「ねえねえ、クローバーシェイビングクリームって聞いたことある?」


二月十日の下校時、友人と共に校門まで歩いていた茉由子は、美代の口から出てくるその名称を深い感動と共に聞いた。


「知らないわね。なあに、それ?」


桜子が首を傾げながら質問を返す。


「私も良く分からないの。でも昨日お母様とお買い物に行ったら、そのクリームはありますか、って問い合わせている女性を四人も見かけたの。


小一時間ほどで、四人よ」


「雑誌で紹介されたものなのかしら?


シェイビングっていう英語の意味はなんだったかしら、茉由子さん」


桜子の問いに、茉由子は何食わぬ顔で答えた。


「シェイヴ、というのは『剃る』という意味よ」


「そう、つまり女性用の毛剃りクリームなんじゃないかと思っているのよ。そんな商品、見たことないわよね?」


美代が頬に手をあてながら言う。


「ないわね。もうすぐ花嫁になる立場としては、とても気になるわ」


桜子が真剣な顔をして答えたのを見て、茉由子はついからかいたくなってしまった。


「桜子さんったら、前にこんな話をした時には真っ赤になっていたのに、なんだか大人になったわね」


「やだわ、もう!」


「あらあ、茉由子さんのせいで結局やっぱり桜子さんは真っ赤になっちゃったわね」


頬まで染まった桜子はぷいっと横を向いた。


「茉由子さんも美代さんも、国語の作文もう手伝わないんだから!」


「ごめんなさい、許して」


「悪気はないの」


美代と共に桜子に謝り倒し、ようやく許してもらった茉由子は、校門の外の見慣れた車からひらひらと手を振る紅の姿に気付き、二人に断った。


「私、紅さんとちょっと話してから帰るわ。また月曜日にね、ごきげんよう」


「ごきげんよう、茉由子さん」「良い週末を」




友人たちが去ったのを見届け、小走りで近寄った茉由子を紅がドアを開けて車内に迎え入れた。


「良い知らせがあるの」


「紅さん、私もあるの」


二人は顔を見合わせて吹き出した後、しばし譲り合って、結局茉由子から話すことになった。


「今、美代さんが『クローバーシェイビングクリームが気になる』という話を振ってきたの」


「えっ嬉しいわ!」


紅が顔をほころばせて詳しく聞きたがったので、茉由子はどんなやり取りがあったかを説明した。


「こんなに身近なところで話が出るくらいですもの、他にも気になっている人がいると思うわ」


「嬉しい。あなたとお兄様の奇策、まずは成功してるんじゃない?」


「案としては総一郎さんのよ。私は少しアイデアを足しただけ。


それで、紅さんの話っていうのは何なの?」


「あのね、恵比寿にある化粧品のお店から『売り切れそうだからもっと持ってきて』って耕介さんのところに連絡があったんですって」


茉由子は思わず両手を頬にあて、大きな声を出してしまった。


「本当に!?」


「本当よ。女の子たちが来て、製品名を名指しで買って行くんですって」


「信じられないくらい嬉しい!それもやっぱり……」


「ええ、これもやっぱり奇策の成果だと思うの。広告一切なしで、発売から一週間も経っていないのに、わざわざ買いに行ってくれる人がいるっていうんだから」


茉由子は胸が詰まってしまい、黙って何度も大きく頷いた。



紅が「奇策」と呼んでいるのは、坂東道子の自宅を訪問した際に総一郎が「策がある」と言ったそれのことだ。


「名が通っているモノは、品質が確かだ」

「評判というのは長い時間をかけて少しずつ築きあげられたものだ」

そして、

「誰かが欲しがっているモノの方が、広告で見ただけのモノよりも欲しくなる」


―― こうした一般的な人間の思考を逆手に取って、とにかく人の口を通じて名前を広めるため、人を雇うというのがその中身だった。


しっかり一般的な思考を持ち合わせていた茉由子にはまるで思いつかなかった内容だったが、その考え方を起点にしてみると面白い策がぽんぽんと浮かぶ。

総一郎と何度も手紙をやり取りし、具体的な策を決めていった。


そうして今では七店舗に増えたカフェーマグノリアの女給たちに依頼したのは、目についた小間物店で、若い客が居合わせている中で


「クローバーシェイビングクリームという商品はありますか?」


と聞くことだ。

約三十人の女給が一日五回、二週間の期間、毎日街で製品名を言い、それを求める姿を人に見せる――どれ程の効果があるかは出たところ勝負だったが、面白がってノルマ以上にこなしてくれた者もいたのかもしれない。


たまたま店に居合わせた好奇心旺盛な若い客も、女給たちと同様に製品を訪ね歩き、どうにかして取り扱い店舗を探り当て、購入してくれたというわけだ。



「それでね、耕介さん、今日早速工場をまわって追加の製品を納めに行ってくださるんですって」


思考に浸っていた茉由子は紅の言葉で我に返った。


「ありがたいわ。私も週末の間にお店をめぐって、売れ行きを聞いてくることにする」


「ええ、ありがとう」


「あと紅さん、私これからカフェーに行ってラジオの策も始めてもらうようにお願いしに行ってくるわ」


「そうそう、お兄様も今がいいタイミングじゃないかって今朝言ってたんだったわ。忘れるところだった」


「良かった」


茉由子は本心からそう言った。仕事における感覚が総一郎と合うと、やろうとしていることに自信をもって挑める気がする。これは恋愛感情とは関係なく、総一郎という人間に対する信頼感から来ているのだろう。


「茉由子さん、ついでにどこか近くの市電の停留所まで送るわよ」


「ありがとう。……あっいけない、私自転車を持って帰らないといけないんだった」


「けれど、そもそも茉由子さんさっきお友達と歩いて校門に向かっていたわよね?」


「そうなの……話に興奮して、忘れていたのよ」


頭をかく茉由子を見て紅がクスクス笑った。


「あなたって本当に飽きない」


「ありがとう、と言うところなのかしら。じゃあまたね、紅さん」


ドアを開け、車から降りた茉由子に紅が言う。


「ええ、またね。あっお兄様が茉由子さんによろしくって言ってたわ」


不意に紅から出た総一郎の話に、茉由子はどきっとして返事が遅れてしまった。


「え、ええ。総一郎さんによろしく」


茉由子の様子をじっと見た紅は、何かに納得したような顔でひとり頷いていた。

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