あした天気になあれ


観測史上最も暑い日を更新した今年の猛暑も記憶の中のこととなりつつある秋の日。俺は美月と一緒に住宅街を歩いていた。明日に引越を控え、改めて近所を見に来たのだ。

高校卒業までこの町で育った俺にとっては、景色のほとんどが懐かしい。それは中学二年でこの町を去った美月にとっても同じ、いやそれ以上の思いがあるのか、しきりにきょろきょろ辺りを見回しては、楽しそうに口元を緩めたり、愛しそうに目を細めたり、目まぐるしく表情を変えていた。

そんな様子を見ていると、職場から少し遠くなるこの町に新生活の拠点を置くことが、やっぱり二人にとっての正解だと思えた。

「ねぇ、少し休んでいかない?」

公園の前で美月が言う。朝から二時間近く歩き通しで、少し喉も乾いている。

「じゃ飲み物買ってくる、先行ってて」

記憶のままの位置にベンチがあることを確認して、入り口近くの自動販売機に向かう。俺はミルクコーヒー、美容と体重を気にする美月にはノンカフェインの健康緑茶。

公園の一番奥の木製ベンチに腰掛ける美月にペットボトルを手渡す。

「ありがと」

受け取ったペットボトルを頬に当てて美月は言う。

「何年もたつのに全然変わってないね。ブランコも鉄棒も昔のまんま。それにこの木も」

ベンチのすぐ脇にあるシイの木は、緑豊かな公園の中でもひときわ目立つ大木で、男子には木登り、女子にはドングリ拾いとそれぞれの楽しみを提供してくれる町のシンボルだ。

もちろん子供たちだけじゃなく、散歩中の老人や犬が木陰で涼を取ったり、買い物中の主婦が脇のベンチで意図端会議をしたりと、近隣住民皆に愛されている。

そして俺にとっては、美月と俺を引き合わせてくれたキューピットでもあった……。


   *


「じゃあな」「おう」

友達が帰っていくと、僕は一人公園に残された。

大人はよく「子供は遊んでばかりで気楽でいい」なんていうけれど、子供は子供なりに忙しい。真也と拓は学習塾、克則は水泳、光はそろばん。

いつもは僕と一緒に残る孝志も風邪を引いて昨日から学校を休んでいる。

しょうがないから僕も帰ろう、そう思った時、隣のクラスの女子たちが入ってくるのが見えた。

なんとなく一人で公園から出て行くところを見られたくなくて、僕はリフティングの練習を始める。

女子たちは鉄棒のところに集まっておしゃべりを始めた。友達のことや先生のこと、趣味のことや習い事のこと。

毎日同じメンバーで同じような話をしているのだろうに、よく話す内容がなくならないものだと感心していると、急に空が暗くなった。

びっくりして空を見上げると、いつの間にか大きな雲が空を覆っていて、今にも雨が降りそうな天気に変わっていた。

「うわ、すごい雲」

「雨降るかな」

それに気づいた女子たちも口々に言った。

「明日の運動会、晴れるかな」

不安げな誰かの声。

「中止になったら嫌だな」

続く別の子の声。僕も同感だった。今年の運動会は既に一度雨で延期になっているから、明日も雨だとそのまま中止されてしまう。

「あーした天気になーあれ!」

沈んだ空気を振り払うように白い靴が宙を舞った。靴は地面で何度か跳ねて、ころんと転がった。靴を蹴った子はケンケンで靴のところまで行くと、明るい声を上げた。

「明日晴れだよ!」

「え、なになに」

他の子たちも靴の周りに集まる。

「お母さんに教えてもらったお天気占い。『あした天気になあれ』って言いながら靴を蹴って、あ、本当はゲタでやるんだけどね、それが上を向けば晴れで、裏返しになったら雨なんだって」

「へぇ、面白い」

「私もやってみる! あーした天気になーあれ!」

「私も!」

女子たちは次々に靴を蹴り始めた。歌うようなフレーズに続いて、一喜一憂する声が聞こえる。なんだかくすぐったい気持ちになって、僕はリフティングに集中した。

二十三まで数えたときに「あっ」という声が聞こえた。

振り返ると女子たちが困り顔でシイの木を見上げている。緑の葉が重なる中に、ちらりと白いものが見えた。

「どうしよう」

皆で木をゆすったりしているが、全然落ちてくる気配はない。靴の持ち主は今にも泣きだしそうだ。

その顔を見たとたんに、父さんの声がよみがえった。

『いいか、お前も男なら、女を泣かせることだけはするな』

何かにはじかれたように言った。

「あのさ、ぼ、俺、取ってこようか」

女子たちが驚いて一斉に俺を振り返る。

「加藤、木登りできないんじゃなかったっけ」

去年同じクラスだった安田に聞かれる。

「できないわけじゃないよ。いつもはあんまり好きじゃないからやらないだけで」

嘘だった。運動はあまり得意じゃない。この木にも登ったことはない。いつも友達が登るのを下から見ているだけだった。

だけど、俺は男だ。女子たちには木登りなんてできないだろうし、友達のを見ていたから登り方自体は知っている。

まずあそこの大きなでっぱりに手をかけて、そのあとは小さなでっぱりや横枝を頼りに少しずつ進んでいけばいいんだ。

「これ、持ってて」

片足の彼女にサッカーボールを手渡して、俺はシイの木にしがみついた。シャツの上から、木の幹のゴツゴツした感触が伝わる。これだけデコボコしているなら、手足をかけられる場所はいくらでもある。俺は最初のでっぱりに向けて思い切り手を伸ばした。

しっかり右手ででっぱりを掴み、懸垂の要領で力を入れると、予想より簡単に体が上がる。周りで見守る女の子たちの頭の上まで一気に引き上げて、足場を探す。幹自体が少し傾斜しているから、足の位置をしっかり決めれば手を離すこともできた。

次は左手だ。小さなこぶに手をかけて、同じように体を引き上げる。そしてまた足場を探す。思ったより順調だ。

次は右手、こぶが見当たらないけれど、何とか手の届く位置から枝が出ている。俺はそれをつかんで、一気に体を引き上げ、ようとした。

『バキッ』

生々しい音がして、体が宙に浮く。女子たちの悲鳴が上がる。両手足で必死に踏ん張ると、何とか落下は止まった。危なかった。手の皮がすりむけてひりひりする。

油断大敵、焦るな。ちゃんと枝の強度を確かめながら確かめてから登るんだ。

俺は気合を入れなおして、再び足場を探した。

気の遠くなるくらいの時間が過ぎて、俺はやっと靴が引っ掛かっている高さにたどり着いた。幸いその横枝は太くてしっかりしているように見える。

念のため両手は幹にかけたまま、横枝にまたがって軽く尻で跳ねてみる。枝はゆさゆさと揺れたが、折れそうな感じはしない。これなら直接靴のところまで行けそうだ。

よし。一回深呼吸をして、俺は横枝の上を滑り出した。靴までの距離、約三メートル。

ずりずりと枝の上をスライドするようにして進む。俺の位置に合わせて、枝が少しずつしなる。

地上で三メートル進むなんて一瞬なのに、枝の上を這って進むとなるとこんなにも時間のかかるものなのか。

焦っちゃいけないと思う気持ちとしなる枝の間で板挟みになって、汗が出てくる。

それでも少しずつ、少しずつ近づいて、ようやく目の前に白い靴が見えて、そこから手を伸ばして、もう少し、もう少しで

(届いた!)

引っかかっていた靴を手に取り、女子に声をかける。

「取れたよ!」

黄色い歓声が上がる。ちょっと気分がいい。

「投げるよ、いい?」

女の子たちが頷くのを見て、途中の枝に引っかからないように気を遣いながら下に靴を落とす。また歓声が上がった。

「加藤君、ありがとう!」

泣き出しそうだった子が満面の笑みで受け取り、いそいそと靴を履く。

「雨降りそうだし、早く降りておいでよ」

その途端、僕はふと現実に引き戻された。女の子の顔は小さい。枝はしなっている。

「ぼ、俺もうちょっとここにいるから、気にせず先帰りなよ。ボールそこに置いてっていいからさ」

なんとかそういうのが精いっぱいだった。

「そう? じゃあね」

女子たちはあっさりと公園から出て行った。靴の彼女だけは何度か僕の方を振り返ったけれど、僕が片手を放して手を振って見せると安心したように他の子を追いかけて行った。


   *


「四年生の運動会の前日のこと覚えてる?」

「忘れるわけない。あの後親父にこっぴどく叱られたんだから」

結局あの後木から降りられなくなった俺は、大雨のなか枝にしがみついて半泣きになって震えているところを近所のオバサンに発見され、自宅でごろごろしていた父の手によって救出されたのである。

母親には、木登りなんてやったこともないくせに、女の子の前で格好つけて危険なことをと呆れられ、父親には十歳にもなって木登り一つも満足にできないこと自体を怒られて、恥ずかしいやら情けないやらで散々だった。

ただ、その翌日は、前日の雨が幻のような見事な秋晴れで、運動会も無事開催された。

『木から降りられなくなった加藤さんちの息子さん』の話は第一発見者のオバサンによって瞬く間に広められ、奥様連からその子供たちへと面白おかしく伝えられた。

しばらくの間はずいぶんとその件で友達にもからかわれたものだ。

「あの時は本当にごめんね」

「いや、あれがあったからこそ今の俺たちがあるんだ。今となっては怒られたことも含めていい思い出だよ」

これは偽らざる俺の本心だ。

あの日から十年後、偶然再会した俺たちは、美月の「あの時は靴ありがとう」の一言で急接近した。単に同郷というだけでは、クラスの違った美月と俺に共通の思い出があるわけもなく、これほど親密になることはなかっただろう。

白い雲が流れてきて、一瞬俺たちの上に影が落ちる。

「明日の引越、晴れるかな」

「どうかな。占ってみたら?」

俺がそう言うと、妻となる人はいたずらっぽく頷いてシイの木の前に立つ。

「あーした天気になーあれ!」

懐かしいフレーズとともに足を振り上げると、白いサンダルが半月を描いて、生い茂る緑の中へと吸い込まれていった。


(了)







投稿日時:2013年09月01日 16:07 頃

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