第16話

 終わった。



 言葉が出ない。

 もう、呻きさえも出なかった。



「そこ座って」

「……」

「ほら、バンザイして」

「……」



 裾からたくし上げられていくシャツ。多分、もう元の関係に戻ることはできない。腕から抜けていく布の感覚にそう思った。


 もう羞恥心とかのレベルではない。敢えて言うのなら喪失感。最初こそ抵抗感があったが、風花ふうかの冷たい目によってそんなものはへし折られた。上着が剥ぎ取られたいま、ただただ無心になるよう努める。


 まだマシだったのは、下を脱がなくてよかったこと。それでも、用意されたシャツに袖を通して、ボタンを上から一つ一つ留められていく時には、もう何も感じなくなっていた。風花ふうかの香りや息遣いが伝わってくるハズなのに、そこにあるのは虚無感。こんなに至近距離で向き合ってくれているのは初めてなのに――いや、これで最後なのだろう。



「……ごめん」

「なにが?」

「こんなことさせて」



 返答はない。完全に着せ替え人形と化した俺は、淡々とエプロンに袖を通されては、後ろボタンを留めるために後ろを向くよう指示される。


 そこで、ふと額縁に入ったある写真が目に留まった。何気なく眺めていたが、二人の少女と、その後ろに母親と思しき人物が写っている。一人はきっと幼い頃の鈴音りんね。残りの二人も鈴音りんねの面影を感じる人物だ。場所はおそらく、日本ではない異国の地。写真のなかの三人は、本当に楽しそうにこちらに目を向けている。


 家族旅行か。そういえば鈴音りんねから家族の話をあまり聞いたことがない。母親を嫌っているようではあったが、写真を見る限りはそんな感じはせず、むしろ真逆の印象を受ける。


 なにか、二人の間にあったのだろうか。



「おしまい」



 背後からの風花ふうかの声に、現実に戻された。顔を見るのが怖くて、俯きながら振り向く。が、身長差のせいでむしろ視線が合ってしまう。


 いつもの気だるげな視線。相変わらず無表情で、感情は読み取れない。特に隠れた右目からは、なにを考えているのか一切分からない。


 と、気まずい沈黙のなか、風花ふうかが口を開いた。



「……あんまりこういうのは触れるべきじゃないかもしれないけど」

「?」

、やっぱ残ったんだ」

「あー、まあな」



 前腕の怪我のことを言ってるんだろうと思った。幼い頃からのもので、腕にはケロイドのように残ってしまった痕がある。俺自身はそんなに気にしていないが、やはり見る人が見ると気持ち悪く感じるそうで、特に部活なんかで露出する時はリストバンドで隠していた。



「てか、なんで知ってんだ?」

「小学校の時のキャンプで火傷したとき、その場にいたと思うけど? 覚えてない?」

「あー、そうだったっけ?」



 言われて、記憶を呼び起こそうとするが、何も浮かばない。それどころか、怪我をした経緯についてはおろか、キャンプがあったことさえ忘れていたものだから、煮え切らない反応をすることになってしまった。


 それが、まるで初耳だと言わんばかりの様子に思えたのだろうか。風花ふうかはどこか物憂げに視線を逸らした。



「……忘れっぽいのは相変わらずか」




 *****




「さっすが! 覚えるの早いね!」

「どうも」




 その後、「変態はバックヤードに隔離した方がいいのでは?」と風花ふうかに提案されたが、凪咲なぎさが教育係として付くことで一応事態は収まった。


 それで、なんとなく凪咲なぎさの見様見真似をしようと思っていたが、案の定、凪咲なぎさのやり方とくれば良くも悪くも滅茶苦茶だった。


 まず驚かされたのは、知らない相手がいないことだ。とにかく、「あっ、〇〇さんいらっしゃい!」と駆け寄っていっては、友達と話すかのように世間話を始める。それも老若男女を問わずだ。年老いた女性が来たかと思えば「五十嵐いがらしさん、お孫さんの調子は? 風邪治った?」と訊き、青年が来たと思えば「また来てくれたんだ、高円寺こうえんじさん! 岩国からはるばるお疲れ様。ゆっくりしていってね」と声をかける。


 その他にも、稲毛さんあの人は店長の知り合いだの、保高さんあの人は足が悪いから手を貸した方がいいだの、来店している人の解説までし始めるのだから、膨大な情報量に頭がパンクする。ただでさえ、この喫茶店のラインナップですら何があるか覚えていない状態だというのに、凪咲なぎさのやり方はまるで参考にならなかった。


 だから、遠目で風花ふうかを眺めては、やり方を真似ることにした。流石にいつものように不愛想というわけではなかったが、マニュアルを絵に描いたように淡々とこなす様は、俺にとっても真似しやすかった。それで、実際にやってみれば、凪咲なぎさに飲み込みが早いと褒められるのだから、やり方としては合っているのだろう。



「さっき、湖上こじょうさんには逆のことを言われたよ」

「?」

「なんか俺、忘れっぽいんだとさ」



 人がいて来た頃、凪咲なぎさと雑談をする時間が訪れた。不意に、「てか、幼馴染なのに『湖上こじょうさん』呼びなんだ」と何気ない一言に殴られては、「湖上こじょうさんも、俺のこと『奥宮おくみやくん』呼びだろ?」と思いもよらず自傷行為をしてしまう。それから、本当に今日は、なにもないところで転んでばかりだと思っては、一人で勝手に落ち込んだ。



「なるほどねー。じゃあ、覚えるっていうより、真似するのが得意なのかも。さっきの動き見てても、一瞬、風花フウが二人いるかと思っちゃった」

「そんなにか? 褒めすぎだろ」

「ほんとだってば。それに、なんか少年漫画みたいでカッコいい! バスケ部時代に『アイツ! 俺のプレーをコピーしやがったのか?』みたいな展開、あったんじゃない?」

「……どうだろうな」



 俺は視線を、フロアを見回っている風花ふうかに向ける。歩いているだけなのに、何考えているか分からない佇まい。そのうち俺は、中学でのバスケのユニフォーム姿の彼女を思い浮かべる。


 男女で別々だったとはいえ、空き時間に何度かやることになったワン・オン・ワン。その時に、唯一プレーの癖を読み切れなかったのが風花ふうかだった。やる気のないドリブルをしているかと思えば、何の前触れもなく鋭い切り返しをしてみたり、やけに正攻法で来るなと思っていたら、ふとした瞬間にストリートバスケさながらのトンデモ技を披露してみたりと、緩急が鋭いというより、とにかく掴みどころがなかった。


 のらりくらりとした動き。それが意図したものなのか、天性のものなのかは分からない。いずれにしても、かなりの難敵であることは間違いなく、女子チームの主戦力は彼女だった。怪我がなければ、もしかしたらチームを全国に連れて行ったかもしれない。


 憧れだった。


 だから、中学でスッパリと辞めてしまったことに、俺は心細さを感じている。急に目標が目の前から消える感覚と言えばいいのだろうか。辞める続けるは本人の自由だし、俺が口を出すようなことではない。だが今日、風花ふうかの真似ができてしまったことには、正直なところ自分でも拍子抜けだった。



「もう、あの頃のアイツは……」



 いつの間にか、バスパンを履いた少女の姿は消え去り、代わりに目の前には、エプロン姿の少女が立っている。簡単に真似ができてしまうような仕事を、淡々とこなすだけの省エネな人間……なんてのは言い過ぎかもしれないが、少しずつ怒りのような感情が湧いて来る。


 なにが忘れっぽい、だ。忘れっぽいのはお前の方だ。


 体育館に響くドリブル音とスキールノイズ。コートを駆けた日々。タイマーが一秒一秒と刻む緊迫感と、ブザーが鳴り終わるまで続く高揚感。優れた能力を秘めているのに、詰らない日常のなかで使い方を忘れてしまったんじゃないのか?


 そんなことを考えていると視線が合った。


 ――なに? 


 そんなふうに目が告げている。


 でも、やっぱり俺の知っている目は、そこになかった。もう昼だというのに、まだ寝起きとでもいわんばかりのやる気のない目。かつて、ワン・オン・ワンの時に見せた鋭い輝きはない。闇夜のなかで怪しく揺らめく藤のようでもあり、それでいて冴えわたる紫水晶アメジストのような瞳――その幻影を俺は探してしまう。


 それでも、もう別人なんだとの思いが強くなって、気まずくなって視線を逸らす。



「……」

「……」



 同時に、風花ふうかの方も視線を逸らした様子。だがそれは、入り口のベルが鳴ったからだった。 

 

 近いのは俺の方。

 気を取り直して、笑顔を作った。 



「いらっしゃいませ。何名様ですか?」

「一人だよ……ってあれ? 新顔かな?」



 陽光。

 そして、ふわりと春風が舞い込んだ。


 光を背にして入って来た人物。はじめ、その歌でも唄うような優しい声音にドキリとする。すらりとした高い背と、それでいてスーツの上からでも分かる程よく鍛えられた身体。凛とした顔立ちの好青年で、まさしく春の陽気が入って来たと言わんばかりの笑顔を浮かべている。



「実は今日からこちらで働くことになりました」

「へぇ、そうなんだ。それじゃあ、はじめましてだね」


 

 爽やかささえ感じる人物だが、妙な馴れ馴れしさに凪咲なぎさと似たような匂いを感じた。きっと、彼もまた凪咲なぎさに絆された人物なのだろうと思いつつ、空いている席を確認して、メニューを手にする。



「それでは――」

「ああ、違う違う。僕は天代あましろ鈴音りんねに用があって来たんだ。恥ずかしながら、少し仕事で行き詰っていてね。運勢を見てもらおうかなと」

「なるほど。そうだったんですね。でしたら、こちらでお待ちください。準備ができましたらお呼びします。いまお水をご用意しますね」

「初日なのに気が利くね。ありがとう――奥宮おくみや日向ひなたくん」



 足が止まった。


 振り返ると、ニコリと笑っている青年。だが、その目の奥までは笑っていないような気がした。闇夜に浮かぶ月のような瞳。そこには、虎狼のようななにか得体の知れない恐ろしいものが棲み付いている。



「どうして……?」

「あー、怖がらせちゃったかな? 安心して。なんたって君は有名人だからね」

「そう……なんですか?」

「そうそう。まぁ、こっちの界隈ではの話だけどね」

「は……はぁ……」



 そこで、纏っている雰囲気が常人で無いことに気が付く。おまけに、既視感のあるセリフ回し。もしかしたら、凪咲なぎさなら知っているかもしれないと思い、彼女の方を向く。



「……あれ?」



 姿が無かった。


 いいや、姿が無いのが、ある意味で答えだったかもしれない。



「おっと、そういえば名前を言ってなかったね。僕の名前は、月雲つくも奏人かなめ天代あましろ鈴音りんねにはそう言ってくれると伝わると思うから」

月雲つくも……」

「そっ。僕の義妹いもうとに悪さされてないかい?」







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る