ギヴ

 武官のギヴは明け方に書状を受け取り、急ぎ宮中に参上した。そこで、オルホジャの趨勢を知らされ、急ぎ軍を率いてハンを討ち取って来るよう命じられた。ギヴは玉座の間から出て、指先が震えているのに気付いた。武者震いだと言い聞かせた。ギヴとて長らく戦場に出ていなかった。

 だが、宮殿の外の柱の陰に入ったところで、自分が震えていたのは、そんなことが理由ではないと気付く。嫌な感覚がした。負け戦特有の全身を取り巻いてくるような感覚だった。頭では負けるはずがないと思っている。自分が率いるのは王都の精鋭軍である。これで負けるならどの戦だって負けよう。だが、胃の底で、自分をこれまで生かしてきたものが「違う」と言っている。剣一つ持たず、猛虎の巣穴の前に立っているかのような、そんな感覚がする。

 しかし、ならばどうする? 地方から兵士をかき集めて、手勢を二倍、三倍にしてもらうか。胃の底は、それでも変わらないと言っている。では、断るか。陛下に王都での決戦を提案するか。しかし、ギヴの胃の底は、あろうことか、それでも足りないと言っている。ギヴは柱の陰で愕然とする。いつの間にこうもどうしようもない状況になってしまったのか。

 ギヴは彼が背後にしている柱にかつて這っていた黒蛇を思い出す。あの黒蛇を見た時から、何かの箍が外れた気がした。しかし、あの黒蛇があそこまで肥え太り、長々と育つには相応の時間があったはずなのだ。では一体、どこから間違っていたのか。

 そこまで考えてギヴは頭を振る。今となっては事態の根本を探っても、もう意味がなかった。今は戦術を考え、練兵場に向かい、兵士たちに命令を伝えるのが最善だった。ギヴはかつて黒蛇が巻き付いていた柱の陰から去る。

 ギヴが屋敷に戻ったのは三日後の夜更けだった。妻も、二人の息子も、武装したギヴに驚いていた。動揺しながらも中に入るよう促す妻にギヴは首を振る。屋敷の外と中とに分かれて、家族は対話する。「数日中に、オルホジャへの遠征軍が進発する。俺が指揮を執る軍だ」そう言って、ギヴはまずセペフルを見た。

「セペフル、母さんを頼んだぞ」

「……はい父上」

 次いで、白髪の、血の繋がらない息子シャンギヤンを見る。

「シャンギヤン、お前にはセペフルを任せる。お前がいるなら安心だ」

「はい、父上」

 最後に妻の顔を見る。

「行ってくる」

「――はい、ご武運を」

 ギヴは三人の家族に見つめられたまま、屋敷の中に入ることなく、身を翻す。もう後ろを振り返るつもりはなかった。屋敷から離れ、宮殿へと歩き出したところで、後ろから声が掛かった。駆け出してきそうなセペフルの声だった。

「父上ー!」

 ギヴは足を止めそうになって、強いて歩み続ける。戻れば、戦に出る前の戦士として柔弱になるのではないか。或いは、言うべきでないことを言うのではないか。これが今生の別れであることを、悟られるのではないか。それは己の立場から避けるべきだった。

 父上ー!

 ギヴは、この武官は、最後まで振り返らなかった。



 オルホジャからアルダーグに馬で二日進んだ平原で、ギヴは胃の底の確信と向き合う。夜明けからオルホジャの騎馬軍団と戦って、王都から率いてきた手勢は全軍総崩れだった。オルホジャの軍勢は精強だった。統率の取れた騎馬軍団は、ギヴが思い描いていたよりも遥かに自在に戦場を駆けた。そして、向こうの指揮官―恐らくハン―は、まるでこちらの動きが予めわかっているような指示を出して、彼の手勢を動かしていた。

 だが、それよりもまず、ギヴの率いる王都軍があまりに鈍重だった。騎兵と歩兵の差があるとはいえ、それ以上に指示があってから満足に動くまでが遅すぎた。ほとんど訓練通りの動きにもならず、それは日頃の訓練が明らかに足りていなかったことを示していた。そんなわけがないのに、とギヴは思う。己がずっと見ていながら、どうしてこんな有様になったのか。

 そして、もうもうと砂埃が立ち込める戦場の中、一呼吸にも満たない圧縮された思考を経て思い当たる。隊列の乱れを生んだ新兵を見逃した瞬間や、その他の似た瞬間を。それは、一つ一つは命取りにならないように思われる、小さな看過だった。

 王都軍は右翼の展開も左翼の展開も間に合わぬまま、縦横無尽に駆け回る騎兵に翻弄された。オルホジャの軍勢は果敢だった。とりわけ先頭にいた二人の少年が突出し、手本となっていた。戦場で先頭を走るには随分と年若い。きっと、ハンの血族なのだろう。しかし、もうそれを確かめる必要もなさそうだった。

 空まで舞い上がる砂塵の中、馬と歩兵が入り乱れている。盛んに射かけられる矢と、白く閃く刃によって噴き出た血が、空気を赤く染め上げているようだった。もう、ギヴの指揮も届かなかった。そして、指揮したところでどうなるでもなかった。負け戦だからと撤退するには、敵が速すぎた。

 最後の戦いだと観念したギヴは剣を振るう。その唸りは空気を裂き、次いで敵とその馬の体を割いた。一騎一騎打ち倒し、刃は次第に毀れていく。ギヴが剣を振り下ろし振り払うたび、血潮が流れ、赤黒く大地を汚した。

 やがて、ギヴは頭の上から爪先まで血に濡れて、それが自分の血か敵の血かもわからなくなった。ギヴの身体の下に血の溜まりが広がり続けている。重くなった剣を両手に敵を探せば、そこにまた波紋を描いて新たな血潮が加わった。


「俺は武人であるから、家庭は持たないのだ」

 もう十七年も前のことである。木漏れ日の中、小川のせせらぎを見ながらギヴがそう言うと、水汲みに来た娘は口元に手をやって笑った。その悪戯っぽい、しかし清らかな感じのする笑みは、彼にとって見慣れたものだった。

「それなら、どうしてあなたは時折ここに来て私と話してくださるのですか?」

「それは――」

 ギヴは言葉に詰まり、小川の方に視線を移した。彼の耳にはしばらく、せせらぎの音ばかりが聞こえた。それに柔らかな声が加わったのは少ししてからだった。

「ターリークの神話に出てくる勇者たちは皆女性を愛していますよ。愛ゆえに武勇が傷つくことはないのではないですか?」

 ギヴは娘を見た。彼の考えを貫くのであれば、決して見てはならなかったのに、見た。いや、見なかったとて同じことであったろう。娘の言うことはまったくもって正しかったのだから。彼は二年後、息子を抱くことになる。その武人は息子を抱きながら低く唱える。

「俺の刃が鈍らぬように」

 妻はまた笑って、「勇者たちにも息子はいますよ」と言った。

「それに」

「なんだ」

「あなた笑ってらっしゃいますよ」

 ギヴは唖然とした。無骨な指で顔をなぞる。初めて、自分がどんな顔をしていたか知った。赤ん坊の手の平の上に指を置くと、小さく握り締められて驚愕した。妻にそのことを言うと、「大体どの赤ん坊もそんなものではないでしょうか」と笑われた。そうなのかもしれなかった。だが、ギヴは、子どもを持つなど自分に似つかわしくないと考えていたこの男は、自分の子どもに受け入れられた気がしたのだ。

 ギヴは兵営にいることが多かったから、あまり家には帰らなかった。しばらく振りに家に帰ると、子どもが寝返りをうてるようになり、次に会った時には自分で座っており、つかまり立ちをしており、歩いており、ギヴに対して人見知りをして泣き出した。その変化にうろたえるギヴをやはり妻は笑って見ている。彼女には昔から何もかもお見通しのようだった。

 やがて子どもが言葉を話すようになると、ギヴはこの思いもかけないことを言ってくる未知の生きものに更に戸惑うようになった。しかし、その分、多少父親らしいこともできるようになったのだと思う。セペフルと名付けたその子どもを最初に港に連れて行ったのは彼だった。

 数年を経て、ギヴが遠征先から白髪の子どもを連れ帰って来た日、育ててよいかと妻に聞けば、妻はギヴの肩に頭を乗せ、「いいに決まっているじゃありませんか」と柔らかに囁いた。

「だって、あなたはもう父親の顔をしていらっしゃる」

 ギヴはまた指で自分の顔をなぞった。その時、自分は、自分が思っていたような人間ではなかったのだと悟った。きっとそれは良くも悪くも。


 血に濡れたギヴは平原に膝をつく。どういうわけか、身体が重過ぎた。ふと、顔を上げると、精悍な一騎が、横に二人の少年を従えて、ギヴの前に立っていた。馬の乗り手は美々しく武装し、少年たちとよく似た顔をしていた。ああ、やはり親子であったか、と思う。馬上からやや訛りのあるアルダーグの言葉で声が落ちてくる。

「誉むべきかな、アルダーグの将。お前一人に何人討ち取られたかわからない。遠く離れた俺の目にも、お前はまことに勇猛だった」

 気付けば、もう辺りに戦いの音はない。ただ延々と鎧を着た死体が敷き詰められて、その間を馬が行き交っている。ギヴは己の生涯の最後に、最も凄惨な敗北を目にしているのだと悟った。馬上の男は、馬から降りると、ギヴの目前に立った。

「その傷ではお前はもうすぐ死ぬであろう。お前のような勇将を配下にできぬとは、俺にとっても不運なことよ」

 総身血に塗れたギヴは、戦場の景色から視線を外し、俯いて微笑んだ。

「傷がなかったとて同じこと。俺にもあなたのように、二人の息子がいる」

「そうか。俺もお前も幸せ者だな」

 ああ、そうか、俺は幸せだったのか。ギヴは初めてそう気付いた。あの時、屋敷に帰ったあの夜、なぜ自分は屋敷に入って妻と息子たちを抱き締めなかったのか。今となっては、それだけが悔やまれた。自分の生涯とは一体何だったのか。

「誉むべきかな、アルダーグの武人、アルダーグの父。お前の勇姿はこのタスハリ・ハンの目にしかと焼き付いた。安らかに眠れ」

 ギヴは敵のその言葉を聞いて、自分というものが天と地にほぐれていくのを感じながら、地面に崩れ落ちる。そして、二度と目を開けなかった。


 タスハリは傍らに控える二人の息子を呼ぶ。

「サハル、サハルタイ」

「は」

「お前たちは目の見えない仔犬のように果敢に戦った。父の誇りである」

 サハルとサハルタイは父の前に膝をつく。

「光栄にございます」

「サハルに命じる。俺と共に来い。このまま南西に向かい、アルダーグを陥とす。バイダルガン・ハンの印璽はお前に預ける。サハルタイに命じる。お前はオルホジャに残り、いまだ草原に残る部衆を守れ」

 サハルタイは顔を上げた。

「そんな父上、私も行かせてください。私も父上と戦いとうございます」

「サハルタイよ、誰かは部衆を守らねばならぬ。俺はお前もサハルも等しく誇っている。ゆえに、お前とサハルに等しく重要な任を与えるのだ。それをよく考えよ」

「は」

 タスハリは南西のかた、アルダーグのある方角を見る。決して後ろは振り返らない。後ろを振り返らぬまま、背後に幽霊のように立つ男に命じる。

「アクジャバ、お前は俺に付いて来い」

「はい」


 ファルザードは玉座で紙巻を広げる手が微かに震えているのに気が付いた。王都の精鋭を率いたギヴが負けた。ハンの軍勢がこちらに向かってくる。ファルザードの君主としての直観が告げている。

 アルダーグは陥ちる。ターリークは終わる。

 ファルザードと側近だけどこかの街に軍隊と共に落ち延びて、仮の朝廷をつくるか? そうして王国の存続だけでもはかるか? まさか。そんなことをしても、オルホジャの遊牧民は迫ってくる。ここで勝てない戦には、どこに行っても勝てない。それに、そんなことをすれば隙を窺っている西の豪族たちも反旗を翻すだろう。そうなれば、この国土に数十年では消えない混沌が生まれる。

 では、どうせ陥落するとわかっているなら、無血開城をした方がまだよいのか。そうして、あの遊牧民たちに無傷のアルダーグを明け渡すか。しかし、各地で掠奪を繰り返しているあの遊牧民に自らアルダーグの門を開け放てばどうなるか。戦う兵士がいようがいなかろうが、虐殺と強奪が繰り広げられるのは目に見えている。無血開城しようが結末は同じこと。戦うしかないのだ。負けるとわかっている戦を、己の直観が否定する一縷の望みにかけて戦うしかない。

「陛下、いかがなさいますか」

 王宮にいるほどの大臣たちは皆集まって、ファルザードの前に跪いている。ファルザードは冷ややかに命じる。

「死守せよ」

 大臣たちは身じろぎ一つしない。だが、ファルザードには彼らが動揺している空気が見えた。ファルザードの命を異としている。この期に及んで正しい命などもはや存在しないというのに。ファルザードは口の端を上げた。そうして己を嘲笑した。稀代の名君と称えられていた王が、こんな景色を見るほどに落ちぶれたのだと、そう自らを嘲笑した。

 だが、それも一呼吸の間にやめて、王都守備軍の将を除いて大臣を下がらせると、将軍と直に話し始めた。いつまでも、どこまでも抗わなければならない。この王国がある限り、己はこの王国を存続させるために抗い続ける。なぜなら、己はそのためにこの玉座に座っているのであるから。


 セペフルとシャンギヤンは涙に暮れる母の前に立っている。母の前の机には、黒衣の使者によって届けられたギヴの訃報が広げられ、数日を経た今もなおそのまま置かれていた。セペフルは椅子で顔を覆う母に一歩近付く。

「母上……」

「大丈夫よ。まだ財産はあるし、陛下から見舞い金はいただけるわ。私たちはまだこの屋敷にいられます」

 セペフルは言葉を失った。自分が聞きたいのは、いや、それにも増して、あなたが語りたいのはそれではないだろうにと思った。シャンギヤンは何も言わない。父の死が伝わってから、シャンギヤンは屋敷の些事はセペフルとともに取り仕切り、判断がつかないものだけ母に委ねた。

 泣き疲れた母が眠ってから、セペフルとシャンギヤンは街に出る。大通りへ、そして港へ。

 ああ! あの繁華だったアルダーグのなんと色褪せていること。いまだこの都に馬の蹄一つ及んでいないというのに、人々の顔は薔薇からサフランに。人通りもまばらに、店は閉ざされ、港に異国からの船はない。その光景に、シャンギヤンが唇を噛んで震えている。その肩を、セペフルが抱いた。どうしてよいかわからなかったが、それが傍らにいる兄へできるせめてものことだった。

 セペフルは自分の顔もきっと血の気を失っているのだろうと思う。そうして二人、膝から頽れそうになりながら歩く傍ら、路傍に咲く薄紅色の花を見つけた。ペグナーズ。かつて、この花を道で見かけたことはなかった気がするのに、こんなに人目に露わな場所に咲いている。セペフルがその花を抜くと、強い風が吹いて、辺りに花弁と花粉をばらまいた。強く、花が匂っている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る