息子の隠しごと

ニル

息子の隠しごと

 優香ゆうかは、その箱を息子の部屋で見つけた。

 ありふれた日曜日の昼過ぎのことである。小五になる息子の理音りおは、午前中から夫と共にサッカー部の練習試合に出かけていた。そのうちに家の掃除をさっさと済ませ、気になっていた海外ドラマの新シーズンでも鑑賞しながら夕方までゆっくり過ごそうと、ささやかな楽しみを思い描いていた。


 昔の落書きやお菓子のおまけシールにまみれた理音の学習机には、開けっ放しのランドセルが放り出されていた。クシャクシャのプリントや教科書がランドセルから中途半端に飛び出している有様に、優香はため息をつき、一旦それらを中から全て出す。学校行事などのお知らせ通知や、締め切りの近い提出物の案内が無いか確認し、プリント類以外は適当に整型して机に備え付けの本立てに立てた。

 そして、ランドセルを机の傍に取り付けたフックにかけておこうとしたところで、その箱に気がついたのだ。


 理音が友達から借りたのだろう、見慣れない少年漫画のコミックス数巻と、部活動を始めたばかりの頃に買ったサッカーボール。それらに混じって、大きな学習机の影に潜むように、箱は床に置かれてひっそりとしていた。

 こんなところに、いつから。優香は眉を顰める。手にとってみると、背筋が冷えるとともにうなじにじわりと汗がにじむのを感じた。銀缶の何の変哲もない直方体の箱は、中身が詰まっているのが分かる。そのぎっしりとした重さに、優香は一人生唾を呑んで、箱を持って息子の部屋を後にした。


 理音は昔から小さな隠しごとの多い子だ。後ろめたいと思ったことは優香か夫が気付くまで言わないまま、危うく大事になりかけることもしばしばである。いつの日か、歩道橋の階段から落ちて足を捻ったのに、それを言わずにいて怪我が悪化したこともあった。理音からすれば、友達と階段でふざけあって転んだので、そんなことをしているからだと怒られるのが嫌だったのかもしれない。その他にも、買ってもらったばかりのおもちゃを壊しただとかいう些細な事から、捨て猫をマンションの駐車場でこっそり飼おうとしていただとか、ホームレスと友達になってみただとか。果ては公園で知らないおじさんから飲み物を貰ってなんの警戒もせずに飲み干してしまうなど、あと二年もせずに中学生だというのに、危なっかしくて仕方がない。

 隠し事をしている時はそわそわ挙動不審になるので、大抵は優香がすぐに気付くからいいものの、この箱のことは全く気づかなかった。



***

「ただいまあ」

 午後五時前、理音はユニフォームから伸びる手足を汗でてかてかさせて、日差しを浴びて赤らんだ顔を綻ばせて、けれど少し眠そうにしながら帰宅した。歩きながらもたもたと靴下を脱ぎつつ、キッチンで洗い物をしている優香に「お母さん水筒」と首からかけていた空っぽの水筒を渡してくる。にこりと微笑みかけて、夕飯前に風呂に入ってきなさいと促せば、部活が楽しかったのか、機嫌良さげな理音は素直に浴室に直行した。


「どうしたの?」

 対する夫は、優香の笑顔に目敏く不穏を感じたのだろう。こちらの機嫌をうかがうようにそっと、いっそ恐る恐る尋ねた。夕飯前に理音も一緒に話すと伝えると、夫はそれ以上深追いせずに、すごすごとリビングへと戻り、息子が廊下に放ったままの部活動の道具を片付けに行った。


「ねえご飯なーにー」

 優香がダイニングチェアに座って、ティーバッグの紅茶を飲みながら待っていると、下はパジャマ、上は白い肌着だけの格好で理音がリビングに戻ってきた。ちゃんと拭きなさいといつも言っているのに、少し長くなった髪の毛には滴の粒がくっついている。


「理音、これなあに」

 優香は息子の質問には答えず、テーブルに置いた銀缶の箱をこつんと突いた。きょとんとした理音がそれに目を走らせ、ぴしりと表情を凍らせた。

「あっ、それ……」

 ぐるぐると目を泳がせる理音。顔は自分に似ているとよく言われるが、こういう仕草は夫にそっくりだ。優香はあくまでも、穏やかな調子を崩さず息子に語りかける。


「理音の部屋で見つけちゃったんだけど」

「うん……」

「ねえ理音、どうしたのこれ」

「おっ、お母さん開けちゃった!?」

 信じられない、と言いたげに目を丸くする理音に、優香は眉間に皺を寄せた。

「開けなきゃ仕方ないでしょ」

「だ、だって、だって中に……!」


「中に、何が入っていたのかな」

 自分で開けてみなさい。もう一度、銀缶をこつりと指先で叩いて見せると、理音は少し泣きそうに口をへの字に歪めた。そりゃあ嫌だろうと思いながら、優香は目だけで息子の甘えを却下した。

 腕を目一杯に伸ばして箱との距離を開けながら、理音がこわごわと箱の蓋に手をかけた。かぽ、と小さく音を立てて箱が明かされ、理音が半目でそっと中を覗き込み———


「あれっ」

 箱の中身は空で、真ん中に間仕切りがあるだけだ。外面と変わらない、銀のつやつやした箱の底を覗き込んで、息子が不思議そうにしている。

「空っぽだ……」

 あんまりにもほっとしたように呟くものだから、優香はくすりと息を漏らしそうになるのをなんとか押し留めて、ぐっと低い声を作る。


「もうお母さんが洗いました、当たり前です!」

「げっ、中どうなってたの」

「げって何よ、とんでもないことになってたに決まってるでしょ」

「ひゃあ、キモ……」

「あんたが放ったらかしにしてた弁当箱じゃないのっ」

 優香がお説教モードに入ったのを感じ取ったのか、理音がしょんぼりと眉を下げた。しかし、下瞼をひくりとさせた目が、内心面倒臭いと思っていることを物語っている。


「処分大変だったんだからね」

「だ、だって、だって、お母さんが弁当の日じゃないのに持たせたんじゃん……!」

 少し声を上ずらせる理音に、優香がむっとして「そういう問題じゃ無いの」と言い返そうとした時、ソファで大人しくしていた夫がすかさず、

「せっかく作ってもらったのに食べなかったこと、お母さんに言いづらかったんだろ」

 助け舟を出すと、理音は気恥ずかしそうに目を逸らした。目くじらを立てかけていた優香の肩から力が抜けた。僅かに残った不満と腹立たしさは、夫をひと睨みすることで消化する。


 まあいいかと、息子の隠しごとを有耶無耶に許してしまう、ありふれた日曜日が更けてゆく。

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