ブリキケースとラズベリー

nanana

ブリキケースとラズベリー


 放課後。帰り支度の最中、鞄の中で覚えの無い硬質な感触にはてと首を傾げる。作業を中断して、鞄からその手触りの正体を詳らかにせんと、改めて掴み取り出す。

「あー…」

 これか、と。失念していた昨晩の記憶がすっかり思い起こされ、一人納得する。覚えが無いとは全く見当違いも甚だしい話であった。と、そんなこちらの挙動を目敏く見据えていたらしい。背後から軽い衝撃と共に声を掛けられる。

「よっす」

 振り返るよりも先に、背後から回り込み。八木やぎがこちらの前の席に、我が物顔ですっぽりと体を収める。その背には既にリュックが背負われており、滞りがなければ間も無く家路に着くその間際であるのは明らかだった。

「おっす」

 軽く挨拶を返しながら、全く随分物好きな奴だなぁ、と。内心に於いて、その行動原理に思い至る事なく、ただうすらぼんやりとそんな事を考える。

 そんなこちらの胸中なぞは当然思考の蚊帳の外らしく。八木がつい、と。細い指でこちらの手を…正確には、握り掴まれた物品を指し示し、首を傾げる。

「ね、それなに?」

 さして誇示するつもりもなく。大して気を遣った訳でもなかったが。形だけとは言え興味を引いた代物を、わざわざ隠し立てる意味も大して感じず。机の上、八木の目の前に件の代物を置く。


 それは、掌に収まる程に小ぢんまりとした、ブリキの箱だった。


 上蓋に発色の良い、いっそ鮮烈なまでに明るい色調でラズベリーのペイントが施されたケースはしかし、一転して全体に燻みを帯び、古傷やら小さな凹みを伴う事も相まって、若干以上に古めかしい印象を見るものに与える。

 古臭い…一瞥してガラクタと断ぜられてもおかしくないその外観を目の当たりにして。けれども八木は、まるで得難い宝石でも見つけたかの様に、微笑む。

「え、可愛いっ。何これ、本当にどうしたの?」

 ぐぐい、と。八木が顔を近付ける。それで無くとも大きな両の眼を目一杯広げ、食い入る様にケースを見つめる瞳は爛々と輝いていた。その折、強い赤みを帯びた琥珀色の虹彩が視界に映り、やましい事など何も無いというのに、思わず目線を外してしまった。

「あー…昔母親がハンドメイド雑貨に凝ってた時期があって、その時に…」

「え、手作りなのコレ!お母さんセンス凄ー」

 口角は上へ。見る者の表情すら引きずってしまいそうな程、全く無遠慮な程の笑顔。要らぬ事を言ってこの表情を曇らせるのはどうにも憚られたので、取り敢えず押し黙ってみる。と、その表情がパッと切り替わり真顔になる。目線をケースから切り、唐突にこちらへと向けてくる。

「ねえ、このA.Kってイニシャル?」

 目敏い。腹の底でしまった、と呟きながら。咄嗟に上手い事否定もできず言葉を探す。しかし、その労が功を奏するより早く、八木の顔が驚きで彩られた。

「これ、もしかしなくても久世くぜのイニシャルだよね………もしかして」

 隠し立てる必要はない。なんなら、事前に八木のリアクションを見ている分だけ、些か以上の誇らしさまであると言って良い。ただし。それらの感情と気恥ずかしさの様な羞恥というのは、どうにも共存し得るらしく。目線はなんとはなしに逸らしたまま。

「……俺が、作った」

 散々逡巡した挙句。血を吐く様に、口にする。

 一拍。二拍。少しばかりの間を空けて。八木の顔が再び、はっきりと驚きの色を示す。そんな表情のまま、何故だか少し窺う風を見せながら、えらくらしくもなく、おずおずと。

「触っても平気?」

訊かなくたって構わない言葉を、律儀にも向けてきた。行き場のない、正体不明の気恥ずかしさを感じながらも。言葉はやはり、断るだけの理由などあらず。手を軽く振って見せ、了承の意図を伝える。


 八木が、ケースを持ち上げ、改めてその外観をまじまじと眺める。見つめるその目線はやはり強い光を放ち、表情は一層惚けた様な物であった。

「昨日家の整理してたら出てきて。俺はまぁ、必要無いとは言ったんだけど、なし崩し渡されて…鞄の中に紛れ込んでたんだ、けど」

 我ながら。一体何に向けた物なのかも不透明なまま、酷く言い訳めいた響きを有する言葉をつらつらと口にする。そんなこちらの言葉は確かに耳には届いている様で。けれども何某かを言及する訳でも無く、熱心な視線はそのままに、八木は時折うんうんと小さく頷いて見せるばかりだった。

 そして。やはり視線はブリキのラズベリーをなぞるまま。ぽつりと、ほとんど独り言の様に。

「凄いなぁ。久世、こんな素敵な特技があったんだ」

上っ面のおべっかとして受け取る事を許さない、心底からの本音としての響きを孕んだ言葉を口にした。その様子に、ふと。これはしかし余分であるとしか思えぬ考えが頭をもたげる。


 ——いくらなんでもキモい。

 いくら言葉を重ねてくれても、所詮はガラクタの延長。素人が気紛れに塗りたくった落書き以上の価値は無い。実利があるでも、利便に富むでもない以上、この提案はするべきでは無いのだ。

 第一、八木と自分の関係は同級の顔見知り以上では決してあり得ない。時折ふらりと向こうから他愛無い話題を振られ、こちらはそれに応対する。友人とすら言えない間柄にあって、その提案は不自然極まりない。


「あー…………」


 等。堂々巡りに等しい迷妄に溺れながら。その只中にあってしかし、気付けば自然、口を開いていた。

 ブリキのケースを指差し示しながら。

「……要る?それ」

端的に。全く呆れるほど愛想のないフラットな声色で、伝える。…最も。上擦ることなく言葉を吐いただけ、喉元は余程立派に役目を全うしたと評して然るべきではあるだろうが。

 とは言え後悔は早かった。人にくれてやるのなら、せめてもう僅かに見映えする何らかを選び取るべきだったと。

 忌むべき前時代的価値観に基づいて。何とも男らしくないものだと内省しつつ、恐る恐る、外していた視線を八木へと戻す。戻して、息を呑む。


 眼を見開いて、口を固く結んで。それらはまるで、今まさに零れ落ちようとする表情を堰き止めるが如き、不恰好な無表情。一体果たして、どれだけ陽光から身を隠せば得られるのかと言うほどに透き通る白い頬には、先程まで見られなかった淡い桜色が緩く花を咲かせていた。


「え、でもこれ久世が——」

「要らないなら、まぁそらそうだろって話だけど。そもそも昨日の夜まで存在ごと忘れてた代物だし、俺が持ってて何かに使うって訳でもないから」

 今、新たに何かを言われれば。恐らくきっと、己は要らぬ墓穴を掘る。確信めいた感覚に従い、それ以上の言葉を先回りで封殺する。

「持って帰っても、また忘れるのを待つばっかりだろうから、八木が貰ってくれるなら、俺は嬉しい」

 一息に言い切って。言った側から、要らん事を口走った気になって、また頭を抱えそうになる。


「えーーー、っと」

 長く間延びした、吐く息を伴った声の後。曖昧な滑舌のそれと、同じ口から放たれたとは俄かに信じ難い…小さく、けれど驚く程はっきりと聞き取れる言葉で


「——ありがと、大事にする。絶対」


そう、言った。


 尚一層鮮明に、頬の赤みは増している。その色調は、鮮やかなラズベリーの色味に似た。結ばれた口元は解かれ、小さな笑みを湛えている。その姿に、一先ず。自身の顔面に

、ラズベリーとは似ても似つかぬ、到底全く似合もしない茜が指していない事を願うばかりであった。



うたー、まだー?」

 教室の外から飛び込んでくる、女子の声。見やれば外、廊下からこちらを見やる複数人の姿があった。どうにも帰宅前、八木は友人共を待たせてまで、今し方迄の一連のやり取りに時間を割いていたらしい。なるほど全く、物好きな事この上ない。


「——っと、じゃあ、行くね」

 最後まで律儀に。拝む仕草で謝意を示しながら、八木が友人たちの元へと駆け寄っていく。その手にしかと、ブリキのケースを握りしめて。

 と。中途、はたと足を止めてこちらを振り返り。花の咲いた様な満面の笑みで


「久世、また明日ね」


軽やかに歌う様に。一言言い残していった。



 一人取り残された教室で。先程までのよくわからないやり取りと、その只中において向けられた幾つかの表情を反芻する。しながら、ああいう人種が一部の人間の人生を強目に掻き乱すのであろうか等と、我ながら酷い言い草な考えを催す。

 本心がわからない以上、その表情が奥底から湧き出てきた物なのか否なのかを確かめる術はない。故に恐らく、幾つかの挙動は何らかの意図を持って示されたのであろう。…交友関係に不自由ない八木の様な人種が、己の好感を得て何になるのかという疑念は、とりあえず棚上げしておく。

 不用意な勘違いや誤解は、誰のためにもならない。大凡当たり前の話だが、これがどうして中々、そう上手くいかないのが学生の時分。言いたくないが、他の男子相手だったらそれこそ、あらぬ疑念を抱かせかねない挙動だった。今後はまったく、是非控えていただきたいものだ。つまりまぁ、あれだ。




「……アホ程可愛かったな」




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ブリキケースとラズベリー nanana @nanahaluta

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