箱
ぬかてぃ、
事務所の来客テーブルにぽつんと置かれたそれは重厚なガラステーブルには似つかわしくないほどこざっぱりしていた。僕はソファーに腰掛けながらそれをずっと見ている。向かい側のやせこけた男性が今手を触れてもらわんかとばかりにその右手を差し出した。触れてしまえと僕にいざなうかのように。
ガラステーブルの下にはペルシャの手織り絨毯が映る。とてもプラスチックの、少し白色がかったテーブルには似つかわしくない箱であった。
「手に取ってみてください」
男が口を開く。見た目以上に甲高い声が僕の腕組みをさらに深いものにした。ここで少しでも手を緩めてしまえば僕はそのまま手に取ってしまいそうだからだ。
魅惑的だ。どうにも信用ならないそれを手に取りたくて仕方ない僕の興味を揺さぶる。
とはいえ僕だってそういったまやかしにも似たものを手に取りたいなんてこれっぽっちも思わない。ただ手に取ってしまえば済む話なのかもしれない。目の前の正方形のそれをぐっと掴んでしまえばなんだその程度のものだったか、という感想と共にガラスの上に放り投げてしまうのかもしれない。しかしこの箱を持ってきた男の口調や手つきはそれを促すには程遠い存在なのだ。
そもそもなぜ男はこれを僕に差し出したのかわからない。今日の午後、僕に用があるとだけ言って急に職場に転がり込んできた男だ。よれよれのスーツを着ているところから営業でもしに来たのかと思ったがこれを売りつけようとしているわけでもない。鞄からおもむろにこれを取り出して手に取ってみろとだけ言ってくるのだから。
ただろくでもないことは僕の中ではっきりしていた。その先に来る「ろくでもない」が何者なのかはっきり捉えかねるからこそ手に触れられないと感じさせられるのだ。
「お手を取りになられないのですね」
一方で僕はこれに対する返事を持ち合わせていなかった。
押し返すにしては妙な色気みたいなものがあった。僕の脳裏に「このまま返してしまって後悔しないだろうか」という考えがよぎるのも事実だったからだ。興味を得てしまったからには突っぱねるにしても心残りをしてしまう。
「では」
「いや、待ってくれ」
男が箱に手を伸ばした時それを遮った。
「しかしあなたは手をおとりにならない」
「君が言いたいことは分かる。少し考えさせてほしいんだ」
「いくらでもどうぞ。残念ながら私には有り余るほどの時間がある。よしんばあなたが一晩考えてもここで待てるくらいには」
「ならば少しだけ考えさせてほしい。なに、そんなに時間は取らない。僕にだってこういう事に多く時間を割けないのだから」
「ではお好きにどうぞ」
そういいながら手を下げた。
また静寂だけが事務所を包んだ。
じっと箱を見つめながらちらりと掛け時計を見る。まだ一時間は経っていない。しかしもう何時間も箱の前に座しているような気持になった。
触ってしまえば気も済むのだろうが、どうにもこうにも手が付かない。興味と恐怖、信用と不信感が僕の目の前を往来していく。僕はそれらの人込みにぽつんと一人立たされているのだ。
「これは何が入っているんだい」
「手に取ればわかります」
「そんなよくわからないもの手に取れないよ。例えばこの箱に毒でも塗られていたら僕は何かのタイミングで暗殺されてしまう」
「私がお出ししたではありませんか。そんなことありません」
「いいや。例えばこの面とこの面だけ毒をつけずに手元に置いて、僕を誘導しながら毒のついた場所に手を添えさせることもできる。小さいとはいえ僕も一つの会社のトップだ。大した金がないとはいえ人一人が数年遊んで暮らす程度のものは懐にある。それを狙うやつがいてもおかしくない」
「そうですか」
カマをかけるように問いただすと彼は箱を持ち、全ての面を触って置き戻すと急にその指をなめ始めた。それも躊躇なくだ。
「どうでしょう」
「どうでしょうったって君」
「本当に毒が付いているのならば私は今から、そうですね。一時間もしないうちに死んでしまうでしょう。私も人間ですので死は恐ろしく思います。ですので本当についていれば指をなめる時ためらうでしょうね」
唖然とした表情で彼を見つめた。そんなことを意にも介さないかのように彼はハンカチで指についた唾を取っている。
最早手に取るか否かの二択しかないことを改めて迫られた形となったことに改めて気付かされた。というよりはもう止めてしまった手前、僕は手に取る以外の選択がなくなったも同然だったのだ。
ふうと大きく息を吐き、ゆっくりと手にとった。
プラスチック特有のさらりとした感触が手に伝わってくる。少し引き上げると大して重くもない。軽く振ってみるが何の音もならない。中が空洞であることに気付くのは時間がかからなかった。
ただのプラスチックの箱だったのだ。
「なんだこれは」
「箱です」
「こんなしょうもないものを見せるためだけに僕を止めたのか」
「そうです」
「馬鹿にしているのか」
「いいえ」
「いいや。君は僕を馬鹿にしているね。でなければこんなことをするわけがない。これを持ってさっさと出て行ってくれ」
「お気づきになりませんか」
男の言葉に苛立ちを覚え彼の額にでも投げつけてやろうかと思った瞬間であった。その箱が少し重く感じられたのだ。
ふと凝視してみると何か変化があるわけではない。だが妙にずっしりとした感触を覚えたのだ。まるで手品のようだった。
「これは一体」
「さあ。私にはさっぱり。むしろあなたのほうがそれをよくご存じなのではないでしょうか」
「分かるわけがないだろう。持ってきたのは君なんだ。きちんと説明しろ」
「そう、ですね。私の話をしましょう。私も昔その箱を握った時、あなたと同じような感触を得ました。丁度あなたのように誰かから手渡される形で。その中に入ったものは最初こそ異形なものだと思っていましたが、存外時間を使うとどこかで記憶があるものでしてね。これでも私、やり手の営業だったのですよ。ですがやり手の営業なんて言い方を変えたら人を半分騙まし込んだ形で売るようなものでしてね。それでもその人には必要なんだ、と思いながら販売をしたのです。それがやり手の秘訣でした。私は口八丁手八丁で人を騙しながら糧を得ている。それがどこかに心の中でひっかかっていたんでしょうね。その中の重さの正体に気付いた時、誰かに渡さねばと思いましてね」
「なんで私なんだ」
「特に理由なんかございませんよ。強いて言うなら重さがなくなった時、たまたま目に入った場所がここだったくらいのものです」
男はそれだけ言うと鞄を手に取り立ち上がった。
「きっとそれは誰かに手渡し続けていくものなのでしょうね。それを天使の施しか、悪魔の誘いかを決めるのは持った人々が決めるものなのでしょう。では私はこれで。やっと家に帰れそうなので」
「待て」
僕は彼を引き留めようとしたがこちらを振り向くことなく事務所から出て行ってしまった。僕の手の中にある箱を残して。
箱は段々と重みを増していく。
だがどうだろう。奇妙な感覚を覚えた。
箱は重くなる一方で僕の肩にあった重みがどんどんと消えていくのだ。それは箱が僕の中にある何もかもを吸い上げようとしているかのように。
じっと箱を見た。箱はなにも変わらない。プラスチックの無機質な輝きを放っている。
僕はいつの間にか立ち上がり、ふらふらと歩きだしていた。
事務所も放り出したまま、鍵もかけずに玄関を開け、まるで温かさを求めるかのように日の落ちる方向へ歩いて行った。
箱 ぬかてぃ、 @nukaty
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