一歩踏み出すあなた

「まあまあ、発売が予定どおりの日程になって本当に良かったわ。大変だったんじゃないの?」


 日本橋にある小間物屋「いろは堂」の店主の妻、タツはそう言い、納品に訪れた茉由子と耕介をお茶で労ってくれた。

 店の裏にある狭い倉庫に製品を入れ終えた二人は芯まで冷え切っており、それをありがたく受け取ることにした。


「ああ、生き返った気分です。ありがとうございます」


 耕介が湯呑みを両手で握りしめながら言う。


「そうでしょう、今日はこの冬一番の冷え込みって言うじゃない」


「明日からは少し緩むみたいですけれど、今晩はきっと湯たんぽなしでは眠れませんね」


 喉の奥を流れる温かい液体の感触を楽しみながら茉由子が答えた。


「それで、倉庫に入れてくれた商品は来週火曜日からお店に並べていいのよね?」


「はい、一月三十一日発売でお願いします。あと、これもお渡ししておきます」


 忘れぬうちに、と茉由子は風呂敷を解いて冊子と一つの筒を取り出した。


「接客いただく時に聞かれそうな質問と、それに対する回答をまとめましたので良かったら使ってください。こっちの筒は、掲示物です。今日以降、いつ貼っていただいても構いません」


「あら。拝見してもいいかしら」


「ぜひ」


 タツはゆっくりとした手つきで筒から紙を取り出し、巻かれたそれをぐっと伸ばした。


「『一歩踏み出すあなたを、お手伝いさせてください』…素敵、ハイカラだわ」


 タツの見入る様子に、耕介が何度も頷いた。

 紅がデザインしたポスターには、ウェディングドレスを着た女性が開かれたドアの向こうに歩まんとしている様子の写真が使われている。よくある化粧品のポスターと異なるのは、女性が背を向けていて顔が見えないところだ。

 バストアップの構図で必然的にうなじ部分に目が行くようになっており、産毛一本ないつるりとした肌の感触が伝わる。


「思い切った意匠で、とても目立つわよ。もう一枚の方は?」


「もう一枚は、言葉は同じなのですけれど、写真を変えてあるんです」


 茉由子の説明を聞きながら、もう一つの筒から紙を取り出したタツはにっこりした。

 桜の木の下に立つ女学生姿の女の子と、後ろの方に小さく男子学生姿の男の子が写っている写真が使われている。女の子が緊張した様子で鞄を抱きしめているのに対し、男の子は学生帽を片手で支えながら走ってきている。

 気持ちを打ち明ける前のシーンをイメージしている、と紅は言った。


「こちらの方が若い方向けかしらね。まずどっちを貼るか迷うわ」


「いろは堂さんの客層に合わせてお使いください」


「分かったわ。それにしても、直接的に剃毛している様子はポスターにしなかったのね」


「そうなんです。

 タツさんが、以前に訪問した際に『もっと暖かい季節に販売した方がいいかもしれない』っておっしゃったでしょう?あれがきっかけで、春らしさをしっかり表現したいということになりました」


「まあ!お役に立てて良かったわ」


 タツは本当に嬉しそうに微笑んだ。

 茉由子は壁にかかった時計をちらりと見て、耕介に目配せをする。お茶を全て飲み干した二人は、タイミングを合わせて立ち上がった。


「今日中にあと二軒に納品するので、そろそろ失礼しますね。

 お茶、ご馳走様でした」


「お粗末様でした。頑張って」


 ひらひらと手を振るタツに見送られ、茉由子と耕介はいろは堂を後にした。運送車の中で、耕介がしみじみと言う。


「僕たちって、優しい年配の人たちに恵まれているよね」


 まさにその点について考えているところだった茉由子は勢いよく頷いた。


「本当に、本当にそう思います。いろは堂さんに、坂東先生に、工場の源さんも」


「ありがたいよねえ。ご期待に応えられるように、頑張ろう」


「はい!」


「総一郎くんの仕掛けがうまくいくといいんだけど」


 茉由子は頷き、総一郎のことを考えた。

 今頃、総一郎と紅はカフェーマグノリアにいるはずだ。総一郎の秘策を成功させるためには、カフェーの女給たちが鍵となる。飛んでいって様子を見たくなる気持ちを堪え、茉由子は耕介に答えた。


「絶対うまくいきますよ。だって、あんなに面白いアイデアなんですもの」

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