ファルザードⅢ

 アルダーグの宮中の中庭、そこをファルザードが過った時、彼の上を雲が通り過ぎていった。ファルザードに束の間影がかかって、再び陽が差す。ファルザードは足を止めて空を見上げた。

 ――おお、栄えあるお方、その頭上には雲も塵埃もかかりませぬ。

 何度言われたかわからないその世辞を真に受けたわけではない。ファルザードとて人なのだから、雲だろうが塵埃だろうが、かかるときはかかる。だが、何か厭なかかり方だったと思った。まるで、わざわざ身の程というものをファルザードに教えるために来たような雲だった。

 ファルザードはやや思案すると、玉座の間に戻り、大臣を三人呼び寄せた。すぐに三人集まり、ファルザードの前に跪く。ファルザードは玉座の上から低く命じた。

「ターリークの中の全ての地方衙門と西の豪族たちに臨時で査察を入れよ。周辺の情勢から財政に至るまで隈なく調べさせよ。査察にあたって経験の浅い者は使うな。五年以上勤めた者のみ選び任にあたらせよ」

 三人の大臣は一斉に顔を上げた。

「お待ちください陛下、査察は年に二回と決まっております。もうこの秋にも行いました。今再び査察したところで、何も新しいものは出てこますまい」

「続けて申し上げます。地方衙門はともかく、西の豪族をこうも頻繁に査察しては、豪族たちの機嫌も損ねましょう。朝廷からの干渉は最低限にするというのが彼らとの取り決めにございます」

「続けて申し上げます。我々は査察は年に二回として人員を配置しております。臨時で査察を行っては通常の業務にも支障が出ましょう。しかも、今回は経験の浅い者を使うなとの仰せ。人手が足りなくなるのは目に見えております」

 ファルザードは三大臣を見下ろしている。その態度には些かの揺るぎもない。

「一つずつ答える。再び査察すれば新しいものは出てくる。必ず。秋の査察で見逃していたものを明らかにした場合には、その者に金貨二十枚の恩賞を取らせる。豪族に関しては今回多少腹を立てさせても仕方がない。査察をされたことのみで反乱を起こしたという例を余は知らない。平常彼らをどう遇するかの方が余程肝心である。人員については、各衙門で不足する数を改めて奏上せよ。別途よきよう取り計らう。査察は急ぎ年内に始めよ。火急である」

 三大臣は深々と頭を下げた。何か言いたいことはあるようだったが、敢えて奏上しなければならないほどのものでもなさそうだった。彼らとて不満はあろう、とファルザードは思う。だが、やらなければならないものというのは確実にある。ファルザードの直観が告げている。何かがおかしかった。


 査察は年を跨いで三ヶ月かけて行われ、奏上が陸続と奉られた。そして、ある日ファルザードは、オルホジャの草原に接する地方衙門を査察した奏上を目にすることになった。オルホジャでは、九つあった部が全て一つの部に平らげられ、ハンが現れたという。

 ファルザードは戦慄した。オルホジャの状況それ自体もそうだが、なぜ、そうなるまで自分の元にはそれを告げ知らせる文一つ届かなかったのだろうか。その地方衙門の怠慢だけでは説明がつかない。これまでの査察官も、中央でそれを監督する者も、全て異状を見逃している。

 中央でそれを監督する立場にあった者を調べて、ファルザードは嘆息した。前任はダーラーだった。狂ってしまい、自分の宝物庫から宝物を掠め取っていたあの男。かつてのダーラーは側近だった。平民の出ながら、抜群の才覚でのし上がって来た。そう、こんな事態に気付かないはずがなかった。かつての彼であれば。

 まだダーラーがそこまで高位になかった時、別の臣下から受け取った帳簿をファルザードが確認して、ダーラーに戻した。彼に再度確認させようとしたのではない。単にそれぞれの官衙に運ばせようとしたのだ。すると、ダーラーは、ファルザードの目の前で下から三つ目の帳簿を取り出して、いくつか紙をめくると、「陛下、ここの数字が違います」と言った。ファルザードが改めて帳簿を見ると、確かに全体の辻褄が合わなかった。無論ファルザードとて並みの君主ではないから、本職の役人よりも遥かに目敏く確認している。だが、その彼でも見逃していた錯誤だった。

 しかもそれはダーラーが属しているのとは別の官衙の帳簿だった。その上、ダーラーは帳簿の山をファルザードから渡されたに過ぎない。前もって見ているとは考えられなかった。ファルザードがなぜわかったのか聞くと、ダーラーは目礼してから「数字にせよ、文面にせよ、事実とずれていれば臭いますので」と言った。

 ファルザードは驚くということがほとんどない君主であったが、この時は驚いた。この文官には相応の地位を与えなければならないと思った。そこで、ダーラーの位を二つ上げて、側近くに仕えさせた。ファルザードのみで秘する必要のあるものを除き、重要な文書はすべてダーラーに見せた。すると、驚くほど的確に誤りや虚偽を指摘した。彼が職掌とすることをファルザードが下問すると、その受け答えも当を得たものだったので、ファルザードはダーラーを厚く信頼していた。その関係は長い間続いていたのだ。しかし、いつ頃からか、ダーラーの身の回りに厭な雰囲気が漂い始めた。

 ダーラーの盗みが発覚した際、捕らえられたダーラーは支離滅裂なことを述べた。そこには、かつての才覚は見る影もなかった。重臣はみなダーラーを殺せと言った。死罪にさせたとて、誰一人異議は唱えなかったであろう。だが、ファルザードはダーラーを殺さなかった。ファルザードはまだ彼の手元にあった宝物を回収し、彼の職任を解き、官衙から追放するに止めた。それは慈愛の故にではない。宝物庫の番人は二人とも殺した。ただ、ファルザードにはわからなかったのだ。一体何が起こったのか。

 別に宝物庫から盗まれて困るものなどたかが知れている。他国との儀礼で使うものや、他国からの贈り物を除けば、ほとんどどうでもよい。だが、ダーラーが欠けるのは痛かった。こんなつまらないことで、側近を失うことになろうとは思っていなかった。実際こうしてできたほつれが、取り返しのつかない穴になるまで、放置されることになった。ファルザードは決して途切れることのない霧に包まれている。

 寒かった。どこぞ、宮殿に穴でも開いているのかと妄想するほど、寒かった。実際にはこの白亜の宮殿に穴など開いているはずがない。穴が開いているのは、この王国だ。自らの王国、ターリーク、それに無視しきれぬ綻びが出ている。

 ファルザードは他の地方を査察した奏上にも目を通す。どこも、嫌な気配が漂っている。西の豪族たちも表向き恭順を装いながら、隙を窺っているような気配がある。この王国は表面上は、いまだ繁栄の最中にあるように見えた。だが、ファルザードは、見事な柘榴が内は無数の虫に巣食われている様を幻視した。

 どうしてこうなった? そして、いつから? ファルザードには、この名君には、事ここに至って思い当たる節がない。何が起きているかわからないまま、彼の王国は崩れ去ろうとしている。

 とにかく、オルホジャのことは誰かに調査させなければならない。何が起こっていたか究明しなければならない。いや、事態は最早そんな段階ではない。オルホジャに急ぎ兵を送り鎮圧させねば、アルダーグにまで至る禍根になりかねない。指揮官は歴戦の武官ギヴが最も良いだろう。彼以上によく軍を指揮できる人間はいないように思える。そこで、ファルザードに疑念が走る。

 ギヴは信じられるのか?

 ファルザードは奏上の紙を掴む。決して消えることのない無数の皺が刻まれる。ファルザードは己の中の焦慮をどうにか冷ます。ギヴはまだ何もしていない、はずだ。この火急の際に、これから大軍を任せようという将軍を疑うのか? 馬鹿な。信じるほかない。人を信じられなければ国政はできない。

 ファルザードは控えていた下官に書状を預けると、幾分白みはじめた夜闇を走らせた。深々とため息をついて、その場を後にする。もうしばらくすれば夜が明ける、そんな時間だった。彼はまた朝から玉座につく。強いて眠らなければならなかった。

 そうして、宮殿を移って、セビルのいる部屋まで行った。糸杉の女は久方振りのファルザードの訪れに瞳を輝かせているように見えた。ファルザードは上衣を床に落とし、ほとんど幽鬼のように彼女に近付いた。

「眠らせてくれ。何もしないでくれ」

 セビルは微笑んで、ファルザードを寝台へ促した。明かりの落ちた部屋で、ファルザードは横に寝そべるセビルを抱く。それでもここは寒過ぎるように感じた。セビルはファルザードの腕の中で、身動き一つせず、ただ優しく囁く。

「清らかな水のみ飲まれるお方。陛下の上に不運の風は吹きませぬ。何も懼れる必要はないのです。陛下の望まれる時はいずれ必ず訪れます」

 ファルザードはその言葉をほとんど聞き取らない。ただ麝香の香りの中で眠りにつく。夢は見なかった。

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