第16話
終わった。
言葉が出ない。
もう、呻きさえも出なかった。
「そこ座って」
「……」
「ほら、バンザイして」
「……」
裾からたくし上げられていくシャツ。多分、もう元の関係に戻ることはできない。腕から抜けていく布の感覚にそう思った。
もう羞恥心とかのレベルではない。敢えて言うのなら喪失感。最初こそ抵抗感があったが、
まだマシだったのは、下を脱がなくてよかったこと。それでも、用意されたシャツに袖を通して、ボタンを上から一つ一つ留められていく時には、もう何も感じなくなっていた。
「……ごめん」
「なにが?」
「こんなことさせて」
返答はない。完全に着せ替え人形と化した俺は、淡々とエプロンに袖を通されては、後ろボタンを留めるために後ろを向くよう指示される。
そこで、ふと額縁に入ったある写真が目に留まった。何気なく眺めていたが、二人の少女と、その後ろに母親と思しき人物が写っている。一人はきっと幼い頃の
家族旅行か。そういえば
なにか、二人の間にあったのだろうか。
「おしまい」
背後からの
いつもの気だるげな視線。相変わらず無表情で、感情は読み取れない。特に隠れた右目からは、なにを考えているのか一切分からない。
と、気まずい沈黙のなか、
「……あんまりこういうのは触れるべきじゃないかもしれないけど」
「?」
「左腕の傷、やっぱ残ったんだ」
「あー、まあな」
前腕の怪我のことを言ってるんだろうと思った。幼い頃からのもので、腕にはケロイドのように残ってしまった痕がある。俺自身はそんなに気にしていないが、やはり見る人が見ると気持ち悪く感じるそうで、特に部活なんかで露出する時はリストバンドで隠していた。
「てか、なんで知ってんだ?」
「小学校の時のキャンプで火傷したとき、その場にいたと思うけど? 覚えてない?」
「あー、そうだったっけ?」
言われて、記憶を呼び起こそうとするが、何も浮かばない。それどころか、怪我をした経緯についてはおろか、キャンプがあったことさえ忘れていたものだから、煮え切らない反応をすることになってしまった。
それが、まるで初耳だと言わんばかりの様子に思えたのだろうか。
「……忘れっぽいのは相変わらずか」
*****
「さっすが! 覚えるの早いね!」
「どうも」
その後、「変態はバックヤードに隔離した方がいいのでは?」と
それで、なんとなく
まず驚かされたのは、知らない相手がいないことだ。とにかく、「あっ、〇〇さんいらっしゃい!」と駆け寄っていっては、友達と話すかのように世間話を始める。それも老若男女を問わずだ。年老いた女性が来たかと思えば「
その他にも、
だから、遠目で
「さっき、
「?」
「なんか俺、忘れっぽいんだとさ」
人が
「なるほどねー。じゃあ、覚えるっていうより、真似するのが得意なのかも。さっきの動き見てても、一瞬、
「そんなにか? 褒めすぎだろ」
「ほんとだってば。それに、なんか少年漫画みたいでカッコいい! バスケ部時代に『アイツ! 俺のプレーをコピーしやがったのか?』みたいな展開、あったんじゃない?」
「……どうだろうな」
俺は視線を、フロアを見回っている
男女で別々だったとはいえ、空き時間に何度かやることになったワン・オン・ワン。その時に、唯一プレーの癖を読み切れなかったのが
のらりくらりとした動き。それが意図したものなのか、天性のものなのかは分からない。いずれにしても、かなりの難敵であることは間違いなく、女子チームの主戦力は彼女だった。怪我がなければ、もしかしたらチームを全国に連れて行ったかもしれない。
憧れだった。
だから、中学でスッパリと辞めてしまったことに、俺は心細さを感じている。急に目標が目の前から消える感覚と言えばいいのだろうか。辞める続けるは本人の自由だし、俺が口を出すようなことではない。だが今日、
「もう、あの頃のアイツは……」
いつの間にか、バスパンを履いた少女の姿は消え去り、代わりに目の前には、エプロン姿の少女が立っている。簡単に真似ができてしまうような仕事を、淡々とこなすだけの省エネな人間……なんてのは言い過ぎかもしれないが、少しずつ怒りのような感情が湧いて来る。
なにが忘れっぽい、だ。忘れっぽいのはお前の方だ。
体育館に響くドリブル音とスキールノイズ。コートを駆けた日々。タイマーが一秒一秒と刻む緊迫感と、ブザーが鳴り終わるまで続く高揚感。優れた能力を秘めているのに、詰らない日常のなかで使い方を忘れてしまったんじゃないのか?
そんなことを考えていると視線が合った。
――なに?
そんなふうに目が告げている。
でも、やっぱり俺の知っている目は、そこになかった。もう昼だというのに、まだ寝起きとでもいわんばかりのやる気のない目。かつて、ワン・オン・ワンの時に見せた鋭い輝きはない。闇夜のなかで怪しく揺らめく藤のようでもあり、それでいて冴えわたる
それでも、もう別人なんだとの思いが強くなって、気まずくなって視線を逸らす。
「……」
「……」
同時に、
近いのは俺の方。
気を取り直して、笑顔を作った。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「一人だよ……ってあれ? 新顔かな?」
陽光。
そして、ふわりと春風が舞い込んだ。
光を背にして入って来た人物。はじめ、その歌でも唄うような優しい声音にドキリとする。すらりとした高い背と、それでいてスーツの上からでも分かる程よく鍛えられた身体。凛とした顔立ちの好青年で、まさしく春の陽気が入って来たと言わんばかりの笑顔を浮かべている。
「実は今日からこちらで働くことになりました」
「へぇ、そうなんだ。それじゃあ、はじめましてだね」
爽やかささえ感じる人物だが、妙な馴れ馴れしさに
「それでは――」
「ああ、違う違う。僕は
「なるほど。そうだったんですね。でしたら、こちらでお待ちください。準備ができましたらお呼びします。いまお水をご用意しますね」
「初日なのに気が利くね。ありがとう――
足が止まった。
振り返ると、ニコリと笑っている青年。だが、その目の奥までは笑っていないような気がした。闇夜に浮かぶ月のような瞳。そこには、虎狼のようななにか得体の知れない恐ろしいものが棲み付いている。
「どうして……?」
「あー、怖がらせちゃったかな? 安心して。なんたって君は有名人だからね」
「そう……なんですか?」
「そうそう。まぁ、こっちの界隈ではの話だけどね」
「は……はぁ……」
そこで、纏っている雰囲気が常人で無いことに気が付く。おまけに、既視感のあるセリフ回し。もしかしたら、
「……あれ?」
姿が無かった。
いいや、姿が無いのが、ある意味で答えだったかもしれない。
「おっと、そういえば名前を言ってなかったね。僕の名前は、
「
「そっ。僕の
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