第35話

 海が青い理由は、空の青を映しているからだと思う。



 理想を抱くことは素晴らしいと思う。夢に向かって挑戦する人には、応援したいと思わされる。けれども、いつしかパイロットを目指していた男の子が、それを口にしなくなるように、お花屋さんになると言っていた女の子が、それを口にしなくなるように、黒く塗りつぶされてしまうのは、空の高さを知るからだと思う。


 空の色は青なんかではない。上空に向かえば向かうほど、群青は紺青に、そして紫黒の世界が口をあけている。希望の空を目指して飛び立った先にあるのは、巨大で虚ろな闇だ。


 だからこそ、同じ青なんだろう。空と海が同じ色をしているように、宇宙と深海が同じ色をしているように、理想と絶望は同じ色をしている。理想の高さが、絶望の深さだ。その崖から飛び降りる人に対して、理想は責任を取らない。



「だから……理想を抱けなくなるんだろ?」




 *****




「なにしてんの?」



 気が付けば、ひとり俺は膝を抱えて座り込んでいた。そこは、放課後の体育館。頭突きをされて、まだ痛む鼻を抑えながら顔をあげると、そこには気だるげに黒パーカーを着るポニーテールの少女がいた。



「……るせぇ。後輩に揶揄からかわれただけだ」

「言い負かされたの間違いでしょ?」



 なんだか外が騒がしい。


 見れば、凪咲なぎさ常泉じょうせんに絡まれている。見てないで助けてよと、叫びながらも、華麗な身体裁きで攻撃をかわして、なんとかしのいでいる。その様子を、固唾をのみながら、鈴音りんねが見守っている。



「……助けに入ってやれよ」

「操作方法も分からないのに?」

「お前なら……できるだろ?」

「それは、あんたのなかの私」



 勝手に作り上げられた、湖上こじょう風花ふうか像だと、彼女は言う。そうして、傍らに転がっていたバスケットボールをおもむろに手に取ると、かったるそうな手つきでドリブルをしてから、ボールを空へと打つ。


 スパリと決まるシュート。


 それから、ダムダムと俺のもとにボールが寄って来た。



「久しぶりにどう? 負けた方は、罰ゲームで世界を救う。勝った方は、特等席でそれを眺める。あ、あとついでにグレープジュースも驕りで」

「……もう勝った気かよ?」

「……」

「……やる」




 *****




 スリー・ポイントラインまでドリブルしながら歩く。その間、風花ふうかは軽い袖まくり。それから、ヘアゴムを一度解いて、ポニーテールを結び直す。その様子が、中学の頃の姿と重なる。


 しかし、すぐに蘇るのは事故の映像。直接その場にいたわけではない。だから、すべては妄想。けれど、痛々しいギプス姿はいまでも覚えている。こればかりは、忘れたくても忘れられない記憶。いつも脳裏に焼き付いて剥がれないのだ。


 あのまま終わっていいはずがない。

 あれで終わりでいいはずがない。


 続きをしよう。



「悪いけど、本気でいくぞ」

「どんだけ、世界救いたくないの? ……まあいいけど」



 一度肩を鳴らす風花ふうか


 そして、すっと瞳の色が変わる。――澄んだ紫水晶アメジスト。それが合図だった。


 床を蹴る。その瞬間、音が消えた。纏うは風、駆け抜けるは刹那。そうして一陣の風を紡げば、その先で少女の髪が流れる。瞳に宿る光は尾を引き、揺れて、そして俺に迫る。切り返そうとも、逃れられない。さながら刃でも振るうかのような華麗な身体さばきは、スポーツマンのそれではない。命を刈り取る暗殺者の立ち姿さえ彷彿とさせる。


 立ちはだかる厚い壁。


 フェイントを仕掛けても、突破できない壁を目の前に、俺は……少しだけ嬉しくなっていた。そうでなければ。そうでなければならない。終わらせてなるものか。あんな終わり方は認めない。あの日の続きが、いま目の前にある! 時計の針がようやく動き出したような感覚がした。



 ――それは、あんたのなかの私。



 けれども、風花ふうかは笑っていなかった。楽しそうでもない。まるで、みそぎでもするかのような視線を、俺に投げかける。



 ――ねぇ。なんであんたは、バスケ始めたの?



 ただの視線。けれど、俺は一瞬ひるんで後退した。


 どうして? そんなの理由は一つだった。いまさら隠すつもりもない。それは、風花ふうかが始めたからだ。風花ふうかが幼馴染だったからだ。風花ふうかは、帰りの遅い両親に代わって、俺と一緒に居てくれることが多かった。孤独を埋めてくれた人、と言ってもいいかもしれない。


 気が付けば、風花ふうかの真似ばかりしていた気がする。図書室に行っては本を読み、休憩時間には机に伏せて寝る。バスケ部に入ったのも、風花ふうかの真似だ。できれば、ずっと一緒に居たいと思った。でも、それは恋愛感情の「好き」とは違う。そんな陳腐な感情じゃない。


 これは恋愛感情じゃない。


 俺にとって、風花ふうかは憧れなのだ。



 ――



 それのどこが駄目なのだろう。


 憧れの人に近づこうとすることが、憧れの人になろうとすることが、憧れの人を目指すことのなにが駄目なのだろう。目指すべき目標があることは、どうして駄目なのだろう。


 もし、憧れる人を目指してはいけないのなら、いったい俺はいいんだろう。


 いいや、憧れを抱くことが悪なはずがない。もし、憧れを抱くことが悪ならば、スーパーヒーローに憧れる子どもたちは、みんな悪人だ。違う、違う! スーパーヒーローは、いつだって心の支えだ。真っ暗な暗闇のなかで俺たちを照らしてくれる光のはずだ。


 だから、俺は許せなかった。光が簡単に奪われてしまうことが。降りかかった理不尽に、踏みにじられたことが。風花ふうかは、あんなところで終わっちゃ駄目だったんだ!


 世界なんかより、救わなければならないものがある。世界によって光を奪われてしまった憧憬を、俺は取り戻さなければならない。



「世界なんかより救いたいもんがある」

「……」

「お前だ!」



 抜いた。


 がら空きになったゴール下。駆けるは無人。一度抜いてしまえば、いくら風花ふうかでも追いつけない。


 目の前に迫るゴール。

 そして、ボールを放った。




 *****




「……次はお前だ」



 攻守交替。

 ゴールをくぐったボールを、風花ふうかへと寄越す。


 相変わらず怠そうに受け取る風花ふうか。その様子は、どこか退屈そうでもある。スリーポイントラインまで、だらだらとドリブルしていくが、その様からはまるでやる気を感じない。


 けれども、俺は警戒を怠らない。こうやって油断させて、いきなり速攻を仕掛けるのは風花ふうか十八番おはこだ。


 と、風花ふうかは口を開いた。



「先に言っとく」

「……?」

「ありがとう。救おうとしてくれて」

「お……おう」

「でも、有難迷惑かな。私は、とっくに救われてる」



 それから、「私になりたがるとか、普通にキモい」と。風花ふうかは、センターラインまでてくてくと歩いて行く。流石に、やる気をなくしてしまったのだろうか。


 そう気を抜いた時だった。



「え……?」



 風花ふうかは、シュートを打った。


 宙高く放られたボール。描かれる美しい放物線に、俺は敗北を確信する。ジャンプは届かない。それどころか、ゴールにボールが吸い込まれる未来までもが、完全には描かれている。


 軌跡が告げるのは、風花ふうかの言葉。――ごめん無理。たった五文字。それなのに、俺はすべてを理解してしまう。俺は風花ふうかのことを、なに一つ理解していなかった。プレースタイルをわけだ。


 勝手に苦しんでると、思い込んでいた。理不尽に押し潰されてしまった可哀想な子だと思い込んでいた。ヒーローの仇を討てば、喜ぶ……とまでは思ってない。けれど、勝手に悲劇のヒロインに仕立て上げては、それを旗印にまでしてしまっていた。


 全部、俺の妄想だったのだ。



 ――だって、朝練怠くない?



 ちょうど、辞めたかった。高校で続ける気なんて、さらさらなかった。確かに、才能があるのにもったいないのは、その通りかもしれない。けれど、才能があるから、続けなければならないという道理もない。……というか、それくらいマイペースの方が風花ふうからしいなと、微笑が漏れる。


 確かに俺は、ありもしない風花ふうか像を勝手に作り出してしまっていた。


 でも?

 そうだとして?

 俺はどこを目指せばいい?


 

「……」



 ボールがゴールをくぐって落ちる。


 その先。


 そこでシリウスは輝いていた。




 *****




日向ひなた



 背後から声がした。

 


「あんたは、自分には何もないって思ってるかもしれないけど、そうじゃない。あんたは、選んでないだけなんだよ。選択肢なら無数にある。輝き方なら、星の数だけある」

「……」

「理想の高さが、絶望の深さ? そんなの痛いほど知ってるよ。くだらない実験なんかするまでもない。どうせ宇宙は闇なんだ。なら照らさなきゃ。闇夜の月光が日の光であるように、あんたの闇が誰かに照らされたように、あんたは誰かを照らすんだよ」



 世界のなかに自分がいるんじゃない。自分の光と、誰かの光。闇のなかで紡がれる一筋の光の名前こそが。そうやって闇夜に浮かぶ星と星を繋げて、星座を描くから世界は広がっていく。


 手始めにシリウスに手を伸ばす。


 そうして。

 まるで、峰と峰を繋いでいくように。

 手と手を繋ぐ。



「随分と遅い日の出だったな。待ちくたびれたよ、日向ひなた先輩」

「太陽になった覚えなんかねぇよ……。けど、罰ゲームならしゃーねえよな」



 なんだ、それは? とクスリと笑う鈴音りんね。けれど、その笑顔は心からのように思えた。もう、嘘も、隠し事も、真似事もない。



「おかえり。燦めく星々が連なる尾根アストラル・クレストへ」







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