かわいい人
三が日が過ぎ、街に少しずつ活気が戻ってきている中、茉由子は神田まで市電を乗り継いで出かけた。
色々と考えすぎて眠れなかったが、妙に頭は冴え渡っている。
悩みに悩んだ結果、しっかりと振袖を着てきてしまったが、気合いが入りすぎていて総一郎に変に思われないだろうか。
そんなことを考えながら市電を降り、歩いていると
「茉由子さん!」
後ろから総一郎の声がする。振り向くと、紋付き袴を身に着けた総一郎が笑顔で手を振っていた。
正月だから袴の者は珍しくないが、すっとした美しい目をもち、首が長くて長身の総一郎が着ると、役者のように華やかだ。
茉由子は思わずじっと見つめてしまった。
「あけましておめでとう、茉由子さん」
「あけましておめでとうございます、総一郎さん」
二人は丁寧にお辞儀をしあった。
「今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ、どうぞよろしく。……茉由子さん、」
「はい、なんでしょう?」
「振袖、すごくきれいだよ」
総一郎の突然の褒め言葉に、茉由子はどぎまぎしながら答えた。
「あ、ありがとうございます。母から譲り受けたもので、空色がきれいですよね」
「そうじゃなくて、いや、振袖自身もきれいなんだけど、」
茉由子はその後に続く総一郎の言葉に反応し、思わず目線を外してしまった。
「振袖を着ている茉由子さんが、とてもきれいだって言っているんだ」
(落ち着け、自分。落ち着け、自分。この人は百戦錬磨の人)
茉由子はそう考えてから、はたと気付いた。
百戦錬磨だというのは、総一郎の容姿や境遇から、自分が勝手にそう想像しているだけだ。実際に女性と浮名を流しているわけではない。
銀座で美しい女性、華乃子に誘われた時も卒なく対応していただけで、弄んだり駆け引きしたりしようというような様子は一切なかった。
もしかして、百戦錬磨じゃなかったとしたら?
今、顔が赤くなっていたとしたら?
もし……本心で言ってくれていたとしたら?
茉由子が思い切って顔を上げると、耳まで赤くなった総一郎の姿があった。
(えええ……こんなのずるい……どうしよう)
自分の顔から火が出そうに感じながら、茉由子は言った。
「あの、総一郎さんも袴のお姿が素敵です」
そして、それだけでは少し伝えきれていないような気がして付け加える。
「とても、とても素敵」
総一郎は少し驚いたように目を見開いた後、赤い顔のまま嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「じゃあ、行こうか」
「ええ」
(どうしよう、どうしよう)
総一郎の隣を歩きながら、茉由子はたった今、目の前で起きたことを反芻していた。そして二つのことを確信していた。
すなわち、自分は総一郎が好きなこと。そして――
総一郎が、かわいいこと。
神田明神は参拝客でごった返しており、なかなか本殿までたどり着けない。
茉由子は周囲の人に合わせてゆっくりと進みながら、総一郎といろいろな話をした。
芝山家は元旦からずっと来客が途切れないらしい。年末の挨拶と言って訪れた人が、数日しか経っていないのにまたやってくる、と言って総一郎は笑った。
「総一郎さんもご来客の対応をされるんですか?」
「基本は父だけど、それ以外の家族も総出だよ。父は、手洗いに立つ時以外はずっと誰かと話している」
「お父様は、その後もお変わりないんですか?」
茉由子の意味するところを察した総一郎は小さく頷いて答えた。
「あまり変わらないよ。実は紅が襲撃された後、あまりにも腹に据えかねて、人生で初めて自分の意見を激しく主張したんだ。
だから今はずっと、冷戦状態」
「それは、総一郎さんの心が休まらないですね」
「以前よりは晴れやかな気持ちだけれどね。僕には会社を継がない選択肢もある、って言ったんだ」
「まあ!お父様のご反応は?」
「特に何も。ただ『じゃあ継がせない』なんて言うかと思いきや、そういうわけでもない。何か少しは思う所があったのかもしれない」
総一郎の心身の負担を想像し、茉由子は心配になった。
「総一郎さんは、ご家業の方も続けていらっしゃるんでしょう?」
「もちろん。父との会話は最低限だけれどね。それより、茉由子さんはどうだった?お正月」
「私は、ここぞとばかりに飲みまくる父と母の給仕に明け暮れていましたよ」
ついぼやいた茉由子の言葉に、総一郎が笑い出す。
「あはは、穣さんも美津子さんも想像できるなあ」
「笑いごとじゃないんですよ、あの飲みっぷりは。
まあ普段は倹約して飲んでいないから、たまにはいいとも思いますけどね」
総一郎は笑いながら頷いた。
「お二人とも、楽しい酒だから飲んでもいいんだよ。酒癖としては最高なんだから」
「そうでしょうかねえ」
完全に納得しかねる、と思いながら茉由子が答えると、総一郎はふっと笑うのを止め、言った。
「お友達の家はどうだった?」
「ああ、とても楽しかったです。仲が良くて、夏には鎌倉の別荘にもお邪魔させていただいた桜子さんという友人のおうちで」
「うん」
「友人の親族の方やお父様の仕事関係の方がたくさんいらしていて、室内楽団の演奏もありましたよ。お正月っぽくなくて新鮮でした」
「へえ、面白そう。それで?」
「えっと、それ以上の話は特に」
「なにも?」
「ええ?はい」
茉由子はそう言ってから、年末に紅が言っていたことを思い出した。お見合い前の顔合わせのような会なのでは?と言っていたのだ。
実際には、桜子の両親から紹介されたのは日本に住み始めたばかりの英国人夫婦だったのだが、総一郎はそのことを聞いているのかもしれない。
「素敵なご夫婦との出会いはありましたが、お見合いはありませんでした」
「そうか」
総一郎の声色に安堵の感情が含まれているように感じるのは、自分の想像、いや願望だろうか、と茉由子は思った。
「ええ、紅さんの予想は外れましたね」
「最近、学生になりたての女の子がするみたいな話をする時があるんだよね。これまで人を寄せつけなかった分、反動が来ているのかもしれないけど」
「ふふふ、学校でも他の人と話しているのをよく見ますよ」
今度は、総一郎のぼやきに茉由子が笑った。
「あ、もうすぐですよ。全力でお願いごとをしましょうね」
「もちろん。ここの神様ってえびす様だよね?」
「さっき案内図をいただいてきましたよ。神様が何人か祀られているんですって。商売繁盛のえびす様に、厄除けのまさかど様に、あっだいこく様……」
「だいこく様?ご神徳は何?」
茉由子はなるべくあっさりと聞こえるように答えた。
「縁結びですって」
「あっ、へえ、そうなんだ」
変な間ができてしまい、会話が途切れた。
(これが恋だと分かる前だとはいえ、仕事のために気持ちを隠そうと決めてから何週間かしか経っていないのに、私ったら駄々洩れかもしれない)
茉由子はそう思い、そっと横目で総一郎を見上げた。総一郎はお参りしている人を見つめており、表情からは何も読み取れない。
茉由子はやきもきした。
やっと順番がまわってきたので、二人は揃って本坪鈴の前に歩み出た。
「総一郎さん、お先にどうぞ」
「じゃあ遠慮なく」
総一郎が鈴を鳴らし終えるのを待って、茉由子もガラガラと勢いよく鳴らす。
(どうか、私たちのクリームが売れますように)
そう強く念じた後、薄目をあけて隣の総一郎を確認した。どうしてもお願いしておきたいことがもう一つあった。
(もしできたら、総一郎さんとの縁を結んでください)
心の中で唱えてから、茉由子は気付いた。
神様に対して、「もしできたら」なんて表現を使うのはあまりなさそうだ。神様に、なんだか少し妙に思われるかもしれない。
(ぜひよろしくお願いします)
最後に付け加えてから深く一礼し、茉由子は神前を離れた。
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