リィンカーネーション・シンドローム

黒住 墨

第1話(完結)

汗ばんだ横顔を風が吹き抜けた。夕凪が終わり、風が出てきたらしい。草刈りの手を止め、顔をあげると、見慣れない少年が立っていた。こんな辺鄙な場所に突っ立っているにはあまりに不釣り合いな年格好に面食ってしまい、何も言えずにじっと少年を観察する。

一目には11、2歳に見えた。髪は鮮やかな金色で、瞳は雨上がりの空のような碧だった。かなり上等そうな服飾品を纏っているが、彼自身がもつ気品も少しも見劣りしない。物語に出てくる王子様のようだ、と言うのが陳腐なれども、彼を表現するに最も適した言葉だった。

一番近くの村はさほど遠くはないが、さすがに目の前の彼がそこから迷い込んできたとも思えない。何か目的があってここに来たのなら、先に声をかけるべきなのだろうかとぐずぐず悩んでいると、少年が声をあげた。

「灯台守と言うのは君かい?」

「え? はい、一応」

ウェズリーがおっかなびっくりと返事をすると、少年は満足そうに頷く。

「全く驚いたよ。既に廃墟となっていて人はいないと聞き及んでいたんだが……」

困ったように笑いかけられると、罪悪感が沸いてくる。言い訳をするように、ウェズリーはあわてて口を開いた。

「だ、大厄災で両親が死んで以来、灯台としては機能してないんだけど、その……ボクはそのままここに住んでて。えっと……だから周りからは『灯台守』って呼ばれてるんだけど……」

着地点を見定めずに口を開いたばかりに、どうにも焦点のズレてふやけた言葉ばかりが出てくる。ウェズリーとしては見知らぬ彼が何用でここにいるのかが聞きたいのだが、生来の引っ込み思案故、簡単なことがなかなか口から出ていかないのである。そんなウェズリーの懊悩を知ってか知らずか、少年は交代するように口を開いた。

「名乗るのが遅れてすまない。私はラトレル。単刀直入に言うと、君の住まいである灯台を壊しに来た者だ」

「……は?」

少年──ラトレルは整った愛想笑いを貼り付けたまま、すらすらととんでもないことを宣った。冗談なのか本気なのかわからず、何のリアクションも出来ずにいると、ラトレルはさらに続ける。

「順を追って説明をしよう」

『大厄災が再来する』。 1週間前、王宮予言師が予言をした。

 8年前、星竜アストライアーが帰属国たるエスメラルダを裏切り、世界に反逆した事件『大厄災』。世界人口の3割が減ったとも言われる恐ろしい出来事であるにも関わらず、未だに多くの謎と禍根を残している。その中でも特に『祝福を忘れたアンシーリーコート』の存在は今でも多くの人々を蝕み続けていた。アストライアーの討伐後、突如各地に現れるようになった魔獣がアンシーリーコートである。倒しても倒しても一定時間が経過すると沸いてくる厄介な存在で、人類に選べる手段は限られていた。多くの都市国家は城壁や結界で街を囲み、今日まで生きてのびてきた。エスメラルダ王国も類に漏れない。

 未だ8年前の傷が癒えないうちに、再びアストライアーの襲撃を受ければ、今度こそ世界は滅びの時を迎えるだろう。そこで、落日の時を防ぐべくやってきたのがラトレルだという話らしい。

「……な、なんでキミみたいな子供がそんなことを?」

 ラトレルはぱちくりと目を瞬かせたのち、破顔した。

「ククク……。いや、すまない。そういう反応をされるのが久しぶりだったものでね。……ときに、君はいくつだ?」

 ウェズリーは怪訝な表情を隠せないまま、素直に「18だけど」と答えた。

「奇遇だな、私も18だ。仲良くしようじゃないか」

 そう言って差し出された手に一拍遅れて、ウェズリーも手を差し出した。ぎこちない握手が為されている間もウェズリーは釈然としないままだった。子供に冗談を言われているだけなのか、本当に18歳にしては背が低すぎる男なのか、判然としない。ウェズリーがなおも解せずにいる中ラトレルは手を引っ込めると、「さて」と本題に移っている。

「第一の予言は『塔を倒せ』だ。このまま放っておけば、必ずエスメラルダにあるいずれかの塔が倒れてしまう。そうなれば少なからず被害が出るのは間違いない。だから予言が現実になる前に、こちらで履行してしまおう、ということなんだ」

ウェズリーは矢継ぎ早な説明に目を白黒させつつも尋ねた。

「予言を履行って、それじゃあ大厄災の再来が早まっちゃうんじゃ……?」

「王宮予言師の予言は絶対だ。多少の揺らぎはあるにせよ、必ず達成される。つまり、もはや大厄災の再来そのものを防ぐことは出来ない。ならば、それまでに起こる前提事象を最低限の被害に留めることが優先される。予言を有利に履行すれば最終予言に対してアドバンテージが得られる、というわけさ」

ここまでの説明を聞いて、ウェズリーにもようやく事態が飲み込めてきた。ラトレルは無人の廃墟と聞かされていたこの灯台にやってきて、「予言の履行」とやらのために人的被害が出ない形で倒壊させるつもりだったが、そこにウェズリーという邪魔者がいて、困り果てているのだ。

しかし、相手の事情が飲み込めたところで、「そうですか」と看過は出来ない。廃墟も同然とはいえ18年過ごしてきた我が家である。他に頼れる親族もいない以上、ここを離れても行く先はない。そう簡単に譲れる場所ではないのだ。

こんな時、つらつらと口から言葉が出てくれたら、と奥歯を噛みしめていると、ラトレルが再び口を開いた。

「これだけは伝えておこう。予言の履行までさほど時間はない。……とはいえ、いきなり君の住居を明け渡せというのも乱暴だ。私は一旦退散させていただく。どうか、一晩考えてみてほしい」

言うや否や、ウェズリーの返事も待たずにラトレルは踵をかえした。何を言うこともできず、小さくなっていく彼の背中をぼんやりと眺めてしまう。

先ほどまで紅かった雲は今や紺色に変わっていて、消えていく太陽の残滓を追いかけるようにそぞろに動き出している。夜闇を迎える準備をするように風は動き出したのだった。



一晩考えろも何も、「他を当たってくれ」としか言いようがない。ここが唯一の無人の塔だとしても、第二候補地くらいはあるだろう。そっちに行ってくれ。 

床につき、天井を見つめながら思う。それが偽らざる本音だった。

だが、本音に対して正直に頷けない自分もいた。ウェズリー自身、大厄災で生まれた災害孤児である。自分のような存在が一人でも減るなら、協力すべきなのかもしれない。たった一人、自分が我慢するだけで他の誰かの命を救えるなら、我慢をするべきなのだろうか。

モヤモヤとまとまらない思考を抱えながら、何度目かの寝返りをうったとき、焦げ臭い匂いが鼻腔をついた。ウェズリーは跳ね起きると、弓矢を手にとって、慌てて階段をかけ下りる。

すでに1階は火達磨と化していた。この灯台は1階にしか出入り口はない。窓はあるが採光のためのはめ殺しだ。とはいえ状況が状況である。もはや窓を割って2階から飛び降りるのが一番安全かもしれない。そう考えながら窓に近寄ると視線を感じた。

外から矢をつがえて窓を睨む村民が2、3人。この様子では、他の窓も同様に見張られているだろう。ウェズリーは重いため息をつかずにはいられなかった。

「そうか……。ラトレルに倒されなくても、ここが『そう』だったんだな」

近くの村の村民たちに厄介者として忌まれている自覚はあった。ウェズリーだって、村に居場所を作れるならそうしていたのだ。それが出来ないから、こんなところで孤独に灯台守なんかをしている。

きっとどこに行っても同じように厄介払いされ、忌み嫌われていくのだろう。それならいっそのこと、思い出と共にこの塔を墓標にするのも良いのかもしれない。そう考えて自嘲気味に笑った瞬間。轟音と共に、視界が開けた。

 ラトレルによって塔が竹のように斬られ、天井や壁が取り払われたのだと、おもむろに脳が理解した。唐突に広がった夜空の中、火影に照らされた彼は夜の太陽のように輝いていた。

「迎えにきたぞ。一緒に逃げようか」

ウェズリーが返事をする前に、勝手に手を取られ、強引に引き上げられた。

「えっ、なんだこれ……飛んでる……!」

半分に切られた塔からみるみるうちに遠ざかっていく。何かしらの飛翔体に乗せられていることは分かったが、それ以前に己の置かれている状況が飲み込みきれない。焼き討ちにあって落ち込んでいたかと思えば、夜の空をよく知らない少年と飛んでいる。

「魔法の折紙……といえばなんとなく伝わるかな? 飛べる。以上だ」

簡素すぎる説明を聞き流して、ウェズリーはようやく口を開く。

「な、なんでキミがここに……?」

わからないことが多過ぎて、質問が追い付かない。とりあえずは最初に思い浮かんだ疑問をぶつけた。

「そうだな……。どうせしばらくは移動だ。1から説明しよう」



「どうやら歓迎されていないらしい、とすぐにわかった。宿賃を2倍出すと言っても主人の顔が晴れなかったからよっぽどだ。腹を探ってみてもはぐらかすばかり。これは何か余所者に知られたくない事、とりわけ後ろぐらい事情を抱えていると思った。案の定、夕食には眠り薬が仕込まれていたよ。何の対策もなく飲めばおそらく今もぐっすり眠っていただろうね。今時、暗殺なら対魔術無効の毒物を使うのが主流だろうが、さすがにそこまで上等な毒ではなかったから、夕食は毒ごと美味しく食べたよ。それから眠り薬が効いているフリをして部屋に戻って、狸寝入りしながら、様子を見守っていたんだ。そうしたら『あいつを殺すなら今日しかない』だとか、『可哀想だがこれも村のためだ』とか、剣呑な言葉が次々と飛び出してきた。これはもう予言の履行が始まっているに違いないと考えて、事が成されるのを待っていた訳だ。そして焼き討ちが始まったから、颯爽と飛び出して格好よく君を救って、今現在に至る、と。

しかし、君。一体何をするとあれほど嫌われるんだ?」

ラトレルの質問は無視して、ウェズリーは尋ねた。

「……灯台が燃やされるのを、黙って見てたってこと?」

自分で思っているよりもずっと冷静ではない声が出て、逆に胸中に悲しみが溢れてくる。村民に裏切られ、殺されかかったのだという実感が心を蝕む。

「そうだとも。まぁ本来ならばそのあたりは適当に誤魔化して君の救世主を装うつもりだったんだがね。でも、君。私を見たときにえらく嬉しそうな顔をしたじゃないか。それで毒気を抜かれてしまってね。もういいかと委細正直に語ったよ。特に弁解はない。私はただ予言の履行をしにきただけの薄情者さ」

世界にたったひとりぼっちで死んでいくしかないのだと、絶望の縁に立っていた。だから夜闇と共に彼が現れたとき、こんな自分でも拾い上げてくれる人がいるのだと、確かに思ってしまったのだ。

偽善者ぶって騙してくれた方がよっぽど良かった。ウェズリーがどう傷つくのかをすっかり慮外に捨て置いて、一方的な真実を伝えてくるのはもはや暴力だ。そんな清廉さは今のウェズリーには必要なかった。

「……ボクはアンシーリーコートを引き寄せる体質なんだ。だから村には近づけなくて。でもあの村しか頼れるところもなくて、仕事を振ってもらって食料をわけてもらってたんだけど。先月……、女の子が死んだんだ。アンシーリーコートに殺された。誰にでも分け隔てなく親切で、だからボクなんかにも優しくて。そのことがきっかけで、きっといろいろ不満が溢れたんじゃないかな。いつも……悪いのはボクなんだよ」

悲しみや怒りが胸中で渦を巻き、暴風が吹き荒れていたが、それを表出する気概が沸かなかった。たどたどしくぽつぽつと語りながら、静かに涙が溢れ、顎に垂れていく。

「……村人たちは厄介払いが出来て清々とした事だろう。私は予言を履行し、人的被害もゼロに抑えられた。ただ、その過程で君の生活を奪ってしまった。その責任は取ろう」

長く停滞した凪を終わらせたのは気持ちのよい薫風などではなかった。人生をねこそぎ薙ぎ払ってしまうような嵐だ。

「新しい住居を用意しよう。……いや、あるいは全てに絶望してしまったというのなら、ここで終わらせてあげることも出来る。どちらが良いかな?」

笑顔で訪ねてくる嵐に、ウェズリーは涙を拭きながら答える。



 エスメラルダの王都まで空飛ぶ折紙とやらでひとっ飛び、かと思いきや。二人は不安定な足場での海上戦を強いられていた。

「わかった気がするよ……っ! 君を燻製にしようとした村人たちの気持ちがね!」

ラトレルは悪態をつきながらイカのような魔獣の触腕を切り落とした。触腕は10本しかないが、切り落としたところですぐさま再生するので、実際は100や200本の腕を持っているかのようだ。

「うるさいな! 一番苦労してるのはボクなんだ! いつもいつもこんなのに襲われて! なのに、やることって言ったら気疲ればっかり!」

ウェズリーはウェズリーで弓矢で応戦している。足場は先程まで空の旅を支えていた折紙だ。今はラトレルとウェズリーで分割され、2方向で攻防を繰り広げている。

「苦労話はあとで聞いてやるさ! 今はこいつだ! これは結構な大魔獣だぞ!」

イカの大魔獣はウェズリーがこれまで出会ってきたアンシーリーコートとは一線を画していた。アンシーリーコートは力こそ強いものの動きは単調で、戦闘員がきちんと対策を取れば恐れるほどのものではない、というのが一般的な評価だ。それがこの大イカはまるで違う。攻撃のひとつを取っても、敵をなぶろうという『意思』が感じられる。気を抜けばすぐさま墓場行きだ。今、ウェズリーが生きていられるのは折紙の空中機動力あってのもの。陸地で襲われていたら一巻の終わりだっただろう。

「君! 触腕は私が引き受ける! その隙に、奴の目を狙ってくれ!」

ラトレルはそう叫ぶや否や、イカの周りをぐるりと大回りで移動した。10本の触腕すべてがボトボトと海の藻屑と化す。同時にウェズリーの周囲をうねっていた触腕がラトレルに引き寄せられていく。

「よし……っ」

ウェズリーはイカの正面に回り込むと、連続して2射、目玉を狙って放った。

「ギュオオオオオオオオオオオオ!!!!」

イカのどこから声がするのかは不明だが、不気味な叫声が一面に伝播した。耳から脳を震わせる大音波に一瞬怯むも、敵に有効打を与えたことには間違いない。役目は果たした、とウェズリーはイカから距離を取る。

「上出来だ!」

鮮烈に青く、巨大な魔法刃が須臾の間にイカを一刀両断にした。イカはドロドロと黒い靄と化し、徐々に風に溶けて消えた。魔法生物であるアンシーリーコートは倒しても死体が残らない。いくら倒したところで、戦功にも食料にもならない。だから、アンシーリーコートを倒す仕事は嫌われるのだ。

「驚いたよ。その腕なら今すぐ王宮騎士として雇ってもいいくらいだ」

汗ひとつかいておらず、余裕綽々と言った様子で軽口を飛ばすラトレルに、ウェズリーはぎこちない笑顔で応えた。

「アンシーリーコートを引き寄せる体質ともなれば、周囲の人間もそうだが、まず君が一番危険だ。それがここまで生き永らえてきただけのことはある。いっそのこと本当に騎士団を志してみてはどうだ? 新しく職も必要だろう? 何なら口利きしても良いが」

「だ、大丈夫だよ! そんなことより、さっきから君、君って、ボクにはちゃんとウェズリーって名前があるんだよ」

勝手にどんどん話を進めそうなラトレルを遮りつつ、わざとらしく話題を変えるとラトレルはきょとんと目をしばたかせた。

「ウェズリー? ……あぁ、ウェズリーというのか、君」

今度はウェズリーがきょとんとする方だった。慌てて記憶をまさぐってみると、確かに一度も名乗ってはいないのだった。

「まぁいい。ウェズリー、多少予定は狂ったが、あと少しで王都に到着する。君の新居はすぐに用意させよう。それまでの間は王宮の客室を使うと良い。それで私の責任は果たされるだろう」

本当の事を言えば、途中からラトレルが「ただのお坊ちゃん」ではない事には察しがついていた。ただ己の類推の結果を信じることが出来ず、気づかないふりをしていただけだ。棚上げも潮時だろう。ウェズリーは意を決して訪ねる。

「その……、ラトレル、キミって一体……?」

ラトレルはくすくすと声を殺すようにして笑った。

「あまりにも何も聞いてこないから、わざとらしく匂わせてみればやっとか。……先に言っておくが、これまで私の立場を明かさなかったのは無用な気遣いや忖度を受けないようにするためだ。特に今後も態度は改める必要はない。……では、今一度名乗ろう」

逆光に輝く彼の頭の輪郭を見ながら、じっと堪えるようにして耳を傾ける。

「ラトレル・ザカライア=ララ・エスメラルダ。エスメラルダ王国の王子だ。以後、お見知りおきを」



ウェズリーは既に遥か後方、蒼茫たる大海原の向こうにある王都の方角を横目にため息をついた。いつかどこか遠くまで気ままな旅にでも出てみたい、と夢想したことはあるが、まさかこのような形で船出することになろうとは。

旅客戦艦グウェンドリン。大厄災以降、アンシーリーコートの出現により輸出入は大幅に減少した。当然ながら、観光目的の渡航も激減したのだが、このグウェンドリンはその例から漏れる。大厄災後の新造艦であるグウェンドリンは名前の通り、旅客船でありながら、同時に戦艦の機能も備えている。艦砲を備え、また乗務員の半分は戦闘員であり、いつ魔獣に襲われても対応が可能というのが最大の売りである。

本島と5つの離島から構成される島国であるエスメラルダでは、主たる移動手段として定期巡航をしており、連日富裕層の客で賑わっている。……はずなのだが、今日は甲板も客室もがらんとしている。何しろ王族の権限で貸し切りにしたというのだから当然といえば当然のことである。

心中でそんなことを考えなから、共にカードゲームに興じている二人を盗み見た。一人はラトレルだ。笑顔の仮面を貼り付けて自分のターンが回ってくるのを待っている。もう一人は12歳前後といったところの少女だ。名前はベサニーというらしい。幼い顔立ちをキっと引き締めてこちらを見つめている。シンプルなデザインのメイド服をまとっているものだからウェズリーはてっきり従者か何かなのかと思ったが、聞いたところによれば、大厄災の復活を予言したという「王宮予言師」らしい。情け容赦のない直視になんとか知らんふりをしながら、自分の手番を済ませる。

身分が大きく異なるこの3人が甲板でテーブルを共にしている理由を語るには一週間ほど時を遡らなくてはならない。

大イカ討伐後は特に魔獣に遭遇することもなく王都エラルドへ到着した。そのまま王宮へ直行し、応接室という名の針のむしろでしばらく待たされた。自分のような平民が王宮などに入ろうものなら、野犬のように邪険に扱われるのではと危惧していたのだが、さすがに王宮に給仕する者の品格は違った。隣国の貴人であろうが、雑草のごとき平民であろうが変わらぬ、完璧な応接だった。逆に居心地の悪い王宮暮らしが3日経った頃だ。突然、ラトレルから呼び出しがかかった。初日に通された応接室でやたらとやわらかいソファに身を委ねていると、ノックの音からやや遅れて、「待たせてすまないね」と言いながらラトレルはやってきた。

「それなりに難航したが、君の新居候補が見つかったんだ。その報告と、提案があってね」

「そうなんだ……。でも、提案って?」

ウェズリーはいまいち乗り気になれなかった。生きるためには新しい居住先が必要だ。とはいえ、あの灯台の他にウェズリーが住むに能う物件などあるのか? と考えると気が塞ぐ。

水棲の魔獣は基本的には陸地まであがってこないため、三方が海に囲まれていた灯台は防衛が楽だった。魔獣が現れたとして、屋上までいけば櫓としても機能するため、いざとなったら一方的に高所から狙い打ちに出来たのだ。それに村との距離もよかった。避けられつつもギリギリ共生が出来る。ウェズリーにとってはそういった環境を失ったことが精神的にも現実的にも一番辛いことだった。

そんなウェズリーの心境を知ってか知らずか、ラトレルは話を続ける。

「ニルア港はわかるだろう? そこから海路でヘズディン列島へ渡るんだ」

ヘズディン列島というとエスメラルダ王国領の西端に当たる島である。王都は領土の西寄りにあるため、そう遠くはない。とはいえ、島流しのようであまり気分は乗らなかった。贅沢が言える身分でもないから快諾とまでは行かないが、ひとまずは了承の旨を口にしようとしたとき。

「現地にはグウェンドリンで向かう予定だ。定期巡航のコースから外れるが、そのあたりは……」

「グウェンドリン!?」

ウェズリーの大声にラトレルは呆気にとられた様子で黙りこんだ。ウェズリーは沈んだ心持ちが嘘のように興奮した様子で捲し立てる。

「グウェンドリンって、あ、あの旅客戦艦グウェンドリンだよね!? ボクが乗っていいの!?」

子供のように高い声をあげるウェズリーに気圧されつつもラトレルは頷いた。

「君の事情を考慮して明日の航行を貸しきりにしてもらったんだ。乗客は私と君と従者が数人。あとは船員だが、グウェンドリンの船員は半分戦闘員だから問題なかろう。ただひとつ問題があってね……」

ラトレルはそれからも話続けていたが、既にウェズリーには届いていなかった。憧れのグウェンドリン! おまけに貸しきり! で頭がいっぱいなのである。

誰に話したこともないが、ウェズリーは船が好きだ。灯台の役目はいわずもがなだが、船が惑わぬよう目印となることである。大厄災以降、船が航行できなくなると同時に灯台も存在理由を見失ってしまった。いつか灯台をかつての地上の星として輝かせてやりたい──ひそかにそんな夢を持つウェズリーにとってグウェンドリンは夢の象徴のような存在で、いつしかグウェンドリンは憧れとなっていた。名しか知らぬその偉容をこの目に納めたい。そんな叶わぬ願いを抱きながら夜をやり過ごしてきたウェズリーにとって、千載一遇のチャンスに他ならなかったのである。

「……というわけなんだが、どうだろうか。一緒に来るかい?」

「行く! 行くよ、是非とも、絶対に、行く!」

などと、注意事項をよく聞かずにかぶせ気味に了承してしまったので、大体はウェズリー自身の身から出た錆なのである。

時をグウェンドリン上に戻す。

「少し上の空だとは思っていたが、まさか全く聞いていなかったとはな……」

ベサニーの手番を待ちながら、ラトレルは肩を落として言った。

「う、うん……その……ごめん」

「もう一度説明するから、今度はよく聞いておいてくれよ」

そのように前おいてからラトレルは語り始めた。

「第一予言が履行されたからにはもはや待ったなしだ。続けて第二予言と第三予言を極力安全に履行せねばならない。というわけで第二予言の履行候補地の特定だが、それについては簡単だ。何しろ当てはまるものがこのグウェンドリンしかないからな。だが、別のところで問題があってね。……乗客と到着港。前者はこの通り貸しきりという形で押し通した。後者が難しくてね。万一、着港直前に履行されたら被害が大きくなる。だが、寂れた港にグウェンドリンのような大型船は停められない。最悪の場合、洋上で待機させるという手段も考えられたが……それは避けたかった。そうなると、船員の命の安全を保証できなくなる。そういった事情を踏まえた上で浮上したのがヘズディン列島だったんだ」

相づちをうちながら、ウェズリーは疑問に思っていた。ヘズディン列島は特に観光地というわけでもない。漁港ぐらいはあるだろうが、グウェンドリンでは港に入ることすら出来ない規模ではないだろうか。

そんなウェズリーの疑問を察した様子でラトレルは微笑む。

「『ヘズディン列島に大型船を停められる港なんてあるのか?』という顔だな。私も聞いたときはそう思ったものだよ。だが、実際あるらしい。まぁ正しくは建造途中で投げ出された『港もどき』らしいが、贅沢は言えない。ほとんど人がおらず、岸壁近くまで寄れれば十分だ。そういった流れでヘズディン列島行きの貸しきり便を手配していたところに、君の居住先としてもヘズディン列島はちょうどいい、という話になったわけだ」

偶然とはいえ、ウェズリーの住居の条件と予言の条件が重なっていたということらしい。ラトレルの提案は「ヘズディン列島への巡航船はないため、グウェンドリンに乗らなければ次の機会はいつになるかわからない。だがグウェンドリンに乗船するとなれば相応の危険は伴うことになる。それでも一緒に来るか?」というものだったらしい。聞けば聞くほど、亀のように首を引っ込めるしかない。

「説明ありがとう。……つまり、この船にも必ず何かが起きるってことだよね」

訪ねると、ラトレルは顎に手を当てて黙りこんだ。何かに逡巡しているらしき数秒が終わると、顔をあげて口を開いた。

「君を危険にさらす以上、予言についても説明しておこう。本来は国家機密だから他言は無用だ」

ウェズリーは生唾を飲み込みつつ頷いた。

「予言は全部で3つある。第一予言『塔を倒せ、塔を倒せ。大厄災は再臨し、世界は暗転する』。これは既に履行された。そしてこれから挑む予言はこうだ。『船は稚児のように踊る。そして幕は開かれる』。そして……」

ラトレルの言葉は最後まで続かなかった。突然、ウェズリーの背後から声がかかったからだ。

「その手札だったら一度捨てちゃった方がいいんじゃない?」

女性の声だ。乗客はウェズリーたちだけだから、消去法で言えば船員ということになる。だが、船員がこうもフレンドリーに話しかけてくるものだろうか。

ラトレルがにわかに立ち上がったかと思うと、剣の柄に手をかけながら、キッと眼光を鋭くした。声の主を睨めつけている……ようなのだが、その瞳は動揺に揺れていた。ラトレルの様子を訝しみつつも、おもむろに声の方向に振り向く。

眼鏡をした長身の女性だった。海風に揺れる銀髪をなでつけながら、からからと楽しそうに笑っている。

「久しぶりだね、王子様くん。2年ぶりかな? 相変わらず小さくてかわいいね」

「何をしにきた……というのは野暮か。君が来たからには予言と無関係ではないだろう?」

誰に対しても爽やかでにこやかな態度を崩さないラトレルがぶっきらぼうに言うものだから、ウェズリーは呆気に取られていた。女性の側はともかく、ラトレルの敵意は本物だ。逃げ場はないから、戦闘になれば戦うしかあるまい。一応、狩り用のナイフは忍ばせてあるが、それを人に向けることが出来るだろうか。そんなことを考えていると、ふと女性の視線がウェズリーに向いた。

「そちらのお二人さんは初めてましてだね〜! ソニアで〜す! 『西の魔女』とかって呼ばれてるよ! よろしくね!」

「西の魔女」といえばウェズリーでも知っている。2年前に起きた「ロストアイランド事件」の首謀者とされるテロリストの異名だ。悪魔のように語られる人物が目の前にいると考えると、背筋が寒くなってくる。

「そう怖い顔することないよ、王子様くん。アンタのいう通り、私は私の予言に基づいて行動してるからね。同道しようよ」

「……1万だ」

ラトレルは低い声で呟いた。ソニアはきょとんと首をかしげる。

「君が2年前に殺した民の数だよ。私と君と手を携える未来はない。……残念だがね」

瞬間、隣にいたラトレルが忽然と消えたかのように思えた。しかし、その認識は誤りだ。実際は目で追えないほどのスピードで加速し、ソニアに接近しただけである。

だが、さらに驚くべきはソニアの方だった。振り下ろされた必殺の剣をあっさりとかわして見せ、悪戯っぽくアイスブルーの瞳を細めた次の瞬間、ソニアの反撃が炸裂した。

「タイプ/トランスレート/アタック/オートマニューバ/アイス」

それは氷の杭とでも言うべきものだった。突如空中に出現し、目にも止まらぬ速さで鋭利な殺意が伸びる。6本出現したそれをラトレルはバックステップで回避した。が、もちろんソニアがそれを黙って見ているわけではない。氷の杭は霧消と再出現を繰り返し、何度でもラトレルを穿たんと迫る。

「さぁさ! 王子様くん、腕が落ちてないか見てあげよう! 2年分の抜き打ちテストだよ!」

氷の杭は上下から左右から、実に自由自在かつ多彩な攻撃を繰り出す。ラトレルが避けたと思いきや、氷の杭が枝分かれする形で、さらに杭が伸びて背後から心臓を抉ろうと迫ったときは思わず目を覆ったし、足元への攻撃を外したと見せかけてからの足払いなどは逆に感心してジッと眺めてしまったりした。防戦一方とはいえ、ソニアの苛烈にして合理的な攻手に応戦しているラトレルの技量も相当なものだろう。魔法については明るくないウェズリーでも、ソニアが「優秀」以上の魔術師であることは間違いないと感じられる。この強さであれば「人災」「西の魔女」などと呼び称されることも不思議ではない、と頭の冷静な部分で納得していたとき、ついに戦況に変化が現れた。

突然、ラトレルがぴたりと動きを止めたのである。氷の杭は当然、構うことなく彼を串刺しにしようと迫る。ラトレルを狙っていた6本の杭のうちの1本が、彼の渾身の刺突によって砕かれた。すると、同時に残りの5本も砕け散り、粉と化して風と共に消えた。

「い、一体……何が」

状況を読めないウェズリーが思わず呟くと、思わぬところから声がした。

「なぞなぞみたいなもんですよ」

子供らしい甲高い声は隣からだ。『王宮予言師』ベサニー。

「あの6本の杭の中に一本だけ特別な動きをするものが混じってたんです。それを親機、残りを子機としましょう。親機はご覧になっていたように形状を自由に変えて攻撃に緩急を生み出します。一方、残りの5本の子機は親機に追従して援護をするだけ。形状変化は伸縮のみです。

さてここまで見抜けたらあとは親機を破壊するだけです。……まぁ、ここからが本番なのですけどね。方法論はざっくり2つ。1、親機と子機を合わせて6本をどかんとまとめて破壊する。2、高速移動する杭の中から親機を見つけ出してそれだけを壊す。殿下が選んだのはご覧になった通り、後者です。おそらくソニアさんが想定している模範解答も後者でしょう」

そこまで聞いて、ようやくウェズリーにも状況が飲み込めてきた。ソニアはあえて隙のある攻撃をくりだし、ラトレルはそれを正しく見極め、攻略できるかというゲームをやっていたようなものなのだ。

「なんだそれ……」

思わず歯に衣着せぬ正直な感想が口から飛び出てしまった。ベサニーはそれに同意するように肩をすくめる。

「全くですよ。……おそらく親機を見極める方法やタイミングにも法則があったんでしょうけど、私ではそこまではわかりませんでしたから、興味があれば殿下にでも聞いてください」

ウェズリーもこれまで魔獣や野生の動物と戦うためにそれなりには弓術を鍛えてきた。だが、人間とは戦うどころか、武器を向けたことすらない。対人戦闘とは恐ろしいものだな……と、若干ずれたことを思いながらラトレルに視線を戻した。

「全く、興醒めもいいところだ。こんな子供だましで……」

ラトレルはやれやれと首をふりながら剣を納めた。今の戦闘が「子供だまし」かどうかはさておいて、ひとまず戦意はなくしたらしい。

「王子様くんってお上品な顔して喧嘩っ早いよねぇ。ま、前座はこれくらいにして本題に入ろうか」

今の今まで殺意の応酬をしていたとは思えないにこやかさでソニアは話を続けようとする。ラトレルは椅子にかけ直すと冷ややかな視線をソニアに向けた。「少しでもつまらないことを言ったらその首を切り捨てる」とでも言っているようだ。

「君達の情報は概ね把握してるよ。第二予言を履行して、第三予言の地に向かってるんだよね。私もそこに行きたくてさ」

ウェズリーは聞きながら、はてと首をかしげた。ソニアの言い方では第二予言は既に履行し終わっているかのようだったからだ。おまけにこの船の目的地が第三予言の地であるなら、ラトレルの言とは矛盾が生じる。視線だけをラトレルに向けると、彼も同様に眉根をひそめていた。

「何を言っているんだ? 第二予言の履行はこれからだし、今向かっているのはウェズリーの移住先で……」

「え〜〜?」

ラトレルの言葉を切ってソニアが声をあげた。驚き半分、落胆半分といった顔でため息をつく。

「マジでおっしゃってる〜? いやはや……アンタとあろうものがねぇ。第二予言、一体どう解釈したの?」

「……出航からしばらくすると迷い、遭難してしまう」

ラトレルが不承不承答えると、ソニアはあえて聞かせるように大きなため息をつく。

「ハァ〜ア。こう言っちゃなんだけど、平凡な誤読だねぇ……。相変わらず私がついてないとダメダメ王国なんだから……」

ソニアは言葉尻に一瞬、ベサニーを見た。その瞳の中にあるのは憐憫の色に違いなかった。何の事情も知らないウェズリーは微動だにしない少女の背を見つめることしか出来ない。

「そこまで言うなら正答を聞かせてもらおうか」

憮然としたラトレルの言葉に、ソニアはにたりと笑う。

「フフン。そうこなくっちゃ。優しいから素直に教えてあげちゃう。第二予言はね、もっと全然シンプルだよ。『定期ルートから外れる』だけで履行完了。普段はキャンディス行きの船が今はヘズディンに向かってるんでしょ? じゃあもうあとはのんびり船旅を満喫するだけだよ」

「な……」

珍しく愕然とした様子のラトレルは捲し立てるように訪ねる。

「どうしてそうなる……! 『稚児のように』は自律的に行動できない状態の表象だ。そして『踊る』は同じ行動を繰り返す、もしくは正しい目的を見失う状態を表す。次節句が順接になっていることからも……」

徐々に語気が弱くなり、次第に黙ってしまった。テーブルに置いた手がぎゅっと握りしめられたまま、数秒が経った。

「いや……君がそう言うのなら、君が正しいんだろう」

うつむいたまま呟かれた言葉にウェズリーはただただ驚いた。ラトレルとソニアの関係こそ知らないが、ここ1週間見た限り、ラトレルはかなりの負けず嫌いだ。それが、こうも簡単に過ちを認めるとは。

「素直でよろしい! これで私の必要性が理解できたでしょ? このまま第三予言も一緒に履行しようよ。ね?」

「……いいだろう。少なくともヘズディン列島までの同行は許可しよう。その先は君の行動次第だ」

ラトレルの休戦宣言にウェズリーは内心でほっと息をつく。せっかくのグウェンドリンでの船旅を殺伐とした思い出にはしたくない。せいぜい、二人にはこのままおとなしくしていて貰いたいものだ。

「よしっ! じゃあ早速本題に入りたいんだけど……。そこの君はそもそも『予言』ってなんだかわかる?」

「そこの君」と言われてウェズリーは背筋を正した。

「ええと……未来予知……みたいな……?」

「ブブーーッ」

あわあわと答えると楽しそうに否定されて、ウェズリーは大層面白くない気分になる。

「……よく誤解されているが、『予言』は未来予知ではない」

助け船を出すかのように静かに切り出したのはラトレルだった。

「未来予知が確定した未来を告げるものであるのに対して、予言はもっと曖昧で揺らぎのある情報だ。我々はその揺らぎを利用して被害を軽減させているというわけだ」

そこまで聞いたところでウェズリーが挙手すると、ラトレルはどうぞと言うようにうなずいた。

「予言された事を完全になくすことは出来ないの?」

始めて会ったとき、彼は「予言は止めることは出来ない」と言っていた。だが、先回りして軽減が可能なら、うまくいけばなかったことに出来るのでは? とどうしても思ってしまうのだ。

「……現状では『出来ない』と答える他ないな。少なくとも過去に成功例はない。だが、予言能力は今でも謎が多い。研究が進めばいつかは……と私は思っている」

ウェズリーは「ありがとう」とうなずくと、ラトレルは話を続ける。

「ソニアも元王宮予言師でね。それも歴代最高と言わしめるほど優秀な予言師だったんだが……」

ここまで言われればある程度あの二人の関係を想像することができた。ソニアが2年前のロストアイランド事件を起こしたのなら、その時点で王宮予言師を解任されたはすだ。ラトレルは優秀な予言師に裏切られてしまった。そう思えば、彼女に再会した瞬間の彼の動揺も理解できるというものだ。おそらく、ソニアの後釜として急遽王宮予言師の座に据えられたのがベサニーなのではないだろうか。それなら年端もいかない少女が厳めしく『王宮予言師』などと呼ばれていることにも合点がいく。

勝手気ままに類推を並べていたウェズリーの意識はラトレルの言葉によって引き戻された。

「予言がいかなるものであったとしても、結論は同じだ。私は私に出来ることをまっとうする」

彼の瞳にはまさしく鉄血と呼ぶべき決意が満ち満ちていた。このような痛烈な覚悟が決まってしまうほどに、何度も何度も過酷な判断を下してきたのだろう、と勝手に想像してしまう。

「うんうん。さすがは王子様くん! 予言の基本情報はこれで共有できたね。じゃ、こっからは実践編! ドキドキの第三予言についてだよ。真面目な話、ヘズディンに到着したらすぐに履行が始まるだろうし、最悪の場合……」

ソニアはへらへらとした仮面を剥ぎ捨てるように神妙な顔つきになると、声を落として言った。

「大災厄が来る前に世界が終わるよ」



びゅう、と吹いた風の音で目が覚めた。冷たい風には湿った土の匂いがのっている。ぼんやりと覚醒しきらない頭のまま、おもむろに身体を起こし、座ったままぐるりと周囲を一望する。

頭はまだ夢の続きを追いかけているが、『どうやら自分は森で眠っていたのだ』と、おぼろげに現状を把握した。やけに重たい思考回路を回し、直前の記憶をまさぐる。最初に思い出したのは冷涼とした女性の声だ。

『大災厄が来る前に世界が終わるよ』

そこから芋づる式に、森で目覚める寸前までの記憶が掘り起こされていく。

「……どういうことだ? もっと具体的に話してくれ」

ソニアはラトレルたちが座しているのとは別のテーブルセットに腰を下ろしてから説明を始めた。

「まず前提として次の履行はいわゆる『二重履行』ってやつなんだよね。おまけにそのうち片方は未来履行で……」

正直、このあたりの内容は理解できなかったので覚えていないため割愛する。

「……とまぁ、ややこしいことはここまでにして、もっと実際的な話をしようか。

ヘズディンの中は『自失回廊』と化してる。まぁ簡単に言うと記憶障害を起こすうえに外に出られない迷路みたいになってるってこと。最悪の場合、全部の記憶を失ってるところからスタートってこともあるから、そのための策を講じようか」

そこまで思い出してから、ハッとズボンのポケットをまさぐった。

『これを読むキミの名は【?????】。ラトレル、ベサニー、ソニアの3名と共にヘズディンにやってきて、おそらくは記憶をなくしてる。もしこれを見ても自分の名前を認識できないなら、なんでもいいから自分に名前をつけて欲しい。それが延命になるらしいから』

小さな紙片に几帳面な字でそのような事が書かれていた。ラトレル、ベサニー、ソニア。この3人のことは思い出せるが、己が何者かについては確かにさっぱり思い出せなかった。紙に書かれているであろう己の名も靄がかかったようで正しく認識することが出来ない

きっとこれを書いたであろう過去の自分に従って、何者でもない彼は暫定的な自分の名前を考え始めた。ひとまずAから始まる名前をいくつか思い浮かべてみる。アッシュ、アンソニー、アーサー。いずれもピンと来ない。いざとなると自分を名付けるとは難しいものだ、と場違いにのんびりと思考してしまう。『自分』の定義が曖昧な結果、己に差し迫った危機に対して鈍感になっているのやもしれない。

最終的に背中に背負っていた弓から「アーチャー」と名付けることにした。単純上等、もうこの際なんでも良いというやや投げやりな判断である。

さて、自分の名前はアーチャー。ここまでは決まった。問題はこれからどうするか、だ。紙片には名前を決めろとしか書いていない。ここまで何のためにやってきたのか、という記憶がない以上、行く末を決める基準がない。

奇妙なもので、思い出せないのは自分の正体に関する記憶だけらしい。たとえば自分がここまでグウェンドリンという船に乗って来たことは思い出せるが、何のためにやってきたのかは思い出せない、といった具合である。ラトレルたちとの会話が部分的に思い出せないのもそのためであろう。

「うーん……どうしたらいいんだろう」

ふっとした呟きで、自分の声に驚いてしまった。老若男女の声が混ざったような不気味な声だったからだ。アーチャーは何度目かになるため息を吐く。

そのとき、背後から襲いかかってきた何者かをアーチャーは寸でのところでかわした。動いてから、「なかなかの体さばきじゃないか、本当にアーチャーだったのかもしれないな……」などと自画自賛してしまうが、それどころではない。標的にかわされたことが意外だったのか、それともそれ以外の理由か、相手はじっとこちらを観察している風で動かない。

それは一見、黒い靄をまとった犬のような形状の魔獣のようだった。輪郭は不安定で見つめていると不安になってくる。

「勝てるのかな……? これ」

未だに危機意識は目覚めないらしく、死への恐怖心もほとんど沸いてこない。とはいえ、さすがにむざむざ餌になってやるほどの善意はない。背中の弓におずおずと手を伸ばす。

弓柄を握ると、自然に矢をつがえて引くことができた。体が覚えている、というやつだろう。依然として動かない影に向かって一射を放つ。

矢は正確に犬の目に当たる部分に向かって飛んだ。が、敵にダメージを与えるには能わず、地面に突き刺さるだけだった。

「あ〜……なるほど。物理攻撃は当たらないってやつ?」

不自然な声で呟く。万事休すとはこの事だが、思考回路は依然として平静だった。次の瞬間、鋭いあぎとに食いちぎられて死ぬかもしれないというのに冷や汗のひとつもかけやしない。

生きている理由も、生きていく理由も思い出せない。ここに立っている理由だってない。ならば、もう、いいか……と、驚くほど気軽に『自分』というものを諦めかけた時。

「やぁやぁ! どうやらお困りだね! お姉さんの助力が必要かな!」

明朗過ぎる声とともに、アーチャーの脇をすり抜ける用にして魔法攻撃が飛んできた。逆巻く風に目を細めながら思わず振り替えると、そこにいたのは記憶の中で「ソニア」と認識している女性だった。

「『?????』くん! よく生きてたもんだよ。運が良いねぇ」

ソニアはそう言いながら腕を振る。アーチャーが再び振り返ると、黒い靄の犬は全身から氷を生やした剣山と化していた。身動き出来ないように縛り付けているのだと思われる氷の剣山の上に、巨大な岩ごとき氷が出現し、ズドンと剣山ごと犬を破壊した。

「戦闘終了〜っと。いやはや、最初に出会ったのが私とは運が良いよ、君。で、状況を聞かせてくれるかな」

戦闘後の余韻もなにもなく、ソニアは矢継ぎ早に訪ねてきた。アーチャーは語るほどでもない十数分の出来事ををつまびらかに話す。

「へぇ。自分の記憶だけが消えたけど、それ以外の記憶は割とあるんだ。観測者型か、珍しいケースだね。君みたいな魔力適正が低い人なら丸々全部忘れちゃうのが普通なんだけど」

「ソニアさんは……?」

訪ねると、ソニアは一瞬キョトンと目をしばたかせた。間をおいてケラケラと笑いだす。

「ふはっ! そうだよね、普通は心配するよね。いやはや、他人に心配されるなんて久しぶりでさ。私はこの通りぜーんぜん平気。王子様くんやベサニーちゃんって子も大丈夫だと思うよ。二人とも魔力適正は十二分だろうからね」

となると、記憶を失っているのはアーチャーだけということになる。

「では『?????』くん改めアーチャーくん。ソニア先生がこれからの事を教授してあげるからよーく聞くように」

アーチャーは素直にうなずく。

「まずここで起きていることについて。どこまで記憶してるかわからないから重複してる部分もあるかもしれないけど、説明しよう。ここは『自失回廊』。『自分のことを忘れてしまう』という性質を持った空間だよ。今君に起きている記憶障害の原因だね」

ここまではアーチャーの記憶の通りだ。

「ここでは『自分』というものがとにかくあやふやになる。ボーッとしてたら生きてることも忘れてしまって、さっきみたいな記憶の成れの果てになっちゃうわけだ」

先程の黒い靄は元々何かしらの生物だったということらしい。自分もうかうかしていたらああなっていたのか、と想像するも危機感はやってこなかった。もしかすると、思っているよりも症状は重篤なのかもしれない。

「君は一応自分を再定義して『アーチャー』となっているわけだけど、実は諸刃の剣でね。しばらくそのままだと君は本当に『アーチャー』になってしまって、元の『?????』くんには戻れなくなる。だから、その前に君の本当の姿を、君自身の力で取り戻さなくちゃいけない」

自分が本当の『自分』なら、それを怖いと感じるのだろうか、とアーチャーはぼんやりと思量するも、答えは出なかった。『自分』がなくなるから、なんだというのだろうか。頭のどこかでは「それは大変だ」と言うのだが、返事をする『自分』は他人事で「ふぅん」と生返事をしている。頭の中はずっとそんな状態だった。

「自分を取り戻す方法は主にふたつ。まずはシンプルにこの自失回廊から出ること。基本的にはこっちがおすすめだね。運がよけりゃすぐに出られて解決だ。でも今回こっちは使えないので割愛するよ。

もうひとつはの方法ちょっと大変だ。……気合い。以上」

「なるほどぉ」

アーチャーが適当に返事をすると、ソニアは「ツッコんでよ! 張り合いないなぁ!」と憤慨した。分かりにくい冗談だったらしい。

「まぁ半分は本当だけど……。要は『自分』を思い出したいと強く思わなきゃいけない。でもここではそれが一番難しい。取り戻すどこか、むしろ『自分』がなくなるっていうのは、ともすれば快適ですらあるんだよ。だって、人生において一番の重荷は自分自身でしょ? そういう意味ではここは『自分ではなくなれる楽園』ですらある」

アーチャーは頷いた。話を聞きながら、「そこまでして取り戻さなくちゃダメかな……? もうアーチャーでいいんじゃないかな?」と思っていたところだ。

「というわけで、ソニアさんお助けチャンス! 幸いなことに、君は完全に記憶がないってわけじゃない。じゃあ今の君にとって、一番失くしたくない記憶はどれかな? 失くしたくない記憶がないなら、一番楽しいとか嬉しいとか、逆に辛いことでもいい。とにかく記憶の中で一番めぼしいものを引っ張り出してきて、それについていろいろと考えとみると良い。……あとは君次第だよ。なぁ〜に、たとえ君が自失の亡霊になろうともソニアさんがズバッと殺してあげるから安心してね」

快活で物騒な話だ。だが、今のアーチャーにとっては心地よい残忍さだった。もし、このまま堕落の果てに『自分』を捨て去ってしまって、名もなき亡霊になったとしても、誰かを害してしまう可能性はない。

ソニアの助言通りに、アーチャーはひとつひとつ手に取るようにして記憶を探ってみる。今のアーチャーにとって「記憶」は生涯の情報に過ぎない。観測者として見る有象無象の記憶は路傍の石のごとき、取るに足らない情報と化してしまう。まるで知らない他人のアルバムを覗いているような無味乾燥な時間が続き、徐々にこんな人生の主人公などに思い出すほどの価値があるのだろうか、と消極的な気持ちになってくる。これこそが自失回廊の洗礼なのだろう、と頭のやけに冷静な部分が言う。

「あ……」

五里霧中の記憶の迷路を進む中、唐突に見つけたのは光だった。導くような一条の光を追いかけると、たどり着いたのは夜の海だ。墨をこぼしたような真っ暗闇の冷たい海から見上げた小さな光。よく見れば、それは灯台の光だった。一体いつの記憶だかは思い出せないが、何故かその記憶を喪うことだけは惜しい、と思えた。

「……どうやら端緒はつかめたようだね。じゃあ行こうか」

ソニアはそう言って微笑むと、ツカツカと歩きだした。いきなり歩き出したソニアを慌てて追いかける。

「え、どこに?」

「この自失回廊の中心。さっき言ったよね、『自失回廊の外に出るのがおすすめだけど、今はできない』って。それはこの自失回廊が拡大してるからなの。中心で根源を叩かない限りは惑星全体を多い尽くすまで止まらない。『世界が終わる』って言ったのはその事だよ。止められるのは私たちだけだ。気張っていこう!」

突然「世界を救おう」と言われてもピンと来ず、やや引きずられるようにしてソニアに同道っするも、威勢が良かったのは最初だけだった。

というのも、いつまで歩いても中心とやらにはたどり着かないのである。時折現れる亡霊は全てソニアが撃退してくれるので、アーチャーは自問自答に専念することが出来たが、記憶の光には決して手は届かない。まさしく前門の虎後門の狼といった状況だ。

「くっそ〜〜! この西の魔女を相手にこんな……くそ〜〜〜!」

どうやらソニアは中心にたどり着けないことが悔しいらしく、先程から何度もこのようなわめき声をあげている。

「一応聞くんだけど、方向はあってるんだよね……?」

ここまで道案内をソニアに任せてきてしまったので、今更聞くのもなんだが、彼女がとんでもない方向音痴という可能性もある。

「はぁ〜!? 私を疑ってるっての!? ぐぅ……でもこの状況じゃ疑いたくもなるか……」

ソニアは徐々に語気を弱めていく。どうやら彼女もそれなりに疲労しているらしい。戦闘の全てを請け負っているのだから無理もない。守られている立場としては軽率な発言だったかもしれないと少し申し訳なく思っていると、ソニアは急に立ち止まった。

「休憩!」

そう言って、近場の大きめの岩に腰かける。ここまで2時間は歩き通しだ。アーチャーも人心地つけるのは大歓迎だった。

「ついでに情報共有といこう。私の方でわかったことと、君の自我の具合を、ね」

まず隗より始めよ、と言わんばかりにソニアはそのまま話を続ける。

「断言するけど、この森は普通じゃない。自失回廊であることとはまた別に異質な事が起きてる。……そう思ったのが、君と出会った直後くらい。そこでひとつ訪ねたいんだけど、君の感覚ではどれくらいの時間歩いてたと思ってる?」

「……2時間ちょっと?」

「私もそう思う。だけど、私のクロノスケールだと……」

「クロノスケール?」

ソニアがごそごそと取り出したの何のことはない、普通の懐中時計だ。てっきりヘンテコな魔具でも出てくるのだと思っていたアーチャーは少々面食らった。

「あぁ、余所だとクロノスケールって呼ばないのかな。王都では時計をクロノスケールとも呼ぶのよ。……で、このクロノスケールを見るに、君と私が歩いていた時間は5時間なんだよね」

「は……えっ!?」

クロノスケールもとい懐中時計の針は17時を指していた。慌てて見上げた空はすっかり赤紫色に染まっている。

「そんな……いつの間に?」

さすがに5時間を2時間とは錯誤するはずはない。時計が壊れているんだろうと思いたいところだが、言われてみれば肉体疲労の具合も2時間歩いただけにしては重い。

「このクロノスケールは正確……なはずだよ。間違っているのは私たちの記憶の方。私たちは中央を目指して歩いた。ところがあるラインを越えると私たちは夢遊病者みたいに元来た道を戻ってしまう。そして夢遊モードが終わると再び中央を目指して歩き出す。記憶の接合点に矛盾がないから私たちは自分達がひたすら往復していることに気づかない。本当はずっと森をぐるぐる回ってるんじゃないかな。仮に外に出ようと歩いても結果は同じだと思う」

アーチャーは何も言えず、自分の影を見つめるしかなかった。進むことも退くことも許されない。まさしく回廊だ。

「と、まぁ私からはこのくらい。君は? どうよ、『?????』くんに戻れそう?」

塞いだ雰囲気はどこへやら、やけに軽い調子でソニアは話題を転換させた。めぼしい成果はないため、おずおずと語る。

「灯台の光が見えるんだ、真っ暗闇の海面から。その光を見てると、何か安心する。でも……いくら考えてもこれが一体いつの記憶なのかわからなくて。自分は灯台に住んでいたみたいだから、灯台の光を見る機会はあっただろうけど、それを海上から見たことはないと思うし……」

こんな抽象的な事で良いのだろうか、と言ってから不安になりソニアを見ると、彼女は神妙な顔でじっとアーチャーを見つめていた。氷のトゲのような視線に驚いて、思わずうつむいてしまう。

「……うん。やっぱり君、おかしいよ。『灯台に住んでた』なんて明確な自分の情報、自失回廊なら原則として消えないとおかしいよ。考えられる可能性は2つ。本当は何も忘れていないのに忘れたふりをしている。……まぁこれはないだろうね。忘れたふりが下手すぎるし。もうひとつは……」

ソニアの瞳に明確な敵意が宿る。

「そもそも君が『?????』ではないか、だよ。……誰だ、君は」

突然周囲の気温が下がったように感じたのは錯覚などではない。ソニアの足元がパキパキと音を立てながら凍りついていく。周囲から霧が立ち上ぼり、まるで生き物であるかのように彼女の手元に収斂して、白く光る氷剣が生成された。亡霊との戦闘の度に見てきた彼女の武装展開。このままいけば、アーチャーは数秒後には名もなき肉塊と化してしまうだろう。

「……キミは勘違いをしてるんだ」

こんな状況にそぐわない、やけに落ち着いた声だった。ソニアは黙ってアーチャーの話を聞いている。とはいえ、生成された剣は油断なく構えられたままだ。聞く価値なしと彼女が判ずれば、すぐさま氷剣は目前の命を斬るだろう。

「この肉体に蓄積した記憶はあくまで外部記憶扱いなんだ」

アーチャーは言いながら「はて?」と思った。自分の口からまったく知らない情報が勝手に飛び出したからだ。しかし、そんな思いとは裏腹にするすると言葉は続いていく。

「ただ、『僕』はその記憶を自分のものだと認識しているからね。そのせいで不完全に自失の影響を受ける。だから、この肉体につけられた名前は思い出せないっていうのは嘘じゃないんだよ」

誰 が し ゃ べ っ て い る ? これは一体、自分は、自分では、な、い……?

「待て、待ってくれ。……あぁ、そうか! どうして、どうしてもっと早くに気づかなかったんだ!」

ソニアは何か憤慨しているが、アーチャーにとってはもはやどうでも良かった。分裂した思考と言葉に、目が回るような思いがする。

「『?????』の移住先って、確かに聞いた……! あの時に気付くべきだったんだ! 君は…倒された塔の住人!? 予言と無関係なわけが……クッ…!」

ソニアの氷剣は既に見る影もなく消え去っていた。それどころか、今や彼女は地に膝をつき、苦しそうに肩を上下させている。

「くっそ……『西の魔女』ともあろうものが、こうも歯が立たないのかよ……!」

忌々しげに言う彼女に、何者かが嗤う。

「さぁて、『僕』は誰でしょう?」


 

時は遡り、約5時間前。ラトレルとベサニーは同じ場所で共に目覚めた。魔力適正の高い二人は持っていたメモを読んで、あっさりと自失を回避し、中央を目指すと、何の問題生じずに回廊の中心部分にたどりついた。

「あれか……」

ラトレルがそう言って見上げたのは回廊の中心の『城』だ。森の中央には湖が広がっており、件の城は湖の中央付近で浮いていた。人間業で浮遊する城など建造できるはずもない。自失回廊を産み出している根源はあの城に違いないだろう。

ラトレルが迷わず城に向かおうとするので、ベサニーは慌てて声をかける。

「あの! ……あの二人は捜索しなくて良いんですか?」

ベサニーの声に半身だけ振り返ったラトレルは「そうだな……」と呟く。

「ソニアはともかく、ウェズリーがこの自失回廊を抜けられる可能性は高くないと思っている」

「……でしょうね。あの魔力適正では」

「だからこそ、彼らを探すよりも私たちで解決してしまった方が救命の目はあると思う。……まぁ、ソニアがいれば戦力として頼もしいのは間違いないが……個人的に彼女の助けはあまり借りたくない」

ラトレルにしては珍しく年相応の、そして私的な述懐だった。生まれたときから公人だった彼が個人としての見解を述べることは稀だ。周りからいつも好き勝手していると思われているが、そんなことはない。『いつだって民のために自分をなげうっている理想の王子』、それがベサニーに写るラトレルという人物だ。

「……その、不躾ですが、殿下とあの西の魔女はどういったご関係なんですか?」

ふと沸いた疑問を思わず訪ねてしまったベサニーにラトレルは眉を下げながら微笑む。

「一般的な言い方なら幼馴染み、と言ったところか。仲は良くないがね。昔からソニアはいちいち私に勝負を挑んできてね。悲しいかな、昔の私はほとんど勝てずに歯噛みしていたよ。……だが、今から思えば、私が単なる少年でいられたのはソニアと、あとは……」

「あーもう! 長い長い! 無駄話が長えよ!」

二人して声の方向を見た瞬間、びたりとそれ以上動けなくなってしまった。

束縛系の魔法や、呪いの類いではない。本能的に相手が自分よりも上級の、決して敵わない生物であるとわかってしまったためだ。肺が自分の役目を忘れてしまったかのように、もはや呼吸さえままならず、ただ釘付けになって処遇を待つ。

「ん? ……あぁ、悪いな。威光モードだったか。解除するからよ」

ぴくりとも動かなくなった二人を見た『それ』がそんなことを呟くと、ほどなくして全身の硬直は解けた。

「竜……!?」

半ば悲鳴のように、ラトレルは呟いた。魔法を使わずして、思わず己の生命さえも忘れさせるほどのカリスマを放つ──そんな生き物は竜以外にありえない。

その竜は地に届きそうな程の紺碧色の髪をたたえたヒトの姿をしていた。背は低く、見た目は儚げな少女のように思えた。髪と同じ紺碧色の瞳は明るい夜空を写し取ったかのように美しく、彫像のごとく整った相貌にはいかにも親しみやすい笑顔が浮かべられている。が、どうにも人間離れした雰囲気は消しきれず、ミステリアスな印象を醸成している。「威光モード」などなくとも、大半の人間は彼ないし彼女に釘付けになって動けなくなるに違いない。     

ラトレルが驚いたのは見た目や雰囲気ではなかった。「竜がいる」という状況そのものがありえないことだからだ。忘れもしない8年前、地上に残された最後の竜──アストライアーは死んだのだから。

「ふふ。そうかしこまるなって。オレは単なる放浪者(ワンダラー)に過ぎない」

口調はフレンドリーそのもの。敵意も今のところない。

「んじゃ、改めて名乗ろうか。オレはプロセルピナ。親しみを込めてルピナって呼んでくれ。

オマエらがここにきた目的は分かってる。この自失回廊を消滅させて予言を履行したいんだろ? オレはそれを手伝うためにここに駐在してたようなもんだから安心しな。前提の情報を共有するためにまずオレの話を聞いてほしいところだが……、ま、立ち話もなんだ、城に行こうぜ」

まさしく立て板に水とばかりに一息にそこまで言い切ると、ルピナは指をならした。

「!?」

瞬間、景色が舞台劇のように切り替わった。森の湖畔から絨毯敷きの大広間へ、空間移動したのだと、数秒遅れて理解が追い付く。

奇妙な空間だった。吹き抜けの天井は異様に高く、空中にはピアノやテーブル、ソファのような調度品から、蝋燭やホウキ、果てはパンケーキがさまよっている。人ではなく物が踊るダンスホールといったところだろう。

空中を漂っていたテーブルと椅子が気を利かせたかのようにラトレルたちの前に舞い降りてくる。絨毯の上に音もなく着地すると、意思を失ったように大人しくなった。

「お〜い、ティーセット〜! いる?」

ルピナが呼びかけると、クローゼットの影からおどおどとティーカップが顔を出した。続けて、ポットやソーサー、スプーンたちが続く。

「こいつら、人見知りでよ。呼ばないとなかなか出てこなくてさ」

紅茶を注がれたティーカップが3人の前にたどり着くと、ルピナに着席を促され、ラトレルとベサニーはそれにしたがった。相手に流されるままの展開だが、竜に逆らったところで益もない。ひとまずは話を聞くしかあるまい。

「さて、まずはオレの目的を開示しよう。『アストライアーを止める』、それがオレがここにきた理由だ」

ラトレルは長らくつぐんでいた口を開いた。

「待ってください。アストライアーは死んだはずです。……8年前に我が父が命を賭して討伐したはず……」

大厄災復活の予言を聞いたときもラトレルはまるで同じ事をベサニーに向かって言った。あのときは今と違って、正気ではいられなかったが。

「ん〜……」

プロセルピナは眉間に皺をよせ、中空を仰ぐ。

「まぁ確かに死んだんだろうな。ただオマエらが知ってる端末の竜と違って星竜は殺したくらいじゃ死なないって言うか……。要するにまだ消滅まではしてないってことだ」

「そう、なのですか……」

ラトレルはそう呟くので精一杯だった。ラトレルにとってアストライアーは父の敵であると同時に母のような存在でもあった。悲しみと怒りと、少しの安堵が渦巻き、ラトレルの胸中は嵐に飲まれた小舟のようだ。

顔に暗い影を落としたラトレルを気遣ってか、引き継ぐようにベサニーが訪ねる。

「あの、端末の竜というのは……?」

「オマエらは『この星には最初7匹の竜がいた』って思ってるだろ? それが違うんだな。正しくは『アストライアーは6匹の分身を作って各地に派遣した』んだよ」

「なっ……!?」

ルピナは軽く言うが、歴史を揺らがす重大事に違いなかった。竜を守るために建国されたエスメラルダ王国の根幹が揺らいでしまう。

「ま、そんなことはどうでもいいんだよ。問題はこれからアストライアーが何をしでかそうとしてるか、なんだから」

国家どころか惑星を揺るがす事実を「そんなこと」で片付け、話を続けようとするルピナに、ラトレルはおもむろに顔をあげてたずねた。

「やはり、また大厄災を起こそうと……?」

「ま、そうだな。概ね認識であってる。……そもそも大厄災とはなんだったのか。オマエらはどう思ってる?」

「星竜アストライアーが帰属国であるエスメラルダを裏切り、強大な竜魔法を用いて、世界人口の3割を殺した事件です」

教科書通りの回答をすると、ルピナは満足げにうなずく。

「問題は死んだ3割の人間だ。全員にとある共通点がある。……実は、全員が『異世界転生者』なんだ」

もったいぶった言い方をするルピナの言葉を息を飲んで聞いていた分、落胆も大きく、ラトレルとベサニーは二人して「は……?」と呟いた。『罪人は全てパンを食べたことがある』と聞かされたようなものだ。

「……あぁ、そうか。オマエらにとっては非転生者の方が珍しいんだったか。何せこの星じゃ100%の人間が転生してるんだからな。すっかり忘れてたぜ」

照れくさそうに笑うルピナを前にラトレルとベサニーは顔を見合わせるしかない。

「あのな、別の星では異常なんだ。産まれてくる子供のすべてが転生者だなんて。ここは、アストライアーによって意図的に転生者が集められた廃棄孔なんだ」

ラトレルもベサニーもただ黙りこんで、己の中でその言葉を咀嚼するしかなかった。この世界には転生者によって持ち込まれた言葉や知識、また開発された発明品が溢れている。それ以前に自分達も当然転生者である。この星に生きる者にとって、それはあまりにも当然のことなのだ。

「廃棄孔……。つまり、大厄災の本来の目的は全人類を……いや、惑星そのものを殺すことだった……?」

いつまでも驚いているわけにもいかない、とラトレルは気を取り直してたずねた。

「その通り。自分を含めた全てを一網打尽にしようとしてたってわけだ。……そしてここからが問題の本質になる。話のスケールが大きくなるから、わかんなかったら聞けよ」

ルピナはそう言うと、一人席を立った。今もなお雑多に浮遊している物から、いくつか呼び寄せているらしく、ふよふよと近づいてくるものがあった。

野球、テニス、サッカー、卓球その他諸々の球技に使われるボールたちだった。おそらく惑星に見立てるつもりなのだろう、とラトレルは思料する。

「いろいろな世界、いろいろな星が存在するが、基本的にはセキュリティ観念からお互いに断絶している。要はスタンドアローンになってるわけだ。だけど、たまにそういった断絶の網をすり抜けて異世界に転生してしまう者もいる。……ここまでは良いか?」

ラトレルもベサニーも神妙に頷いた。無軌道に浮かんでいたボールが横一列に整列すると、今度はチェスの駒がいくつか飛んできて、一番大きいバスケットボールに乗った。

「基本的に惑星にとって転生者っていうのは害のない存在だ。そもそも気づきもしないし、気づいたとして放置するのが普通。……だけど、放置できない理由が出来た。それが『転生病』」

「転生病……?」

「転生した魂を媒介して惑星に罹患する病だよ。媒介者であるオマエらは何ともないから安心しな」

ルピナはそう言ってから、整列したボールを見るようにと手で示した。バスケットボールに乗っていた駒たちが、他のボールにひとつずつ移動する。

「転生病を持った魂が転生し、その星で死ぬと、惑星は転生病に罹患してしまう。たった一人でもアウトだ。現状では死ぬ前に見つけ出して魂を破壊するしか未然に防ぐ方法はない。全ての魂をチェックして弾ければそれが一番だけど、まぁそれができる星ばかりじゃないから感染拡大が止まらないわけだ。

転生病に罹った惑星は惑星上のすべての魂に転生病を植え付ける。そして畑に種を撒くように他の惑星へと送り出すようになるんだ」

プロセルピナがそこまで言ったところで、ベサニーが挙手した。ルピナが「どうぞ」と言うと、ベサニーは学生のように訪ねる。

「転生病に罹った惑星では何が起こるんでしょうか?」

「ま、気になるところだよな〜。実は現地住人のオマエたちへはちょっとしたメリットがある」

「メリットとは?」

「転生病は別名『幸福病』。罹患した魂は幸福度があがるんだ。この星なんかは全人類が罹患してるからハッピー野郎どもの巣窟だな。シンデレラは継母たちと仲睦まじく舞踏会にいくし、マッチ売りの少女は完売御礼で暖かい寝床に着く。……ま、その代わりに星を殺すんだけどな」

 言下に、テニスボールとその上の駒が力なく床に落ちた。

「とはいえ、ただちに滅ぶってわけじゃない。罹患してから何百年、何千年後の話だ。それに地上に住まう魂……オマエらには滅びを迎える直前まで何事も起こらない。暗幕が落ちるように、突然世界が停止する……そんな感じだろうさ」

「ありがとう、ございます……」

淡々と答えるルピナに、ベサニーは悄然と礼を述べた。無理もない。自分の住む惑星がいずれは滅びる。その前兆は特になく、ある日突然……つまり明日滅んでも不思議ではない、と突きつけられれば誰しも言葉を失うだろう。

「アストライアーは……」

ルピナはこれまでの明るさから一転、表情を曇らせながら呟いた。

「転生病を治す方法を探すためにこの星を作ったんだ。自分自身を検体にして。……まぁこの様子だからうまくいかなかったんだろうけどな。でも、オレは……出来ることならアストライアーを死なせたくない……。だから直接出向いたんだ。何か方法がないか、一緒に考えたくて」

美しい竜の瞳には確かに悲しみが写されていて、ラトレルは鏡を見ているような錯覚に襲われた。外見ではなく、感情の鏡だ。この8年間、幾度となく抱いてきた想いの相似形が目の前にあった。

「……我々の利害は一致している。私達は大厄災の再来を防ぎたい。貴方はアストライアーを止めたい。喜んで協力しましょう」

「……ありがとう」

ルピナはどこか苦しそうに笑った。「竜」と呼ばれる彼ら上位存在にも間違いなく感情があり、思慮があり、それに伴った煩悶や懊悩があるのだと嫌でも察せられた。皮肉なことに、これまでのどんな言葉、表情よりも親近感の沸く仕草だった。

「ですが、人間に過ぎない私たちに何ができるんでしょうか? 竜にできないことが人間に出来るとは思えないのですが……」

膝の上でぎゅっと結んだ拳を見つめながら呟いたのはベサニーだ。もっともな疑念に、ラトレルもうなずく。

「ま、基本的にはそうだな。だけど、少なくともこの星、この国ではオレには出来なくてオマエらには出来ることが、いくつかある。じゃなきゃ、オレだって苦労して現地人に接触したりしないさ。

本来ならその辺りをちゃ〜んと説明してやりたいところだが……」

言下にルピナの瞳が鋭く細められた。つられて同じ方向──北東を見遣るが、踊るカトラリーと壁があるばかりだ。ルピナにはその壁の向こうまで、見渡せているのだろうか。

「ここを落としたら、もはやこの星に救いはない。説明は道中でする、まずはついて来い。……開戦だ」


ウェズリーにとって「自分」とはどうしようもなく不気味で、手に余る存在だった。

思えば、物心がついた頃から違和感はあった。時折自分が生きていることがたまらなく不思議で、奇妙なことのように思えてくるのだ。鏡に映る自分はいつも知らない他人で、身体は鉄人形に詰められたかのように、重く窮屈だった。

ある程度分別がつく年になっても、その感覚はおさまることはなく、むしろ増していくばかりであった。ただ取り繕うことがうまくなって周囲からそうと悟られることが少なくなっただけだ。

「死にたいな」

それを呟いたとき、両親をえらく取り乱させてしまい、ウェズリーは当惑した。ウェズリーにとって、『生きる』ということは面倒な仕事を押し付けられているようなものに過ぎず、誰しもが同様に死を──生からの解放を願っているのだとばかり思っていたのだ。どうやら『生』はとても大切なもので死ぬだなんてとんでもない、と考えるのが当然なのだと理解してからは、口をつぐむようになった。しかし、言葉に出さぬからと言って思いがなくなる訳ではない。

大厄災で両親を喪うと、その思いはさらに膨らみ上がった。突如発現した魔獣を呼び寄せてしまう体質が村人たちと関係に歪みを生み、孤独とばかり顔を会わせる生活をしていた頃。月明かりだけが照らす暗い階段を登りながら、ふと思った。

「ボクは苦しむために生まれてきたのかな」

誰にも聞き咎められることのなかった声は、灯台の中にこだまして、自分の胸へと突き刺さる。

ひとりぼっちの孤独、魔獣への恐怖、村との物流が減ったことよる生活苦。ありとあらゆる苦しみの受容体と化したこの『自分』は一体何のために生まれてきて、何のために生きていくのだろうか。

一度脳にこびりついた問いは深く根をはり、新たな苦しみとなってウェズリーに襲いかかった。『思考』という名の毒に蝕まれると、もはや逃げ場はどこにもなく、自分の外にも自分の中にも安寧の地は存在しなかった。

「自分」が嫌だ。「自分」が辛い。「自分」に耐えられない。そんな思いが制御できないほど膨れ上がったとき、ウェズリーは決まって両親の眠る墓所を訪れた。このような辺境では一人一人弔う風習はないため、村民たちを含めた共同墓地である。

「……」

土の下を恋しく思いながら、墓標に刻まれた名前を上から順になぞっていく。父と母の名前に至る前に、背後から声をかけられた。

「ウェズリー……。またここにいたのね」

「ティファナ……」

村民たちとはすっかり溝が出来てしまったが、それでも昔と変わらずウェズリーを気にかけてくれる者の一人、それがティファナだった。年はウェズリーより1つ上で、身長も女性としては高い。昔から世話焼きで知られていて、ウェズリーにとっても幼馴染みというよりは姉のような人だった。

「あのね、父さんからまた森の哨戒をして欲しいって。そんなに強くない魔獣だけど数が増えてるから手伝ってほしいんだって」

「父さん」というのは村長の事だ。どうやら仕事の依頼にやってきたらしい。ウェズリーがなんとか生きていけるのは、村長や他の村民が気を遣って仕事を回してくれるからだ。ほとんどが魔獣の駆除依頼だが、文句は言えない。魔獣を引き寄せてしまうウェズリーにとっては天職といっても良いのだ。

「……ごめんね、こんな仕事しか回せなくて」

ティファナのこの言葉を聞くのはもう何度目なのだろう。2、3年前までは水汲みや山菜取りのような雑用も回ってきた。しかし、時を経るごとに魔獣がやってくる頻度や数が増え、それも出来なくなった。多くの村民の中では「ウェズリーが故意に魔獣を呼んで襲わせている」のだと囁かれているのだから、無理もない。

「ボクなんかに仕事を回してくれるだけで十分だよ、ありがとう。……ボクはもう帰るから」

墓所にいたところを見咎められたのが気まずく、ウェズリーは別れをつげて、足早に去ろうとした。

「『ボクなんか』なんて言っちゃダメよ、ウェズリー」

ティファナの声に足だけを止める。

「他でもない貴方自身が、自分の価値を下げちゃうなんてもったいないもの。ウェズリーは強いし、立派に仕事もこなしてくれる。胸を張っていいのよ」

これを聞くのが嫌だったのだ。優しい、慰めの言葉。されども、薄っぺらい、根拠のない言葉だ。ウェズリーにとっては、彼を遠ざける村民たちの視線や口さがない言葉よりも、彼を想い、励まそうとしてくれるティファナの言葉の方がはるかに苦痛だった。

誰しも守るべき家族や、生活があるのだから、それを壊しかねないウェズリーの存在を忌むのは社会正義として理解できる。つま弾きにされるべき存在である自分を救い上げようというティファナの思慮は理解しがたく、異質で、どうしようもなく気味が悪かった。

「ティファナ、ボクは大丈夫だから」

「……全然、大丈夫そうな顔してないじゃない。今にも死んじゃいたいって顔で言われたって、心配しないわけにはいかないわよ」

ティファナの慰めの言葉はとにかく陳腐でいちいち癪に触った。的外れで気休めにもならない言葉を吐くな、と罵ってやりたいくらいに。

「……うん。いつもありがとう」

きちんと義憤を口にし、怒り狂った方がまだ健全なコミュニケーションが成立したのかもしれない。だが、それでもウェズリーは彼を気にかける彼女の言葉を無下にも出来ず、薄っぺらい感謝を述べて逃げるよう走り去った。背後ではまだティファナが何かを言っているが、うまく聞き取れなかった。

「ボクだって……っ! 「生きたい」と思って生きた方が良いと思うよ! でも、どうしたって生きたいとは思えない! それがどうして……どうして、誰も、許してくれないんだ……!」

 子供っぽい癇癪と激情が燎原の火のごとく、胸中を焼き焦がす。

走りながら、灯台を見上げた。もはや、灯台としては機能していないが、それでもウェズリーにとっては帰るべき灯りだった。大厄災の夜、死にかけながらすがった光。暗闇の中を導くような光が忘れられないから、ウェズリーは今も生きているのだ。

ふと、頬に水がしたった。空を見上げて、雨ではないと確認したのち、おもむろに涙を流しているのだと理解した。理解してしまうと余計に悲しくなってきて、喉の奥がひきつけを起こしそうになる。誰に見られてもいないが、それでも外で泣くのは憚られて、速度を増して灯台に駆け込んだ。すこし息を切らせていると、ありえない声が響く。

「おかえり」

灯台の中に他人がいるはずもない。警戒しながら声の方を向いて、ウェズリーは仰天した。

「ボク……!?」

階段を下ってくるのは間違いなくウェズリー自身だ。幻影魔法、ドッペルゲンガー、白昼夢といろいろな可能性が脳を過る。

「まだ混乱しているようだね。ここは現実じゃない、君の記憶の世界だよ。いや、正しくは『僕と君の』記憶の世界、かな」

もう一人のウェズリーはそう言いながら、すたすた近づいてくる。

「可哀想に、泣いてるじゃないか」

親指で頬についた涙のあとをなぞられると、急に恥ずかしくなり、あわてて飛び退いて顔を拭った。

「どうして、なんで、ボクが」

「ねぇ、ウェズリー。僕にとって君が、どんなに輝かしい奇跡だったかわかる?」

もう一人のウェズリーは勝手に話し始めた。

「僕は目的を果たせないまま死ぬしかなかった。たった独りで冷たい波に飲まれてね。だけど、あの晩、せめて光の下で死にたくてすがった先には君がいた。魂の適合者たる君がね。もう他に選べる道はなかった。僕は肉体を捨てて、君と混ざった。……忌々しい転生って所業さ」

「転、生……」

今ならわかる。ウェズリーがこれまで生きる縁にしてきた光景は「彼」の記憶だったのだ。

「まぁ転生って言ってもシステムが同じだけだよ。2つ以上の魂を混ぜて別の魂として再誕させるのが転生だからね。2個を1個にするのも転生には違いない」

「つまり、キミは……?」

「僕はアストライアー。もう一人の君自身。そして、君を殺す竜だ」

徐々に混乱が修まってくると、状況が飲み込めてきた。

「そうだ……ボクは自失回廊で……」

ラトレル、ベサニー、ソニアの顔が次々に思い浮かんだ。ウェズリーの中で眠っていたアストライアーが目覚めたことで記憶の封印が解かれたのだろう。すべてを思い出した──大厄災の夜に交わした大事な約束のことも。

「思い出してくれたみたいだね。嬉しいよ」

言葉とは裏腹にアストライアーの表情は浮かなかった。微笑みを湛えているのは表面上だけで、瞳の奥にこぼれそうな涙を隠しているように見えた。アストライアーは表情を崩さず続ける。

「……ごめんね、ウェズリー。僕はこの8年間、君を苦しめるばかりだった」

「……嘘はよくないよ」

ウェズリーは笑った。ほんの少しでも彼の胸の痛みが取り除ければと願って。

「言ったじゃないか。これは『ボクとキミの』記憶だよ。ボクが苦しんでいるとき、キミも同じように苦しんでいたはずだ」

「……」

アストライアーは反駁することなく、黙ってうつむいた。ウェズリーは柔らかい声色で語りかける。

「アストライアー、キミだけだったんだよ。死にたいと願うボクを許してくれたのは。ボクの周りにいるのは皆、優しくて親切で良い人たちだったから……。どうしてもそれだけは許してくれなかった」

アストライアーはおもむろに首を横に降った。

「違う、そんなんじゃない。僕はただ君の命を利用しただけ……違う、違うんだ……」

駄々をこねるように呟くアストライアーにウェズリーはゆっくり近づく。

「可哀想に、泣いてるじゃないか」

冗談めかしてそう言いながら肩に手を置く。自分と全く同じ見目の相手を慰めるというのも奇妙な感覚だった。あれほど嫌っていた自分自身が目の前にいるというのに、不思議と嫌悪感はない。

「さぁ、約束の時だよ。可哀想だけど、ボクも今日のためにこれまで生きてきたんだ、嫌だとは言わせない。……それに、キミにはウェズリー(ここ)を出てやるべきことがあるんだろ?」

顔をあげたアストライアーは唇を引き絞って、怖い顔をしていた。ウェズリーは数歩退くと、その時を待った。

「……どうか、許さないでくれ」

そう言いながら、アストライアーは左手を真っ直ぐ前へ突き出した。彼の手中から光が溢れだしたかと思うと、みるみるうちに弓の形状へと変化していく。同時に後ろに引いた右手には光の矢が握られた。ゆっくりと、弓がしなっていく。

「うん。決して許さないし、感謝もしないよ。だけどね、恨んであげることも出来ないんだ。……ごめんね」

 ウェズリーは空虚な慰みを口にしてから、皮肉にほほ笑んだ。これじゃあまるでティファナと同じだ。

「人を思いやるのって難しいな」、それがウェズリーの最期の思考だった。

放たれた矢は光線となって、ウェズリーの胸に吸い込まれた。魂を砕きながら幾重にも溢れる光が過去を投射し、壁や天井を彩る。その中にはウェズリーとアストライアーが出会った夜も含まれていた。

『君の願いならなんでも聞くよ。だから、どうか……君の中にアストライアーという存在が間借りすることを許してくれないか』

 挨拶もそこそこにアストライアーが懇願すると、ウェズリーは力なく微笑んだ。老成した瞳の奥には強い虚無と疲労が見て取れる。

『それなら、星竜様。どうか、ボクを殺していただけませんか』

走馬灯は言葉通り、単なる光に過ぎない。記憶の世界でもそれは同様だ。だが、アストライアーには一字一句が音を伴っているように思えた。

少年と竜の記憶が混ざり合い、不可分なものとなっていく。

「ウェズリー、僕は泣いてないよ。もう、泣けないんだ」

己に言い聞かせるように呟かれた言葉は、一人きりになった灯台の中で反響した。

「僕の名は星竜アストライアー。……目覚めの時だ」

記憶の世界が、暗転する。


「アンタは……アンタが、アストライアー……なの? 本当に『あの』?」

ソニアは重い身体を無理矢理に動かしながら、目前の彼を見た。ニコニコと不躾な笑顔を浮かべたまま、自然体で立っている。ただそれだけなのに、ソニアは立つことすら敵わない。

「正〜解。……久しぶりだね、ソニア。大きくなって。相変わらず、ラトレルをいじめてるのかい?」

ソニアは竜の威光に萎縮する身体をいなしつけながらため息をついた。

「あ〜ぁ、これアストライアーだ……。マジでアストライアーだわ。本当に生きてたんだ……。竜が人に転生するなんて……。別にそこまでしなくたって死なないでしょ、竜は」

問われたアストライアーは少し困ったように笑って、顎に手を当てた。

「ん〜、まぁいろいろ事情があってね。ここで作ったアカウントを消すわけにはいかなかったのさ」

アストライアーは軽妙に振る舞うが、それが彼の本質でないことをソニアは知っていた。あれは下手な芝居に過ぎない。あの軽妙さに騙されれば、いとも容易く裏切られるだけなのだ。

「ま、どうでもいいわ、その辺は。アンタは転生してまで8年前の続きがやりたいってことね」

「うんうん。相変わらず話が早いね、君は」

ここが分水嶺だ、とソニアは内心で息を飲んだ。アストライアーに従うか、従わないかをこの場で決めなくてはならない。そして、「不服従」はすなわち死を意味する。この数分間、ソニアが生かされているのは裁定の時に過ぎないのだ。

「……私は」

軽妙な笑顔に答えを投げかけた、その時だ。

「アストライアー!」

背後から絶叫にも近い声が響き渡った。声の主は動けないソニアの横をすり抜けて、アストライアーへと迫る。

「やぁ、ラトレル! 久しぶりだね」

アストライアーは決死の形相で振り下ろされた剣を左手で軽く受け止めながら、旧友にそうするように右手を軽くあげた。

「……ウェズリーをどうしたんですか」

ラトレルが感情を抑えた声でたずねると、アストライアーはへらりと笑った。

「あぁ、君の友達か。悪いけど、食べてしまったよ」

言いながら、アストライアーは左手を払った。同時に飛び退いたラトレルは器用に制動すると、改めて剣を構え直した。

「……ウェズリーの命の責任は私が取ろう」

ラトレルの言葉にアストライアーはぴくりと眉を動かす。

「命の責任? そんなもの、竜である僕にだって取れやしないよ。相も変わらず傲慢が過ぎるね、君は」

「傲慢で大いに結構。出来るか出来ないか、ではないのです。王族として、私には国民の命を背負う義務がある」

「……変わらないなぁ、本当に」

言下にラトレルは再び地を蹴った。瞬間移動のごとき速度で彼はアストライアーへと迫る。

「貴方は……本当に」

アストライアーは腰から抜いたナイフでラトレルの剣を受けた。押し込むラトレルと、涼しい顔で受けるアストライアーが正面から向き合う。

「私を……私たちを裏切ったんですか?」

問われたアストライアーは一瞬、きょとんと目をしばたかせた。間をおいて、フッと小さな笑みをもらした。

「そうだよ? 皆そう言ってただろ? 僕は僕の意思でエスメラルダを裏切った。……その様子だと、僕のこと、信じてくれてた? 残念だったね」

アストライアーは言いながら、ナイフを引き込み、体勢を崩したラトレルの脇腹を右足で蹴り飛ばした。

「ガッ…‼」

地に叩きつけられたラトレルはボールのようにバウンドし、土まみれで転がった。ベサニーは「殿下!」と悲鳴に近い声をあげながら、脇目もふらずにラトレルに駆け寄る。

「僕には勝てないよ、ラトレル。良い子だから、諦めるんだね」

「……フフッ」

転がったまま、泥まみれの顔でラトレルは笑う。

「この程度で……私が諦めやしないことくらい、貴方が一番……よく分かっておいででしょう?」

「まぁ……。それはそれはよく知ってるけどね……」

アストライアーがため息混じりに呟くとほぼ同時に彼の足元から魔法発動を示す発光が生じた。

「僕にはやらないといけないことがある。旧交を暖めるのはここまでにしよう」

アストライアーをぐるりと囲むように現れた光輪が足元からゆっくりと上昇していく。光輪がアストライアーの頭の高さを越えた瞬間、光が凝縮し、はじけるようにして消えた。

「……逃げた、か」

呟きながら、茂みから出てきたのは隠れていたルピナだ。アストライアーが消えた場所をしばらく見つめ、一瞬の瞠目を挟んでから人当たりの良い笑顔を作った。

「お疲れ、ラトレル。いい芝居だった」

呼びかけられたラトレルは小さな呻き声をもらしながら、上体を起こした。ベサニーが心配そうに背をさする。

「……確かなんですね。アストライアーが弱っているというのは」

「実際に味わってみてよくわかっただろ? オレの加護をつけて、アストライアーの威光に耐えられるようになったところで、本来なら人間なんかちぎっては投げちぎっては投げ、だ。それが五体満足で寝転がるだけで済むんだから、とんでもないダウンサイジングだろ」

「それでも今の私たちではアストライアーには敵わない、か」

ベサニーに助けられながら、ラトレルはようやく立ち上がった。

「そういうこと。ま、それはそれでやりようはある。……で、初めましてのところ悪いけど、オマエも協力してくれるんだよな?」

ルピナはこれまで静観していたソニアに顔を向けて訪ねた。突然話をふられたソニアは若干ムスッとした態度で答える。

「そりゃね。……だけど、いろいろと説明してもらえる? 助けてもらっといてなんだけど、私にもいろいろと言いたいことがあるんだよね」

彼女の視線はラトレルへと向けられていた。当のラトレルは無視して服の土を払っている。

「よーっし! じゃ、3名様をオレの城にご招待だ」



「星はヒトの経験を栄養源にしている」

ルピナの城のダンスホールに集い、話が始まった。ラトレルは生真面目に、ベサニーはラトレルを慮りなから、ソニアは聞いているのかいないのか、興味深そうに宙で踊るティーカップを眺めている。

「転生病は星の栄養源を枯渇させてしまう病だ。その結果、星は死ぬ。アストライアーはそれを防ぎたくて、ここを作ったんだ」

ルピナは前にもやって見せたように、大小それぞれのボールを7つ呼び寄せた。

「この『銀河(ソラ)』には7つの星が所属している。うち、感染が認められたのは3つ。そして、この星以外の2つの星は既にアストライアーによって滅ぼされている。つまり」

ルピナの説明に呼応して、2つのボールがふらふらと地に落ちていった。それから1つのボールがプロセルピナの手元に吸い寄せられるように動く。

「ここが最後。この星を殺せば、この銀河の患部を切除することが出来る」

「アストライアーは……この銀河を守りたいのですね……」

ラトレルの言葉は質問というよりは呟きだったが、ルピナは悲しげにうなずいた。

「この星のコアはアストライアー当人だ。この星の死はすなわちアストライアーの死を意味する。既に2つの星を殺したあとだ。もはや説得に応じる段階じゃない。それでも……オレはアストライアーを止めたい。そのためにオレはここにきた」

ルピナはそう言いながら、ラトレルたちを見据えた。

「オレはまず精霊臨界……オマエらが言うところの自失回廊を作った。この世界に逗留するためのオレのキャンプとしてね。そしてこれが広がるように設計した。そうすれば近隣の現地住民がオレを目指して攻撃してくるはずだ。本来はそいつらを人質にするなり、もしくは橋渡し役を頼むなりするつもりだったんだが、ま、運のいいことに最初から『鍵』に出会えたわけだ」

「ひ、人質……?!」

ぎょっとした様子で呟いたのはベサニーだ。ルピナが彼女の方を見ると、びくりと首をすくめた。

「あぁ。オレはオマエらと敵対する気はない。が、かと言って手段を選んでる余裕もない。忠告しといてやる。オレをそう簡単に味方だとは思わない方がいい。……オレとしては味方のつもりでいるけどな」

ルピナはベサニーに向かってウィンクを飛ばした。少女らしい仕草と言葉の内容がどうにもミスマッチで、ベサニーは目をしばたかせながらも頷いた。

「ところで、鍵とは……?」

話を戻すために、ラトレルは訪ねた。ルピナの言葉は明らかにラトレルを指して「鍵」と呼称していた。言われた当人は訳がわからない様子で首をかしげる。

「やはり、オマエ自身にその認識はないか……。まぁ当たり前か。おそらく、アストライアーはオマエを傀儡として、この世界──自分を終わらせるつもりだったんだ。……オマエ、『ラストソング』って聞いたことある?」

「いや……」

「じゃあそこから説明しよう。……おーい、来てくれ」

呼ばれて現れたのは紙風船だった。ルピナは子供がやるように、それを膨らませてポンポンと右手で弾ませる。

「アストライアーはそもそも壊すつもりでこの星を作ってる。こうやって紙風船を膨らませるみたいに。それなら、『簡単に畳めるスイッチ』のようなものを作ると思わないか? 紙風船で言うなら破って中の空気を抜くんじゃなくて、空気穴から出してしぼませるような。そのスイッチがオマエなんだ、ラトレル」

「私、が……?」

「あぁ。オレにはわかる。オマエの魂には『鍵』が仕込まれてる。……だからオレはオマエに接触しなければならなかった」

ルピナは紙風船から手を離すと、「バイバ〜イ」と手を振った。紙風船は仕事は終わったとばかりに宙を舞うカトラリーの仲間に戻っていく。

「タイム……カプセル……」

数秒の間、顎に手を添えて考え込むようにしていたラトレルが神妙に呟いた。

「心当たりがあるのか?」

「えぇ……。アストライアーと私しか知らないことで、なおかつアストライアーから他言を禁じられたことが、ひとつだけあります。王宮の最下層、王族と一部の官吏しか入ることのできない『コントロールルーム』……」

「な、な、な……!」

急に声を上げたのはベサニーだった。口をパクパクさせながら、瞠目している。

「殿下……!」

ベサニーが嗜めるように呼ぶと、ラトレルは静かに頭を降る。

「……私が許可する。コントロールルームは存在そのものが国家機密だが、今はそれどころではないだろう」

慌てるベサニーをなだめてから、ラトレルは咳払いをして、改めて口を開く。

「『タイムカプセル』、と言い出したのはアストライアーでした。私がまだ10歳になったばかりの頃です」

ラトレルは過去を懐かしむように話し始めた。

「宝物を埋めて、大人になってから取り出す。アストライアーはそれを『タイムカプセル』と呼んでいました。当時の私はそれに賛同して、導かれるままにコントロールルームへと至りました。子供の私はまだそこが国家機密であることも知らず、冒険気分で踏みいったのです。成人の儀で使う部屋のひとつだから、ここに宝物を置いておけば、ちょうど10年後に思い出せるから、と」

ベサニーはそわそわと、ソニアは無表情に話を聞いている。

「見たこともない部屋でした。王宮は基本的には石造りですが、コントロールルームは壁も天井もコンクリートや金属製で、まるで機械の中に閉じ込められたかのようで、少し怖かった記憶があります。……アストライアーに言われて、私は部屋の奥にあった器具のひとつに触れました」

「ラトレル」

突然、話を遮ったのはソニアだ。皆が注目する中、それ以上何を言うでもなく、じっとラトレルを見つめている。ラトレルは彼女に視線を投げながら、ほんの一瞬だけ困ったように笑った。すぐさまその表情を消し去ると、ソニアを無視して言葉を続ける。

「……そこへ、父や近衛兵が急ききって現れました。私は部屋の外へと引きずり出されてしまって、以降のことはわかりません。……ですが、あの夜、引き金を引いたのは間違いなく私だったのです」

部屋はしんと静まり返った。ソニアは黙って瞑目し、ベサニーは愕然と宙を見つめるばかりだった。ラトレルは視線をぶらさず前だけを見つめながら、裁定を待っている。

「大厄災……オマエらがそう呼ぶもの。それが自壊魔法『ラストソング』だ。8年前、オマエはラストソングの術式の起動に利用されてしまった。おそらくは生体認証キーとして」

沈黙を破ったルピナがいたわるように言うと、ラトレルはうつ向きながらも再び話し始めた。

「ずっと……言いたかった。私が、私こそがあの厄災の口火を切ってしまったのだ、と。頭のどこかでは理解していたはずなのに。王宮の誰も、私を責めなかった……。父を殺したのは、私も同然だと言うのに、誰も」

その声は涙を濡れていた。眼窩に収まりきらなくなった涙が頬を伝う。ラトレルは袖で顔を拭ってから、なおも続けた。

「それでも、私はアストライアーを憎めなかった。まだ信じていたのです。彼女、いえ彼は……とても大切な友人だったから……」

そう簡単に涙が止まるわけもなく、ラトレルは何度も顔を拭った。擦られた頬はすっかり赤くなっている。ルピナはラトレルが落ち着いたのは見計らって、一同を見回した。

「ありがとう、ラトレル。おかげでオレたちが目指すべき場所がわかった。……行こう、オマエたちの王宮へ」


かつてこの星には7匹の竜がいて、それぞれの統括地を管理していた。竜世紀と呼ばれる時代だ。だが300年ほど前、人は管理者を倒し、自らで世界を律することを望んで彼らに戦争をしかけた。

戦争によって世界各国に対竜要塞が築かれ、結果として6匹の竜が地上から姿を消した。人間たちの勝利、人の世の幕開けである。今でも当時の遺構として各地に対竜要塞が残っているが、エスメラルダはその限りではない。

世界最後の竜・アストライアーを擁するエスメラルダは世界最後の親竜国だ。世界中から敵視され、アストライアーを殺すか、差し出すかを要求されてもエスメラルダ国王はそれを突っぱねてきた。アストライアーが死んだ、今もなおエスメラルダは鎖国状態で、他国とは交流を絶っている。

「え、なんで?」

アストライアー対策会議という名目で使用許諾を得た部屋はお菓子と紅茶の甘い香りで満たされていた。テーブルにごろごろと置かれたチョコレートをつまみながら、ルピナが訪ねると、教鞭を取っていたラトレルは子供向けと思われる教本から顔をあげて、ルピナを見据えた。

「かつて、親竜国と呼ばれる国は竜と同じ数だけありました。ですが、そのいずれも今は残っていないのです。反竜国と戦争になって滅びたり、竜を失ったことで国力を失って吸収合併されたり、理由は様々ですが。それに、『竜の遺産』──竜から授かった武器や魔術をそう呼ぶのですが、エスメラルダにはそれが飛び抜けて多い。鎖国を辞めれば、それらは全て取り上げられてしまうでしょう。そうなれば我が国も衰退を免れない。それが鎖国を継続している理由です」

ルピナは質問をしたわりに興味がないのか、今度はいかにも甘そうなジャムクッキーをつまみながら、「フーン」と声だけで返事をした。

「アストライアーのことだから、どうせ欲しいって言われたもんはどんどん与えちゃったんだろうな。他人を甘やかしてダメにするところがあったし……。しかし、そうは言っても依存しすぎじゃないか? 8年も前に死んだ竜の遺産に頼って鎖国し続けるとか、陰キャ過ぎだろ」

お菓子をつまみ続ける少女のごとき竜に言われては、ラトレルは肩をすくめるばかりだ。

「返す言葉もありませんね。……そういうわけで、エスメラルダには対竜への軍事力はないに等しいと分かっていただければ十分ですよ」

ごくん、と喉を上下させ、ルピナはカップに入っていたミルクティーで舌を湿らせた。

「いらねぇよ、対竜戦力なんか。今のアストライアーは人間に転生してるんだ。魂は竜のままとはいえ、肉体は人間だしな」

「ですが、対人戦力についても似たようなものなのですよ。何せ、ここはアストライアーにおんぶに抱っこの国ですから。ありとあらゆる戦力という戦力はアストライアーから授かったものなのです。」

「……マジで? 親竜国って皆そういうノリだったわけ?」

「いいえ」

「よかっ……」

「親竜国の半分は『竜主制』、つまり国家元首が竜だった国です。竜主制では政教と軍のトップがすべて竜ですから、それと比べれば多少は自主性があるんですよ、エスメラルダは」

「……滅ぼされて正解だな、それは」

ラトレルは同意せず、肩をすくめるにとどめた。黒板に書かれていた簡単なエスメラルダ史を消すと、改めて「アストライアー対策会議案」と左上に書き直した。反転して向き直ると、咳払いをひとつ挟んで訪ねる。

「私としてはルピナ、貴方からどれほどの軍事力を提供していただけるのかが一番の気がかりなのですが?」

マカロンの山に手をのばしていたルピナはわざとらしく大きなため息をついてから、椅子の背もたれに体重を乗せた。

「オレだって最大限の協力はしてやるよ。するけどな、所謂『竜』らしい戦力になるとは期待しないでくれよ。何せ、この星は『アストライアー以外の竜は弱体化する』って物理設定が成されてる。読んでたんだろ、アストライアーも。こうなることはな」

言い終わってから、もういいだろうと言わんばかりにルピナはマカロンを口に頬張った。それまでのしかめ面が一気に子供っぽい微笑みに転じる。

「ふむ……。そうですか。具体的にどの程度の戦力になるかは後ほど改めて。……さて、遅くなりましたが本題です。アストライアーを迎え撃つ作戦について共有します。そろそろ他の面々も来る頃合いでしょう」

ラトレルが黒板に作戦概要を記入していると、部屋の扉が開けられた。

「やぁやぁ、ごきげんよう。甘い香りにつられてやってきたよ」

「嘘です。私がたたき起こしてひっぱってきました」

ソニアとベサニーだ。確かにソニアは眠そうな顔をしている。そして、二人の奥にさらにもう一人。

「おはようございま〜す、殿下……。俺、まだ必要ですかね……」

ヒョロリと背が高いが痩せぎすで、マッチ棒のような体型をしている男だった。猫背と目元のクマ、さらにはだらりと垂れ下がった前髪が陰気な印象を与えている。こちらはソニアよりもさらに眠そうで、起き抜けに連れてこられていることが察せられた。

「やぁ、マックス! 来てくれて嬉しいよ。もちろん、必要だとも。これからちょうど作戦会議だ。問題があれば指摘してほしい」

「はぁ〜い……。殿下のご命令とあらば……、まぁ超眠いので寝るかもしれませんけど、その辺はご愛敬ってことで……」

マックスと呼ばれた男は大きなあくびをしてから、黒板から一番離れたソファにかけた。完全に体重をあずけて、今にも眠りにつきそうだ。

「誰、そいつ」

ルピナがマックスをじろじろと眺めながらチョコレートプレッツェルを指示棒のように向けた。

「彼はマクシミリアン。あぁ見えて王宮付きの参謀なのですよ。見た目と言動はともかく、頼りになる男です」

「嘘だぁ〜」

ラトレルの言葉にいち早く反応したのはマックス当人だった。

「殿下、俺の言うこと聞いたことないじゃないですか……。言っときますけど、結構ショックなんですからね?」

「……というわけで、対策会議のメンバーが揃った。作戦について共有しよう」

マックスは「ほらぁ〜」と言いたげにラトレルを見ていたが、眠気に負けたのかぐでんとソファに頭をもたげた。

「まずは勝利条件の確認から。アストライアーは星の核だから、殺すわけにはいかない。よって『アストライアーの捕縛』によってのみ勝利を得られるが、そもそも勝利する必要はない。星を壊されなければそれでいいんだからな」

ラトレルの言葉を遮る形で、挙手しながらルピナが声をあげた。

「質問〜。ラストソングをさっさと壊そうぜ。そうすれば勝ち確じゃん」

ルピナの言葉にラトレルはすげなく首を振る。

「当然ですが、大厄災以後、コントロールルームにあった機械の破壊を試みてきました。しかし、物理的アプローチでも魔法的アプローチでも傷ひとつつけられないまま8年が経っています。そのため『ラストソングの破壊』はひとまず不可能としています。……あるいは、貴方なら可能ですか?」

「無理だろうな」

ルピナはあっさりと答えた。

「オレが弱体化してるからじゃない。たぶん、本来のオレのフルパワーでも破壊は出来ない設定にされてるだろう。星をひとつ殺せる魔法機だからな。そんくらいじゃなきゃ」

どうやらルピナは最初からラストソングを破壊出来るとは思っていなかったらしい。あっさりと引き下がると、どうぞと言うように顎をしゃくった。

「我々は絶対にラストソングを起動されてはならない。そのためにまずファランクスを解除する」

「えっ?!」

その言葉に著しく反応したのはベサニーだ。ラトレルはベサニーに軽く目配せしてから、口を開いた。

「ファランクスは我が国の竜の遺産のひとつの極大防衛魔法です。現在のエスメラルダでは他国からの侵入に備えて、常に展開されています。なので、解除したら即座に敵国から侵攻されることが予想されます」

「あぁ、竜の遺産を回収しに来るって?」

「それもありますがね。大厄災の首謀者であるアストライアーを匿い続けているということで、今やエスメラルダは世界中から目の敵にされているんですよ」

やれやれと首を振るラトレルに、ベサニーがブンブンと音がしそうなほどに首肯する。

「そこでルピナの出番ですよ。他国からの侵攻してくる人間たちをすべて迎撃してください。いくら弱体化しているとはいえ、竜ならばそれくらいは余裕でしょう?」

 ラトレルの不遜な物言いにルピナは片頬をあげて笑う。

「……人間風情が竜を挑発とは大きく出たな。いいとも、オレのカッコいいとこちゃ〜んと見せてあげるよ」

ルピナはあっさりと了承したが、ベサニーはなおも慌てた様子で言う。

「説明してください、殿下! ファランクスのなくなったエスメラルダは丸腰も同然なんですよ! プロセルピナ様がいらっしゃるとしても危険すぎます! 一体どういうわけなのです?」

「それはねぇ〜」

ベサニーに答えたのはラトレルではなくソニアだった。右手でビスケットを弄んでいる彼女に一斉に視線が向く。

「ファランクスはラストソングの前提魔法なの。この国そのものが巨大な魔方陣なのは知ってるでしょ? ファランクスはその魔方陣を使って、エスメラルダを覆う半球型の蓋みたいに展開されてる。そして、ファランクスの半球の表面を球体魔方陣として利用することでラストソングを起動する。要するに、ラストソングを起動するためにはファランクスの展開が必須ってことだね」

ベサニーは言葉を失ったまま、ラトレルの方を見た。彼は苦笑して見せると、全員に聞こえるように付け加えた。

「補足しよう。ファランクスはこれまでエスメラルダの絶対の防衛ラインとして機能してきたが、アストライアーにもそれが通用するとは思えない。彼はエスメラルダ建国の時点で……いや、星の創成の時点で世界を裏切っていた。それなら、ファランクスにもアストライアーだけは通すような設定が成されていると考えるべきだ。故に、ルピナという防衛戦力を得られた以上、ファランクスは解除して、王宮魔術師たちの防衛魔術に切り替えた方が安全だという結論に至ったわけだ」

ラトレルは言い切ってから同意を得ようとマックスに視線をなげかけたが、返ってきたのは静かな寝息だけだった。

「そうそう。それにもはやファランクスの内側が安全とは言い切れないしね。私がアストライアーならファランクス内部にいる人間を無力化するような魔法も仕込んでおくよ。せっかく球体魔方陣が使えるんだからね、そうしなきゃもったいない」

ソニアのダメ押しが効いたのか、ベサニーはおもむろにソファにかけ直した。

「……そういうことなら、異論はありません。ご説明ありがとうございます」

ベサニーは理解は出来たが承服しかねるといった顔つきだった。無理もないだろう。ベサニーに言わせれば、「誰にも見られていないから全裸で外に出よう」と言われているようなものだ。加えて、ルピナの戦力が本当に期待できるものなのかという保証もない。その段階でファランクスの解除を決定してしまうのは時期尚早というものではないのか。ラトレルは彼女の懸念をそこまで推測した上で、丸々無視して話を続ける。

「アストライアーはラストソング起動のために必ずこの王城を訪れる。そこが我々の強みだ。そこで、罠をしかけることにした。……それについてはマックスに説明させた方が確実だな」

ラトレルがそう言うと、ベサニーはすっくとソファから立ち上がりマックスの元へ駆け寄り、耳元へ口を寄せる。

「失礼します、マクシミリアン殿。……敵襲だぁ〜〜〜〜っ!」

ベサニーの絶叫にルピナだけがギョッとしていると、すぅすぅと平和に眠りこけていたマックスの瞳が勢いよく開かれた。

「フゴッ!? 方向と勢力は……いや既に王宮に踏み込まれてるのか。 それなら……」

起き抜けにもにゃもにゃ言っているマックスに、ベサニーは冷ややかな声で告げる。

「おはようございます、マクシミリアン殿。殿下がお呼びです」

「分断して各個撃破……まとめて一網打尽もいいな。 …え? 敵いない……?」

視界をいくら回したところで室内にはお菓子ばかりだ。徐々に正気に帰りつつあるマックスにラトレルが呼び掛ける。

「目覚めたばかりのところすまないが、アストライアー対策の罠について説明してほしくて起こしたんだ。頼む」

ラトレルはそう言うとさっさと近くのソファに腰をおろして、脚を組んだ。その表情がやけに面白そうで、ルピナは首をかしげる。

マックスは気だるげに立ち上がると、黒板の前にたち、「じゃあ説明しますねぇ」と前おいてから話し始めた。

「アストライアーの捕縛ですが、基本的には城外で完結するのが理想です。ですが、これから説明するのはそれらの城外作戦が失敗に終わり、王宮に攻め入られた場合の最後の砦となるものです。ざっくり、2つの罠を作成、設置します。ひとまず発動順に説明していきますね」

のんびりした様子に変わりはないが、意外にも慣れた様子で、ラトレルが書いたものを容赦なく消し、図をかいていく。

「まずは単純な陥穽です。領域内に入ったら発動して、動きを止めて束縛します。それから連動してバカスカと散々魔法攻撃を浴びせかけます。大体50人は殺せるくらいのやつがですね。……で、その罠に殿下を引っかけます」

マックスの言葉から一拍置いて、三者三様の反応がかえってくる。

「なるほど。それを私に作れってのね」

と、ソニアは頷く。

「……ハァ〜〜〜〜〜〜〜?!」

と、ベサニーは今にもマックスに詰め寄らんばかりに彼を睨んでいる。

「コイツ、あれか? まだ寝ぼけてんのか? それとも素で狂ってんのか?」

と、ルピナは静かに引いていた。

三人の反応を見て、ラトレルはくつくつと声をおさえて笑っている。

「殿下はラストソングの『鍵』なんでしょう? なら、今アストライアーにとって一番困るのは殿下が死ぬことなんですよ。だからそこを攻めます。殿下には必殺の罠にはまってもらって、アストライアーにそれを助けに来てもらわないと」

「な、何言ってやがる貴様!? 寝ぼけた野郎だとは思ってたが、ついに殿下に手ェあげやがるってのか!?」

マックスの説明を聞いて、ベサニーはなおも抗弁した。階級上、マックスとベサニーならベサニーの方が上だから、『叱責』をしたところで問題にはならないが、それでも彼女が敬語さえも忘れるのは珍しいことだった。

「キレないでくださいよ、予言師殿。殿下の承諾は受けてるんですからね? まったく、殿下のこと好きなのはわかるけど……」

マックスの言葉に元々怒りで真っ赤だった顔が、さらに赤くなる。

「んなっ……!? おま、おま、お前ェ……!?」

「はいはい、閑話休題。マックス、質問いい?」

収集がつかなくなりそうな雰囲気を掃いて捨て去るように、ソニアが声をあげた。

「アストライアーが既に別の鍵を用意してるって可能性は考慮しないの?」

「俺は用意してない可能性が高いと思ってる。『鍵』なんて言ってるけど、要するに心霊魔法だ。殿下の魂そのものに術式を書き込むことで『鍵』になってる。おそらく、アストライアーは王位継承する者が生まれたとき、「祝福(ギフト)」として鍵を仕込んで来たんだろう。王族、もとい鍵を守るための自動回復魔法をセットにして、ね。その自動回復の効果が絶大だからこそ、アストライアーは魂に触れることを許されてきた。……他に仕込める機会がないよ。それに、ザカライアが生きてれば、鍵は2本あったんだ。王と王子で2本が王宮内にストックしてあれば、数も十分でしょ?」

「まー、それもそうか。でも、そもそも助けに来る? ギフトのおかげで、仮に無防備に全弾命中したところで死なないじゃない、ラトレルは」

「来るよ。罠とわかっていても、鍵がなきゃラストソングを起動できない。それに、今のアストライアーは人間だから、下手な防衛魔法よりも攻撃魔法で弾幕を張った方が効果が高い」

「相変わらず人道から反れてるねぇ。いいよ、進めて」

納得したらしいソニアはへらへらと軽く茶化しながら、続きを促した。

「そういうことで、現在の『鍵』は殿下だけ。今のアストライアーには新しく心霊魔法を組む力はないはずだから増やされることもない、という方向で話を続けるよ。次に二つ目の罠。これは一つ目の罠が奏効した前提だ。今度こそアストライアーを完全に捕縛する。そのあとアストライア―の処遇をどうするか、そこは殿下に判断してもらいます」

マックスが視線をなげかけると、ラトレルは無言で頷いてから、「どうだ?」とでも言うようにルピナに顔を向けた。

「オレから言えることはねぇよ。この星に住まう人間たちの意見が一番に尊重されるべきだ。ただまぁ、仕事料として、判断の場にオレを呼ぶくらいはしてほしいとこだな」

ラトレルは「心得ました」と頷いてから、たちあがった。

「会議はこれにて終了だ。私自身が囮になる作戦なんぞ、他の者に話したら止められかねないからな。他言無用で頼む。追って、通常配置も通達されるだろう。各自、作戦開始まで英気を養ってくれ」


マックスとソニアは共に使用人たちが出入りする食堂で同席していた。

「いやはや、2年ぶりの王宮の食事は格別だわ。ここなら食事は間違いなく一級品が出てくるからね」

「……」

マックスは無言でうどんをすすりながら、ソニアの様子を伺った。サラダとスープとパンケーキを交互にばくばくと勢いよく口に入れていく、彼女の健啖ぶりを眺めながら、対照的に味気なく食べた気のしない朝食を胃に納めると、機を見計らって切り出した。

「俺は殿下を殺す気はないよ」

文脈もへったくれもなく飛び出した言葉に、ソニアはにやりと口角を上げて見せる。ナイフとフォークをもったまま、ニタニタとした笑顔をはりつけたて答える。

「フーン、さっきは嬉々と罠の話をしてたのに?」

「……ハァ。懐かしいなぁ、こういうやり取り。君っていつもそう……」

マックスはうんざりした様子でぼやいてから、周囲を見回し、小声で弁解した。

「君は俺が殿下を殺すつもりだって考えてる。ラストソングの鍵が殿下なら、殿下を殺すのがこの星にとって一番手っ取り早い解法だ。誰だって、それくらいすぐに思い至るさ。そうなると、君は殿下を殺されないうちに俺を殺そうとするだろ? 俺も命は惜しいからさ、さっさと牽制しておきたかったってこと」

ソニアはぶすりとミニトマトにフォークを突き立てながら、つまらなそうに答えた。

「あ〜ぁ。食事に誘われたときはてっきり『殿下を殺すのに協力してくれ』って言われるのかと思ってたのに、真逆とはねぇ。それに、ちょっと心外。なんで私がラトレルのためにそこまでするっての?」

言下にミニトマトを口に放り込み、フォークは次のミニトマトを虎視眈々と照準している。マックスはソニアの顔色を覗き込むように頬杖をついた。心なしか口角があがっている。

「ふふ、君にしては見え透いた嘘をつくね。殿下を大事に思ってないなら、そもそも王宮(ここ)に戻って来ないよ」

マックスは「どうだ」と言わんばかりに首をかしげて、ソニアを見据えた。対するソニアは涼しい顔でマックスの言葉を無視して話を続ける。

「とはいえ、ラトレルはそう思ってない。私からもアンタからも命を狙われてると思ってるに違いないよ。きっとこの会食だって『ラトレル殺害計画』の相談だと思われてるね」

再び、ミニトマトがソニアの口の中に消えていった。

「俺もそう思うけど、お互いに疑念を抱いたままってのも効率悪いし、いっそのこと殿下にも共有したら? 殺す気ないよ〜って」

「ま、最終手段はそうなるけど……。アンタだって分かってるでしょ。今のラトレルが……いや、最初から正常だったとは限らないって」

「まぁねぇ……。何せ、殿下は8年前にラストソングを起動しかけてる。ザカライアが止めにいかなきゃ、あの時に終わってたさ。殿下自身には気づけないような形で、アトスライアーの操り人形にされてる可能性もなくはない」

「でしょ? だから、そう簡単にラトレルに手の内を明かすわけにはいかないのよ。……ていうか、アンタだってさっき偉そうに解説してた作戦は全部フェイクでしょ?」

マックスは無言で肩をすくめて見せた。

「プロセルピナは当然信用できないし、ベサニーは殿下に従うだろう。俺たちは俺たちで適宜動くしかない。悲しいけどね」

話は終わったとばかりにマックスが席を立ちかけると、周囲からほとんどの使用人がいなくなっていることに気づいた。朝食としては遅めの時間で、ピークタイムこそ過ぎているものの、多くの使用人が働いているにしてはまばら過ぎると言えた。現在進行形で食事を取っている使用人たちもマックスたちからは遠い席でそそくさと食事を運んでいるように見受けられた。マックスは振り返らずに訪ねる。

「……君さ、なんであんなことしたの? 君が居なくなった後の殿下の嘆き様はすごかったよ。見せてあげたかったくらい」

ソニアも席を立ちながら答えた。

「『説明できない』、以上。続きは中庭でも行きましょうか」



自室に移動したラトレルは軽めの朝食を済ませると、待機していたベサニーに切り出した。

「私はこれからマックス、ソニアからそれぞれに命を狙われることになるだろう」

 ソニアとマックスの懸念通り、しっかりと命の危険を感じていた。ベサニーは膝の上で拳をぎゅっと握りしめる。

「……ソニア様はともかく、マクシミリアン殿まで……?」

「あぁ。ラストソングの鍵である私が生きているのはリスクが高すぎる。私がソニアの立場なら間違いなく殺そうと考える。だが、この身に宿る祝福がある限り、ソニアですら私を殺すことは容易ではない。そこで出てくるのがマックスだ」

 ラトレルの言葉にベサニーは首を傾げた。というのも、宮仕えするようになって早2年、マックスが役に立っているところなどろくろく見たことがないからだ。ベサニーにとってのマックスはいつも気だるげでろくろく仕事もしていないのに、高給を取っている昼行燈そのものだ。

「そうか。君はマックスの持つ祝福を知らないんだったな。ヤツのは私とは違う、正真正銘、生まれつきの祝福だ。『遊生(イクオリテ)夢死(ィ・デス)』、殺意を持って加害した相手を即死させるという能力だな。私を手っ取り早く殺そうと思ったらマックスは最適任者というわけだ。

せめてマックスはこちらに引き込めないかと思って、昨夜真っ先に彼に会いに行ったんだがね。私の真意は伝わっただろうし、それでもソニアに着いて行ったんだから間違いないだろう」

 確かに二人は軽口を交わしながら連れ立って食堂へ向かっていった。それだけで裏切ると断定して良いものか、と疑問に思いつつも尋ねる。

「であれば、あの二人も殺してしまいますか?」

ベサニーの物騒な問いかけに驚くことなく、ラトレルは淡々と答える。

「ソニアは殺せるものなら殺したいくらいだが、難しいだろう。あれは予言師としても魔術師としても規格外だからな。対照的にマックスは魔術についてはほとんど使えないも同然で殺そうと思えば簡単だが、単純に惜しい。ルピナがどこまで信用できるかわからない以上は生かしておきたい」

「かしこまりました」

ベサニーは表情にこそ変化はなかったが、ほどけた拳が彼女の心境を雄弁に物語る。

「……正直に言うと、少し楽しみなんだ。彼らと相対するのは。命の取り合いの末、私が死んだとしてもこれと言って損失もない。使用人を国葬のために走り回らせてしまうことくらいさ」

ベサニーは言葉の通りに楽しそうにしているラトレルを見ていることが出来ず、再びうつむいた。

「……申し訳ありません。私の予言が自分の意思で出来れば、もっと殿下をお支え出来るのに……」

「なに、君が居てくれるだけで十二分に私の心を支えてくれているよ」

そう言って柔和に微笑むラトレルにベサニーは「はい」とだけ答えた。彼女の膝の上では再び固く拳が握られ、色を失っている。

「では、手筈通りに頼む」



緊急作戦配置に、物資の調達に準備、市民たちへの通達等、宮仕えたちの活躍もあって忙しない朝が終わり、日が高く上った頃、ついに攻撃の第一陣が王宮に降り注いだ。

西の空で、昼間の星のような小さな輝きが閃いたかと思うと、瞬く間に鋭い閃光と化し、空中で弾けた。それは攻撃というよりも流星が堕ちてきたかのようだったと、のちに目撃者は語っている。

ファランクスは既に解除されているため、流星雨と呼ぶべき魔法攻撃を受け止めたのは王宮魔術師大隊による防衛魔術だった。ソニアも今はそちらで辣腕をふるっている。

「殿下、報告致します! 魔術師大隊による防衛魔法は衝撃を100%軽減に成功、現在の損耗率は92%、これにより予測稼働時間が15分短縮され、11時間45分となりました」

「……誰の攻撃だった?」

「はっ。霊質鑑定の結果、アストライアーの攻撃と断定されました」

ラトレルは窓際に立って、西の空を見上げながら報告を聞いていた。伝令に礼を述べて下がらせてから、一人ごちる。

「ルピナは仕事をしている、か。まぁ、あちらはしばらく任せきりでいいだろう」

この戦いは持久戦だ。アストライアーの目的から類推するに、そもそもエスメラルダという国はラストソングを守るために作られたと考えられる。ラストソングを中心にして王宮を建て、それを守る者たちを王族としたのが最初だろう。アストライアー自身が作った堅牢な要塞、それがこの王宮である。ファランクスが解除されているにしても、専守防衛の体勢を崩すのは困難だ。

人間に転生し、弱体化しているアストライアーの選択肢は多くない。強烈な魔法の一撃による正面突破が難しい以上は、王宮戦力の損耗と疲労を待ち、ピークに達したところを畳み掛けるしかないはずだ。

その予想が正しかったことは、続く2回目と3回目の攻撃が証明してくれた。それぞれ1回目から3分後と8分後に到達した流星雨は三度魔法障壁に阻まれて、王宮に届くことはなかった。

もちろん、疲労するのはアストライアーも同じだ。むしろアストライアーの方が条件はきついだろう。魔法攻撃が放たれる度に、こちらからもカウンター魔術を放ち、その着弾点をたどることでいずれは本体を叩くことが出来る。既にアストライアー捜索隊は城を出ただろう。アストライアーも移動はするだろうが、人間の機動力なら人海戦術が可能なこちらに利がある。戦闘力でも同様だ。アストライアーがそれなり以上に強くとも、「面」で制圧されればなす術もない。仮に状況がこのまま推移するとすれば、いずれアストライアーは捕縛されるだろう。

それはエスメラルダ王族としては理想的な勝利に違いないが、ラトレル個人としては望ましい結果ではなかった。アストライアーに裏切られていたとしても、彼女(今となっては『彼』だが)との思い出はどれも美しく輝き続けているのだ。本音を言えば、ラトレルは今でもまだアストライアーに帰って来て欲しいのである。

「はぁ……」

相反する理想と現実に思わずため息をついた時、背後の扉が開かれた。4回目の攻撃の報告かと振り向いたが、そこにいたのは伝令ではなかった。

「……ソニアか」

目を細めて呟くと、ソニアはひらひらと手を振った。

「や、王子様くん。暇そうだね」

相変わらず飄々としているソニアにラトレルはいつになく穏やかに答える。

「指示は出し終えているからな。あとは報告を受けて承認をするばかりだ。……そう言う君は持ち場を離れてどうしたんだ? 休憩には早いだろう」

ラトレルが微笑むと、ソニアはたじろいだように数秒黙り込んだ。

「……ねぇ、覚えてる? 私が2年前、ここから出ていったときのこと」

ソニアはラトレルの問いを無視して質問に質問で返した。

「……どうして今更、そんな話をする?」

ラトレルは穏やかな微笑を崩さないまま、剣を抜いた。ソニアもほぼ同時に氷の剣を出現させる。

「……ま、アンタ相手に言葉を弄したところで無駄だよね。ちょっと痛い目見せてから、ゆっくりじっくり、話を聞かせてあげるよ」

先に動いたのはソニアだった。

「タイプトランスレート/アタック」

踏み込みからの強烈な刺突。ラトレルからはソニアが消えたかのように見えた。彼女の剣を受け流そうとしたが、勢いを殺しきれず右側にふっとび、壁に叩きつけられた。肺から強制的に排出された呼気がもれる。骨が折れた感覚と同時にそれらがアストライアーの祝福によって一瞬で治癒された。

ラトレルは痛みの残滓に呻きながら、左手から魔力を放出した。中級範囲闇属性魔術ドーンバイト。『バイト』の名の通り、敵の足に絡み付き移動を制限するための魔術である。本来は目前の敵ではなく、あらかじめ設置しておいて複数の敵をまとめて足止めする罠として使用するものだがラトレルはあえてこれを選んだ。ひとつは当然、ソニアの足止めのため。もうひとつはスパイクの要領で壁に靴を噛ませるためだ。

「フ〜ン? そう来るんだ。ま、付き合ってあげるよ。──タイプトランスレート/クイック」

ラトレルは自重に耐えながら、壁を駆けた。その後を追いかけて、鞭のようにしなる形状に変化したソニアの剣が飛んでくる。鞭のしなりと、剣の鋭さを兼ね備えたそれは石造りの壁を大きく穿った。鞭だけでも必殺の一撃だというのに、あまつさえ同時に氷の槍が四方八方から降り注いでくる。これはラトレルそのものを狙っているというよりは進路を妨害する形で落ちてくるため、ほんの一瞬の迷いやミスが命取りになる。

ラトレルは一見すれば鞭を避け、槍を剣で弾いてうまく逃げ回っているかのようにも見えた。だが、ソニアはあえてラトレルには当てずに彼が逃げ回ることができる壁や天井をじわじわと減らしているようだった。このままラトレルが防戦を続ければ行き詰まるのは明白だ。実際、ソニアの目論見通り、10分もすれば壁も天井もズタズタになり、ラトレルが逃げられる場所はなくなってしまった。

「ほらほら、次はどうする気? 逃げ回ってる間、大魔術の詠唱でもしてたんでしょ? それとも……ドーンバイトに隠した毒が効くのを待ってただけ、なんて言わないよね?」

ソニアの攻撃が止み、ラトレルは立ち止まった。肩で息をしながら答える。

「気づかれて……いたのか……」

「気づかれないと思ってる方が間違ってるわよ。……アンタ、本当に変わっちゃったわけ?」

ソニアの瞳に浮かんでいるのは失望と憐憫だった。彼女が項垂れた瞬間、ラトレルは最後の詠唱を済ませた。

「ダスク・フォールト・スクエア!」

最終詠唱によってリリースされたのは単純に言えば、「四角形に切断する」という魔術だ。この場合の「四角形」とはすなわち床のことであり、ドーンバイトによって床に縫い付けられているソニアはもろともに落下するしかない。

「メイズ/フェイズ/レイズ!」

 ラトレルが詠唱できたということはすなわちソニアにも詠唱する時間的猶予があったということである。この詠唱の意味は要するに『張り巡らされた経路に魔力を満たす』というもの。この場合の経路というのは壁と天井にいくつも刺さっている槍だ。槍を点として、その間に魔力の壁を作り、迷路を形成する。

「ヴァイス/ダイス/アイス」

 『西の魔女』とは8歳にして不世出の天才と目されていた彼女に自然についたあだ名、あるいは称号だった。2年前の大虐殺事件によって彼女を称える言葉が彼女を恐れる言葉へと変じただけのこと。

 この恐るべき才媛の最終詠唱によって創出したのは多面体魔法陣だ。四方の壁と天井に作った迷路を魔法陣として、詠唱のみでは不可能な高威力魔術を創り上げたのだ。

「タイプトランスレート/アタック/アペンド/レイニー!」

ソニアの鞭が砕け、氷の礫と化し、彼女の足元に降り注いて、床を砕いた。こうなればもはやドーンバイトは意味をなさず、霧散するのみだ。

「タイプトランスレート/クイック/アペンド/ステップ」

素早く命令を切り替えて、今度は薄い板状の氷で足場を作ると頭上を見上げた。

「懐かしいな……。昔はこうやってよく新しい魔術の実験台にして遊んでたっけ」

 ソニアが眺めているのは大小様々な氷の立方体だった。その数は数百にも及び、内部には細切れにされたラトレルが収まっている。幸いなことにと言うべきか、ラトレルはミンチにしようが、焼き払おうが、溶かそうが死なないことは過去の実験で証明済である。足場を階段状に並べて登り、すっかり冷えきった階上に向かう。

 さて、突然だがソニアが鼻で笑った毒の話をしよう。ドーンバイトに毒を混ぜる手法は戦場でも使われる常套手段だ。ソニアがそれに気づくことをラトレルが見越していないはずもない。つまり、あれはソニアのための毒ではなく自分のために仕込んだ毒だったのだ。

もちろん毒を使ったところでラトレルは死なないが、外傷と違って人目には祝福の発動が分かりにくいという利点がある。内臓がズタズタの状態で、さらに全身がバラバラになれば、祝福による過剰回復が起きる。

簡単に言えば、細切れになりながら回復を続け、脳と心肺だけは無事な状態のまま檻に捕らわれたということだ。脳と心肺の血流が維持されていれば、祝福の効果で意識は保てる。意識があればこの状況でも魔術は放てる。

「開口しろ、ミッドナイトホロウ!」

それは言葉ではなく血文字を契機に発動された。これこそがラトレルが本当に詠唱していた大魔術である。物質界と霊質界の間──混沌次元と呼ばれる亜空間に通じる虚を作り、その中を出入りすることで瞬間的に短距離の移動を可能にするという技だ。ミッドナイトホロウに身を隠している間は攻撃を受けず、また時間の流れが現実とは異なるため、外にいる者からすれば消えたのとほぼ同時に全く違う方向から攻撃を受けるという、実に理不尽な状況を作ることができるのだ。

すべての氷の檻の内部で闇色の虚が口を開き、ラトレルを飲み込んだ。次の瞬間──

「クッ……!」

ソニアは背後の気配に反応し、振り向き様に剣を振り上げた。ギィンという重い音と共に剣と剣がぶつかりあう。その瞬間、ソニアは目を見開きながら己の死を確信した。視線の先にあったのは虚から伸びるラトレルの右腕だけだったからだ。ソニアにはそれ以降の景色が皮肉なほどにゆっくりと、明瞭に見えていた。

背後の気配は間違いなく、虚から現れたラトレルだろう。おそらくは虚そのものを足場としてソニアの背後で武器を構えている。ソニアの予想は正しく次の瞬間には左肩から心臓まで切り裂かれ、胸から大鎌の先端を生やすことになった。

「ガッ……ヒュ……ウ……」

己の肺から漏れる声がくぐもっていて、まるで他人事のようだった。だが最後に一矢報いなければという思いは指先まで届くことはなかった。ラトレルの追撃がソニアを幾重にも貫いたからだ。

「ホロウ・アンサンブル」

急速に暗くなる世界で鈍化する思考を駆使して何を想っていたのか。それはソニアだけが知っていれば良いことだ。

魔力の供給が絶たれ、氷の足場はほどけるように消えた。ラトレルは穴だらけになったソニアの身体を優しく抱き止めた。にわかに冷えていくソニアの体温を感じながら、既に事切れている彼女に向かって呟く。

「……驚いたな。こんなに心が痛むか」

ラトレルはソニアを抱き抱えたまま、再び虚に消えた。ズタズタになった部屋を出て、ドアの向こうで再び虚から出現し、ソニアを床に寝かせる。

思い出すのはソニアが王宮を出ていった時──2年前の事だった。


大臣の制止を振り切ってラトレルは空中庭園の中を駆けていた。夜露に光る薔薇も今はノイズでしかない。庭園を駆け回り、ようやく彼女を見つけた頃にはすっかり息が上がっていた。今まさに柵をこえて夜空の果てに消え去ろうというソニアの背中に向かって、矢も盾もたまらず、ただ必死に叫んだ。

「ソニア……ッ!!」

「あれ、王子様くん。へぇ〜、いいのかな? 大臣に止められたでしょ? 良い子はもう寝る時間だって」

ふざけているのは口調だけで、彼女の言葉からは確かな怒りが感じられた。この5年間、向き合うことを避けてきた怒りを前に、ラトレルはうつむいた。

「どうして……」

「どうして? エスメラルダの領地にどデカい穴をあけて、そこにあった街の住人を皆殺しにしたんだから、王宮にいられないのは当然でしょ」

あっけらかんと言うソニアにラトレルは激昂した。

「君は……っ! 確かにちゃらんぽらんで、性根が腐っていて、最低だが……! それでも……無辜の民を一方的に虐殺するような非道をする人ではない……決して!」

擁護したいのかけなしたいのかわからない事を言うラトレルをソニアはフンと鼻で笑った。

「私がどんな人間かをアンタに決められる筋合いなんてないのよね。それにね、別に私は誰に陥れられたでも、質の悪い噂を立てられたでもない。私が私の意思で決めて、やったことよ。ちゃんと調べれば、私がやった証拠はいくらでも出てくる。……それがわからないアンタじゃないでしょ」

ソニアは吐き捨てるように言うと、躊躇なく柵をこえ、中空へと身を投げ出した。

「私は……君を信じている……!」


脳裏に浮かぶ過去に見切りをつけ、目の前のソニアを見遣る。彼女の見開かれたままの瞳を閉じると、血に濡れた自分の左手を見つめながら片頬だけで笑う。

「皮肉なものだな。今から思えば、君は私の……」

「殿下!」

廊下の奥から飛んできた声を、ラトレルは無理矢理に作った微笑で出迎えた。

「あぁ、ベサニー。心配していたよ。ちょうどこちらも片付いたところだ。……その様子だと、捕縛には失敗したか」

毛むくじゃらの四肢に、鋭利な牙。これが四つ足で歩いていればただの狼にも思えるだろうが、人のように二足で歩いている。ラトレルが「ベサニー」と呼びかけた者は、エスメラルダでは約200年前に根絶宣言が出された獣人種族──人狼そのものだった。

「はい……申し訳ありません」

灰色の人狼──ベサニーはそう言いながら携えていた長髪の頭部を床に置いた。ラトレルは拾い上げた顔を上にすると、髪を左右に避けて爪と牙で半分がえぐれている顔をしかと見つめた。

「マックス当人の戦闘能力は決して高くはないからな……。うまくいけばやつは生かしてやれると思っていたが、仕方あるまい。君はよくやったベサニー。……良い子だ」

ラトレルはそう言ってベサニーを撫でようと手を伸ばしかけ、血まみれなのを思い出して引っ込めた。ベサニーはクスクスと失笑を漏らしながら、化身を解いた。灰色の体毛が消え去り、体高が縮んで、いつも通りの12歳の少女であるベサニーへと変貌を遂げる。

「それはどうしましょうか? ちゃんと殺した事を証明するために頭だけ食べずに持ってきたんですが」

「それ」と言いながらベサニーはマックスの頭を指差した。ラトレルは微笑を湛えたまま答える。

「食べてしまってかまわないよ。なんなら、ソニアの方もどうだ? 魔力の質も量も私以上だろうからな」

「さすがに成人男性を丸々食べたら満腹ですよ。……いえ、それ以前の問題です。ソニア様は……その……殿下の大切な人でしょう?」

ベサニーはラトレルの左手を見ていた。微笑で繕ってはいても、震えるほどに握りしめられた拳は見逃せなかった。図星を突かれたラトレルは照れたようにはにかむ。

「……そう、だな。さっき、それに気がついたところさ。とはいえ、もう済んでしまった事だからな。しかし君が食べないとなるとどうするか……。虚にでもしまっておくか」

ソニアを虚にしまいながら、ラトレルはなおもぶつぶつと呟いていたが、唐突に顔を上げてベサニーに視線を向けた。

「……私はいつか君のこともこうやって裏切るかもしれない」

この茶番じみた問いかけを受ける度に、ベサニーはどうしようもなく甘い感性に支配される。まだ自分には利用価値があると見なされているのだと確かに感じられるからだ。ベサニーにとってはラトレルに価値を見いだされることが全てであって、それ以外の自分の意思など、もはや無用の長物だった。かつては憎らしかった食人欲求さえも今は誇らしく思える。

「たとえ何度裏切られようとも、私は殿下を共にあることを選びます」

ラトレルの隣以外の自分の居場所など必要ない。このような破滅的で狂気じみた感情を決して「恋」などと呼ぶべきではない。ベサニーの頭のどこかにある冷静な部分はそんな風にシニカルを気取っているが、陶酔する彼女には全く届かないのだった。


一方その頃、王国での出来事など与り知らないルピナは怒っていた。

「クソックソックソッ……! あいつらオレに貧乏くじ引かせやがって! 何が迎撃だ! オレが相手してやった途端、あっという間に逃げていったじゃねぇか!」

現在は少女の姿から変じて、いかにも「竜」といった偉容で海上に佇んでいる。エスメラルダとルピナは一応の協力関係にあるものの、やはり信用されていないようで、王宮から遠く離れた海上で待ちぼうけを食らっているというわけだ。

4時間ほど前、ファランクス解除と同時にルピナは哨戒を開始した。エスメラルダの領海の端をうろうろとしていると、ものの30分とせず1籍の駆逐艦が寄ってきて、威嚇射撃をしてきた。

「おいおい、いたいけな少女にそれはないだろ」

ルピナが右手の指を弾くと、次の瞬間、駆逐艦はぐにゃりと捻り潰された。紙を丸めるように潰された駆逐艦は当然のように爆発炎上し、海上に重油のシミを残して沈んでいく。

ルピナは次なる獲物を待ったが、2匹目の兎は待てど暮らせどやって来なかった。最初のうちは「このオレに恐れをなしたか! ヌワーハッハッハ!」と思っていたものだが、4時間もボーッと佇んでいるとだんだん心細くなってきたのだ。さすがにもういいか、と少女の姿に戻ると、背負っていたリュックサックの中を漁り始めた。

「あいつら勝手に戦勝会とかしてねぇよな……。食いっぱぐれは嫌だぞ……」

ラトレルが持たせてくれたお弁当があるので、昼食は困らないが夜食の準備はない。このまま夜になってしまったら、お腹が空いてしまうかもしれない。

不安に苛まれながら、リュックからとりだしたランチボックスを開けると中には魔術で焼きたての状態を維持された焼おにぎりが5個入っていた。醤油ではなく甘味噌が塗ってあるタイプだ。

「おいおいおい……あの王子様、王族の癖にわかってんじゃねぇかよ。王子なんてどうせめちゃくちゃでかい鮭とかいくらとか入ったおにぎりしか食べたことないんだと思ってたぜ……。いただきま〜す」

王族の解像度が低い竜・プロセルピナ。空中であぐらをかいたまま、ルピナは両手を合わせた。前線のど真ん中でこのようなほのぼのとした昼食が行われて良いのだろうか。彼女をこっそりと観察している敵がいれば、そのように思ったかもしれない。

「むふっ……はふっ……あえてムラが出るように塗られた味噌が味に立体感を出しててうめぇ〜。焦げの香ばしさと食感がアクセントになって次の一口が止まらねぇよ。ズズッ……水筒の中身はほうじ茶か……。マジでわかってやがるなあいつ」

誰にも聞かれていないのに食レポをする律儀な竜・プロセルピナ。彼女が王国の惨状を知るのはもう少しだけ未来の話だ。


閑話休題。場所はエスメラルダ王宮に戻る。急ききった様子の伝令が王宮内を駆けずり回ってラトレルを探していた。本来ラトレルが待機しているはずの部屋は見る影もなく破壊し尽くされてしまっていた。おそらくは魔術的な防音、防震によって室内で行われていた「何か」は誰にも気づかれないままに進行し、そして終わったのだと察することは出来た。一刻もはやく伝えねばならぬことがあると言うのに、当の王子は存命かさえ怪しい。募る焦燥に途方に暮れかけたとき、ようやく王宮予言師が捕まったのだった。

「ベ、ベサニー様ッ……。ハァ……よかった……ラトレル殿下は……どちらにおられますか……?」

20歳以上年下の重職に対して、伝令はきっちりと敬語を使って訪ねた。訪ねられたベサニーはというと、いつものように愛想なく、淡々と答えた。

「あの『西の魔女』が恐れ多くも叛旗を翻したのですよ。処理を終えた殿下は既に西側大ホールに移動されています。あそこからも外はよく見えますからね」

伝令は思わず首をかしげてしまった。大ホールなら真っ先に向かって、ラトレルの不在を確認したからだ。入れ違いになったのかもしれないと、伝令はさらに訪ねる。

「本当ですか? ちなみにさらに別の部屋に移動されるようなことは……?」

いち早くラトレルと情報共有を図りたい一念から伝令は用心深く訪ねたが、それがベサニーの不興を買った。

「ハァ……。信じられないのであれば結構。私は事実を申し上げています」

「えっ? あ、いや、そんなつもりでは……」

伝令はあわてて訂正しようとしたが、ベサニーはぷいと方向転換するとさっさと歩いて行ってしまった。くさくさする思いがないとは言えないが、それどころではなく伝令もまた急いで駆け出した。彼の脳裏に思い浮かぶのはベサニーが王宮予言師に就任した日のことだった。

2年前、ソニアがいなくなって数ヵ月後のある日。突然、ラトレルが「ソニアの代わりの予言師だ」と連れてきた少女、それがベサニーだった。

ベサニーを不信がっている者は少なくない。特に先々代の予言師の夭逝後、ソニアが最年少で王宮予言師を継ぐことに膨大な議論が費やされたことを知っている者は、ベサニーの人事に未だに疑問を持っているくらいだ。

「竜の遺産」のひとつである王宮予言師の家系は国の東西南北にわかれて4つある。先代のソニアは西から来ているから「西の魔女」などと呼ばれているわけだが、ベサニーはそのいずれの出ではない、という。

当然、当初は反対した者が圧倒的に多かった。誰を座らせてもいい椅子なら、出自のはっきりした者で良いからだ。予言の力があると証明されたとしても、どこの馬の骨とも知れない子供に任せられる仕事ではないのだ。

日常的に不信の視線を受けていればベサニーが苛立つのも致し方なし、とはいえ国防の最前線である王宮予言師の人事に疑わしい部分があれば、周囲が不信がるのもまた当然というものだ。

12歳の少女に過ぎないベサニーが個人的に何かを画策しているわけもなし、何かしらの陰謀に関わっていたとしても、彼女は利用されただけの被害者に過ぎないだろう──そのように考えて彼女に親切に接する者もそこそこにはいる。だが、ベサニーの側が一向にラトレル以外の人間に心を開かないので、不信は不信のまま、溝が埋まることはなく今日に至っているのだった。

猜疑心と同情心とを半々に抱えながら、伝令はようやくラトレルがいるという西側の大ホールにたどり着いた。大至急で伝えなければと駆けてきたのに、随分と時間が経ってしまった。扉を蹴りやぶらんばかりに、大ホールへと足を踏み入れる。

「大ホール」というだけあって天井はかなり高い。普段はコンサートや舞踏会、パーティーなどで使う部屋だが、今はテーブル等は撤去されていてがらんどうだった。左右に視線を巡らせると、窓際で外を眺めているラトレルを見つけることができた。

「殿下!」

振り向いたラトレルはいつものように本心を悟らせない穏やかな笑みで伝令を迎えた。

「……その慌て様を見るに、捜索班に何かあったか」

「は、はい! アストライアーは発見できず、これまで受けた27回の攻撃はすべて時間差で発動する自動攻撃だったものと思われます!」

伝令はまず結論を伝えると、捜索隊が発射地点までたどり着き、魔術発動の瞬間を目視するまでの経緯をつまびらかに語った。

「そうか。……どうやら探させてしまったようだ。すまないね。下がって休むといい」

ラトレルは伝令の額に浮かぶ汗を見ながら労った。

「は……はい!」

ラトレルが驚愕するとばかり思っていた伝令は拍子抜けしながら答えた。ラトレルに伝えたあとは彼の指示に従えと言われていたのもあり、配置の再編など何かしら対応策の指示があるとばかり思っていたのだ。ラトレルもそれを察したのかクスクスと笑う。

「何、咄嗟に言葉がでなかっただけで私もちゃんと驚いているよ。指示は追って別の者に出すから、君は休みなさい」

「は! それでは、失礼致します!」

伝令が部屋を出るのを確認してからラトレルはため息をついた。

これまでの単調すぎる攻撃を考えれば、アストライアーは発射地点におらず、すべて自動攻撃だったというのはむしろ得心がいく。どうしても釈然としないのは攻撃の「威力」だ。報告によればこれまでの27回の攻撃についてはすべて防衛に成功し、死傷者は出ていない。これは一重に攻撃が予想よりも弱いからだ。最初は長期戦に持ち込みこちらを疲弊させるためあえて威力を抑えているのかとも考えたがそれにしても弱すぎるのだ。

(自動攻撃はアストライアーが発射地点にいると誤認させるためだろう……それは良い。しかしあの威力では攻撃しない方がいくらかマシだ。いや……、そもそも本当にあれは攻撃なのか?)

ラトレルはそこまで考えたところで脳髄に電撃を受けたような衝撃に固まった。頭の中を記憶の断片が駆け回る。ファランクス、前提魔法、多面体魔法陣、流星雨。それらは一見して脈絡のない言葉の群れだが、パズルのピースのように繋ぎ合わせることでひとつの答えが浮かび上がる。

「球体魔方陣だっ!」

ラトレルは言葉と同時に駆け出した。これまでの「攻撃」は魔術師たちが張った結界魔術の上に立体魔方陣を「点描する」ためだと考えれば、合点がいく。既に27回も「攻撃」されているだから、描画は終わっている可能性もある。一刻も早く、結界魔術を張り替えさせなくてはならない。

ラトレルは素早く詠唱しミッドナイトホロウを開いた。切り札として宮仕えたちにさえ隠していた技だが緊急事態になりふりを構っている場合ではない。3階から1階へとショートカットし、魔術師隊のいる前庭に向かおうとした瞬間、「それ」は起こった。

立体魔方陣の内側に向かって幾重にも光の線が伸び──すべてを焼いた。魔術師隊の張った結界など薄い紙のように貫通している。一条の光さえ、攻城魔術としては十分な威力を備えているというのに、それが無数に襲ってきているのだ。勝ち目どころか、逃げ場さえなかった。

首だけで振り向くと、既に城はパイのように切り分けられ、崩落が始まっていた。もはや城内の者は助からないと判断し、ラトレルはミッドナイトホロウで前庭を駆ける。

立体魔方陣から伸びる絶死の光線は27回の魔法攻撃で貯めたエネルギーを利用しているのだろう。魔法攻撃の威力が弱かったのではなく、ほとんどのエネルギーを立体魔方陣にチャージし、残りを「攻撃したフリ」として結界魔術にリリースしていたに過ぎなかったのだ。

今更そんなことに気づいても遅いとわかっていても、ラトレルは悔やまずにいられなかった。あともう少し早く気づけていれば、もっと多くを守れたかもしれない。

ラトレルは魔術師隊らしき人影を見つけると、一息に近づいた。

「ラトレルちゃん!? よかった!☆ 生きてたのね♪」

魔術師隊の隊長・デルフィーヌはいつものようにやけに明朗な声でラトレルを迎えた。筋骨隆々な彼女の笑みはこんな状況ですら晴れ晴れしいが、状況は惨憺たるものだった。

50余名いた魔術師たちはほぼ壊滅。残っているのはデルフィーヌとあと2名だけだった。

「殿下!」

「ベサニー!? 無事でよかった……。しかしどうしてこんなところに」

「伝令がやけに急いでいたので何があったのかと、私の方でも魔術師隊に確認を取ろうと思いまして、デルフィーヌ殿に話を聞きに来たところだったのです」

「そうなのよぉ♪ 私の側にいてくれて助かったわ。他の皆は助けられなかったけどねっ☆」

デルフィーヌの言うとおり、ベサニーと残りの2人が助かったのはデルフィーヌが咄嗟に結界を張り、守ったからだ。王宮を守るために使っていた結界を縮小し、効力をあげることによって光線を防いだということらしい。

「とはいえ、私は結界を張るので精一杯で動けないし、ずっとここにいたら結界なんかすぐに壊れちゃうからね♪ 遺言を考えてもらってたところだったの☆」

仮に動けたとしても、立体魔方陣の外には出られない以上、狩庭で死を待つ兎であることに違いはなかった。もはや猶予はない。ラトレルは決断するしかなかった。

「デルフィーヌ。……私は地下へいく」

「……! 地下にいく方法があったのね♪ わかったわぁっ☆」

ラトレルはベサニーを手招きし、抱き寄せるとそのままミッドナイトホロウの中へと消えていった。

「あらあらぁ☆ 知らないうちにあんなすごい魔術まで使えるようになったのねぇ、ラトレルちゃん☆ でもよかったわ、私ももう限界だったもの♪」

デルフィーヌが生かした2人の魔術師は涙の跡こそ残っていたが、その表情からは覚悟が見てとれる。デルフィーヌはそんな二人に優しく微笑み、そして瞳を閉じた。

──文字通りの立往生。彼女の死と同時に結界も消え去り、2人の魔術師も光に導かれるようにして蒸発し、その命を終えたのだった。


地上の生存者がゼロになった頃、地下のラトレルとベサニーはコントロールルームにいた。

「どうしてっ……!? デルフィーヌ殿や生き残りの2人を見捨てて……私だけを……!」

 いつものむすりとした仏頂面はどこへやら、ベサニーは滂沱とばかりに涙をこぼしながら、ラトレルの胸を力なく叩いた。

「ミッドナイト・ホロウは危険な技だ。常世と現世の境界は、水面に浮かぶ丸太のように不安定だ。そう何人も連れだって行ける場所ではない。緊急時ならなおさらだ」

 正論で諭しても、彼女の感情を逆撫ですることにしかならないことは十分に分かっていた。だとしても「私だって救えるものなら救いたかった」と本心を口にしている場合でも、立場でもない。

「君も知っての通り、予言師の命は誰よりも重い。デルフィーヌが魔術師隊を捨ててまで救ったのはほかでもない、君だ。あの二人は偶然その場に居合わせたに過ぎない」

 言うまでもない話をラトレルはゆっくりと言い含めるように語った。胸の内にいるベサニーは未だ上ずった声で嗚咽を漏らしている。

感情に阿って、当たり前に泣ける彼女が、少しだけまぶしかった。感情はエネルギーであり、モチベーションを燃やす薪であって、耽溺するものではない。泣いてしまっては利率が下がる、などと頭の奥では淡々と激情が切り分けられ、消費されようとしている。

あともう少しだけ、彼女を慰めていたいと言う甘えた願望も見つけ次第、薪にする。

「ベサニー、私は行く」

出来るだけ冷たく聞こえるように言い放つと、つと向きを変え、冷え冷えとした室内を行く。


その部屋は石造りの王宮と違い、床から天井まですべてがコンクリート製だった。左手には冷却用のポンプらしきものが並んでおり、床には足の踏み場がないほどのコードが這っている。

「……」

ベサニーはほんの少しだけ距離をあけて無言でついて来ていた。時折鼻をすする音をさせながら、ラトレルを追ってコードをまたいでいる。

ラトレルが足を止めると、背後のベサニーもややあってから止まった。

「これは……」

二人の目の前にあるのはガラスの円柱だった。グラスをひっくり返したかのような空間で、中央には石の台座のようなものが設置されている。おそらくここがこの空間の中枢なのだろうと言うことはベサニーにも理解できた。

「この部屋は魔力と電力のハイブリッドで運用されているんだ。基本的には電力で運用し、有事の際に魔力で補助する形だな」

「え……? 逆じゃないんですか?」

ラトレルの話を聞いていたのが別のエスメラルダ人だったとしても、同様の問いをなげかけただろう。魔力資源が豊富なエスメラルダ人にとって「電力」というのは、自分の魔力を使うほどでもない些事や、単純に魔術を使うのが面倒なときに使用する「代替品」であるという認識が一般的なのだ。

「エスメラルダ人は世界的に見て平均体内魔力量がズバぬけて高いから魔力で生活するのが当然になっているが、諸外国は今や電力で社会基盤が築かれている。だからまぁ、この部屋は『外国仕様』とでも言えばいいか。本来は電力のみで使用するものをあえて魔力交換機関を組み込んだものらしい」

そこまで言ってからラトレルが更に進むと中へと導くかのようにドアが開いた。ガラス製の引き戸など見たことがないベサニーは怪訝な顔をしながら、敷居を跨ぐ。

ラトレルが台座に手をかざすと、見たこともない文字や紋様が青い光として台座に浮かび上がった。ラトレルが更に操作をすると、周囲のガラス壁にたくさんの「窓」が現れた。突然、情報の嵐の直中に放り込まれたようでベサニーは鼻白んだが、ラトレルは満足げに「こんなものだろう」と呟いた。

「ベサニー、あとは頼む。……私は『あちら』の対処をしなければ」

「え……、っ!?」

初めて見る機械の操作など出来るわけもない、と口に出す前にラトレルの視線の先を追って、ベサニーは凍りついた。

「アストライアー……様」

かつて「ウェズリー」と呼ばれた少年。今やアストライアーとして王国中のお尋ね者である彼がそこにいた。友人の家の戸を叩いて、相手が出てくるのを待っているような、そんな顔でこちらを見ている。

「あれ、気づかれちゃった? おどかしてやろうと思ってたのに」

アストライアーがおどけて見せてもラトレルは応じない。静かに殺意を燃やしながら剣を抜き放つ。

「あれくらいやれば死ぬかと思ったんだけど、だめだったかぁ。やっぱり適当じゃだめだね」

 対するアストライアーは自然体で悠々と殺気を受け流している。二者とも同様にコントロールルームを目指している以上は、両雄がここでかち合うのは必定だ。ベサニーは意を決して台座へと向かい合った。やるべき事はわかっている。操作は見様見真似でやるしかないが、ラトレルが稼いだ時間を無駄にするわけにはいかない。

 外では今も言葉の鍔迫り合いが続いていた。

「覚えておいでですか。8年前、ここに貴方と一緒に来たときのことを」

「そりゃあ勿論。僕にとっては苦い失敗の記憶だ。あの時は焦ったよ。想像よりもずっとザカライアの対応が迅速でね。まさかザカライアがあんなに強いとは思ってなかったし。……そんなこんなで今はこの有り様さ」

自虐的に笑うアストライアーに、ラトレルは焦れたように捲し立てた。

「そうじゃない! 私があの時タイムカプセルに入れたもの……それを覚えているかと聞いているんです!」

ラトレルの激昂に驚く様子もなく、アストライアーは小さく息を吐いてから答えた。

「君がいれたのは本だ。『灯台守のウェズリー』。君の好きだった本だったね」

その言葉を今のアストライアーが口にするのはどうにも奇妙だった。なにせ見た目は『灯台守のウェズリー』当人だからだ。

「……貴方には見えていたんですか? この未来が。そうでなければおかしいでしょう。どうして貴方が『ウェズリー』になっているんです」

ラトレルは先ほど見せた激情から打ってかわって刺すような冷えた声色で尋ねた。

「僕も君もね、多くの人々の心血と尽力によって演出された『奇跡』の只中にいるんだよ。竜である僕だって動き回る影法師のひとつだってこと。……おっと、シェイクスピアを引用してもここじゃ伝わらないか」

「……私も貴方も哀れな役者に過ぎない、と」

同様にシェイクスピアを引用して見せたラトレルにアストライアーは目を丸くする。

「前世の記憶があるのか! まぁ、ここではそう珍しいことじゃない、か。本の話がしたいなら、ソニアとするといい。彼女も演出家の一人だからね。……ただし、死者の国に行ってからだけど」

もう話は済んだとばかりに、アストライアーは背負っていた弓を手にした。昨日別れた時に持っていたものとは別で、しなる部分であるリムから持ち手に至るまですべてが純白で構成されていた。眩しすぎるほどの白弓とは対称的に、ラトレルは蒼色の剣を本来のメインアームである宵闇色の大鎌へと変化させた。

「それじゃあ、後腐れなくっ!」

アストライアーがそう言うと同時に幾百の矢がアストライアーを取り囲む形で出現した。矢羽根を上にしたまま円形に立ち並び、ぐるぐると回っている。矢の壁とでも言えば良いだろうか。

アストライアーが矢の壁に向かって手を伸ばし、なでるように振ると、矢自身が意思を持つかのように跳ねた。あたかも「つがえて」と言っているかのように、手元に跳んでくる矢をアストライアーは次々と射ち放つ。その数は10や20ではきかない。

アストライアーの魔力を帯び、青い燐光を伸ばしながら接近する矢の雨に、ラトレルは総毛立つのを感じた。

確かに数は多いが、迎撃は十分に可能な範囲である。現にラトレルの上体は矢を打ち据えてやろうと、前屈みになっている。須臾の間に選択を迫られ、ラトレルは己の第六感を信じることにした。すなわち、無理矢理に地を蹴って体勢を変え、迎撃ではなく回避へと切り替えたのである。

ラトレルが飛びすさった瞬間、影を磔にするかのように、飛んできた矢が床へと刺さった。針山のようなシルエットは目測で10本程度の矢で形作られている。残りの矢はどこへいってしまったのか。

考えるより先に身体が動き、ラトレルは振り向き様に大鎌を振るった。果たして、背後から迫っていた数本の矢を打ち落とすことは出来たものの、矢の纏っていた光を打ち消すことは能わず、直進した光はそのままラトレルを貫いた。

「グアァッ…!!」

胸から腹にかけて5ヵ所を光線によって焼かれたラトレルは激痛に絶叫した。血が吹き出すよりも先に自動的に回復魔法が働いて傷口が塞がる。同時に痛みも消えるが、激痛の残滓はそう簡単に消えるものではない。

「あ〜、そうか、君、殺しにくさではピカイチなんだったね。僕がそうしたんだった。忘れてたよ」

 口だけで笑いながらアストライアーは次なる一射を放っている。

 アストライアーの放っている物は矢であって矢ではない。矢で物理攻撃を、纏った光で光属性魔法攻撃を行っている複合投擲攻撃であり、その主体はあくまで魔法攻撃なのだろう。弓で矢を放っているように見えても、機動制御は魔法で行っているはずだ。追尾型魔法弾に矢がおまけでついてくるようなものだろう。

「私が並みの男なら、それで殺せただろうがね!」

 ラトレルは言下にミッドナイトホロウを傘のように展開し、飛来した矢をすべて飲み込んだ。

「へぇ。昔は『闇魔法なんてカッコ悪い!』とか言ってたのに変わったもんだ。……その言葉、熨斗をつけてお返しするよ」

 アストライアーは三度、矢を放った。これまでと何も変わらないワンパターンな射撃モーションだが、油断は出来ない。ラトレルは針一本が落ちる音さえ聞き逃すまいと神経を張り巡らせながら、ミッドナイトホロウを展開した。──瞬間、矢は上ではなく下から来た。先程、ラトレルが打ち落とし、纏っていた魔法も消えて地に落ちていた矢がひとりでに動き出し、ラトレルを穿たんとしたのだ。半ば反射的に地を蹴り、後ろ向きに飛び跳ねながら、大鎌を振った。

 大鎌をくぐり抜け、なおも迫って来るのは三矢。一矢は右目、一矢は腹、一矢は脚の腱を三方向から狙っていた。ラトレルはまず文字通り目前に迫っていた一矢をミッドナイトホロウの展開によって回避した。が、すでに飛来する矢に対応するために展開された口と、目を守るために展開された口で2か所を同時に展開している。3か所目は魔力的にも時間的にも間に合いそうにない。

 仮に腹を貫かれた場合、貫通しない以上回復には多少の時間がかかる。その間の機動に遅延が生じるのは致命的だ。左腕を犠牲にすることで内臓を守るしかない。

これでニ矢までは対応出来たものの、最後の一矢は如何ともし難い。何しろ現段階で視界の外にあるのだ。宙返りの最中である以上、下手に脚を動かせば着地を失敗する。このまま被弾しても同様だ。

 一か八か、ラトレルは空中を蹴った。魔力の放出によって急制動し、その勢いのまま反転したのだ。

「ガッ……アァ!!!」

 左腕で矢を受け止めながら、ラトレルは無事に着地した。

「読め、ました……よ…ッ! その弓矢、アニマ・アーマメントですね……!」

 激痛に耐えながらアストライアーを睨めつけた。……が、返事をしたのは全く予想だにしない「モノ」だった。

【正解だよ、ラトレル。……ふふ、久しぶりだね】

 左腕に刺さった矢から脳内へと投げかけられた言葉(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。その声に記憶が揺さぶられる。凪の終わり、夕陽、翡翠色の瞳。全ての因果が、辻褄が、運命が脳裏で収束し、電撃のように全身を駆け巡った。

──その隙を【彼】が見逃すわけもなく。

【さぁ、帰ろう? 安寧の中に。普く皆が還る場所へ】

 ラトレルの脚を狙い、外れた一矢。アストライアーの元には戻らず、完全に身を忍ばせた矢をラトレルが警戒していない訳がなかった。だからこそ、【ウェズリー】はラトレルへと語りかけたのだ。彼を殺す隙を自ら作り出すために。

 心臓を貫いた矢を背中から生やしたラトレルは世界が光に呑まれるのを見ていた。

「……アニマ・アーマメントは『思考する武器』だ。稀に人の魂や、精霊みたいな思念体がモノに宿ることがある。武器そのものに宿ったり、宿ったモノを武器に加工したり過程はいろいろだけど、ともかくそれが『ボク』」

 今度は思念ではなく、声として耳に届いた。目を開くと、寂れた灯台が目に入った。潮の香りが乗った海風が前髪を撫でていく。

「……まさか実在するとは思ってなかったよ。酔った吟遊詩人の戯言だとばかり」

 夕陽が海の向こうに朱く溶けていた。ウェズリーに出会ったあの日、あの時の再現された世界は見る見るうちに鮮明さを増していく。

「ま、普通は自律思考する武器なんて扱いづらいばっかりで使えたもんじゃないしね。再現性のない無用の長物さ。……でも、キミには有効だった。キミは心臓を射抜いたくらいじゃ死なない。おまけに業突く張りの意地っ張りだから、そんな状態でも動いてくる。だから、こうして魂の方を侵してる」

 ラトレルの思考は崩れたゼリーのように形にならず、まとまらなかった。既に事の経緯が思い出せなくなっている。一体何のためにここへ来て、見ず知らずの少年と話をしているんだったか。

「針山みたいになったまま生きてるのは酷だけどね。でもここなら痛みも苦しみもないから、安心して。……えっと、もう聞こえてないと思うから、ここからは生前のボクの言葉なんだけど」

 ウェズリーはそう前置いて、言葉を切った。ラトレルの前後不覚を今一度確認してから再び口を開く。

「キミがボクを殺してくれるって言ったとき、本当は嬉しかった。……それだけ、お礼が言いたかったんだ」

 狙い通り、知らない少年の言葉はラトレルの耳には届かない。記憶が整理され、再構成され、醒めない夢は現実になっていく。

「わ、たしは……」

 そして、ラトレルは整った愛想笑いを貼り付けて、とんでもないことを宣った。

「君の住まいである灯台を壊しに来た者だ」

「……は?」

 ラトレルが大鎌を振るうと、灯台は驚くほどあっさりと倒壊した。わけがわからないウェズリーは宙高く跳び上がったラトレルを眺めるばかりである。

「……えっと」

 虚をつかれはしたものの、ラトレルは問題なくこの世界に呑まれている。少しばかり展開は違うが、あの時の再現をしているのに間違いはない。ウェズリーはここで狼狽でもして見せた方が「それらしい」だろうとお芝居をして見せるが、着地したラトレルは半分になった塔を見つめていた。

「まさか同じ塔を2回倒すことになるとはな」

「な、何を言ってるんだ……?」

「予言の話だ。『塔を倒せ、塔を倒せ。大厄災は再臨し、世界は暗転する』。まさか、2回言ったから同じ塔2回を倒さねばならないとは。さすがに読みきれなかったよ」

「キミ……呑まれたわけじゃ……」

「『業突く張りの意地っ張り』なのでね。……これにて予言は成就する。私の勝ちだ、ウェズリー」

 ラトレルの言葉を裏付けるように永遠の夕暮れが夜闇ではない黒に染まっていく。この夢幻の世界だけではない。現実も等しく、何もかもが黒に塗りつぶされていく。

 奥行のない世界で最後に遺されたのは小さなクロノスケール──もとい懐中時計だった。チクタクと正確に時を刻んでいたかと思うと、突然停止し、針が逆向きに廻り始めた。

 ぐるぐるぐるぐるぐるぐるり。そうして再び懐中時計が時を刻み始めると、世界は目覚めのときを迎える。


 クロノスケールとは何か? もしプロセルピナに問えばこのような答えが返ってきただろう。

「世界時計のことだろ。時間のコンフィグをいじるのに使う。等倍速の設定はもちろん、早送りと巻戻しだってクロノスケールを使うぜ」


午前8:20

「クロノスケール・ダウトぉ?」

ルピナは口いっぱいにメロンパンを頬張りながらオウム返しした。

 早朝、お菓子と紅茶のにおいでいっぱいの会議室に一同は帰ってきていた。死亡していたものは悪夢から覚めたように、生存していたものは瞬間移動したかのように、突如一堂に会したのだ。

「えぇ。一度きりの大魔法、時を遡る秘術中の秘術です。

クロノスケール・ダウトは大厄災のあと、コントロールルームを分析している最中に見つかりました。当時は大騒ぎでしたよ。特S級の竜魔法の術式なぞ基本的には無用の長物ですが、あそこは星脈から直に魔力を吸い上げていますから、整備をすれば人間にも使えるようになる、というわけです。以降、王宮魔術師の総力をあげてヒューマナイズを行ってきました」

 ラトレルは言葉を切ると、集まった面々を見渡してから一段と声を落とし、続けた。

「知っての通り、我々は敗北した。この国を預かるものとして、海より深く陳謝したいところだが今は時間が惜しい。簡潔に状況を整理しよう。

私とベサニーは地下中枢区域『コントロールルーム』にて、竜の遺産である『クロノスケール・ダウト』を使用、4時間前へと世界が遡行した。

 我々と同様の出来事は死亡・生存というステータスに関係なく、全世界に適用されているが、このとき、記憶の連続性は維持される──要するに過去4時間分の記憶を引き継いだまま4時間前に戻っているというわけだ。アストライアーも状況は同じだから、前回と同じ手は通用しない」

「はぁ……!?」と抗議の声を上げたのはルピナだ。

「いや、それじゃあただでさえ負けてんのにアストライアーにワンチャンあげたようなもんじゃん。もっと圧倒的に完敗したいのか? オマエら」

 この中で唯一王宮の惨状を知らないルピナはずけずけと物を言う。

「返す言葉もありません。……前回を踏まえて、今回の対策だが、……待て、ソニア、どこにいく」

 ラトレルの言葉の最中、席を立ちそのまま退室しようとするソニアに、狼狽気味に声をかける。

「私は好きにさせてもらうから」

 振り向くことなくそれだけを言い放つと、ソニアは部屋を出ていった。ラトレルは悄然とうつむき、マックスはそれを見て笑いをこらえ、ルピナはそんな二人を怪訝そうに見比べていた。

「ふっ…くくくっ……! 殿下でもさすがに殺した相手には強く出られないんですね……!」

 ラトレルは話を続ける気が失せたのか、もたれかかるようにして椅子に座ると、手近なお菓子をつまんだ。甘味に反して、表情は苦々しい。

「おいおい、黙って聞いてりゃ物騒な……。オレが知らない間に仲間割れしてたのかよ。益々持って最悪だな」

 ルピナが心底軽蔑した様子で言ってもラトレルは無心にお菓子を摘んでいる。

「ソニアだけじゃない、俺だってそこそこ怒ってるんですからね。俺が犬嫌いだって知ってて人狼をけしかけたんでしょう? まさか人狼が現存するだなんて思ってないから、予言師殿がそうだなんて全く気づきませんでしたよ。俺はソニアとは違って殿下に協力はしますけど、ちゃ〜んと死亡手当出してくださいよね?」

 そう言うとマックスも部屋を後にした。もはやかける言葉もなく、ラトレルは無言でその背を見送った。

 チョコレートにマカロン、カヌレに和三盆と手に取れたものを次々口に入れていたラトレルが止まった。無言のまま咀嚼、嚥下が済むとすっくと立ち上がった。ラトレルと二人部屋に残され、仕方なくじっとりとフードファイトを眺めていたルピナはやれやれと声をかける。

「おう、自己嫌悪タイムは終わりか?」

「えぇ。……私としたことが、焦って事を性急に進めすぎました。ルピナ、貴方はここで待っていてください。マックスと、少し話をしてきますので」


「自己嫌悪なんて時間の無駄よ。後悔なんてもっての外。私達は今しか生きられないんだから」

 ソニアはかつてラトレルにそんなことを言った。それはもちろん本心で、ソニアはいつだって自己嫌悪は己の精神への慰めだとしか思っていない。それでも今日の自己嫌悪はなかなか割り切れるものではなかった。

「は〜〜〜あ、あれじゃあ殺された程度のことで腹立ててる奴だと思われちゃうよ。何やってんだか、私は……」

 「フライングチェアー」というそのものズバリの名をつけられた魔術道具で移動中のソニアは珍しく沈んでいた。殺されたことを恨みに思わないというのはなかなかに特殊で強靭な精神性なのだが、彼女に自覚はない。ソニアとラトレルの場合、ソニアのキルレートが圧倒的に上だという特殊な事情があってのものだ。

「急がなくっちゃ。最後のピースを埋めずに死ねないんだから」

 ネガティブな感情を思考で追い出そうと、ソニアは懸案事項を口にした。

 当代唯一の予言師として生を受け、過去最高の予言能力を持つとされているソニアにとって、人生は「読解」するものだった。

 未来を知っているのと、実際にそれを経験するのは天と地ほど違う。未来を察知した段階では何とも思っていなかった事象が苦痛だったり、逆に嬉しかったりと、予想外は当然のように起こる。それは「予言」はあくまで主観であり、言語表現に過ぎないからだ。例えば「誰かに殴られた」という未来の一点を知ったとして、それが「理不尽な暴力」か、「因果応報」か判断するのは予言師の感性次第である。過去最高と囃されたところで、群盲が象を評しているということには変わりはないのである。

 ソニアはずっと未来のために生きてきた。それが予言師として生まれた自分の誇りだったし、責任感でもあった。だから、自分の行いが「現在」においてどのような評価を受けようとも大事の前の小事として受け流してきたのである。……が、愁嘆場を前にしてソニアは揺らいでいる。「もっとうまくやる方法があったのではないか」と、架空の自分との比較する、最も空虚な自己嫌悪が頭から離れない。移動を終えて、ついに目的地にたどり着いてもソニアはまだモヤモヤと懊悩を抱えていた。

「懐かしい……って言ったら流石にダメか」

 ロストアイランド──人口1万人程度の交易都市であり、かつてソニアが完膚なきまでに破壊した街・ラナンキュラス。その暴虐の痕跡が今のロストアイランドだ。真っ黒なお椀を被せたようになっていて、中の様子は杳として知れない。

 物理的には一切の隔絶はないため、入ろうと思えば誰でも入ることはできる。だが、中に入ったものは今の所誰ひとりとして帰ってきてはいない。ソニアもまた不気味な黒に挑もうとしていた。

「怖いよ、ラトレル。私だって死ぬのは」

 無窮のごとき闇に、彼女は一体何を見出しているのか。

「でも、もう怖くない。私は務めをやり遂げる。賭けは不成立になるけど……待ってるから」

 録音されているわけでもない、正真正銘の独り言を言って満足したらしく、ソニアは快活に笑う。

 深く息を吐いてから、ソニアは漆黒の半球へと吸い込まれていった。


 マックスにとって、世界はおしなべてくだらない。生きてやる価値もない世界だと心から思っている。だから、別に世界が滅んで今日死ぬとしても「まぁいいか」くらいの感慨しかないというのが事実だった。ラトレルに付き合っている理由も本当はない。亡きザカライアへの義理立て、などと理由があるフリこそしているが、親友の息子とはいえラトレルはラトレルでしかない。王宮という高給の職場をわざわざ捨てる理由もないから、ラトレルに従ってやっているだけだ。

「な〜んて、斜に構えてたんだろうなぁ……。8年前ならさ」

思わず飛び出してきてしまったが、そこまでラトレルに怒っているわけではなかった。

 所謂「死に戻り」を経験し、目覚めたとき、マックスの胸中に溢れたのは落胆だった。

「ラトレルにとって自分は用済みになれば切れる程度の存在に過ぎないのだ」、と。そして次の瞬間には、落胆した自分自身のおこがましさを憎悪した。

 そんなくさくさした思いをなだめるように、マックスは空中庭園でピアスをいじりながらブラブラと歩いていた。ぼんやりとしていたら庭園についただけであり、要するにサボりである。

「不思議だよねぇ。昔は斜に構えてる方が大人っぽいと思ってたはずなのに、今は斜に構えるなんて青臭すぎてやってらんないもん」

 今でも生きることに何の意味もないとマックスは思っている。だが、無駄に年を食った今となってはたとえ「無駄」であっても積み上がったものを崩すことを惜しむ感性も備わっていた。

 空中庭園内の東屋に腰を落ち着けると、またぞろ「無駄な過去」が大挙して押し寄せて来るようだった。声をかけられたのはそんなときだ。

「やぁ、マックス。ここだと思ったよ」

 ラトレルはそう言いながらマックスの斜向かいに座った。マックスはおどけて「あれ、殿下自らお咎めに来たんですか?」と笑ってみせた。

「いいや、ケジメをつけに来たのさ。もはや私も明日がわからない身なのでね」

 マックスは何もわからないフリをして笑顔を貼り付けたままでラトレルの次の言葉を待った。ラトレルに殺される理由ならいくらでもある。殺されたくらいでは決して払いきれない負債──過去を精算するときが来たのかもしれない。

「君が何度も私を殺そうと策謀していたのは……父上の指示だったのか?」

「……ん?」

 てっきり投げつけられるのは憎悪だとばかり思っていた。だが、ラトレルに見てとれる感情はなかった。いつも通りの澄まし顔だ。胸奥に隠した心が一体いくつあるのかと、つい考えてしまう、そんな顔。

「えっと……何、つまり殿下は俺を殺しに来たわけではないんです?」

 ラトレルは柳眉を下げてため息をついた。

「どうしてそうなる……」

「だって、昨夜牽制に来たのはそれを警戒してのことでしょ? だけど、俺はソニアについていったから、用済みになって予言師殿を差し向けてきたんじゃ……?」

 正直ほぼ合っているので困る。だが、ラトレルは「襲ってくるようなら殺していい」としか指示していない。ベサニーが独断で先制して殺したとも思えない。違和感を感じつつも一旦脳裏に追いやり、言葉を返す。

「私も人の事を言える義理ではないが……殺意ばかりを読み取るのはどうなんだ」

「……アハハハハハ! 人の事言えなすぎ!」

 ひとしきり笑っているマックスをラトレルは不満げに見ていたが、おもむろに「脱線したな、すまない」と話を戻した。

「それで、どうなんだ。父上は私を……疎んでいたのか」

 ラトレルは真っ直ぐにマックスを見ていたが、その瞳は揺れているようにも見えた。一瞬でも目をそらせば、もう向き合うことはかなわないと覚悟を決めてきたような瞳に、マックスはあっけらかんと答える。

「いや、全然ですよ? 俺はザカライアをイジるのが面白くて殿下の命を狙ってただけだし……。え、まさか、ずっとザカライアの命令だと思ってたんですか?」

「た……」

「た?」

「ただの不届き者じゃないか!!」

 ラトレルはしばらくわなわなとは震えていたが、やがて気が抜けたらしく、おもむろにテーブルに突っ伏した。

「あー、えっと、なんだろ……申し訳ありませんでした……?」

「適当に謝るな……。はぁ……全く、お前と来たら」

 うんざりしたようなことを言っているが、口元は笑みを隠せていなかった。

「あはは、ダメですね俺たち。お互いに殺意を読み合って、その上で事を運ぼうと根回しして……。なんか俺、わかった気がしますよ」

 用は済んだとばかりに腰をあげていたラトレルは「なんだ藪から棒に」と首を傾げた。

「俺、殿下のそういう人でなしなところを見て、安心してたんですね。なんていうか、清廉潔白にやるだけが人生じゃないんだな〜みたいな」

 立ち上がり空中庭園を去ろうとするラトレルにマックスも着いていく。ラトレルは振り向くことなく、返事もしない。だが、もはやその背に権謀めいた暗い意図を読み取る必要はなくなっていた。それを雄弁に示すようにラトレルはこうもあけすけに背を見せているのだ。……などと、敵意の無さを読み取り、読み取らせている時点でやはり彼らは疑念で繋がっている。疑念を向け合う状態こそが真であり、最も居心地が良い──同じ穴の貉というわけだ。

「んじゃ、時間もないですし、話ながら説明しますね。今回の策は……」

 クロノスケール・ダウト発動から1時間が経過し、現在は午前9時、反撃の狼煙があがろうとしている。


  

「諸外国からしてみればクロノスケール・ダウトは晴天の霹靂だが、今やこのような大規模魔法はエスメラルダの専売特許と言っても過言ではない。間違いなく「またエスメラルダがなんかやった」と息巻いているだろうが、君が前回敵駆逐艦と接敵している以上、迂闊に攻撃はしてこないだろう。今回はこちらで助力してもらう」

 マックス、ラトレル、ルピナはコントロールルームへと向かっていた。地下中枢区画は限られた者以外、立ち入りを制限されているため、三人以外の人影は見当たらない。清潔感というよりも潔癖性を感じさせる白い壁が続く廊下を歩きながら、苛立ったようにルピナは答える。

「……あのさぁ、そろそろ本題に入ってくれよ。そのためにここに来たんだろ?」

 ラトレルは人差し指を唇にあてながら微笑んでみせた。コントロールルームは目前と迫っている。ルピナは聞かせるようにため息をついてから、足を早めた。

 ラトレルにとってはほんの1時間ぶりのコントロールルームだ。当然だが、激戦の跡は残ってはいない。無傷のコントロールルームは静かに三人を迎え入れた。

「お前らの言いたいことは大体わかってる。クロノスケール・ダウトをもう一度打つ。違うか?」

 ルピナの言葉にマックス「ヒュー!」と声を上げた。

「さっすが竜! 話がはやい!」

 マックスを横目に、ラトレルは一呼吸おいてから話始める。

「クロノスケール・ダウトは時を遡る魔法ではありません。正しくは複製した過去を現在に貼り付ける魔法……言うなれば紙芝居です。既にめくられて終わったページを複製して差し込む、それを惑星規模に広げただけです。さも過去がなかったことになったかのように思えますが、あくまでいじるのは星側のテクスチャーですから、現実から過去が隠されてしまうだけ。記憶がリセットされることもありません。……本来の仕様はこんなところです。体感では時間が巻き戻ったように感じますから、全部嘘だとは思っていませんがね」

「ハッ、政治家が言いそうなこって。『世界時計を疑え(クロノスケールダウト)』たぁ、皮肉なネーミングだな、まったく」

 ニヒルな笑みを浮かべるルピナを曖昧な笑みでかわすと、ラトレルは続けた。

「本来の仕様上、クロノスケール・ダウトは使用後、術式が永久に凍結され、再使用は不可となります。ですが、ここは実質過去世界も同然。つまり、一度きりの大魔術も問題なく打てるはず。そのように仮説を立てた我々はその上でひとつの空論を組み立てた」

 ラトレルが反応を伺うように言葉を止めると、ルピナは「へぇ、竜に聞かせなきゃならねぇ空論か。エンタメだな。ポップコーンがないのが惜しいぜ」と皮肉とも冗談とも取れる言葉で続きを促した。

「……ラストソングを我々の手で起動します」

 一拍置いて放たれた言葉にルピナは絶句していた。が、次の瞬間立て板に水と疑問がこぼれだした。

「は? 何言ってんだお前ら。そりゃ、最終的には起動して星を浄化しないといけねぇけど、……ん? いや、まさか、そうか……!」

 ラトレルはうなずいて見せた。

「はい。ラストソングを起動したのち(・・・・・・・・・・・・・)、クロノスケール・ダウトを使って(・・・・・・・・・・・・・・)、世界を復元する(・・・・・・・)。それが我々の唯一の勝算です。プロセルピナ、竜である貴方に尋ねたい。この計画は……実行可能でしょうか」

 ルピナはしばらく黙り込んで、目を瞑っていた。数秒の沈黙ののち、答えた。

「可能だ。……というか、元々そのために作られてるんじゃないか? クロノスケール・ダウトって。でも、じゃあ、なんでアストライアーはさっさとラストソングを使わないで、こんな破れかぶれになってんだ……?」

 ほっと息つく間もなく、ほとんど独り言として呟かれたルピナの疑念に表情が曇る。

「ま、ともかく、ラストソングさえ起動しちゃえば、アストライアーと敵対する理由はなくなるし、おまけに惑星浄化完了して、人類もハッピーだし、100点満点の大団円になる! ってことでいいんだよね? ね?」

 暗く落ち込んだ雰囲気を転換しようと、努めて明るくマックスが尋ねると、ルピナは我に返ったようにハッとしながらうなずいた。

「そうだな。まぁ、いろいろ調整は必要になるけどよ。……リミットがきついな。あと2時間半しかねぇぞ」

 苦い表情のルピナにマックスはキョトンと尋ねる。

「え? 16時までになんとかすればいいんじゃないですか? だって4時間前に戻るんですよね。前回クロノスケール・ダウトを使ったのは12時頃なんだから、16時前にもう一度使えば、クロノスケール・ダウトが使われる前の世界が復元されて、万一失敗してもやり直せ……ん?」

 言いながら矛盾に気付いたらしいマックスは眉根をひそめて固まった。

「この世界は過去の姿をしてるけどな、時間は前にしか進んでないんだ。つまりクロノスケール・ダウト発動の正午12時と復元された午前8時は同時点。要するにあと2時間半以内にクロノスケール・ダウトを使えば、俺たちはリトライの権利がある、ってわけだな。まぁ、お前たちの言うクロノスケールじゃなくて、本物の世界時計があれば戻す時間は自由自在なんだろうけどな。当然、それはアストライアーが持ってるだろうし……」

 ルピナの言葉にマックスが納得しかけたとき、ラトレルが水を差すように「いいえ」と言った。

「恐縮ですが、リミットは2時間です」

 キョトンとしている二人、特にマックスを見てラトレルはあきれたようにため息を吐く。

「マックス、仮に正午直前にクロノスケール・ダウトを使ったなら、復元されたお前はベサニーの腹の中だぞ」

「殿下。いや、ラトレル。俺はそれでも……」

 食い下がるマックスを無視してラトレルはルピナを見る。

「ラストソングの起動ならびにクロノスケールダウトの調整。人力では調整だけで2年はかかるでしょうが、竜(あなた)なら造作もないでしょう?」

 プロセルピナはフンと鼻をならした。

「ったく、度々竜を煽るなっての。他人のプログラムいじるとか、オレにとっても造作だわ。……だが、アストライアーは時間切れを狙ってるだろうからしばらくは仕掛けてこねぇぞ。あと2時間、どうすんだお前ら」

ラトレルとマックスは無言で顔を見合わせた。考えていることは同じようだ、とお互いに察し合う。

「ソニアを迎えに行きます」

 ラトレルのどこか吹っ切れたような笑みにつられて、ルピナもふっと笑みをこぼす。

「任せな。こっちの仕事はきっちりやってやるよ」



 ラトレルはラストソングの開錠だけ済ませると、ルピナに後を託し、コントロールルームを後にした。押っ取り刀に馬車の手配やらを済ませて、夜逃げのような忙しなさで王宮を離れた。

城を出てから1時間後、ラトレルとマックスは黒い壁のようにそびえる半球を見上げていた。

 ロストアイランドを覆う黒い霧。物質としては単なる魔力に過ぎない。だが星脈から吹き出した「星の呪い」を色濃く反映しているこの霧に触れれば、誰しも己のカタチを保つことは出来ない。光さえ吸収してしまうため、不自然に平面的な黒を眺めながら、道中の会話を反芻する。


「予言?」

「あぁ。お前がベサニーに食われた後だ。そもそも、ベサニーはヒトを食べなければ予言が出来ないからな」

「あー、そうなんですか、あはは……。で、どんな予言だったんです?」

 『自分が食された』という事実を頭の隅に追いやってから、マックスは尋ねる。

「驚くなよ。大厄災発生の予言だ(・・・・・・・・・)」

「は?……は!? 2つ目!?」

 ラトレルはマックスの反応を見て、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

「あぁ。『昏き恒久。暗き高丘。大厄災よ、輪転せよ』。どう聞いても場所はロストアイランド以外にあり得ない」

 マックスは神妙にうなずきながら尋ねる。

「大厄災が2つ同時に発生って……ありえるんですか?」

「いいや。ありえない、普通はな。自然に発生したものじゃない……つまり、これは『人為的に引き起こされた』大厄災だ」

 言いながら、ラトレルが窓の向こうの半球を見るので、マックスもつられてそちらに目を向けた。

「その『人為的』というのは、つまり……」

「あぁ。……ソニアだ。実際、彼女の最後の足取りもロストアイランドの手前だ。無関係なわけがない」

「……じゃあ、2年間の事件は」

「あぁ。この時のための履行だったんだ。一体、どこまでソニアの掌の上なんだかな」


ほんの30分ほど前の会話の回想を終え、マックスは隣の少年を見遣った。

その横顔にはいかな表情も浮かんでいない。だがマックスにはラトレルの胸中がありありと見えるようだった。この露悪趣味の少年が無表情なときは得てして見られたくないものを隠しているときなのだ。今もソニアを案ずる心を読みとられまいとしているに違いない。それを指摘するほど野暮ではないマックスはあえて明るく尋ねる。

「それであの霧にはどうやって対策するんですか?」

「対策? そんなものはない。そもそも対策など出来ない。あれは『星の呪い』、つまりは一種の物理現象だからな。人間はおろか、竜でさえ抗することは出来ない」

 マックスは背筋に冷たいものが走るのを感じた。次に飛び出すラトレルの言葉への警戒心が募る。

「……要するに特攻だ」

「ヤダもうこの人ーーッ!」

 マックスが子供っぽく叫び駄々をこねると、ラトレルは不思議そうに首をかしげた。

「計画通りならクロノ……いや、スワンソング・ダウトで1度死ぬんだぞ? それが今になるだけのことだろう」

 『スワンソング・ダウト』とはラストソングとクロノスケール・ダウトの合体技のことを指す。馬車に乗ってからマックスが突然言い出したことだったので、実行者であるルピナは知らない。

「殿下のバーカバーカ! 人はねぇ、自発的に死にたかないものなんですよ!」   

 やだやだと脚をバタつかせるマックスに呆れながら、ラトレルは言う。

「何、特攻と言っても君は外で待っていればいい」

 ラトレルがそう言って笑みを見せると、未だにワーギャーと駄々をこねていたマックスがピタリと止まった。

「はい? どういうことです?」

「言った通り、あの霧に触れれば肉体を失い、魂だけでさまよう羽目になる。つまり、死ぬ。……だが、私は『意思ある魂』に出会ったことがある。それも、つい2時間ほど前にだ」

 2時間前と言えばマックスはベサニーの胃の中にいた頃だ。『外』のことは与り知らない。

「アニマ・アーマメント、意志ある武器。私自身がそれになれば、あの霧の中でソニアを見つけ出すことも出来るかもしれない」

 マックスにとって「アニメ・アーマメント」なるものは未知の存在だったが、生命を許さない異境へ入る手段であるとすれば、話の続きを想像することは難しくはない。どうしたってため息をつかざるを得なかった。

「……私を殺してくれないか、マックス」

 ラトレルは腰に下げた剣を手に取り、鎌に変形させるとマックスに差し出した。想像通りの言葉に胸の内がみるみる冷えていくのを感じる。すぐに受け取る気になれなかったマックスは項垂れて呟く。

「それで殺したからってアニマ・アーマメントってやつになれる保証はないでしょう……」

「あぁ。もちろんない。だが、ひとつだけ勝算がある」

 マックスが何も答えないので、ラトレルは話し続ける。

「私はこの鎌でソニアを殺した。現実からその痕跡が消えたとしても、過去がなくなったわけではない。私がアニマ・アーマメントとしてこの鎌に宿れば、鎌に残された記憶でソニアの魂にたどり着けるはずだ」

 マックスは顔を上げてラトレルの顔を見た。困ったように微笑んでいるその顔はやはり息子らしく、ザカライアによく似ている。いかめしい顔をしていなければ途端に幼さがのぞく顔に、マックスの胸中はますます暗くなる。

「殿下はもう、俺の正体なんて百も承知でしょうけど」

 そう言いながら、マックスは鎌を受け取った。見た目よりかなり重く思えるのは心理的要因もあるのだろうか。

「つまんない殺人鬼の俺が『もう誰も殺したくない』なんて言えないですけどね……それでも」

 ラトレルはくるりと向きを変え、マックスに背を向けた。

「すまないと思うよ。心からね」

 しれっとそう言う背中を──ひねくれた信頼の証を、信頼故に断ち切らねばならないこの非業を許してはならない。

「……帰りましょうね、きっと。ソニアを連れて。俺たちの王宮へ」

「約束は……できないな」

 マックスが大鎌を振り下ろすと、恐ろしく簡単にラトレルの首は飛んだ。吹き出した血が顔にかかっても、マックスはただ立ち尽くしている。

「あ〜ぁ……。どうする? ザカライア。殿下を殺しちゃったよ。アンタが生きてたときは結局殺せなかったのにね」

 血だまりの中に、大鎌を投げ捨てるようにしてから、マックスはその場に座り込んだ。

「俺さ、こんな呪われた力を持って生まれたけど、殺すの好きだから全然ハッピーで困ったことなんかなかったんだけどさ……」

 マックスは座り込んだまま、心の内に向かって話す。

「今ね、相当キツい」

 殺人鬼にはこの上ない祝福が、今は呪わしい。ラトレルにはかけられた祝福は「どんな怪我も即座に治す」という方法で彼を死から救っているのであって、死そのものを否定するものではない。見た目には頸部の切断によって死亡したかのように見えるが、実際は呪殺に近い死に方なのだ。

「……」

 ──あまりに都合が良すぎる。マックスは悲しみの渦中にありながら、湧き上がる疑問を留めることはできなかった。 

 ラトレルがアニマ・アーマメントになることを望んだとき、お膳立てされたかのように彼を殺すことが出来る人物が配置されている。これを偶然と呼ぶのはあまりに不気味すぎるだろう。──だが、逆にこれが必然の運命だったと言うのなら。

「……それでもいい。もし、俺が殿下を殺すために生まれてきたんなら」

 マックスは言いながら砕けた腰に活を入れ、半ば這いずるようにしてラトレルの死体に近づいた。恐るべきことに、祝福の効果は消えていないようでラトレルの死体は五体満足の状態に修復されていた。死んでいるとは思えない血色が維持されており、傍目には眠っているように見える。祝福の抜け殻の先、大鎌に向かって這い寄る。

「成功しろよ! ラトレル!」

 マックスは叫んだ。両目に湛えた涙がこらえきれずに溢れ出した。落涙は未だ黒々とした血液に落ちる。

 ザカライアが死んだとき、マックスは泣かなかった。そんな資格があるわけないと、誰よりも自覚していたからだ。だが、親友の息子の死を目の当たりにして、もはや資格などと言って己の心を守ることは出来なかった。

 ここにザカライアがいれば共に泣いただろうし、ラトレルがいれば事も無げに「いかな罪人にも悲しむ権利くらいあるだろう」と知らないふりをしてくれただろう。だが、今はマックスは独り。みっともなく大鎌にすがった。

 きっとマックスが祈ろうと、祈るまいと結果は最初から決まっていたのだろう。これはきっと歯車のひとつが噛み合った場面に過ぎない。だが、これが誰かの仕組んだ予定調和であったとしても、当事者であるマックスにとっては得がたい奇跡と写ったに違いない。

 罪人の涙は何色か。それを知る彼は暗闇に向かって進んでいく。


 ラトレルが持つ変形剣はその名も「ウェルギリウスの夜」と言う。父王ザカライアから贈られたものであり、名付け親もザカライアだがラトレルはその由来を知らない。

 「ウェルギリウスの夜」そのものになったラトレルは器用に鉄の身体を動かしながら黒い霧をかき分けて進む。魂の気配を追うのは人間の体感覚では嗅覚に近い。鎌首を左右に振る姿は見ようによっては犬が餌を探し求めているようでもあった。


そも、魂とは何か。

 魂は無垢な円盤であり、人生はそれに多様な傷を彫っていく作業だ。傷が無ければ意味がないし、かと言って傷が多ければ良いというものでもない。そして傷を評価するものでもない。傷自体は単なる情報である。それを記録する媒体が所謂「魂」と呼ばれるものだ。

 ラトレルの周囲には多くの魂が浮遊していた。おそらくはかつてのラナンキュラスの住人たち。意思も思考も記憶さえも失った1万以上の魂がこの場に停滞していることになる。その中からソニアという名の傷を負った魂を探して、ラトレルは歩を進める。

 ラトレルもまた示し合わせたかのような因果に違和感を覚えていた。だからこそ、アニマ・アーマメントになろうなどと突拍子もないことを実行に移し、特攻にも等しい暗夜行路を往くことになっている。

 だが、ソニアは事情が異なる。彼女はむしろ予定調和をしかける側であり、明確な理由があってロストアイランドに脚を踏み入れたはずなのだ。ならばきっと、あるはずなのだ。彼女の待つ場所に、未来を決定づける「何か」が。

 救出行は時間としてはそう長くなかった。ラトレルが霧に入ってからほぼ直進し続けて30分ほど。ソニアの魂は他の魂とは違い、回遊せずに佇んでいた。そこに彼女を縛り付けるものがあったからだ。

(あぁ……そうか。君は2年前どころか、ずっと前……生まれたときから、この日のために生きてきたのか)

 眼前の暗闇にラトレルは過去の情景を見出していた。

 かつての王宮にて。ひっきりなしにしゃくりあげる声と鼻をすする音がしていた。その声がソニアのものであることは幼いラトレルも承知していたが、あの勝ち気で小憎たらしい年上の少女が悄然と涙を流すところなぞ、扉を開けるまで全く想像ができなかった。

 突然の訪問者に驚いて首だけで振り返ったのはやはりソニアで、目元を赤く腫らした彼女は目を丸くしたまま暫し沈黙していた。

「ソニア……? なんで泣いてるのさ? こんな暗い部屋で」

 そう言いながらラトレルは手にしたランプを彼女に差し向ける。少し眩しそうにしながら、彼女はぽつぽつ語り始めた。

「私はね、暗闇の中、たった独りで死ぬの……」

 ラトレルはこの時、心から「さすがのソニアも死ぬのは怖いのか」と思った。当時ラトレルは8歳、ソニアは10歳で、ラトレルにとってのソニアは物語で語られる悪魔や化け物とそう変わらない存在だった。とにかく理不尽で、怖いものなしで、歯が立たない。オマケに「予言師」などという類まれな異能の持ち主でもある。

「何というか、君でも怖いものがあるんだなぁ」

 ラトレルが思ったことをそのままに口に出しても、ソニアは消沈した様子で再び瞳が潤み始めている。

「そう泣くなよ。私が助けてやるから」

 ラトレルがあっけらかんと言うと、ソニアの瞳に光が宿り、彼をキッと睨みつけた。

「何にも知らないアンタが出来もしないこと言わないでよ! ちゃらんぽらんのアンタと違って私は…私は……。」

 続く言葉にラトレルはさらに驚愕することになった。

「自信がないの……本当に務めを果たせるかどうか」

 ソニアの「務め」とやらが何かは不明だが、いつでも「天才」「過去最高」と称される官女にこなせない務めなぞ、誰にも果たすことはできないように思う。齢10にして体系から自分で組んだ魔術を手足のように使いこなす彼女が、ラトレルがいくら追いかけても届かない彼女が、よもや「自信がない」などと言うとは。

 君に出来ないことなんてあるわけがないだろう、と言いかけたのを、寸でのところで抑えて、まったく違うことを口にした。

「じゃあ賭けよう、ソニア」

「はぁ……?」

 ソニアは怒りから一転、困惑した様子で首を傾げる。

「私は絶対に君を助けにいく。いつでも、どんな未来でも、だ。約束する。だからほら、早くいつものメチャクチャな君に戻ってくれよ。調子が狂うんだ、君が泣いてると」

 今から思うとなかなかキザなことを言ったな、と思う。だが、あの時は本気でソニアがどこでどう死ぬ未来であろうと自分なら救えると頭から信じていたのだ。

「馬鹿みたい……フフ、無責任過ぎる。ほんっと〜にちゃらんぽらん王子ね。私が太刀打ちできないものにアンタが太刀打ち出来るわけないじゃない。そもそも予言っていうのはね……」

 義憤が悲しみに勝ったらしく、そこからはいつものソニアに戻った。


(ソニアの涙を見たのは後にも先にもあの時だけだったな……)

 追想を終え、ラトレルはソニアが遺したであろうものをまじまじと見つめる。

 それは小さなクロノスケール、もとい懐中時計だった。ソニアの私物で、親の形見なのだと言っていた記憶がある。おそらくソニアはこの時計を使え、と示すためにここに入っていったのだろう。だが、何故。どうやって?

 単にこの時計をラトレルに渡したいのなら、王宮でも出来る。このロストアイランドで渡さねばならぬ理由があるとすれば、それは。

(アストライアーに見つからないようにするため、か。ここなら竜だって容易には来られない)

 ラトレルは手足のない身体で四苦八苦しながら、懐中時計の蓋を開けた。瞬間、内側から光が漏れ出し、ラトレルは半歩後退った。光は徐々に形を成していき、最後には見慣れた姿を映し出した。

(ソニア……!)

 唐突に始まった記録映像の彼女はいきなり話し始めた。

『結論から言うと、ラトレル、アンタにやってほしいことはたったひとつ。そこにあるクロノスケールの針を反時計回りに18時間戻して』 

 文字盤を見るとクロノスケールは15時をさしていた。現在時刻はおそらく11時頃。あと十数分もすればクロノスケール・ダウトで戻った過去のマックスはベサニーの腹の中、ということになるから、もうまもなくクロノスケール・ダウトは発動されるはずだ。

(4時間進んだ時計……? いや、まさか……)

「風防ガラスは外してあるから。いい? 18時間戻して、昨日の21時にして。……出来た? これで全ての予言が履行された。あとは成るべくして成るのみ」

 映像のソニアはそれだけ言うと姿を消した。今のラトレルは光源を失ってもクロノスケールを見失うことはない。身をかがめる(と行っても節のない身体では限りなく水平にまで傾けたと言ったほうが正しいのだが)と、刃を使って器用に針を回した。

(私の想像通りなら……)

 ラトレルの思考はそこまでだった。前回の夢幻の夕暮れとは違い、元から暗闇にいるラトレルにとって世界の終わりは随分とあっさりとしたものだった。


 湿度の高い草の匂いにハッと我に帰った。空は夕暮れで、森は朱く染められている。

 そこは自失回廊と化したヘズディン列島の森だった。前日の17時の世界が再現され、役者も揃っていた。首を振れば、ソニア、ベサニー、ルピナが。──もちろん、アストライアー/ウェズリーも。

「あはは、僕の負け、かぁ。さすがにクロノスケール・ダウトをこんな使い方されるとは思ってなかったな。これを遺したのはちょっと軽率だったか」

「いや〜? 私がいなきゃこんな手使いっこないからね。私がいる時代にコトを起こしたのが間違いだったってだけよ」

 朗らかに会話するソニアとアストライアーに耐えかねたように声を上げたのはベサニーだ。

「い、一体何事ですか!? どうしてこんな……クロノスケール・ダウトは4時間前の世界を再現するんじゃないんですか。ここは……18時間前じゃないですか」

 ソニアはラトレルに歩み寄ると、肩に手を置いて「説明よろしく!」と笑みを作った。

「君がすればいいだろう。当事者なんだから」

「いやいや、私には探偵役は務まらないよ。だからさ、ね?」

「はぁ……いいだろう」

 ゴホンと、咳払いをするとややぎこちなくラトレルは口を開いた。

「ソニア、思えば君はずっとおかしかった。君がマックスと連れ立って出ていったとき、彼を唆したんだろう。何を吹き込んだのか知らないが、おそらくは私を殺すようにさし向けたんだ。君であっても私を殺すことは出来ないからな。マックスを頼るのは不自然ではない。マックスも必要な殺人なら断らないだろう。……それは私がよく知っている」

 実際のところ、マックスは殺人を断るためにソニアを食事に誘ったのだが、大筋であっていれば些事はどうでもいいソニアはニヤニヤと見つめるばかり。そしてマックスは不在だ。代わりに異議を提示したのはベサニーだった。

「ソニア様がマクシミリアン殿を唆した、ということですか……? でも、私は……」

 ラトレルは狼狽するベサニーを横目に深いため息をついた。

「加えて、この二枚舌の悪魔はベサニーに『マックスはラトレルを殺そうとしてる』と吹き込み、ベサニーにマックスを襲うよう仕向けた」

「な、なぜそんなことを……?」

「君にヒトを食わせて予言させるためさ。私たちは王宮予言師の予言があれば原則として従うからな。そしてマックスがベサニーの昼食になってる間、ソニアは私に喧嘩を売って、わざと返り討ちにされた。そうだろう、ソニア?」

 ソニアはウインクでそれに答えた。なんともまぁ忸怩たる思いだが、やはり実力でソニアに勝てるとは思えなかった。子供にそうするように、花を持たされたのだ。

「ソニアは私に殺されなくてはならなかった。ベサニーに従ってロストアイランドに向かったところで、ロストアイランドだって狭くはない。タイムリミットを考慮したら、我々は真っ直ぐソニアがいる場所に向かわなければならない。だからあえて殺された。私の武器にマーキングをするために」

 ラトレルはアニマ・アーマメントの件は割愛して曖昧に語った。ベサニーが聞けば、話どころではなくなるだろうし、この場にいないマックスを思うと、あまり軽率に口に出せる話ではなかった。

「そしてクロノスケール・ダウトによって生還した君は別行動を取る、と離脱していった。その足でロストアイランドに向かったんだろうが……。そもそもどうしてあのクロノスケールを持っていたんだ? あれは普通の『時計』じゃないだろう?」

 ラトレルに視線を投げかけられたソニアは待ってましたと言わんばかりに口を開いた。

「そ! あれが本家本元の『クロノスケール』。単なる時計じゃなくて、この星の時間を司る神器(コンフィグ)。我らがウェスト家の予言師がそれを盗んだのは100年前。私の曽祖父だ。100年も放置されてた未来履行を自分の代で履行した偉大な人だよ」

 それを聞いたアストライアーは「あっはは!」と急に笑いだした。

「なるほど! あのときか。犯人はレスターだったんだな。ずっと探してたんだよ」

 「返してくれ」というように、アストライアーは右腕を差し向けた。ソニアが投げ、見事にキャッチ。アストライアーは役目を終えたクロノスケールを慈しむようにひと撫でしてから、ポケットにしまう。

「僕が時計をクロノスケールって呼んでたから王宮や王都の人にもそれがうつっちゃったんだろうね」

 アストライアーは言下にラトレルに「話を戻していいよ」と肩をすくめて見せた。

「……我々が体験したとおり、設定上クロノスケール・ダウトは4時間前に戻ることになっている。だが、『巻き戻りの起点』が発動した時点である必要はないんだ。世界時計をいじってクロノスケール・ダウトが基準とする『現在時点』をずらしてしまえば、任意の時刻に戻ることが出来る。それが現状の答えだ」

 そうだろう? とソニアに視線で尋ねる。

「ま、仮に巻き戻す時間がズレたってそこまで困りゃしなかったけどね。この時間を選んだのは単に役者が揃ってるからってだけだし。マックスはいないけど」

 そこまで言うと、ソニアは笑みを消し、ウェズリー/アストライアーを睨めつけた。

「というわけで、説明も済んだことだし。あのときはアストライアーに誤魔化されて聞けなかったけど、貴方の正体を答え合わせさせてもらっても?」

【ボクの正体かぁ……。そうだなぁ…】

 それはアストライアーの背から飛び出した矢の群れだった。空中に並び、文章を作る。これが今の『彼』の言葉らしい。矢は次々と新しい言葉を形作っていく。

「ボクが何者かを説明するためには、前提の確認をしなきゃならない。……キミたちは転生の仕組みって知ってる?」

 『彼』はもったいつけるように話し始めた。

【魂のラベルの張り替えだと思ってる人が多いんだけど、そうじゃないんだ。複数の魂を大きな鍋に入れて、よーく溶かしてから型にいれて新しい魂を作る。リユースではなく、リサイクル。要するに転生した魂っていうのは魂のキメラってこと。それ自体は別に悪いことじゃない。ただまぁ、この星は異常だ。アストライアーがそういう風に作ったからね。この星に転生病にかかった魂を集め、外に出ないように内部循環させて、ひたすら転生を繰り返させてる】

「で、でも! 私には前世の記憶があります……! 我々が混ぜものだと言うなら、この記憶は……何なのです?」

 耐えかねたように『彼』の話に割り込んだのはベサニーだ。

【基本的には一番多く配合された魂の記憶だと思う。キミも前世の記憶を丸々詳細に覚えてるわけじゃないでしょ? 記憶が消えないのもね、本当はおかしいんだよ。普通はちゃんと処理されて、前世の記憶なんてものはバグでしかない。だのに、この星と来たらもはや魂のフラッシングさえままならない。ご存知の通り、この国の成人の8割は前世の記憶がある。変な話だよ】

 ベサニーはただ絶句してペラペラと語る『彼』を見つめていた。無理もない。ルーツを否定されることは自分自身の根源的な否定だ。ラトレルだって気分は良くない。

「いい加減、結論を述べてくれない? 結構な論文だけど、着点がわからなきゃ目に入らないんだよ」

 ソニアが冷淡に言い捨てると、『彼』は器用に「(^-^;)」と並べた。どうも苦笑を表現しているらしい。

「ごめんごめん。ボクはね、『混ざらない魂』なんだ。いや、正しくは混ざってはいるんだけどね。細切れになってキミにも……というか全員。簡単に言うと、それがボクの正体」

 ラトレルは総毛立った。その恐怖の意味を理解することを脳が本能的に拒否している。思考が停止したまま1秒2秒と時が進む。

「お、おい! なんだよアレ!?」

臓腑まで凍り付くような膠着を解いたのはルピナの声だった。我に返ったラトレルは反射的に指さされた方角を見た。

「あれは……大厄災……!」

 ラトレルの言葉にルピナが振り返る。

「大厄災!? 大厄災ってアストライアーのことだろ!?」

「そうだよ。本来は僕が大厄災としてすべてをチャラにして死ぬはずだったんだ。……君たちが、僕を救わなければ」

 アストライアーは皮肉げに笑う。その視線の先にいるのはソニアだ。

「大厄災を倒し、ラストソングによって、星が浄化されてすべて終わる。……そんな大団円をぶち壊したのは君らなんだ。協力してくれるだろ?」



 王宮の窓からも「それ」はよく見えた。積乱雲のごとく、空に立ち上った黒い霧は今もなお、むくむくと成長し続けている。

「偵察隊を出すまでもなかった。発生源はロストアイランドであると、既に何件も報告が上がってきている。どうやらまっすぐこちらに向かってきているらしい。……単刀直入に聞くが、あれはなんだ?」

 ラトレルが尋ねると、うどんをすすっていたアストライアーはむぐむぐと咀嚼して、嚥下してから答えた。

「『星の影』もしくは『星の呪いの塊』かな。王宮というより星竜である僕を求めてるのさ。君たちがアンシーリーコートって呼ぶやつの親玉だと思えばいいよ。まぁ詳しくはソニアに聞いて。僕より詳しいはずだから」

 言い終わるや否や、アストライアーは油揚げを口に運ぶ。甘く煮られた油揚げから滲み出す出汁に、表情がほころぶ。対照的に、話を丸投げされたソニアはあんぐりと口を開けて食べかけていたハンバーグを皿に戻す。

「大厄災序列第8位。最弱にして最速の大厄災。歴代の予言師たちはあれを『昏き光の呪い(ワイルドハント)』って呼んでた」

 ラトレルは片手で顔を覆うと、大げさにため息を吐いて見せた。

「ソニア……、全文初耳なんだが……」

「そりゃそうよ。予言師家系の中でも限られた者にだけ継がれた口伝だもん。王族はおろか、アストライアーも知らない。予言師(わたしたち)はずっと大厄災のために生きてきたようなものよ」

「でも、結局止められなかった……」

 ベサニーのつぶやきに、ソニアは「ん?」と首を傾げた。

「いーや? 大成功も大成功だよ。最悪の大厄災の顕現を防いで、最弱の大厄災を引き当てたんだから」

 ソニアが言いながら、アストライアーを見ると、彼はえっへんと胸を張って見せた。ソニアはいやいやと言うように首を振った。

「残念ながら、アンタは第3位だよ。ま、戦って倒せる大厄災の中では一番強いだろうけど。……私も実際に会ってみてようやくわかった。予言師が300年間駆けずり回って止めようとした最悪にして最期の大厄災『永遠の目覚め(グッドナイト)』、……貴方でしょ、ウェズリーくん」

 途端、アストライアーの背負う矢筒から矢があふれ出した。それらは空中に並び、文字列を形成する。

【さっきは結局言いそびれちゃったけど、まったくその通り。いやはや、まさかこんな方法でボクの目覚めを妨げられるとはね。少なくともこの星の人類がボクに目覚めることはない】

「……ちなみに目覚めた場合はどうなっていたんだ?」

 ラトレルが眉根をひそめたまま聞くと、意外なところから答えが返ってきた。

「文字通り、『ウェズリーに目覚める』んだ。ここにいるオマエらは……いや、この星のすべての人類(・・・・・・・・・・)は無自覚にウェズリーの魂の一部を持った転生体だ。全人類が一斉に自分という夢から覚めてウェズリーに成り変わる。それがそこにいる化け物の正体だ」

 忌々しげに言うのはルピナだった。紺碧色の瞳に暗い影が差す。きつく睨まれてもウェズリーはどこ吹く風と言った様子で文字を並べる。

【この星のボクはこのまま永遠の微睡(ゴールデンスランバー)を続けるから安心して。キミたちの安眠は永遠に守られたってわけだ】

 それだけ言うと、ウェズリーは大人しく矢筒へ帰っていった。

「本題に戻ろうか。『最弱』なんて言われちゃいるけど、それはあくまで『他の大厄災と比べて戦闘力が低い』ってだけの話よ。対策の難しさは大厄災でも随一。『最速』と言われるだけあって、十全な対応策と準備が求められる。まったく対策してない状態でワイルドハント(アイツ)が発生しようものなら、まず間違いなく滅ぶよ。そのあたりはゆめゆめ忘れないでね」

「最速というのは具体的にどの程度なんだ?」

「さぁ? でもまぁ、大体2、3時間じゃない?」

 ソニアは「バトンタッチ」と言いながら、アストライアーにウィンクを飛ばした。

「ん~、まぁ、タイムリミットの見解については概ね同意かな。でも早いに越したことはないよ。この星はもはや枯れかけ、人間なら集中治療室で管まみれになってなきゃいけない。そもそも『星の呪い』っていうのは要するにこの星の基盤だ。『喪失』と『崩壊』。ドミノ倒しと同じさ。この星は壊されるために作られて、ずっとその時を待っていた。8年前の『大厄災』で、それが実行されかけて途中で止まっただろ? 星からしたら真綿で首を締められてるようなものだから、耐えられずに地表に出てきて暴れてるわけ。それがアンシーリーコートとワイルドハント。星の悲鳴さ」

 己の不祥事を他人事のように語るアストライアーにソニアは呆れたように息をつく。

「それって、星が苦しんでるならあんたが苦しいってことでしょ? 星竜ってそういうものじゃない? それにさ、星由来の厄災ならアンタが操作できないの?」

「君たちだってナイフで刺されたときに血を操作して自分の体内に戻せやしないだろ? 僕の身体だから僕の思い通りになるわけじゃない。星竜もヒトもそこは変わらないよ」

 ソニアはそれで納得したらしく「ふーん」と頷くと、彼女の食事に戻った。が、

「ウウウウウウウウーーーーッ殿下殿下殿下ァーーーッ!!!!!!」

 という大声に邪魔されることになった。

「ウワーン! 生きてる! 人の形してる!」

 スワンソング・ダウトの際、関係者の中で唯一アストライアーの捕物に参加できなかったマックスはここでようやくラトレルに再会した。そのせいでこうも喚き散らしているのだ。犬のように抱きしめられ、撫で回され、ついでに頬に張り手を食らったラトレルは甘受と憮然の中間の顔をしていた。マックスの情緒が落ち着くまで待ってから、ラトレルは切り出す。

「お前も見ただろう。あの黒い霧の塊……ワイルドハントを。ワイルドハントをどうにかしてくれ、マックス」

「え、急!? ていうか、なんで俺? ああいうのはソニアの方が適任じゃないですか?」

 ラトレルは黙ってアストライアーを見た。どうやらうどんを完食したらしいアストライアーはナプキンで口周りを拭いてから、ニヤリと笑った。そもそも「マックスを呼んでくれ」と言ったのはアストライアーなのだ。

「マックスが生まれながらに持ってる祝福は、質としてはワイルドハントと同じものなんだ。ウェズリーもそうだけど、星の呪いを強く受けて産まれた人間なんだよ、マックスは。だからこそ、ワイルドハントに切れるカードたりえる」

 マックスは不安げな表情で挙手した。

「あの〜、同系統の力同士ってことは俺をワイルドハントにぶつけて対消滅を狙うパターンですかね? 俺、死にたくないんですけど」

「あはは! そんな自己犠牲を大前提とした作戦なんか作らないよ!」

 アストライアーは笑いつつも、やや目が泳いでいる。彼なら「えっ、皆を守れるんだよ!? 死になよ!?」くらいは言うだろう。何せこの星がそもそもそのような自己犠牲精神で作られている。だが、自滅作戦を止められたばかりである今、それを押し通すつもりはないらしい。

「ま、でもやるだけやってみたら? クロノスケール・ダウトを使えばリトライできるんだし、気軽にさ」

 ヘラヘラと笑うソニアをアストライアーは「いや」と遮った。

「そうはいかないんだよ。『クロノスケールダウトは1回しか使えない』っていうのは単なるブラフじゃあない。星に備蓄された魔力量を考えれば、1回以上は使うべきじゃないって意味だ。それをもう2回使ってしまったんだ。3回目はないよ」

「……もし、どうしても使わざるを得なくなったら?」

 神妙に尋ねるラトレルに、アストライアーは声を落として答える。

「滅ぶよ。まず間違いなく。今だって惑星運営するだけで手一杯の魔力量だ。そこから更に差っ引いたら、当然、待つのは滅びのみだよ」

「そ、じゃあ、仕方ないね」

 提案した当人であるソニアはあっさりとそう言うと引き下がった。アストライアーはやれやれと首を振ると、マックスに顔を向けた。

「話を戻そう。 マックス、君は自分の能力をどれくらい理解してる?」

「どうって……殺意があれば、ちょっとした加害で人を殺せる、ってだけですよ」

 言い淀むマックスを問い質すようにアストライアーはピシャリと言う。

「もっと詳細な条件を把握してるだろう? 君が殺した人間、100や200じゃきかないんだから」

 マックスは一瞬、顔に暗い影を落として鼻白んだが、ややあってから顔を上げて口を開いた。

「……当たり前のことですけど、殺せるのは『俺が存在を認識できている相手』に限ります。例えば騒音なんかは俺の背後にいる人間にも加害できるじゃないですか? 俺が背後に誰かいるとわかっていれば死にますけど、わかってなければ背後のやつは死にません」

「……その時、騒音を耳にしたやつは全員死んだのか?」

「いいえ。一番近くにいた一人だけが死にましたよ」

「なるほど……。1回1殺か」

 アストライアーが神妙にうなずくと、耐えかねたように口を挾んだのはルピナだった。

「重ね重ねなんなんだオマエラ……。仲間割れするわ殺しあうわ、果てはシリアルキラーが宮仕えって」

 ルピナの至極真っ当な感性によるぼやきを無視して、アストライアーは続ける。

「マックスなら命ある者を害するのは簡単だ。が、問題はワイルドハントは群体だって事。ヤツがここに来る前に片付けたいなら、マックスがあと100人はほしいところだよ」

 アストライアーは冗談めかして笑ったが、追従して笑う者はいなかった。時は一刻を争う。せっかくスワンソング・ダウトで世界を浄化しても、このままワイルドハントをのさばらせては破滅だ。

「方法論としては主に2つ。マックスを増やす……のは現実的じゃないから、彼の力で複数の生命を同時に殺す方法を探すか、もしくはワイルドハントを1つの生命として殺す方法を探すか。ルピナ、なんかないの?」

 ソニアから突然話をふられたルピナは「うーん」と唸った。

「あるっちゃある。今から実行可能な策が」

 全員の視線がルピナに刺さった。小さな肩をビクッと震わせてから、頭をかく。

「アストライアーが設定した星の呪いは要するに『生命の否定』だ。魂を抽出する手段としてそれを設定したわけだが、そこから行くとワイルドハントは矛盾だらけだろ? 生命を否定するはずのものが、陽炎みたいな疑似生命を大量に内包してる。星の呪いが十全なら、ワイルドハントは生まれようがない。つまり、『呪い』というシステムに瑕疵が生じたから自己矛盾に耐えられるようになったってわけだ」

 ほぼ全員が疑問符を浮かべながら話を聞く中、アストライアーは膝をうった。

「なるほどな! 核か。確かにあの規模の魔法生物なら核を有してる可能性は高い」

「そうそう。核を壊せば、組織が崩壊してあの巨体は保てないだろ? 分割されれば、単なるアンシーリーコートだから、ある程度腕っぷしの強い人間なら倒せるし」

 うなずくルピナを横目に、ソニアはぶつぶつとつぶやく。

「問題は核がどこにあるかだけど……。あれは星の呪いの塊だから、人が触れたらひとたまりもないし……。どうやって探す……?」

「それにはウェズリーが協力してくれるよ」

 アストライアーが言葉の最中に背負った矢筒を示して見せると、中から一本の矢が飛び出してきた。アストライアーの頭の上でぴょんぴょんと跳ねて、全身をぐいと反らして見せる。おそらくは「任せろ」と言っているのだろう。

「『可能なら話してくるよ。バトル展開を回避できるかもしれない』。だって」

「話!? 会話ができるんですか、あれと!?」

 声を上げたベサニーに答えたのはソニアだ。

「……話が通じればね。正気とは限らないから、ああいうの。特にワイルドハントはもはや魔法生物の範疇を超えてるから、完全なる未知よ」

「まぁ、そのあたりは努力目標だな。……核を見つけても壊せなければ意味がない。そのあたりはどうするつもりなんだ?」

 ラトレルの言葉にアストライアーは唇をとがらせる。

「相変わらず偉そうだなぁ」

「こういう話は偉そうなやつが突っつかないと進まないものです。それで?」

「君のウェルギリウスの夜を使おう。すぐ用意できる武器の中ならそれが適任だ。大きさも形も結構自由に変えられるだろ? 僕とウェズリーは魂が繋がってるから、離れていても位置はわかる。ウェズリーが核を見つけてくれたら、そこに向かって曳光弾を撃つから。君はそこを狙って斬ってくれれば良い」

「承知しました。……あとはマックスの祝福をブーストさせられれば目処はたちそうだな。呪詛転嫁はソニアに任せていいか?」

「いいけど……。わかってるよね? 祝福と呪いは普通の強化魔法じゃ強化できないんだからね? それはどうするの?」

 ラトレルはむすっとし、「わかっているとも」と返し、教科書を読み上げるかのように言う。

「祝福と呪いは名こそ違うが、魔法分類上は同一のものだ。都合がよければ祝福、都合が悪ければ呪いと呼び分けているに過ぎない。ある程度自律性があり、術者が完全に操れるものではない。そのため一般的な強化魔法は用をなさず、強化する方法はただひとつ、『呪詛返し』しかない。……というわけで、頼めるか、ベサニー」

 ベサニーは、はむはむとかじっていたサンドイッチを落としかけ、慌てて掴み直してから、困惑気味に尋ねる。

「は! え!? 殿下のお申し付けなら何でも……と申し上げたいところなんですが、私には呪詛返しなんて……」

「いや、ベサニーちゃんが適任だよ。『この中で』じゃない、『この星で』の最適任者だ。彼女よりも強い呪いの持ち主はこの星に他にいないからね」

 目を白黒させてたじろぐ彼女に助け舟を出す形でラトレルはたずねる。

「ベサニー、君の力の話をしてもいいだろうか?」

「……ええ。ご随意に」

 ラトレルは一拍置いてから話始めた。

「ベサニーは人狼だ」

 食われた時の記憶が蘇ったのか、嫌そうに聞いているマックス。先刻承知だとばかりにうなずくソニア。まじまじと観察するようにベサニーに視線を送るルピナ。各人の反応はまちまちだ。

「さっきも言ってたな、それ。この星では人狼って珍しいもんなのか?」

 ルピナの問いにラトレルが答えるよりも前に「そうだよ」と返事をしたのはアストライア―だ。

「僕に言わせれば『珍しい』じゃなくて『ありえない』んだよね。この星の本体且つ造物主の僕が人狼が生まれてくるようには設定してないんだから、本来は存在するはずがない。僕がバグってるせいで、網を抜けて未設定の人狼が生まれてしまった。それが300年前の話」

「……でも、人狼は200年前に根絶宣言が出されました。ほかでもない、アストライアーの名によって」

 ベサニーに言葉にルピナが「おいおい、まさか……」と胡乱そうにアストライアーを見る。

「いやいや、バイオレンスなことはしてないよ? すでに生まれてしまった人狼については人食しないで生きられるように設定して、以降新しい人狼が生まれてこないようにってバグを修正しただけ。それで民を安心させるために根絶宣言を出したんだけど……」

 アストライアーはベサニーを見ながら頭を抱えた。

「またバグってんだよなぁ、僕! チクショー! 何が駄目だったんだよ! 生まれてきたもんに罪はないけど、それはそれ! これはこれ!」

 ンギーと悔しがるアストライアーを尻目にラトレルは話の主導権を戻すために口をひらく。

「200年の時を経て生まれた先祖返りの人狼、それがベサニーだ。この星の抱える混沌の象徴であり、故にこの星で一番強い呪いを纏っている」

 ラトレルは言葉を切ってベサニーに向き直った。

「改めて。頼めるか、ベサニー」

 彼女はしばらく視線をさまよわせていたが、意を決したように立ち上がった。

「わ、私は……何をすれば……!」

 ベサニーの覚悟にアストライアーはさらりと答える。

「いや〜? 特別にすることはないよ。まずマックスからラトレルに呪詛転嫁されたら、今度はラトレルからベサニーちゃんに呪詛転嫁を試みると、自動的にラトレルは呪詛返しに合う。それに耐えれば呪いが強化されるって寸法だよ」

 へらへらとした言葉にラトレルは神妙にうなすく。

「そして、その力で私はワイルドハントを断ち切る。よし、話はまとまったな。」



「魔力炉安定! 出力正常! ファランクス、展開します!」

 黒い霧の巨人──大厄災ワイルドハントを椀で覆うように、透明な半球が形成されていく。「ファランクス」などと、名付けられているが、本来は檻として使用する魔法であり、エスメラルダ建国以来、始めて正しい使用を成されていることになる。……が、王宮に揃った面々にとってはあまり関係がない。

彼らは固唾を飲んで遠くの様子を見守っていた。まだ20キロほど離れているが、ワイルドハントの巨体はしっかりと視認できる。

「ワイルドハント、ファランクス壁面に触れます!」

 視線は祈りとなり、ワイルドハントの触腕へと注がれた。じりじりと近づいていき、そして空中で不自然に弾かれたのが、皆の目に確かに映った。


ファランクスと言えば球体魔法陣である。ここにはほんの数時間前に魔法陣を点描するなどという離れ業をやってのけた男がいる。味方ならそれを利用しない手はない。

「装填まで大体15分くらいかな。それまでにいろいろ済ませといてね」

 アストライアーの声は軽いが、ラトレルの顔は浮かない。

「さて、早速頼むぞ。ソニア、ベサニー」

 声をかけられたベサニーは小さく肩を揺らし、俯いていた。ソニアに肩を叩かれ、おもむろに立ち上がるも、足取りは重い。彼女の目元に貯まった涙を見れば、理由は一目瞭然だ。ソニアに半分しなだれかかりながらも、ラトレルに近づいてくる。

「さて、王子様くん。何か言い残すことはある?」

 ソニアは努めて明るく言うが、重い空気を吹き飛ばすには至らない。ラトレルも呼応するように、明るい語調で答える。

「失敗する気はないが、何事も備えは必要だ。私に何かあれば指揮権は君に譲ろう」

「はいはい、了解了解っと。……ベサニーちゃん」

 ソニアに促され、ベサニーは顔を上げた。その拍子に、目尻の涙が一筋、頬を伝った。

「私は……殿下から受けた御恩を返すためにここにいます……っ」

「わかっているとも」

 ラトレルはそう言いながら、ベサニーの頭に手を伸ばしかけ、不意にくすりと微笑み、手を引っ込めた。

「君も背が伸びたね。2年前は私のほうが大きかったのに、今では君に抜かされてしまった」

 そう言って、彼女の肩に手をおいた。

「君にしか頼めない。すまない、とも言えない。……頼む、ベサニー」

本来、このような問答は必要がない。代案は存在しないのだから、「やれ」と命令することが本来のラトレル(王族)の役目だった。彼は誰かに優しくするために生まれてきたのではないのだ。

 それでもラトレルは言葉を選んで慎重にベサニーに語り掛けた。彼女を予言師に斡旋した王族としての責任、予言師という責務から逃げ出さなかったベサニーの決断、どちらも蔑ろにしないようにするのは難しい。また、優しい言葉は彼女を慮ってのものなのか、心痛を和らげたい自分のためのものなのかも、判然としなかった。

「大丈夫、私は……大丈夫です。殿下」

 ベサニーは未だなお止められない涙を拭わないままに笑った。

「私は、私の勤めを果たします。ですから、殿下も殿下の責務を全うしてください」

 まるで平時のラトレルのような物言いに、ソニアもラトレルもくしゃりと頬を緩めた。もう、ベサニーに支えは必要ないだろう。

「そうだな、……仕事をしよう。お互いに」

 ラトレルはベサニーの肩から手をどけると、寝台に寝かされているマックスに近寄った。

 マックスはベサニーよりもはるかに聞き分けが悪く大暴れしたため、ソニアによって昏倒させられていた。元々呪いの抽出のために眠らせる手筈だったから同じことである。

 ラトレルはマックスの隣に置かれた寝台に仰臥し、目を瞑った。

「じゃ、行くよ」

 ソニアのそっけない言葉で、呪詛転嫁は始まる。

「カース/トランスファー/ライト/トゥ/レフト/フルセット」

 本来、呪詛転嫁とはS級ともSS級とも言われる高難度魔法であり、このようなシンプルな呪文で行えるような単純な代物ではない。闇属性の魔術師が数十人でようやく出来るか出来ないかと行ったところだ。それを氷属性のソニアがやっているのは、全くもって見事としか言いようのない御業である。

 誰に称賛されるでもなく大仕事を為したソニアは今度は同じ魔法で呪いをベサニーへと転嫁させる。

「……どう? ベサニーちゃん? なにか感じる?」

 ベサニーは困ったように視線を下げながら首を振った。

「そう、じゃあ呪詛返しはうまく行ってるってことか」

「そうなのですか……? そもそも呪詛返しとは一体……?」

 ソニアが答えようとしたところで、ラトレルのうめき声によって話は遮られることになった。

「ぐっ…ゥウウウウア……ああああああ!!!!!!!!!」

 絶叫としか言いようのない声が部屋中に響き渡った。多くの者がギョッと音源を見つめた。事前に事情を聞かされていても、胸が引き裂かれ、臓腑が冷たくなっていくような声だ。皆、「持ち場を離れず、自分の仕事を続けるように」と厳命されているにも関わらず、時に手を止め、チラチラと心配そうな視線を投げかけている。

 いかに心配されようとも、最後にラトレル自身の運命を決めるのはラトレルだ。このまま声帯も喉も壊して、血でも吐いて死ぬんじゃないかと思うほど長い絶叫が途切れると、むくりと上体を起こした。

「ゴッホ……ガフッ…!」

 そして思いっきり吐血した。

「で、殿下!?」

 慌てて駆け寄るベサニーに「ヘーキヘーキ、大丈夫だよ」と声をかけるソニア。

「いや〜、流石だよ。吐血で済んじゃうなんてね」

 ラトレルはまだ答えられる状態ではなかった。喘鳴を上げながら肩で息をしている。代わりというわけではないが、ベサニーがソニアに尋ねる。

「つまり、これで成功だと?」

「うん。成功も成功、大成功の部類よ」

 ソニアの言葉を耳をそばだてていた多くの宮仕えたちもホッと胸をなでおろしたに違いない。彼らの思いを知ってか知らずか、ソニアの口は回転を止めない。

「本来ならね〜、肉を詰めすぎた羊の腸みたいにパーンと破裂するはずなのよね。呪詛返しってカウンターバリアで呪いを増幅して投げ返す感じの行為だから、許容量を超えた呪いを受けて、耐えきれずにはち切れるわけよ。ま、王子様くんは祝福があるからそうなっても死にやしないけど、呪詛転嫁は1からやり直し。汚い花火が何回見られるか楽しみにしてたのになー」

 気楽に言うソニアと対象的に、ベサニーの顔色はどんどん青くなっていく。

「そ、そういうことは予め教えて下さい!」

「え〜、教えたって反対するだけでしょ。まぁいいじゃん。成功したし」

 ワハハと雑な結果論でなだめすかそうとしてくるソニアに対して、ベサニーは再度認識を改める。こいつは西の魔女! 大悪女! やっぱり信用するべきじゃなかった!

「ソニアの言うとおりだ。『私はやり遂げた』。今は、それ以上の何も要らない」

 ラトレルは袖が汚れるのも構わず、口元の血を拭った。やはり呪詛返しのダメージはしっかり後を引いているらしく、重心が定まらずフラフラとしている。

「ファランクスで足止めはできていますから、少しでもお休みになられてからの方が……」

 ベサニーがそう声をかけても、ラトレルは身体を引きずるようにして歩き続ける。その先にいるのはアストライアーとルピナだ。

「よぉ、待ちかねたぜ。……行くぞ」

 ルピナはそう言って片頬をあげて笑うとワンピースの裾を翻してバルコニーへと向かった。アストライアーの肩を借りたラトレルもそれに続く。

 軽快に歩を進めていたルピナはひょいと手すりに立った。わずか20センチの足場に臆することなく、くるりと振り返る。衆目を集めるように気障ったらしく一礼すると、後ろ向きに飛んだ。同様にアストライアーとラトレルも手すりを越えて宙に身を投げ出した。

ベサニーは思わず息を飲んだが、彼女がもらしたのは悲鳴ではなく、感嘆の吐息だった。

「あれが……竜……」

 冬の空のような深い蒼の鱗を持つ竜だった。真昼の流星のように、空を一直線に往く。彼らの背を見守ることしか出来ずにいたベサニーの隣から声が上がった。

「行っけぇぇーーーーーっ!! ラトレルーーーーーーっ!!」

 ソニアがそう叫んだのを皮切りに、大広間は騒然となった。皆口々に、「頑張れー!」だの「やれー!」だの激励やら祈りやらを叫んでいる。叫ぼうが叫ぶまいが、これからの戦いへの影響はないだろう。だが、それでも声を上げずにはいられないのだ。

「殿下ァーーーーーーっ!! どうか、どうか……勝ってください!!!」

 ベサニーも全身が痺れるほどの大声で叫んだ。届いたか、届かなかったかはさほど重要ではない。この叫びはベサニー自身のためにあるのだから。


「全く、愛されてるじゃないか。妬けるね」

 竜に化身したルピナの背の上。王宮の喧騒は既に届かなくなってからアストライアーが茶化すように言うと、ラトレルは片頬をあげて笑う。

「為政者は嫌われているくらいでちょうどいいものですよ。人望篤い政治家なんて、逆に嘘くさいでしょう?」

「はは、こんな時ですら素直じゃないんだなぁ……。君らしいよ。じゃ、手筈通りにやろうか」

 アストライアーはそう言いながら指を鳴らした。

「行くよ。クレッシェンド・ルクス・ゼクス」

 魔術発動の起句と共に、王宮を膾斬りにした光線が6本、ワイルドハントに襲い掛かった。

「うーん、まぁ予想通りだけど、これで核の破壊は出来ないね。影とは言ってもあれも僕の一部には違いないから。せいぜいペティナイフくらいの切れ味かな」

 不満そうにしているアストライアーにラトレルは「十分ですよ」と答える。実際のところ六方から細切れにされ、ワイルドハントの巨体は縮小しているように見える。おそらく壊れた群体の一部が崩壊しているのだろう。

「あ、そろそろ来るよ」

 しばらくしてからアストライアーが脈絡なくつぶやいたかと思うと、大量の弓が風を切って彼らを抜き去っていった。

「あんなに遠くても意思疎通ができるんですね」

 ラトレルは風切り音を残して飛び退っていく矢を見ながら素直に感心して見せる。

 アストライアーは弓だけを背負い、矢を大広間に置いてきた。二人が飛び去ったのを確認した後、王宮騎士が代わる代わる弓を引き、たった今策敵隊として飛び去っていったのだ。

「ま、魂が融合してるからね。世界の裏側でも話せるよ。大広間では今でも頑張れ頑張れの大合唱だって。もう絶対に聞こえない距離なのにね」

 ラトレルは表情を歪めた。声が震えないように気をつけながら、答える。

「期待には応えるだけですよ」

 ワイルドハントはもはや黒い壁のように目前へと迫っていた。ウェズリーがやってきた時点でファランクスは解除され、同時に高威力光魔術クレッシェンド・ルクス・ゼクスも解除されている。絶死の黒霧までさえぎるものは何もない。ワイルドハントのリーチの外でルピナが停止したのと、アストライアーが呟くのがほとんど同時だった。

「え? ウェズリー、もう一度言ってよ」

 嫌な予感は直後に現実となる。

「核がない!? そんなわけ……じゃあどうやってあの巨体を……? え? どうしたの? ウェズリー?」

「どうしたんですか?」

 様子のおかしいアストライアーにラトレルが尋ねると、彼はわからないと言うように首を振った。

「ワイルドハントの話を聞いてほしいって、ウェズリーが急に……」

 ワイルドハントとコミュニケーションがとれた、ということなのだろうか。もし説得が可能であればそれが一番ではある。

「だが……」

 ラトレルは蠢く巨体を見る。ロストアイランドと同じ、光を反射しない黒。あの空間はただ無感動に命を奪い去る機能だけが存在する無明の荒野だった。和解やコンセンサスの余地などあるとは思えない。

 二人して怪訝な顔をしていると、ウェズリーの白い矢が空中で文字として整列していくのが見えた。どうやら「通訳」してくれるらしい。

【『アストライアー、約束を守って』】

【『胡乱な生にひきずられ続ける奴隷でいるのはもう嫌なんだ』】

【『僕の役目を果たさせて』】

【……ひたすらこれだけを続けてる。きっと……8年前からずっと。この言葉を君が聞き届けいのは不義理だと思って】

 ラトレルはイカの大幻獣のことを思い出していた。ウェズリーにアンシーリーコートが寄ってきたのは彼の中で眠るアストライアーを欲してのことだったはずだ。『永遠の目覚め(グッドナイト)』として覚醒してもウェズリーという灯台守の少年だった記憶が消えてなくなったわけではない。自分の苦しみの理由を目の当たりにして、ウェズリーにも思うところがあったということなのだろう。

 一方アストライアーは反芻するように何度か文字列をなぞってから「あぁ……」と静かに呟いた。

「自殺(アポトーシス)。それが僕の生まれてきた意味で、生きる理由だと思ってたんだ。ここを創ったときは、本当に、心からそう思ってた。影である君はそれをずっと覚えていてくれたのに、僕ときたらすっかり変わり果ててしまったね」

 過去を慈しむように薄く微笑むアストライアーにラトレルは気が気ではなかった。この土壇場で再び裏切られるようなことがあれば、本当にこの星は終わってしまう。

「大丈夫だよ。僕は『変わり果てた』んだから」

 ラトレルの心中を察してか、アストライアーは皮肉げな笑みを作って見せる。続いて見せたのは怜悧な横顔だった。

「やることは変わらないよ。自殺機構である彼を倒して、約束も予言も終わらせよう。……ウェズリー、最期に伝えて。『一緒に逝けなくてごめん』って」

 縛鎖と化した約束に終止符を打つためにはワイルドハントを倒さねばならない。目的は変わらねど、状況は想定を覆している。

 核がないとなると大前提が崩れてしまう。早急に王宮に帰って代替案を練らねばならない。だが、対処する速度こそ肝心要のこの大厄災に対して、果たしてそれで間に合うのだろうか。ファランクスはあくまでワイルドハントが物理的に王宮にたどり着くのを防ぐだけで、今も刻一刻と惑星の命の根源たる魔力は浪費されているのだ。

 ほんの数秒の逡巡ののち、ラトレルは引き返そうと心に決めた。アストライアーの背を叩き、そのことを伝えようとした瞬間。

「……! これは!」

 背後から飛来した矢がルピナの背中で跳ねた。しなやかな鱗は鏃でも全く傷つかない。ラトレルは慌てて手を伸ばし、滑り落ちかけた矢をつかんだ。途端、ウェズリーの声が脳に響く。

【早く読んで!】

 よく見ると矢柄に紙が巻き付けられている。折りたたまれた紙をいそいそと開いて広がったのは正方形の白のみ。だが、面食らっていたのは一瞬のことだった。白紙に文字が浮かび上がる。

『核がなかったことはウェズリーくんから聞いた。けど、戻って来なくていい。これで意思疎通しながら再考するから。アンタもなんかあったら書き込んで」

 ソニアの字だった。どうやら王宮に残っていたウェズリーの一部が事態を共有してくれたらしい。おまけに矢文となって通信手段を持ってきてくれる始末だ。ラトレルは彼と初めて会ったときの気弱そうな佇まいを思い出して、微笑んだ。「頭があがらないな、まったく……」と呟きながら、次々と浮かんでは消えていく文字列を目で追う。

『「核がない」んじゃなくて、離れたところに隠してるのかも。それが可能そうなのはせいぜいロストアイランドだけ。ウェズリーくんに頼んでロストアイランドの中を探して!』

 読み終えたラトレルが顔を上げると、周囲に矢の群れが待機していた。ワイルドハントの索敵隊が引き上げてきたようだ。ラトレルはウェルギリウスの夜を抜き放ち、弓へと形状を変化させた。矢文としてやってきた一矢をつがえ、撃ち放つ。

「開け、ミッドナイトホロウ!」

 同時にミッドナイトホロウを展開すると、ラトレルが放った矢を先頭に他の矢も虚の中に飛び込んでいく。

「生命を持たない君なら、ミッドナイトホロウはワームホールも同然、ロストアイランドまでショートカットできる。……頼んだぞ、ウェズリー」

 ラトレルは通信用に残った一矢を握りしめながら、緊張の面持ちで数分間を過ごした。焦りで心音が早鐘のように耳に響く。その間もワイルドハントはじりじりと進んでいる。やはりアストライアーを探しているらしく、時に触腕が伸びてくることもあった。

額ににじんだ汗が頬に流れかかったとき、ついに報せがあった。

【ない! どんなに探してもないよ。ハズレみたいだ】

 「クソ……っ」

 悪態をつきながらも、頭は既に次なる一手にシフトしていた。

 核が小さすぎてウェズリーにそれと判別できない? いや、そこまで核を分裂するメリットが少なすぎる。予言師が300年かけて準備を整えたからこそ即時の対応が出来ているのであって、本来なら対策を論じている間に負ける相手だ。

 核が別の場所にある? しかし、ソニアの言う通り、ロストアイランド以外にそれが可能な場所はない。もしワイルドハントが想定をはるかに超えて器用に核を移動し、遠距離──例えば大気圏外などに配置できるなら、『核を破壊する』という作戦そのものを棄却するべきだ。

「やはり、核があるという想定そのものが誤りなのか……? だが、だとすればこの巨体をどうやって統制している?」

 握りしめて皺が出来た紙に再び文字が浮かび上がった。

『ワイルドハントの中に核はない。外って言っても場所が限られてる。なら、表面はどうかと思って、ファランクスに触れたときのデータを分析してもらったの。そしたらビンゴ! ソイツの構造は風船みたいなもんよ。表面が本体で中にあるのはたっぷりの魔力。だからそんなに高燃費で星を食い散らかせるんだよ』

 ラトレルはワイルドハントに視線を向けた。触腕はどこからでも生えて、アストライアーに迫ってくる。これも体表を変化させて、中に魔力を押し込むことによって成立しているのだろう。やけに動きが緩慢なのも、そのせいなのかもしれない。

『だが、どうする? 核を斬るという作戦は通用しないだろう?』

 ペンに変化させたウェルギリウスの夜で返信する。

『核がないなら作る。もう一度ファランクスに収容して、縮めて圧縮する。問題はファランクスごと断ち切れるかどうか』

 「アストライアー」

 ラトレルが呼びかけると「聞いてるよ」と機先を制する形でアストライアーが答えた。

「結論から言うと、出来る。ただ問題があってね。ファランクスごと切った瞬間、組織が崩壊すると同時に星の呪いがあふれ出すんだ。僕らもそれを浴びて死ぬ。……まぁ僕の方は死ぬって言うか、星の呪いに吸収される感じだけど」

 文字を追うまでもなく、ソニアのため息が聞こえてくるようだった。

『あのねぇ、そういうのはできないって言うの。あとラトレル。言っとくけど、アンタだけが自爆特攻するのもナシだから。そういうの、飽き飽きしてんのよね、こっちは』

 今度はラトレルがため息を吐く番だった。ソニアの文章が浮き上がる最中、かぶせるようにして殴り書きに近い文字をつづる。

『そう思うのなら、自爆特攻より効率的で実践的な案を出すんだな。タイムリミットが来たら、私は行く。止められるのなら』

 止めて見せろと書く前に、紙全体に悲鳴のような巨大な文字が浮かんだ。

『ペティナイフ!』

 ラトレルは綺麗とは言い難い文字を見つめて一瞬硬直したが、次の瞬間舌を噛みそうになりながら慌ててアストライアーに尋ねた。

「アストライアー、クレッシェンド・ルクス・ゼクスでワイルドハントを桂剥きにできますか!?」

「……桂剥きってなんだっけ」

「名前はどうでもいいんですよ! ワイルドハントの本体である表層部分を切り離せるかと聞いているんです」

「そういうこと! 待ってね、やってみるから」

 言い終わるや否や、再びファランクスが展開された。魔術砲台による点描の時間を待たねばならないのがネックだったが、それも杞憂に終わった。

「一条でいいなら余裕だよ! クレッシェンド・ルクス!」

 ほんの数秒で描画を済ませ、アストライアーの言葉とともに出現した光の柱がワイルドハントに浅く切り込んだ。

「あ、いけそう。実質的な本体である上皮組織と中身の魔力の癒着はかなり弱いみたいだね」

「おねがいします!」

 ラトレルは言いながら折紙にメッセージを書いている。

『ソニア、君の使う氷の杭ならワイルドハントに干渉出来るんじゃないか?』

 ソニアの返事は極めて簡潔だった。

『今向かってる』

 ラトレルがそれを読んで顔を上げるのと、「来、た、わ、よ~! 西の魔女様のお通りだ~い!」という場違いな明るい声が届いたのはほとんど同時だった。

 空飛ぶ椅子に座ったまま、手には折紙とペンが握られている。

「なっ!? さすがに速すぎるだろう。どうしたんだ君……。何か非人道的で悪辣な手段でも講じたのか」

 ラトレルの悪態に等しい驚嘆ぶりを見て、ソニアはにやにやと笑う。

「弟分があたふたしてるからここは頼れる年長者が助け舟を出したげようってことで、早馬ならぬ早椅子を飛ばしてたら、案の定ヘルプの要請があったから、大喜びでかけつけてあげたってわけ」

 ソニアが王宮を飛び出すまでの一部始終を目撃していたウェズリーは「ラトレルが特攻するかもしれないと思ったら矢も楯もたまらず飛び出していた、というのがより正確な表現だろう」と内心呆れていたが、TPOをわきまえてだんまりを決め込む。

「さぁさ! しけた面してないでやるよ! 星竜と西の魔女が主催する、大厄災の縫製ショー! 特に観客はいないけど!」

 ラトレルはしばらくの間鼻白んでいたが、不意に気が抜けたらしく、くつくつと喉の奥でかみ殺し損ねたような笑い声をもらした。

「そうだ、そうだった。君はいつでも私の邪魔をしてくる最悪なやつなんだった」

「そうだとも! 主役でいたいんなら、せいぜい見せ場を奪われないようにね」

 二人が迂遠で面倒な応酬をしている最中、アストライアーは黙々と立体魔法陣の調整をしていた。頃合いを見て口を開く。

「準備できたよ~。3カウントでいい?」


「オッケー」というソニアのウインクと、

「承知しました」というラトレルの神妙な首肯。

「3」

 アストライアーがワイルドハントの本体を切り落とした瞬間、同時にファランクスを解除する。

「2」

 そこでソニアが飛び出し、一時的に体表から切り離された本体を氷の杭ならぬ氷の針と糸で絡め取って、縫い合わせ、疑似的な核を生成する。

「1」

 最後にラトレルがそれを破壊する。ワイルドハントを圧縮して斬る場合と異なり、呪いの噴出は最小限で済む。ミッドナイト・ホロウがあれば退避は十分に間に合う……はずだ。机上の空論でも、それに賭けるしかない。

 全身は未だ激痛を訴えていた。全身がバラバラになったあと、祝福によって無理やり貼り付けられたような状態だ。正直に言えば、立っているのがやっとだ。それでも、ラトレルは抜き放ったウェルギリウスの夜を強く握り直す。皆が、ここまで送り届けるため助力を惜しまなかった。為政者として、彼らの代表者として、成さねばならないことがあるのなら、それを全うするのがラトレル・ザカライア=ララ・エスメラルダの幸福だ。

 ラトレルが場違いに笑うのと、「0」と発せられたのはほとんど同時だった。

 


エピローグ

 結論から言えば、ラトレルたちは勝利した。楽勝、とまではいかなかったものの、この星に最も知悉したアストライアーと、万物への殺傷能力を持つマックスの力があれば、ワイルドハントが倒れるのも道理と言うものだった。……終わってしまった今となっては。

 大厄災を巡る予言は終結し、幕が下りようとしている。

 王宮は戦後処理で大童で、ラトレルを始めとした宮仕えたちは、1ヶ月が過ぎようという現在でも忙しく働いていた。

「ねぇ、ラトレルがどこにいるか知ってる?」

「あ? なんでオレに聞くんだよ。オレが知ってるわけねぇだろ」

 ルピナはワイルドハント討伐後、用は済んだと王宮を離れようとしたのだが、ラトレルにつかまり、なだめすかされ、おだてられ、宮仕えに交じって仕事をする羽目になっていた。今は王宮内の託児所で幼児に取り囲まれて四面楚歌の状況に陥っている。

「3周回って絶対にいないところに来てる可能性もあるかと思って。……ていうか」

 ソニアが口ごもるとルピナは怪訝そうに「なんだよ?」と尋ねた。

「竜がこんなところで油売ってて良いわけ?」

 エプロン姿のルピナはキョトンと首を傾げたあと、すぐに合点がいったのか歯を見せて笑った。

「人間と同じスケールで考えるなよ。こんなの油売ってるうちには入らねぇさ。あと10年続けたら話は別だけどよ」

 最近王宮では「見ろよ、オレが縫ったヒヨコちゃんだぜ」とエプロンのアップリケを見せびらかすルピナの目撃例が度々報告に上がっている。それ以外にも深夜に厨房で盗み食いするルピナや、イワシの小骨が喉に刺さって苦しむルピナなど、親近感を覚える日常エピソードが枚挙に暇ない。このままでは竜としての威厳は消え去り、ただの社交的な働き者になってしまう。実際のところ、もうほぼなっている。

「……まぁ、アンタが良いなら良いんだけど。邪魔したね」

 ソニアはいろいろと飲み込んで、簡素な挨拶をすると託児所を離れた。

 最近ぬいぐるみ製作に挑戦している竜・プロセルピナ。威厳の失墜と人気の上昇が反比例する上位存在は今、結構幸せそうだ。


「どうせサボりじゃない? 殿下って割とやりたくないことは人に押し付けるタイプだし……」

 昼行燈と呼ばれたのは今や過去のこと。マックスでさえ腰を上げざるを得ない多忙さは彼の評価を一変させた。魔術はまるで使えない代わりにあらゆる雑用を小器用にこなす『雑用王』として日々重用されている(パシられている)。

「そんな百人が百人言うような凡庸な答えを求めてるんじゃないのよね、こっちは」

「えー。予言師殿に聞けばいいじゃん。絶対知ってるよ」

「ベサニーちゃんも見つからないからアンタなんかに聞きに来てるんだって」

 軽口をたたき合う二人に横槍を刺したのは、件のベサニーだ。

「殿下ならアストライアー様と空中庭園へ向かわれましたよ」

 そう言う彼女の手には何故か虫かごが携えられている。

「予言師殿……その虫かごは?」

「次の仕事です。森でカブトムシかクワガタを取ってきてください。出来ればレアなやつが欲しいとのことです」

「なんで……?」

「レアな虫を持っているとご学友に対してマウントが取れるそうです」

「いや、そうじゃなくて、何の仕事なの?」

「デルフィーヌ殿のご令息のご指示ですよ。きびきび働いてください」

「ガキの使いじゃん! やるけどさ」

 徹頭徹尾平和な応酬を聞き流しつつ、ソニアは王宮内へと踵を返す。ソニアが離れていったあとも穏やかに丁々発止やっていたマックス、ベサニーもやがてそれぞれの多忙さへと埋没していった。


黄昏時から夜へとシフトし、星影が閃く頃合い。春めいた暖かさはまだ昼間だけのものであり、夜となると風は冷たい。そのためか、空中庭園にも今は二人を除いて、人影は見られない。

「さしずめ、私は『魔王』と言ったところでしょうか」

 ラトレルの言葉にアストライアーは首を傾げながら、「魔王?」とオウム返しに尋ねる。

「ラストソングを発動し、転生病を焼き払った。それはすなわち、この星から……無辜の民から幸福の種を奪ったのも同然です。この事件はありとあらゆる悲劇の幕開けを意味するでしょう。……所謂、『魔王』っぽいじゃないですか?」

 そういうラトレルの表情は少し寂しげではあるが、さっぱりとした笑顔だった。雨上がりの空気を思わせる彼の笑みに、アストライアーはむしろ強く消沈した様子だった。ラトレルは夜空を見上げながら、彼の言葉を待った。

「……僕は『魔王』になれなかった」

 長い沈黙の果てに、アストライアーは呟いた。その声は震えており、地面には灰色の染みが2つ、3つと増えていく。

「それが、クロノスケール・ダウトを棄てた理由ですか」

 ラトレルは感情を排し、淡々と尋ねた。「そうだよ」とアストライアーは震える声でうなずく。

「転生病に冒された魂をこの星に集め、一気に焼き払う。そうすれば多くの星の死期を遅らせられる。時間さえあれば、僕より優秀な竜がもっと素敵な解決策を用意してくれるはず。そう思って僕はこの星を作った。ドミノみたいに壊すことを前提に組み上げたはずだったのに。それなのに……この星は、壊してしまうには綺麗過ぎた」

 ラトレルは夜空を見るとき、星ではなく夜の闇を見つめる。昔からそうだった。ラトレルの心を慰めるのは星影ではなく、夜闇だ。そうしていると、アストライアーは再び口を開いた。

「……転生病はたしかに人を幸福にする。でもそれは100%の幸福な人生を保証するわけでも、絶望や悲しみが消えてなくなるわけでもない。人生の苦楽は当然にやってくるけど、その中で自分の持っている幸福を大事に思えるように、方向性を定めるだけなんだ。ざっくり言えば『自分を認められるようになる』だけ。だって言うのに、見ただろう? 君も」

 アストライアーの涙に歪んだ顔が星光に浮き上がる。超然者たる竜の面影はなく、苦悩を抱える一人の男の成れの果てがそこにいた。

「他者と比較せず、自分の幸福を愛し、真面目に努力する優しい人たちばかりなんだ。こんな……夢にまで願った幸福な世界を、どうして自ら壊すことができる?」

 ラトレルは何も答えられずにいた。痛いほどに共感できるが、それを口にするべきだとは思えなかったからだ。

懊悩がコツコツと響く靴音をかき消していたため、空中庭園に響く二人以外の声は、あまりに唐突に聞こえた。

「ハァ〜、何の話をしてるのかと思ったら他人の幸福がどーのこーのって……。幸も不幸もさ、そいつ自身のもんでしょうに。あんまり他人を舐めなさんなよ。アンタが魔王かどうか決めるのはアンタじゃなくて、国民たちなんだから」

「ソニア……いつの間に」

 横槍を入れてきたソニアはやれやれと首を振りながら近づいてくる。

「ラトレルを探してたんだよ。王宮内駆けずり回ってね。もうすっかり夜になっちゃったじゃない」

 くどくどと説教をしていたかと思うと、ソニアは急に黙り込んでラトレルとアストライアーを交互に眺めた。

「現実が物語みたいに『悪者を倒してめでたしめでたし』とはならないように、『幸福の種を失って、皆が不幸のどん底に』とはならないでしょ。不幸になるやつはなるし、ならないやつはならない。アンタがそれ全部背負い込む必要、ある? いや、仮に必要だったとしても、背負うべきじゃないよ」

 アストライアーは涙を拭って、ラトレルを見つめた。それを言うべきはお前の役目だ、と言うように。

ラトレルは視線に対して軽く頷いてから、答える。

「私見だがね、人生を楽しむ最高のスパイスは責任なのさ。『私』という何者でもない男が『ラトレル』としての人生に根ざすための錨が責任だ。時に、私を押し潰す程に肥大化したとしても、その重圧こそが私の生涯の計量結果なんだ。たとえ、責任の名が『魔王』になったとしても」

 ラトレルはそう言って笑った。王子でも、魔王でもない、ただの18歳の少年のように。つられて、ソニアもアストライアーも笑う。

「そ。ま、私が言いたいのは逃げることを否定し続けることと、端から慮外なのじゃ次元が違うぞってだけ。……実際、未来がどうなるかはわかんないよ」

 ソニアはそこで言葉を切ってアストライアーを見た。

「この星は生まれ変わったんだから」

 もはや竜としての機能をほとんど失い、ただ星の管理者としての器だけを維持しているはりぼての少年は眦をさげて笑みを作った。

「そうだね。僕は僕の責任を果たそう。この星の未来を創る者の一員として」

 これからやってくる無数の夜が彼らに優しいかはわからない。暖かい夜も冷たい夜もあるだろう。それでも共にあってくれる夜は、最も新しい夜だけだ。

ラトレルはもう夜空を見てはいなかった。彼を呼びに来たというソニアはラトレルの手をぐいぐいと引っ張って最後に強調するように言う。

「さっさと行くよ、『王子様』くん!」



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リィンカーネーション・シンドローム 黒住 墨 @kuro_zumi_boku

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