第37話

「そん……な……」




 宇宙ホテルの高度が徐々に下がっている。眼下に広がる群青は夜に染まっていき、紫黒の闇が不気味にも口をあんぐりと開けている。


 あとは重力に引きずり込まれるように、堕ちていく。静かに。ゆっくり。しかし、確実に夜闇に飲み込まれていく。



「……」



 そんな非常事態にありながら、訪れたのはただただ深い沈黙だった。真空状態にあることだけが理由ではない。誰も彼も、その光景を見ては、ただ立ち尽くしているのだ。


 何も語らない鈴音りんね。いいや、その沈黙こそが彼女の言葉だった――万策尽きた、と。


 先ほどまで、俺たちの目の前にあったデブリ除去衛星は、スラスターを搭載したものだった。取り戻した後は、それを使って地球に落とすことなく衛星軌道から外す。その手筈だった。


 それが目の前で砕け散った。


 あとはもう……



「なぁ、鈴音りんね

「……指示を仰いでいるのか? ……見ての通りだ。もう、なにもない。作戦行動は終了だ。あとは祈る――」

「いや、まだだ」

「……?」



 そして、俺は鈴音りんねに宇宙ホテルのホテル下部まで連れていくよう告げる。

 

 

「これは世界を救うって罰ゲームだからな」




 *****




 宇宙ホテル最下部に送り届けられた俺は、底面にへばりつく。落下速度はどれくらいだろうか? きっと、地上の常識からすれば、信じられない速度になっているのだろう。


 けれども、広がる闇の大きさに、全てがゆっくりに感じられた。



「なぁ、鈴音りんね。スラスターの情報送ってくれるか? ……なんでもいいんだ。とびっきり出力のあるやつを頼む」

「それは構わないが……いったい何する気だ?」



 送られてくる情報を細かく見ながら、大きさ、形状、仕組みや、性能を頭に入れていく。とはいえ、そこまで完璧に覚える必要もない。どうせ忘れてしまうし、ができるくらいの情報で問題なかった。



「って、ちょっと待て! 先輩――」

「悪いな。〈リモートウォーカー〉、一体ダメにしちまうけど……」



 そう言いながら、俺はスラスターのを始めた。



『――警告。感覚同期、異常検知』

『――■心ク動作■キ蟲止常■常』

『――■■感■覚■■■正■■常』



 耳に響いて来るシステムからの警告を強引に黙らせて、自身の情報を漂白していく。脳裏に駆け抜けるノイズ。浮かび上がって来るのは、白装束の少年の姿だ。さぁ、好きなだけ喰えと命じると、〈リモートウォーカー〉の機体情報が食いつぶされていく。



『――機体■融■■■■解■再接続』

『――生体■■蛕■郁■■翔■■■』

『■―シHaテム遠■■隔■■Ya■波』



 脳が蠢く。

 脊髄液が暴れている。

 

 それでも何とか正気を手放さないように、自身の情報を書き換えていく。いいや、狂いでもしないとやれないかもしれない。手を接続部分に変形させ、足を噴射口に変形させる。


 その代わり、感情と思考は消えていく。無機物になるのだ。俺は俺の全てを削ぎ落としていく。一個のスラスターになりきる。



「やめろ! そんなことしたら……。大切な記憶が食われるぞ! 待て! きっと他にも方法が――」



 ああ。

 うるさい。


 俺は聴覚を完全に手放す。


 するとどうだろう。三半規管を失ったことで、上下左右前後の感覚が消失する。でも、失って困るものなんてなかった。視覚も、触覚も、あらゆる感覚を絶って――



「また一人に……なっちゃったな」



 眼前に幻影が浮かび上がる。誰もいないダイニング。誰もいない体育館。誰もいない校舎。誰もいない教室。誰もいない……誰もいない……誰も――


 誰もいない闇。静寂のなかで、俺は自嘲気味に笑う。思えば、最初は一人だった。それから、色んな人と出会った。けれど、空と海の色が同じように、宇宙と深海の色が同じように。最初が一人なら、最後も一人なんだろう。



「あーあ。だから、世界なんて救いたくないんだよ。寂しいじゃん」



 誰だよこんな罰ゲーム考えた奴。

 まあ、でももう。

 どうでもいいか。









「――で? 誰が点火するんだ?」









 闇のなかで声がした。


 そこは、誰もいないはずの夜の図書室。禁書コーナーから声がしたかと思うと、幽霊のようにヌッと少女が姿を現す。相変わらずの不敵な笑み。けれども、どちらかというと呆れ顔だった。



鈴音りんね……」

「で、点火後の誘導は誰がするんだ?」

「……」

「おっと、いまの君はスラスターになり切ってるんだったな。なら、考える脳味噌はなかったか。すまないすまない」

「……るせぇよ」

「はぁ……。日向ひなた先輩を一人にするとすぐこれだ。まったく、〈リモートウォーカー〉一機いくらすると思ってる? これは弁償だな」



 そう鈴音りんねが言うと、「じゃあ、私も同罪だね!」と快活な声が聞こえた。見ればそこには凪咲なぎさ。てってってーと、軽い足取りでかけて来ると、だーんとテーブルを叩く。ふわりと横髪が浮き、琥珀の双眸が煌めいた。


 そして、カウンターを見れば風花ふうかが気だるそうにこちらに視線を投げている。彼女にとっての特等席。宙に浮かべているディスプレイには、宇宙ホテルの軌道計算のシミュレーション結果が表示されている。



「では行こうか、日向ひなた先輩」

「ああ。行こう、鈴音りんね





 ――点火。





 朝がやって来る。


 水平線に閃光が走り、解き放たれた暁の白が孤を描いて世界を照らし出す。


 そうして、生まれ出でた白銀の太陽は、一条の光となって天上へ登っていった。







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