まで下りた時のことを覚えている。やがて夜を忍んで思いのままに下るようになり、その度に街の繁栄が見えた。

 彼を称える詩人は千にものぼり、彼の事績を刻んだ石碑や巻子は数え切れなかった。

 隠れたものをすべて見出すお方。

 名高い王冠に栄誉を与えるお方。

 頭上に雲も塵埃もかからぬお方。

 輝く日を暗い夜とし、暗い夜を輝く日とするお方。

 希望または恐怖いずれの宝庫をも開きうるお方。

 その影を遥か遠方にまで投げかけるお方。

 あらゆる苦悩を軽減するお方。

 あらゆる繁栄をもたらしたお方――。

 ファルザードは瀝青タールの丸屋根が架かる宮殿に入る。廊下は白亜、燭台は黄金、絨毯は一流の職人が四十年をかけて織りあげたアルダーグ産の最高級品。炎に包まれてもなお、この宮殿は揺らぐ空気の中でさえそうとわかるほどの気品に満ちていた。その廊下をファルザードは幽霊のように行く。そう、彼はこの宮殿の主にして幽霊だった。彼が国であり、国が彼である。そこに彼個人としての実体はない。そのはずだった。

 そうして、ファルザードは廊下の奥の部屋に入った。部屋は炎に包まれ、その中に女が一人立っている。糸杉の背に、鹿も恥じらううなじ。黒壇の髪はすべらかな肌にかかり、瞳は濡れた漆黒、紅玉髄の唇を開けば甘やかに歯が覗く。ファルザードが愛し、初めて殺さなかった女奴隷が、ナズカンドの魔女が立っている。ファルザードはその女に向かって歩を進める。

「あの夜、お前に語ったことを思い出した。余が何を語ったか、何を語らされたか」

 女は嫣然と微笑んだ。炎が彼女の白い頬を艶やかに照らしている。

「あれはよくできていました。陛下はあれ以来千もの物語を作られましたし、あれより面白いお話も沢山ありましたが、真の意味であれを超える物語は一つもありませんでした。最後に一つお教えします。よい物語というものは現にあるこの世界の運命を引き寄せるものなのですよ」

 ファルザードは女の細首に手を掛けた。満身の憎しみを込めて容赦なく力を加える。

「あの日お前を欲したのが間違いであった」

 女は炎の中で首を絞められながら、悠然と笑った。

「人の王が思い上がりも甚だしい。あなたが物語を欲したのではなく、物語があなたとあなたの王国を欲したに過ぎないのに。私たちの関わりというものは、この世の果てまでそういうもの。なぜ人の王ごときの思いのままになりましょうや」

 ファルザードは絶句して、而して哄笑する。

「まこと、魔のものであったか。よかろう、お前は余がここで殺す。余の命と引き換えに必ずお前を滅ぼしてみせる」

「やってごらんなさいな」

 ファルザードは腕に最後の力を込め、女の首を折る。重みを増した女の首に手を掛けたまま、ファルザードは炎に包まれる。この世のすべてに、玉座にあった全ての日々に、そしてついに彼の王国を手に入れたその悦びに、耐えがたい虚しさと疲れを感じながら炎に身を焦がす。そして、今際の際に、女の高らかな笑い声を聞いた。


 草原のハン、タスハリは。

 タスハリは燃え上がる王都を眺めている。穀物蔵まで焼けるから火の手を抑えよとは言ったが、それが叶わないのも知っていた。この光景を彼はすでに見ていたのだから。しばらく前から、あの火獄の都はアルダーグだったのだと悟っていた。彼は黒く日に焼けひび割れた肌を炎に照らされながら、初めて見る王都を見回す。

 そして奇妙に感じた。そういえば、この先のことが自分にはわからないのだ。アルダーグで足りなければ、海の向こうまで平定しようと言った言葉に一片の偽りもない。だが、こうして燃える王都を見て、その先に自分が何を成すか全く見えていないことに気付いた。

 そこで得心がいく。そういうことだったのだ。

 アクジャバが作った物語とは違って、タスハリは物心ついた時には一人で草原に立っていた。風が草をそよがせて、光る波がかしこに移ろっていた。己には何もなかった。己の中に由来を探そうとも、何も見つからなかった。養い親のシルメン部の長に、己がどこから来たのか尋ねても、彼が養い親に過ぎないことを告げられただけだった。タスハリは己の過去を知らない。僅かばかりの過去も持たない。

 養い親を殺したのはタスハリだ。養い親には実の息子がいた。養い親は、その息子に長を継がせたかったが、それには才気溢れるタスハリが邪魔だったのだ。タスハリは五人の部衆と狩りに出た時に、危うく部衆に殺されそうになった。先行きが見え、武勇に優れていたタスハリは一人で五人すべてを殺し、部の集落に戻ると、養い親の息子、すなわち彼の義弟を見つけ、首を刎ねた。

 甲高い悲鳴を上げ続ける義弟の妻を捨て置き、義弟の首を持って長の天幕に行き、養い親に義弟の首を見せた。タスハリは言葉を失う養い親の腹に刃を突き立て、ねじり、引き抜いた。返り血と臓腑がタスハリにまとわりついた。そうして養い親の息が絶えるのを確かめると、天幕の外に出た。

 天幕の前にはこの騒動を聞きつけた部衆が集まっていた。タスハリは一言、「俺の他に長になりたい者はいるか」と言った。誰も名乗りを上げなかった。だが、怪しげな動きをした者がいて、それらを斬り捨てる未来が見えたので、タスハリはためらわずそうした。集落は水を打ったように静まり返った。「他にいるか」と問えば、部衆は皆、その場から一歩下がった。

 タスハリはその光景を見ながら、浅ましいと思った。己が浅ましい。何も持たないその空虚をその先の未来で埋めようとする己が浅ましい。こういう訳だから、初めてアクジャバの物語を聞いた時には苦い笑いが浮かんだ。アクジャバが作った物語は実際にあったこととはほとんど真逆で、本当のところはこんなものだったのだ。先行きが見えるということ以外、あの物語に本当のものは何一つなかった。だからこそ、アクジャバはよく彼の仕事を果たしてくれたと思う。

 長になったばかりのあの頃はなぜか寂しかった。決して養い親も、その息子も愛してはいなかったのに、彼らを殺してから寂しさを感じた。それは、ただ垣間見た未来の重さのみに駆られる己の人生の寂しさだったのかもしれない。

 その寂しさにまかせてタスハリは馬を走らせた。アクジャバに出会ったのもその時だった。「美しかった」と言われて、虚を衝かれた。生きれば生きるほど醜くなっていくと思っていた。虚ろな過去を根源として先に進めば進むほど、血に塗れていくと思った。だが、アクジャバはその彼を美しかったと言った。

 その時にタスハリは救われた。あの日のアクジャバが今の己に出会ったとすれば、果たして美しいと言うだろうか。アクジャバの作った物語について二人で語らって以来、アクジャバを失望させてばかりだったように思う。それが、また寂しい。その人間らしい心が解せなかった。或いは先行きを見る力がなければ、己はごく普通の部衆として生きていたのだろうか。草原の片隅で、その生涯を終えたのだろうか。

 そこまで考えて、それはいらないなと、アルダーグを包む炎の中で、掠奪をはたらく配下たちが駆け回る中で、タスハリは思った。この業の深い自分はそんな人生に決して満足はできなかっただろう。行く末が見えていようが見えていなかろうが、持って生まれた己の性情は変わらないのだ。やはり、生まれてこの方後悔したことはない。どうしようもなく、この生を生きるしかなかった。もうそれでよかった。

 目を閉じて、再び開ける。その時、タスハリの右目にどこからか飛んできた矢が深々と刺さった。


 双子の片割れセペフルは。

 セペフルは、混乱の中で結局母の靴の片方しか見つけられなかった。母も、母を引きずって行った騎兵もどこにもいなかった。炎の中、もう辺りに逃げ惑う人もいない。皆逃げ切ったのだろうか。それとも、辺りに転がる死体と同じく死に絶えたのだろうか。

 不意に足を掴まれた。見下ろせば、死体に違いないと思っていた人間がセペフルのくるぶしを握っていた。その人間は顔が半分潰れ、胸や腹のあたりからも多くの血を流し、もう長くはなさそうだった。怯えた目でセペフルを見ている。セペフルは屈みこんで、その人の手を取った。もうそれしかできなかった。「あなたの最期までこうしていましょう」倒れた人は安心したように息を吐くと、瞼を閉じた。セペフルはその人の手が、周りの炎を受けても冷たくなるのを待って、手を離した。

 立ち上がってからセペフルは呆然とした。もうどこに行けばいいのかわからなかった。そこに一騎の騎兵が通りかかって、笑いながらセペフルに何事かを言った。刀を持っていない方の手で懐を数度引っ張って見せる。それで手持ちの金を出せと言っているのだと理解できた。

「そんなもの持っていないよ。殺すなら殺せばいい」

 それは伝わったらしい。騎兵はセペフルに刀を振るおうとした。殺せばいいとは言ったものの、咄嗟の恐ろしさに思わず頭をかばって座り込む。すると、別の少年の声がした。何を言っているかはわからない。だが、誰なのかはわかる。シャンギヤンだった。セペフルは頭を抱えたまま、声のする方を覗く。

 シャンギヤンは髪を炎に白銀に輝かせながら、遊牧民の騎兵に何事かを言っていた。騎兵は唖然とした様子で刀を収め、馬上から降りてシャンギヤンに跪いて何かを言う。白銀の少年は首を振り、セペフルに歩み寄ってその腕をとらえると、彼を優しく立ち上がらせた。

「シャンギヤン、君は」

「行きましょう。ここももう終わりです」


 草原の博士、アクジャバ・バクシは。

 アクジャバの目の前で、サハルが父の死体に取りすがって泣いている。彼の前で、タスハリは既に動かぬ人となっていた。タスハリの右目には矢が刺さり、恐らくその傷は脳にも届いていた。アクジャバはその死体を見つめている。タスハリの右目がかつて見た通りになったというわけだ。アクジャバは空虚な闇のようになる己の心の内を悟る。しかし、彼にはやらなければならないことがあった。

「サハル様、お立ちください。兵を率いてオルホジャに帰りましょう」

「バクシ! 父上が命を落としてまで手に入れた王都を捨てろと言うのか」

「ハンの長子でいらっしゃるなら、よくお考えを。サハル様もオルホジャに残られたままのサハルタイ様も、いまだ正統なハンではいらっしゃらない。一旦オルホジャに戻って足場を固めなければ部衆が割れます」

 サハルは唇を噛んで、それに反論しようとしたのか懐の印璽を取り出す。そして「あっ!」と叫んだ。サハルの手の中を見れば、翡翠で作られたバイダルガン・ハンの印璽は真っ二つに割れていた。それを見て、アクジャバは思わず場違いにも笑いそうになった。自分が彫った、偽りの印璽が時をはかったかのように割れている。彼が作り出した物語の終焉だった。

 盛んに燃え上がる炎が風を起こし、物語の最後の名残を彼に見せる。

 光の輪を戴いて草原を馬で駆けるタスハリの姿を。

 髪を汗ばんだ額に張り付かせて仰いだあの天幕の骨組みを。

 二人の子どもを肩に乗せて冬の野を回るタスハリを。

 大天幕の中でタスハリが撫でる刀を、そして自分の脚に落ちる涙を。

 平原を埋め尽くす王都軍の屍の中に立つタスハリを。

 そして、アルダーグの中に消えて行くタスハリの背中を。

 アクジャバは瞼を閉じると再び開け、印璽を持つサハルの手を包み、握らせる。

「もうその印璽はいりません。我々はお父上の名前で新たな印璽を作ることができます。しかし、その持ち主も新たに決めなければならない。戻りましょう、オルホジャへ」

 サハルは戦場で果敢な彼らしくもなく泣きそうな顔をした。しかし「わかった」と言い、サハルの号令が部衆に伝わっていく。その声と声の狭間で、アクジャバ・バクシは再びタスハリを見る。

 皺の寄った顔、無数の傷、潰れた目玉。かつて二人が出会った頃のタスハリはほとんど見る影もない。しかし、アクジャバの目にタスハリはいまだ美しかった。



 草原の民が王都から引き揚げていく。アルダーグを燃やした炎はひと月の間消えることがなく、後には掛値なしの灰燼が残った。その灰燼の中を二人の少年が行く。一人は歩きながら泣いて、一人はその後ろをついていく。セペフルとシャンギヤン。泣いているセペフルが到頭膝を折り、地に伏した。哭泣が漏れては消え、また漏れる。

「父上も死んだ、母上も見つからない、都もなくなった、もう何もない」

 彼の前に白髪のシャンギヤンが膝をつく。

 シャンギヤンは己の髪のことを考えた。そしてひそかに彼の故郷と養い親のことを考えた。王都の空にはいまだ黒雲のようにハゲタカが集まっている。黒く焦げた道を歩いて、死体に出会わないことはなかった。

 自分はいつまで滅びに立ち会うのだろうか。きっと死ぬまでなのだろう。ならば、もうどこにも行くまい。ここを離れないようにしよう。この滅び去った都に己の骨を埋めよう。この滅びと共にこの生涯を終えよう。そう考えてから、泣き続けるセペフルの顔を上げさせ、その頬を両手で包んだ。そして彼の顔を真っ直ぐに見つめる。生まれた時を除いて、決して泣いたことのなかったシャンギヤンの目から、不思議と涙が零れた。だが、それも一筋だけだった。彼は、彼の言葉で双子の弟に語りかけた。

「ええ、すべてなくなりました。やがてここは野に帰るでしょう。都の庭師も全て失せて、あのペグナーズの花を抜く人間すらいない。ここはいずれ花に覆われます。強く香る、薄紅色の美しい花が都の跡を覆います」

 セペフルは、己の姿を映すシャンギヤンの瞳を見て、また一筋涙を流した。シャンギヤンは微笑む。

「私たちだけがそれを見ることが許されます。滅びの後に立つ私たちだけが」

「シャンギヤン……」

「花が咲くまではまだ間がありますよ、坊ちゃん。何をして暮らしましょうか、この滅び去った世界で」

 セペフルは自分の力で座ると、腕で目を拭った。目元を赤く腫らして、それでも双子の兄を見上げた。口を開く。

「シャンギヤン、君の話を聞かせて。今度は君の話として」

 シャンギヤンは穏やかに頷いた。

「いいですよ。どうするかはそれから決めても遅くありませんね」

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