箱送り

われもこう

箱送り


 時計は深夜の二時を指す。口を閉ざした畳、広間には、心許ない明かりが一つ。人工の光は不自然な白さで闇を追いやる。冷たい太陽の下、長細い白木の箱が一つ。その脇に、黒いスーツをきた男が二人、箱に群がる大人が六人。目をこすりながら母親におぶられた子ども。

 人々の背中越しに、わたしは黒スーツの口元を見る。声は聞こえない。やがて、人々が波のように動き始める。トレイに載った花を、棺の中に入れている。目元を抑える人々。ハンカチを取り出す人々。わたしは、箱の中をのぞく。知らない人、死に顔。


 広間を出る。暗い廊下から、みどりのカーテンを透け、硝子窓を透けて、外へと降り立つ。階段をあがるように、ちいさな町の上空へ。

 家々の窓から漏れたいくつかの光、等間隔に設置されたオレンジ色の街灯。それらは足元にあった。かがんで、指先でふれると、音がした。光は、冷たかった。一陣の風が吹いて、裾がはためいた。わたしは半袖のワンピース一枚で。気ままに夜を泳いでいる。素肌に月光が降りかかる。夜と夜のあいだから、柔らかな歌声が漂う。鼓膜を震わせる。やさしい調べだった。

 夜空を仰ぐ。見上げた月が歌っている。わたしはハミングする。ラララ。いい夜ね。ラララ。間奏には星々の瞬き。いくつものさやかな音が鳴る。幸せだった。

「あの人もじきに来るわ」

「あのひと?」

「さっき柩にいた人よ」

 月はふたたび唄いはじめる。かんたんな詩を覚えて、わたしは一緒に言葉を追う。足元を見下ろす。箱を抱えた人々が、夜の中をてくてくと歩いてゆく。アリのように。上空から見ると、小さな黒い頭が、移動しているように見える。

 土手を越え、川辺につくと、箱は水面へ向かって押し出された。押し出された箱は、揺れながら、黒い川を進み始める。まるでボートのように。箱はいっそ不思議なまでに浮遊しながら、川下へ向かって流されてゆく。

 バラバラと、人が捌ける。月はなおも、唄っている。わたしも、口を動かしたまま。

「あなた、好きな歌は?」

 驚いて顔をあげると、女性がいた。さきほど柩の中にいた人だった。きれいな人だ。長い髪が、銀河のよう。

 わたしは、好きな歌をうたってみせた。曲名はもう、覚えていなかった。女の人は微笑むと、眼下に散らばったあかりで、流麗なメロディを紡ぐ。月の微笑みが深くなる。わたしは、忘れていたものを思い出しそう。遠くで瞬く、かすかな光を、腕をのばして、掴むような。掴めないような。ただ、風がやさしい。

 夜の風は、何色だろう。夜は黒。夜の風は、黒と透明のあいまかな。尋ねたいけれど、目の前の人は愉しそうで、話しかけられない。

「箱につめて送ったの。いちばん幸せな記憶よ。あなたは何を送ったの?」

 指先は動いたまま、言葉とは別にメロディが生まれる。わたしは、魔法のようだと思う。

「うーん」

 思い出せない。思い出せないわたしを見て、目の前の人が俯いたまま、口角をあげる。

「泣いてる。きっとかなしいのね」

「……なにが?」

 頬に溢れた涙が、とぽとぽと町へ向かって落ちていく。

 たしかに、わたしは泣いていた。

 女の人は、手を止めて、顔をあげた。メロディが止む。

 黒々とした瞳のなかに、星影がある。わたしがいる。ああ、わたしがいる。そうだった。わたしはこんな貌をしていたのだった。その人はいたずらっ子のような微笑みを浮かべたまま、俯いて、また光をなぞる。今度は木琴のような音が生まれ出す。器用な人だ。

 夜に塗られたわたしたち、なにもかも忘れていくと知らないで、亡くしたくない大切なものを、亡くしたくないばかりに、柩に詰めては、手放していた。


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箱送り われもこう @ksun

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