父の呼び出し

「お帰りなさい。

 お父様があなたと話をされたいらしいわ。離れで待っておられるから、なるべく早く行ってちょうだいな」


 いくつもの街をリヤカーを引いて歩き回る重労働を終え、自宅に戻った総一郎は母・真紀子にそう言って迎えられた。


「まだ七時なのに帰宅しているのは珍しいね」


「そうね、今日も遅い予定だったのだけれど突然お戻りになったの。あなた、何か知っている?」


「いや、特に。荷物だけ置いたら行くよ」


 総一郎は曖昧に誤魔化し、自室へと向かった。

『何か知っている』どころか、ほぼ間違いなく自分が原因だろうと分かっている。しかし紅が襲われても仕事を優先した一之介が、急遽予定を変更してまで早く帰宅したことには、非常に驚いていた。

 その日寝る場所が変わらないような出来事は、取るに足らないのではなかったのか。



 自室で汗だくになった着物から着替え、離れに向かった総一郎は、心配そうな脇田に建物の中へと迎え入れられた。


「総一郎様がお越しになったら、私は母屋に下がるようにと仰せつかっておりますので」


 脇田はそう言い、一礼して扉の外へと消えていった。廊下を歩き、広間へと続く扉を開ける。一之介は一人掛けのソファに座り、黙って暖炉の火を見つめていた。


「お父様、お待たせしました」


 総一郎が声をかけると一之介はゆっくりと顔を総一郎に向け、弱々しく微笑んだ。


 炎のゆらめきに照らされたその微笑みを、総一郎は信じられない気持ちで見つめた。一之介が自分に対し、多少なりとも笑顔らしき表情を向けることは、過去十年以上なかった。


「総一郎、ソファの暖炉に近いところに座ってくれ」


 一之介はそう言い、自分は立ち上がってグラスを両手に持って戻ってきた。続いて戸棚からスコッチウイスキーを取り出し、二つのグラスに注ぐのを総一郎は黙って見ていた。


「十年前に入手した、秘蔵のものだ」


「お父様、話というのは……」


 総一郎が話を促すのを片手で制した一之介は、手にしたグラスをテーブルに置いてから直立した。その直後、


「総一郎。これまですまなかった」


 そう言って腰から深く身を折り、そのまま静止した一之介を前に、総一郎は固まってしまった。


 出先で頻繁に父の配下にある者たちを見たり、自室に誰かが入った痕跡が残っていたりすることに気付いたのは、年末のことだ。

 それ以来、一之介と正面から対決する覚悟を決めてさまざまな展開を想像し、備えてきたが、まさかこの父親が謝ることなど未来永劫ないと思っていた。


「お父様、何に対しての謝罪ですか」


 総一郎はそう言い、付け加えた。


「僕は正直、いま困惑しています。とりあえずお座りになって、話をしましょう」


 一之介は顔を上げ、もともと座っていたソファに腰をおろす。


「総一郎。少し長くなるが、話を来てくれるかな」


「ええ、もちろん」


 総一郎の承諾に頷いた一之介は言葉を選ぶようにしばらく黙った後、ウイスキーを一口だけ口に含んで話を始めた。


「私は、誰よりも臆病な人間だ。

 石橋を叩いて渡る、そして叩いても小さな懸念があれば渡らない――


 そういう、本来なら大勝負に出られず、事業で成功することなく人生を終えるような男だ」


 一瞬の間に、暖炉の中で薪がぱちっと音を立てて爆ぜた。


「そんな性格に育った理由はあとで話そう。真紀子と結婚したときには、平凡な町の呉服屋として生計を立てていくつもりだったんだ」


 総一郎は微動だにせず、一之介の言葉に耳を傾けていた。


「そんな決意は紅、そして君の特別な能力が発現したとき、簡単に揺らいでしまった。

 自分を決して裏切らない人物と手が組めて、高い確度で未来が分かるとなったら、心の奥底にあったどろどろしたものが私を支配した。


 自分でも気付いていなかった『身を立てたい』という欲望が一気に表に出てきてしまい、収拾がつかなくなった。

 臆病者が、強力な力を得て化け物になったようなものだ。


 それからは家庭を顧みず、すべてに優先して事業の拡大のみに心血を注いできた。

 誰もが知っているとおりだ」


 いつしか、総一郎に対して話すというより己の内面と対話するような荒々しい口ぶりになった一之介は、一度話を止めて呼吸を整え、続けた。


「家庭を顧みないという表現だけでは事足りないほど、我が子である君たちに対して冷淡に接していたことは自分でも認識している。


 取り戻せない子ども時代について、今どれだけ謝罪されても許せないのは、百も承知だ。

 ただ、一つだけ私について知ってほしい」


 そう言って一之介は総一郎をまっすぐ見つめた。


「総一郎。君は、紅が『光が見える』と言い出したとき、どうして私がすぐにそれを信じたと思うかい?」


 突然の謎かけだったが、総一郎はその瞬間、答えが分かってしまった。


 むしろ、これまでなぜその可能性に思い当たらなかったのかと考えるほどに、自然なことだった。

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