母子

銅座 陽助

第1話


 「箱、ですか」

 寄木細工職人・木栖きす葉子ようこの問いに対して、目前の老翁は深く頷いた。


 「左様さよう。しかしただの箱では御座いませぬ」

 老翁が懐から取り出したのは、一葉の写真だった。

 ポラロイドカメラで撮られたような、少し古ぼけた小さな写真。其処そこに写っていたのは、どこか不気味な印象を受ける、鈍色に光る一本の鍵であった。


 「れを容れる箱を、造って頂きたい」


 カナカナと蝉の声が五月蠅うるさい。傾いた西日が、工房の薄汚れた窓から差し込んで来て、麦茶の入ったグラスに反射して、ひどく眩しかった。


 「この鍵、を仕舞う箱でしょうか。写真では細かい寸法が分からないので、実物を見たいのですが」

 木栖がそう聞くと、何が可笑しかったのか、老翁はカカカと笑い始める。


 「いいえ、いいえ。木栖さま、中に入れ込むのは鍵ではありませぬ」

 「では、何を?」

 「写真に御座いまする。こちらの、鍵が映った写真を容れる箱に御座いまする」

 鍵そのものではなく、鍵を撮った写真を容れる箱。寄木細工職人として幼少の頃から修業を積んで来た木栖の経験が警鐘を鳴らしている。


 深く関わらない方が良い案件だ。


 申し訳ございませんが、と、断りの言葉を紡ごうとして、ほんの僅かに身を前にせり出した、次の瞬間だった。


 「勿論、報酬の方は十全に用意させていただきます」

 木栖の出鼻を挫くように放たれたその言葉と同時に、老翁の懐から厚い紙の束がばさりと零れ出る。


 一つ、二つ、三つ……


「五百万、お渡しさせていただきます」


「ご、ごひゃっ……」

 喉まで出かかっていた言葉はあっという間に吹き飛んで、情けない声だけが出た。

 もともと商品の特性上、単価や依頼料は高めな部類の仕事ではあるものの、それでもせいぜい数万、特注の立派なものでも十数万程度が、これまで木栖の扱ってきた取引の規模感だった。


 それが、五百万。


 木栖が丸一年働いてもなお届かないような金額が、目の前に無造作に転がっているのである。木栖は思わず息を呑む。口の中が渇き切って、トンネルのようなゴウゴウという音が耳元でうるさく鳴り響いている。正座をして座っているはずなのに、足元がぐらぐらと回っているように感じる。目前の老翁の口元が歪むのが視界の端の方で見える。目の前の札束から、五百万円から目が離せない。それでも、こんな大金を提示してくるからには、やっぱりなにか怪しい依頼に違いないという、か細い理性に何とか縋り付いて。これは私の身に余る話です、どうか無かったことに、申し訳ないがやはりお断りさ

 「れは前金です。完成のあかつきには、もう一千万円を。如何いかがですか」


ぐるり。


 一千万円。木栖の人生ではおよそ縁の無い金額。いったいどれほどの金額なのか木栖には直感的に見当をつけることが出来なかったが、さっきの五百万円とは桁が違うことだけはおぼろげながら理解できた。五百万円ですら大金だったのに、一千万円。それだけの金額が、普通に仕事をしているだけでは到底お目にかかれないような単位の金額が、木栖に支払われるために用意されている。いつも通りに箱を一つ作るだけ。それだけで、そんな途方もない金額が手に入る。

 冷静になれ、冷静になれ、木栖。そんな大金がほいほいと転がり込んでくる、美味しい話があるわけがない。きっとなにか裏があるに違いない。この話からは手を引くのが賢い生き方だ。そうに違いない。


 落ち着け、断れ。そう叫ぶ思考の片隅に、ぼそりと、黒い塊が囁く。


 だが、それで良いのか? 一生私はこの狭い工房で暮らすのか? 注文が安定すらしない、一件数千、数万の仕事を何度も何度も、何度も何度も何度も何度も受けて、死ぬまでこれを作って生きるのか? 明日の食事にさえ怯えながら、いつ注文が絶えるのか、いつ身体が動かなくなるのかに来る日も来る日も怯えながら、私は生涯をこの畳の上で終えるのか? 想像しただけで恐ろしいだろう。そんな恐怖、一生続く地獄のような螺旋の恐怖に、毎夜毎夜とうなされる生活を送っていていいのか?

 いいや、木栖。それで良いはずが無い。言ってしまえば、これは無作為に転がり込んできたチャンスに違いない。前金の五百万、なにか間違ってもそれだけは絶対に手に入る。向こうはこちらがこれまで作ってきた作品を格別に気に入っているような、私の熱心なファン、購買層というわけでもない。この案件が私のところに流れ着いたのは完全な偶然、いや、私のこれまでの行いが良かったからに違いない。“幸運の女神には前髪しかない”。このチャンスを掴まずして何が成功だ、何が大成だ。大口の依頼を受ける勇気もない人間に、次のチャンスなど回ってくるはずが無いのだ。そうだ、こんな依頼をしてくるのだから、この客はさぞかし金を持っているか、あるいは金を持っている人間の使いに違いない。金を持っているということは、権力も、人脈も持っているに違いない。私の作品がこの依頼主に気に入って頂ければ、その評判を聞いて新しい依頼が次から次へと舞い込むに違いあるまい。あるいは、その中に有名なディレッタントなんかが居て、私の作品がなにか有名な賞なんかにノミネートされて、さらなる依頼が、さらなる、さらなる…………


 「受けます、受けさせてください、私が受けます! 絶対に、私が、私が!」


 「左様で御座いますか、いやはや、良かった良かった」

 だん、と机に手を突いて身を乗り出し、唾液が散ることもいとわずに叫ぶ。今日この時という千載一遇のチャンスを、みすみすと逃すわけにはいかなかった。老翁はそんな私を見て、仏のような笑みを浮かべて、一枚の名刺を机に置いた。


 「わたくし共の連絡先で御座います。箱が完成しましたらご一報ください」

 それだけ言い残して、あとはすくりと立ち上がって、玄関の方から出て行ってしまった。


 木栖はしばらくの間、あっけにとられたように固まっていたが、机の上を眺めてみれば、例の札束が置きっぱなしになっている。

 むんずと一つを掴み取って、ぱらぱらと捲ってみても、福沢諭吉、福沢諭吉、福沢諭吉。薄茶色の紙帯に覆われた福沢諭吉の山が、きっかり五つ置かれている。きちんとは数えていないが、あの老翁が言っていた通りの五百万円が、机の上に無造作に積まれているに違いなかった。


 木栖はしばらく卓上の小さな塔を眺めて、それからはっとしたように玄関に駆け寄って、しっかりと鍵を掛けた。それから札束を急いでかき集めて、食器棚の奥の方から黒い鍵を取り出して、急いで箪笥の最下段にある、鍵付きの引き出しの中にその札束の悉くをしまい込んだ。

 引き出しを戻して鍵を捩じり、かちゃりと音がして、錠前からそっと鍵を引き抜く。それから引き出しを数度引っ張ってみて、確かに鍵が掛かっているのを確認して、ようやく木栖は安堵のため息をついた。


 鍵を元のところに戻して、温くなった麦茶を飲む。ぐるぐると回るグラスの中の水面をぼんやりと見つめていて、視界の端にちらと映る、四角い紙に目が止まった。


 “友愛団体「しろがねの薄暮はくぼ」 

    地域長:新野にいの 重蔵じゅうぞう

     TEL:xxx-xxxx-xxxx”


 先程の老翁が連絡先だと置いて行ったものに違いなかった。名刺を信じるとするならば、あの老翁は「しろがねの薄暮」なる友愛団体の、それなりの地位にある人間だということになる。


 「友愛団体、ねぇ」

 思わず声に出る。案の定というべきか、何かしらの団体の人間であるらしかった。

 木栖はスマホを取り出し、調べ始める。

 友愛団体、あるいは友愛組合。英語では「fraternity(フラタニティ)」。中世後期–近世のイングランドにおいて俗人によって自発的に形成され、宗教的機能をはじめとして様々な社会的機能を発揮した友愛の連帯組織。(wikipediaより) 

 現代では専ら労働組合あるいはボランティア団体としての性格を有する組織が多い一方で、かの世界最古の友愛団体がそうであるように、宗教団体あるいは秘密結社としての性格を強く保持し続けるものも存在する。


 「し、ろ、が、ね、の、は、く、ぼ」

 そう検索すると、あっさりとホームページが出て来る。設立経緯などを見るところによれば、元は海外の友愛団体の日本支部が拡大した結果として、独自の名前を持つようになったらしかった。活動内容はボランティアやクラブ活動、奨学金基金といったよくあるものを中心として、全国に擁する支部ごとに独自性の高い活動を行っており、木栖の住む■■県においても、県庁所在地のA市を中心として芸術、文化、その他伝統芸能などに関連した活動を行っていると書かれている。

 「そうしてこの県内においてトップにいるのが、さっき来たあの男」

 地域長・新野重蔵。■■県支部の代表として、あの何とも言い難い顔を軽妙に綻ばせた写真がぺたりと貼られている。

 そんな全国規模の団体の、それも県を統括するような地位にあるような人間が、直々に木栖の下へ足を運んできた。木栖はその事実に、段々と口角が吊り上がっていくのを感じていた。


 それだけ、己の作る作品に価値があるということ。


 正直なところを言えば、木栖の作品に対する自己評価は中の中、或いは謙遜含め中の下といったところであり、事実同業者の中ではその程度の位の腕前であった。一人前の寄木細工職人として十分にキャリアは積んでいる。しかし一個人として特筆するような技量の精緻さ、表現の華やかさといった、プラスアルファとなるものは持ち合わせていない、凡才である。しかしながら地位のある人間がわざわざ自分の工房にまで足を運び、大金を投じて依頼をしてきたという事実は、木栖が己の作品に対して抱いていたそれらの自己評価を改めるには、十二分に過ぎることであった。


 スマホを机の上において立ち上がり、ぐっと伸びをする。

 結局のところ、私に出来ることは、私がやるべきことは、いつもと何も変わらない。寄木細工の箱を作る。十分な報酬の、その一欠けには見合う程度に立派な箱を。


 夕闇が立ち込め始める黄昏の中、木栖は己の全力を尽くすことを誓った。



……

…………

 実のところ、彼女に出来ることはもう一つあった。それは箱を作らないという選択肢であり、或いはこの前金をそっくりそのまま送り返して、約束を無かったことにする選択肢である。

 しかしながら千五百万円という大金が持つ、妖しくも美しき黄金色の魔力にすっかり魅入られきってしまって。とうの昔に皮算用を済ませた彼女にとって、指先に掛かったそれらすべてをどぶに投げ捨てる選択肢なんてものは、その存在すら認識できるはずもなく。


 くして、寄木の箱は完成を迎えた。



……

…………

 「成程、見事な箱で御座いまするな」

 およそ二か月後、工房の中には再びの老翁、新野重蔵が居た。

 机の上には一つの平べったい箱が乗せられており、その表面には極めて緻密で、精妙な、何か不可思議な文様のようにも思える寄木細工が、一切の隙間も妥協も無く施されている。

 その正面には髪の毛を脂と木屑でべたべたとさせ、もう何日寝ていないのか、黒々とした隈を両目に蓄えた、一人の寄木細工職人が座っていた。その両目はらんらんとして光を放ち、呼吸もひどく浅く早く繰り返していて。そうして二か月前とは随分変わり果ててしまった木栖を前に、向かいに座る新野は、何の関心も抱いていないようだった。


 「それでは、こちらは確かに受け取らせていただきます。代金の方は銀行口座に振り込ませていただきますので」

 新野はそう言って両手で丁重に箱を持ち上げ、いつの間にか取り出した白い布ですっぽりと包みこんで、そのまま後ろを向いて、立ち去ろうとする。

 その両肩を、骨ばった二本の手が掴んでいた。

 「おや、木栖さま。これにて取引は終了のはずで御座いますが」

 一切動ずることの無い新野に対し、幽鬼のような様相の木栖は荒い息のまま、ぶつぶつと何かを唱えている様子だった。

 「……せ、……えせ、…しの……、…こ、わた……」

 「何を仰られているのかは何となくわかりますが、そういうわけにはいきませぬ。これは私が依頼したもの。十分な依頼料をお支払いしているはずですから、約束通り、これは私のもので御座います」

 臆することなくそう言って、新野は両肩の手を振り払う。

 「ちが……、……しの、……こ、……しの」

 「いいえ、木栖さま。これは、私の、箱で御座いまする」


 扉を開いて、外に出る。

 後ろ手に閉めた扉の向こうから、辺りを震わすほどの大音声だいおんじょうが響き渡る。

 それは金に目が眩んだ悪鬼の叫びとも、己が子を奪われた母の嘆きともとれるような。


「いいや、これは私の箱だ。私の、私たちの箱に相違あらぬ」


僅かに包みを開いて、蓋の隙間に一葉の写真が差し込まれる。

新野の腕の中で、身動ぎをするように箱が蠢いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

母子 銅座 陽助 @suishitai_D

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ