白の花束
「重大事故発生現場」
看板に書かれた文字を見ても、俺は何も思わなかった。
交通量の多いところでは事故はつきもので、この手の立て看板は定期的にどこかの道に設置されるものだからだ。
その看板は、両側四車線の幹線道路に駐車場が合流するところ、ちょうど歩道が切れたところに設置されていた。
見通しは悪くないものの、一日中ひっきりなしに車が行き来する大きな道路。交差点ではないから信号もなく、毎日通っていると年に一度くらいはひやりとすることもある。
だから余計に驚きもなかったのだと思う。いつか誰かが事故に遭ったところで、何の不思議もない場所だ。
そんなことより、早く会社に行かなければ。今日は新規取引先への提案プレゼンがある……入念に準備をしてかからないと。
プレゼンは無事終了した。気難しいと聞いていた相手方の部長も、実際に話してみれば単に熱心すぎるだけの人で、重箱の隅をつつくような質問も納得がいくまで重ねてくるだけのことだった。
新規のお客様だから、と入念に準備をしてきたことが功を奏し、幸い細かい質問にもほとんど答えることが出来た。もちろん中には即答できないような質問もあったが、「社に持ち帰り調査の上回答させていただきます」という言葉は真面目さの現れとして肯定的に受け取ってもらえた。
寧ろこちらの説明を一言一句聞き逃すまいと真剣に向き合っていただけて、我々としても必死に準備をしてきたものが報われたという思いで満たされた。
今日は久しぶりに日が落ちる前に会社を出られる、それもまた心地よい満足感に対するご褒美のように感じられて、自然と笑顔がこぼれた。
「お疲れ様でした」
「おう、お疲れ」
同僚もまた同じ気持ちなのだろう、疲労の色こそ浮かんでいるものの、それを補って余りある前向きなエネルギーに満ち満ちた、それでいてどこか穏やかな……満足感の溢れた表情をしている。
皆それぞれ家に帰ったら、妻や両親、あるいは恋人に今日の仕事の成果をほくほくと報告するのだろう……残念ながら俺にはそんな相手はいないが。
それでもやはり気持ちは前向きになっている。帰ったらあのワインでも開けようか。
足取りも軽く会社を出ると、白い何かが目に入った。濃い灰色の何かを背景にしたそれは、暗くなり始めた街に浮き上がるように見えた。
花束だ。
背景の濃い灰色は、「重大事故発生現場」の立て看板。裏側には何も書いていなくて、ただ無機質なペンキの色がべたりと伸びているだけだ。
その看板を固定している針金にひっかけるようにして、白い花束がそこにあった。
これもまた、事故現場にはよくあることだ。すなわち、被害者への供え物。
(亡くなったのか)
看板に書かれていた言葉を見直す――「重大事故発生現場」。
事故現場の立て看板を誰が発注しているのかは知らないが、仮に警察だとしよう。もし被害者が亡くなっていたのであれば、看板の言葉は「死亡事故発生現場」になっているのではないか。
実際そのように書かれている看板も何度も見てきた。逆にそれほど被害が大きくない事故の場合は「交通事故発生現場」「接触事故発生現場」のような表現になるだろう。
つまりは「重大事故」と書かれたこの看板を発注した段階では、被害者は重傷ではあったが生存していたのだ。
しかし今、その看板のところに、白い花束が供えられている。この数日、俺が会社に籠ってプレゼンの準備をしている間に、誰かが事故に遭い、病院に運ばれて、そのまま亡くなるということがあったのだ。
こんな事故、よくあることだ。供えられた花束を見るのだって初めてではない。それでも、先ほどまでの高揚した気分はどこかへ消し飛んでしまった。
翌日、会社から帰る時、また目に白いものが飛び込んできた。日の入りと重なってちょうど暗くなり始めた風景に、花の白は目立つのだろう。
背景が看板のそっけない灰色なのも同じ、針金と看板の間にひっかけるようにしてあるのも同じ。
ただ昨日と違うのは、花束が二つあったことだ。
一つ目の花束とは別の人が供えたのだろうか? だが、それにしては二つの花束は、大きさも形も花の種類も似すぎている。
これは恐らく、同じ人が二日続けて供えたのだろう。普通ならば二日続けて同じ人が花束を供えることは無いように思えるが、世間は広いのだ、そういう人がいてもおかしくはないだろう。
翌日、花束は三つになっていた。
土日休みを経た月曜日、俺はかすかに期待していた。
立て看板の所には――俺の期待通り――五つに増えていた。会社は休日は休みだが、花を供えている人にとっては休日も平日も関係ないのだろう。
看板の前に白い花束がいくつも供えられている様は、かなり異様だ。土曜日に激しい雨が降ったこともあり、初めの二つ、針金に絡められた花束は花弁の色も茶に変わり、花の首も下がっている。看板の足元に置かれている新しい花束は、まだみずみずしく、花びらも茎もしっかりしている。今日は少し風が強くて、一つの花束はわずかに看板の前から離れている。
それにしても、いったいどのような人が花束を供えているのだろうか。
命は金銭に変えられるものではないけれど、花束というのは意外と高いものだ。それを毎日欠かさず供えるというのは、それだけのことをしたいという強い想いがあるわけで、生前どれほど強く思っている相手になら、そのようにしたいと思うのだろうか。
例えば俺には恋人はいないが、もし心底愛する恋人がいて、その人が事故で命を落としたならば、その現場に毎日花束を供えるのだろうか。
多分、今日の帰りには、もう一つ花束が増えているのだろう。
その日は定時で退社した。
花束は既に六つになっていた。
翌日会社を午前いっぱいで早退した。
看板の横を通ったとき、花束は六つのままだった。
用事があって早退したわけじゃない。
俺はなんとなくその場に留まることにした。
花束が増える瞬間を、見てみたかった。
花束の供え主に、会ってみたかった。
近くのカフェに陣取って、そこで待つことにした。
……
…………
………………
……………………
数時間が経った。もうすぐ十五時だ。
店の前が急に騒がしくなった。何人もの女子高生たちがおしゃべりをしながら道に広がっている。
そういえば近くに私立の女子校があった。そこの授業が終わったのだろう。
俺はロリコンというわけではないし、付き合うならやはり自分と同じくらいの年齢の女性がいいと思うが、それでも若さを遠慮なくふりまきながら明るい笑顔をまき散らす彼女たちは眩しくて、なんだか胸が苦しくなった。
女子高生たちの群れが去ってしまうと、道はまた静けさを取り戻した。
幻のような光景だった。数年前には自分もまたその幻の一部だったわけだが。
俺はこんなところで何をしているのだろう。大人としての良識が、こんなばかばかしいことは止めて早く家に帰ろうと呼びかけてくる。せっかく午後休を取ったのに、貴重な時間をこんなところで無駄に消費するのか?
だいたい花束が増えようが減ろうが、俺には関係のないことだ。被害者とは面識もないし、事故もまた俺とは無関係だ。
よし、帰ろう。
そう決めて立ち上がったとき、まるでタイミングを計っていたかのように一人の少女が現れた。
彼女もまた近くの女子校の制服を着ていたが、先ほどの女子高生たちとは異なり、静かな雰囲気をまとっていた。手には、白い花束。わずかに俯いて、看板に向き合って立っている。
俺は慌てて立ち上がった。
「ねぇ、ちょっと、君」
看板の前に花を供えて立ち去ろうとしていた少女に声をかける。
「なんですか?」
振り向いたその顔には警戒が露わだ。無理もない、女子高生が息を荒げた見知らぬオヤジに声をかけられたのだから。
「いや、その、怪しいものではないんだけど」
話しかけたはいいが、初対面の少女にいきなり「なぜ君は毎日花束を供えているのか」なんて聞けるわけがない。
カフェにいる間に、話しかけ方のシミュレーションをしていなかったことを激しく後悔した。
「用がないなら、私行きますけど」
半ば睨むようにして彼女が問いかけてくる。一刻も早くこの場を立ち去りたいようだ。スーツ姿のサラリーマン(おそらく外回りの営業だろう)やOL(休憩時間だろうか? すぐそこの角に見えている銀行の制服だ)などが、俺と女子高生を怪訝そうに眺めながら脇をすり抜けていく。
腹を括るしかない。どうせ彼女からの印象は最悪だ。
「君が供えていた花束のことが気になっていたんだ」
「え……」
「俺はそこのビルに入っている会社に勤めているんだけど……道路とかに花が供えられているのはよく見るけど、毎日花束が増えていくのははじめてでさ……どんな人が供えているんだろうって気になっていたんだ」
「そうなんですか……こんなの、誰も気にしていないと思ってました」
彼女は少しばつが悪そうにする。そんな顔をする必要など全くないのに。
そう、ここで事故に遭った人は亡くなって、彼女はその弔いの為に花を供えているのだ。やはり興味本位で話しかけては行けなかったかもしれない。ばつが悪いと感じるべきは俺のほうなのだ。
「いや、こっちこそ突然こんな不躾なことを、申し訳ない……毎日花束を供えるなんて、その、亡くなった方は君にとって、大切な方だったんだろうね」
とってつけたようなお悔やみの言葉にも
「いいえ、お気になさらず……これは弔いの気持ちというよりは、一種のおまじないというか……私が自分の心を落ち着けるためにやっているだけというか……彼女のためじゃなくて私のためですし……こうすることで、早く彼女が安らかになってくれれば、それでいいんです」
と優しく言って、彼女は寂しそうに笑った。
「数がいっぱいあったほうがいいかと思ったんですけど、誰かが見ているとなると、古いお花を残しておくのはちょっと恥ずかしいですね」
そして彼女は、針金に括りつけてあった二つの花束を持っていた紙袋の中にしまった。
「それじゃ、私そろそろ行かないと……塾があるので」
そう言うと、彼女は会釈をして、歩き出した。
「あ、あの! 急に声かけてごめん……うまく言えないけど、気を落とさないで!」
背中に向かって声を張り上げる。
周りの通行人が驚いたように俺を振り返った。
彼女も少し驚いたような顔でこちらを振り返ったあと、今度は腰から深く体を傾けるお辞儀をして、そのまま駅のほうへと消えていった。
その日以降彼女に会うことはなかったが、白い花束のお供えは毎日続いていた。時には古い花束が回収されるので、数は多くても五つ程度に収まっていたが、毎日みずみずしくも物悲しい白い花が供えられているのを見て、俺はあの時の彼女の寂しそうな笑顔を思い出していた。
ある通勤の朝、いつもと同じように歩いていた俺は違和感を感じて立ち止まった。だが、その時には違和感の正体に気づくことはなかった。
なぜかその日以降、花束が増えることはなかった。古い花束が回収されることもなくなった。
それからさらに数日後。
古い花びらが風によって、すぐ近くの俺の会社の入り口にまで飛ばされてきていた。
どうしてあの子は花を供えるのを止めてしまったのだろうか。
不思議に思いながら、ゴミと化した花びらを拾う。
ついでに、看板の所にある花束も捨ててしまおう。どれもこれも、ここに持ち込まれてから一週間以上たっており、あるものは茶色く変色し、またあるものは通行人に踏まれてへし折れ、みすぼらしいことこの上ない。
針金に括りつけられた花束も丁寧に外し、ゴミ袋に入れる。
随分と綺麗になったが、同時に殺風景にもなった。
何とも言えない気持ちで看板を見返し、そこでようやく俺は少し前から感じていた違和感の正体に気づいた。
「死亡事故発生現場」
看板の上にテープが貼られ、文字が書き換えられていたのだ。
……あぁ、そうか。
だから、彼女は来なくなったのか。
あの日の会話を思い出し、俺は戦慄した。
閉
投稿日時:2013年06月22日 04:10 頃
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