ささくればこのなか

三屋城衣智子

ささくればこのなか

 私には三分以内にやらなければならないことがあった。


 それは住宅の内見の申し込みである。

 転居の期日が迫っていたのだ。


 老朽化により取り壊しの決まった私の城。

 築五十年の二階建てアパートは、木造ということもあって、手すりや外壁等々あちこち傷んでいた。


 早いとこ探せばよかっただろ、と言われそうだが。

 なにもプラプラしていたわけではなく、ブラックに近い仕事環境の職場からなかなか解放されず、とにかく時間が無かった。

 そしてお金も。


 そんな訳で、デスマーチ後。

 本当の本当に久々の休日。

 起き抜けにスーマイという検索サイトに、このアパートから程近い場所を条件に入れた。

 探しに探して、今やっとこれならという物件のページに至っている。


 カネシタルームという不動産屋が、直に物件を管理している部屋。

 ここから近く、徒歩十分圏内。

 引っ越し費用もこれなら安いだろう、という算段だ。

 室内写真が少ないのが難点だが、キッチンは割合小綺麗そうでこれなら自炊もする気になるだろう。

 そうして一件程あたりをつけ、内覧の予約ボタンを押した。


 申し込みました、という自動案内メールが届いたことにホッと息をつき、コーヒーを淹れるために立ち上がる。

 ワンルームのキッチンは、ワンステップで何事にも手が届くためなかなか気に入っていた。

 今度の部屋はどうだろうか。

 ヤカンのしゅんしゅんという音を聞きながら、初めての独立キッチンに少し気分は高揚していた。


 内覧当日。

 前日に担当営業の兼下かねしたから電話があって。

 住所が案内する場所に近いと知るや現地集合を口八丁くちはっちょうに取り付けられた為、歩いて目的地へと向かう。

 普段とは違うルートは、庭に植えられた金木犀きんもくせいだのの木々も目新しくまた香り良く、新鮮に感じられた。

 右に曲がり左に行き、道がグネっと曲がった先でまた曲がり。

 徒歩十分よりも五、六分ほど超過して目的のアパートに着いた。


 不動産屋の載せる情報というのは、大抵ちょっと差っ引いてある。

 五分六分なら差分のうちだろう、と思いつつ。

 少し早めに着いたのでぐるりとまわりを歩きながら、外観をしげしげと眺めた。


 建ってまだ十年未満、築浅ちくあさのそこは、コンクリート打ちっぱなしのような外壁だった。

 デザイナーズのようにも見える。

 サイトに載っていた情報だと、二階建てアパートとしては珍しいコンクリート造らしい。

 裏手の一階は生垣がしてあり、中が上手く見えない。

 けれど、掃き出し窓になっていて日差しはよく入りそうではあった。

 きちんとカーテンがされており、生憎趣味のファブリックではなかったので交換が必要そうだ。

 表側に戻る。

 駐車場も、駐輪場も敷地内にあってなかなか便利そうである。

 私は使用しないが、これは少し駐車場代は高いだろう、と自分には関係ないことを考えながら担当者を待った。


 暫くして、少し足早に駆けてやってくるスーツ姿が目端に映った。

 あれがどうやら担当らしい。

 ツーブロックの短髪姿に、シュッとした細身のスーツが似合っている。

 今時の若者らしい。

 が、間近で見るとにわかに目の下にクマが見えた。


 不動産業もブラックになりがちと噂に聞くので、彼のところも忙しいのかもしれない。

 似通った身に少しの同情を覚えながら、声をかけた。


「カネシタルームの営業さんですか?」

「あっ、すみません! そうですそうです、私兼下と申します。遅れて申し訳ございません、他の方の内覧がちょっと押してしまいまして」

「そうですか」

「この辺りのアパートをお探しの、松山様ですよね? お待たせ致しました。お部屋にご案内致しますね」


 言うと兼下さんはこちらの返事も聞かぬままに、さくさくと物件の方へと歩いて行ってしまった。

 忙しなさに虚をつかれ、彼との距離が空いてしまう。

 私は慌てて気を取り直すと、後ろ姿を追って建物へと近づくことにした。


 背後に近づくことができたのは、部屋の戸の前だった。


「この物件、滅多に空室が出ないんですよ。いやはや松山様はラッキーでいらっしゃる」


 そう言いながら鍵をガチャっと回して開け、兼下さんはドアを開けたまま脇へとよけた。

 先に入るように、とその目が言っている。

 私は日本人のサガであるお辞儀をしながら、ドアをくぐった。

 中の壁もコンクリか。

 私の頭の中から出てきた感想はそんな益体もないものだった。

 半畳ほどのスペースの玄関で靴を脱ぐ。

 ギィ、バタン。

 というドアの音と共に、


「玄関は少々狭いですけれどね、廊下脇にバス、トイレは別でございます。このお値段でこの立地ではなかなか無いのですけれど」


 と兼下さんのセールストークが始まった。

 確かに。

 廊下の左脇には二つ扉があり、開けてみるとお風呂と、トイレだった。


「もちろん、ウォシュレット完備ですし、ハウスクリーニング済みですよ」


 まるでピカピカの新品のようなトイレは、きちんと良く掃除がされたのだろう。

 染みついたのか物件を見て回るとたまにうっすらと尿臭いこともあるが、ここは匂いも特には気にならなかった。

 ドアを閉じて前の扉へと進む。

 少し行くと、扉より前側で左方向に空間があった、キッチンだ。

 コンロが二口、シンクは割と広めである。


「こちらしっかりとお料理をしていただくために、コンロは二口、シンクの広いタイプのキッチンを備え付けております」


 ニコニコとしながら兼下さんが告げた。

 一人暮らし用にしては充実している、昨今自炊とか弁当男子という文言も流行りだったから、これくらいしないと物件競争に負けるのかもしれない、と思った。

 作業台を触る。

 つるりとステンレスの冷たさが指へと伝わってきた。

 埃は無い。


 次の扉へと足を向ける。

 あれは多分リビングとの境だろう。

 こちらに向けて引くタイプのドアに手をかけ中へと入った。

 ギィ、バタン。

 ガチャリ。

 部屋の中では聞きなれない音がして振り返る。

 ドアが閉まっていた。

 慌ててドアノブを回し引っ張るが、開かない。

 何が起こったのかわからなく、手でドアを叩きながら大声で叫んだ。


「兼下さん!!」

「はいはい、松山様どうされましたか?」

「ドアが開かないんです、開けてください!!」


 返事があったことに安堵して、叩くのをやめながら彼に伝えた。

 しかし、返事がない。


「兼下さん……?」


 不安になり、周りを見回してみる。


 そこは暗闇だった。


 どうして。

 ここは賃貸の部屋のはずだ。

 窓があり、確かフローリングのリビングではないのか。

 思考がぐるぐるして気持ちが悪い。

 少しよろけ、壁に手をついた。

 ここの部屋には壁紙が貼ってあるらしい、しかし、でこぼこしている……。

 辺りいっぺんをさわさわと触る、おかしい。

 どこもかしこもささくれだったように荒れている。

 見えないが、触感でそうだとわかる。


「兼下さん?!」


 ガチャガチャとドアノブを回してみるが、開く気配がない。

 ドンドンともう一度ドアを叩いた。


「はいはい、松山様どうされましたか?」


 変だ。


「いや、ですからこちらからドアが開かないのです。開けてください!」

「あーすみません松山様、こちらからもドアが開かない仕様となっておりまして」

「どっ、どうしてですか!」

「どうしてか、ですか? 聞かれたのは初めてでございますねぇ」

「えっ、どういうことです?」

「いえね、何度か同じことをしているのですが。みなさん激怒してドアを蹴ったり叩いたり叫んだり、ひたすら開けろとしかおっしゃらなくて」

「……何度か、同じ、こと……?」

「はい。同じことをしております。思考実験でございますから」

「は?」


 私は思わずドアノブから手を離した。

 この人は、一体何の話をしているのだろうか。

 おかしい。


「シュレディンガーの猫、という実験をご存知ですか? あれは思考実験なんですけれども。量子学的に存在は観測するまで生死が重なり合っているのはおかしいのではないか、っていう」

「……」


 兼下は持論にきょうってきたのか、ペラペラとなおも話し続けた。


「ですけれどね、不確定要素がある時に結果は時に同じではないでしょう? 人ならどうなのか、と常々思ってまして。こうして時折、実験しているのです私。箱の中に人間を用意して開けるまでその人が生きているか死んでいるのか。はたまた、その人間は存在していると言えるのか言えないのか……。今のところ、ご家族が訪ねにいらしたのは十件中二件ですかねぇ。昨今離れて暮らしてらしての方も多いですから、親子とはいえ行動を把握してらっしゃる方は少ないようです。核家族化というのも、得てして良し悪しありますね。昔は三世代で暮らし、その土地から生まれて死ぬまで動かないのが当たり前だったのですが。ああ、今も私などは三世代で暮らしておりましてね、この辺りにも古くから住んでいるのですよ。あっ、だからと言って今の風潮を嘆いたりはしておりませんよ? 人口が土地から土地へ流動するということは、うちの商売も安泰ということですから。ここいらは利便性の高い大きなベッドタウンでもありますし」


 声は、実にほがらかでまるで楽しい物語でも話しているかのようだった。


「探してもらえない、もしくは探す必要なしと他者に認識されなくなった人間は、果たして生きているのでしょうか? 死んでいるのでしょうか? そもそもが、存在しているのかしていないのか。物的証拠? そんなものなんとでもなりますよ、特に一人暮らしの方ですと実に容易です。消去してしまえば跡形もない。ハウスクリーニングやリフォームで以前暮らしていた方の痕跡が消えるのと同じことです。さて。クリーニング前と後で他者に感知されていない人の存在は変わるでしょうか? おあつらえ向きにあなたの職場はブラックで人材を使い捨てと思ってらっしゃるし、ご家族もいらっしゃらない、親戚スジも遠縁ばかり。ここまで理想の方がいらっしゃるとは思っていませんでした。しばらくは思考をフルにこねくり回して実験ができそうです、ありがとうございます」


 兼下は何故か私に感謝を述べた。


「ふざけるな! ここを開けろ!!」


 足音が遠ざかるのが微かに聞こえる。

 ついでしんとした空間に、私だけが取り残された。

 どうする?!

 私は咄嗟に携帯電話の存在を思い出し、ライトの機能を使った。


「ひっ!」


 思わず携帯を手から落とす。

 画面側から落ちたのだろう、漏れ出る光がごくわずかとなって先ほどの光景は眼前から消えたが、脳裏にはしっかりと焼き付いてしまっていた。

 無数の、剥がれた壁紙。

 壁紙のめくれた端っこにはこびりついた血のようなものがあり。

 その隙間からは、剥き出しのコンクリートと、ところどころ抉れたような部分。

 それが壁の三面……それも人の手が届く範囲にだけびっしりとあった。


 閉じ込められて、いたのだ。

 誰かが。

 見知らぬ、誰かが。


「確実に、存在していただろうに……」


 足から力が抜け、へたり込んだ。

 ふくらはぎに硬いものが当たったので手に取った。

 先ほど落とした携帯だ。

 電波は、街中というのに圏外との表示。

 ……戦争映画などでたまに見る、電波を妨害するジャミングというやつだろうか。

 彼は徹底しているらしい。


 目の前は光差し込まぬ暗闇。

 窓はフェイクだったのだ。

 この辺りは、古い土地だと分かっていて住んでいた。

 あれは、地域の権力者といったところだろう。

 もう何件もやっているとも言っていた。

 ニュースで聞いたことも見たこともない。

 隠されているということだ。

 隠せているということだ。

 隠す誰かが、いるということだ。


 目の前が暗くなる。

 いや、もう既に前から真っ暗闇の中だ。

 もう一度携帯を見ようとした。

 けれど、近場ということですぐ戻るつもりだったものだから、既に電池は死んでいた。

 服のポケットの中には、家の鍵だけがポツンと寂しげに入っているだけだ。

 おもむろにポケットの中に手を突っ込んで鍵を取り出す。

 チャリ、とつけていたお守りの中に入っている、鈴のようなものが鳴った。

 今はこれだけが音の鳴る唯一だ。

 外部の物の存在の証。

 聞こえている私は生きている。

 まだ大丈夫だ。

 けれど一体いつまでが、大丈夫だと言えるだろうか。

 携帯電話はもう息をしていないから時間を確認することはできない。


 これは存在の有無への思考実験と彼は言っただろうか。


「誰か! 助けてくれ!!」


 もう一度立ち上がりドアを叩いた。

 何の反応も帰ってはこない。

 反対側の壁はどうだ。

 暗闇をゆっくりと進んで手の触った壁をドンドンと叩き、叫んだ。

 しかし、何の変化も起こらなかった。

 コンクリートの壁は、音を通さないほど分厚くあつらえてあるらしかった。

 闇。

 ただひたすら真っ暗な中、自分の輪郭さえおぼつかない。

 見えない。

 感じることと言ったら自分が右手で左手を触ったとか、そう言ったことだ。

 そもそもこれは右手だっただろうか?

 左手なのか?

 わからない。

 わからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからない暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗いおしっこが行きたいおしっこが行きたいおしっこが行きたいおしっこが行きたいお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いたお腹が空いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いた喉が乾いたここはどこだここはどこだここはどこだここはどこだここはどこだここはどこだここはどこだここはどこだったここはどこだったここはどこだったここはどこだったここはどこだったここはどこだったここはどこだったここはどこだったここはどこだったここはどこだったここはどこだったここはどこだったここはどこだったみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないみえないがさがさしているがさがさしているがさがさしているがさがさしているがさがさしているがさがさしているがさがさしているがさがさしているがさがさしているがさがさしているがさがさしているがさがさしているがさがさしているがさがさしているがさがさしているあなはないのかあなはないのかあなはないのかあなはないのかあなはないのかあなはないのかあなはないのかあなはないのかあなはないのかあなはないのかあなはないのかぶあついぶあついぶあついむりだむりだむりだむりだむりだてがいたいてがいたいてがいたいてがいたいくらいくらいくらいくらいくらいくらいくらいくらいくらいくらいくらいくらいさむいさむいさむいさむいさむいさむいさむいさむいさむいさむいさむいさむいさむいさむいさむいさむいさむいさむいうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううさみしいうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう

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