ふわふわした気持ち

 襲撃事件が解決したから、と言って紅は再び学校に通い始めた。


 もともと一匹狼で、何事も静かに卒なくこなすタイプの紅だったが、登校を再開してからは先生や級友に自分から話しに行っているようだ。卒業に向けて遅れを取り返すためもあろうが、何か吹っ切れたような感じもする。


 茉由子はその急激な変化に少し心配しつつ、喜ばしく感じていた。


 帰り際、そんな紅に校門の脇で呼び止められて


「十二月二十七日はあけておいてちょうだいね、うちで会議と決起会をするわよ」


 と言われた時、茉由子は思わず


「それって、総一郎さんも一緒?」


 と間髪を入れず聞き返してしまった。


「ええ、もちろんよ。耕介さんもね」


 紅はそう言ったあと、少し訝しげな顔をした。


「お兄様と何かあった?」


「いいえ、何も。どうして?」


「私がこの話をしたとき、お兄様もなんか変な顔をしていたもの」


「そうなの?なんでかしら」


 茉由子は何食わぬ顔でそう言いながら、鼓動が早くなっているのを感じた。


「開けておくわ、じゃあ明日ね」


 絶対に顔が赤くなっている自信があった茉由子はそう言って、俯きながらさっと自転車に飛び乗った。


「ええ、また明日……」


 いささか呆然とした様子の紅の声に見送られ、全速力で自転車を漕いで前の道路に出る。


(私はあの日から、だいぶおかしい)


 茉由子はそう考えながら自転車を漕ぎ続けた。

 あの日、というのは坂東道子を訪ねた日だ。転倒しかけて腕を借りて以来、ふとした瞬間に総一郎のことを考えてしまう。


 あの後行ったカフェーでは一時間ほどいたはずなのだが、緊張しすぎてあまり何の話をしたか覚えていない。宣伝計画の話だけはちゃんと覚えているのが救いだ。


(私は総一郎さんのことが好きなのかしら)


 茉由子は改めてそう考え、頭がのぼせるような感覚を覚えた。しかしまだ、そうだと言い切れない気もする。



 初恋は小学校の頃、休暇で訪ねた伊勢の旅館で一緒になった一歳上の男の子だった、と茉由子は思っている。

 海岸で貝拾いをしたり追いかけっこをしたり、毎日がとても楽しくて輝いていた。東京に戻ってからしばらくは手紙を交換していたが、今ではもう顔も忘れてしまった。


 あの時のわくわくする、きらきらした気持ちが恋なのだとしたら、今感じているものは違う感情だ。


(じゃあ一体何なんだろう)


 相手のことで頭がいっぱいになったり、考えるだけで顔が赤くなったり、今何をしているか知りたくてたまらなくなったりする、この気持ちの名前は何だろう。



 後ろから来た車にクラクションを鳴らされ、慌てて端に寄る。考え事をしているうちに、道のど真ん中を走ってしまっていたようだ。


(なんにせよ、例え私が総一郎さんを好きだとしても、片思いだわ)


 茉由子は胸がきゅっと締め付けられるような気持ちになった。

 完璧な総一郎が茉由子を好きになるとも思えず、万が一好きになったとしても、結ばれることなどお家柄的にありえないだろう。


(それ以前に、)


 家に着いた茉由子は自転車を停めた。


(この気持ちを知られたら、仕事がやりにくくなる)


 小さくため息をつきながら門の鍵を開けた。

 どうしたら気持ちが落ち着くのか、茉由子にはまるで分からなかった。


 ***


「それじゃあ、難しい話はこれで終わりにしてちょっとだけ学生らしく馬鹿な話でもしようよ。下宿先のおばあちゃんからイイのを一本もらってきたからさ」


 耕介が鞄をごそごそと漁り、焼酎を取り出した。


「わ!本当にいい焼酎じゃないか!」


 総一郎の反応に、耕介は満足そうに頷く。


「そうなんだよ。年末の挨拶でもらったらしいんだけど、おばあちゃん全く飲まなくてさ。


 紅ちゃん、茉由子さん、悪いね」


「茉由子さん、私たちはみかん水でも楽しみましょ。脇田さんがそろそろ持ってきてくれるはず」


 紅がそう言うのを聞いていたように、脇田が瓶を持って現れた。四人はお互いに注ぎ、グラスを高く掲げる。


 耕介が大きな笑顔を浮かべて言った。


「来年の仕事の成功を祈って、乾杯!」


「乾杯!」


 カチカチ、とグラスが音を立てた。


 あと五日で新年という日、学校が半日で終わった後、茉由子は約束通り芝山邸の離れに来ていた。

 一月からの動きを全て決め、頭は疲れているが満足感でいっぱいだ。そして総一郎に対しては、おそらくこれまで通り接することが出来ていると思っている。

 二人きりではないからかもしれないが。


「そういえば今日も、ご両親は不在なの?」


 茉由子は紅に聞いた。


「そうなの。年末の挨拶や団体の納会が続いていて、毎日ほとんど会わないわ」


「さすがのお忙しさね」


「でもあの事件があってから、私はほとんど駆り出されなくなったの。母が止めているから。けがの功名よ」


 そう片づけるにはあまりに大変な事件だったように思われるが、紅がそう捉えようとしているならそっとしておこう、と茉由子は思った。


「耕介さんはいつから帰省されるの?」


 紅の問いに、耕介が答える。


「あさっての汽車だよ。帰りは松の内を明けてから」


「ひとつお願いがあるのだけれど」


「なんだい?」


「神戸にフロインドリーブというドイツのパンのお店があるそうなの。香ばしくて噛み応えがあって、素晴らしいんですって。


 もしも神戸に行く機会があったら……」


「わかった、わかった。紅ちゃんの復活祝いに、神戸まで足を延ばしますよ」


「ありがとう!」


 美しい顔立ちの紅が満面の笑みを浮かべると、大輪の花が咲いたようだ。めったに見せないその表情に、茉由子はうっかり見惚れてしまった。


「大阪と神戸って結構遠いのに、紅はうまいんだから……」


 総一郎が呆れたように言い、耕介が笑う。


「茉由子さんは、お正月はどうするの?」


 突然総一郎に話を振られた茉由子は、驚いて豆菓子を喉につまらせそうになった。


「私は、東京にいます」


「何か特別なことはしないの?」


「明日からはおせちを準備しますけれど、それ以外は特に。


 あ、一日だけ友人の家に招かれています」


「そうしたらさ、僕と初詣に行こうよ」


 茉由子は驚いて総一郎をまっすぐ見てしまった。


「初詣?」


「うん。商売繁盛を願って、神田明神に」


 総一郎の様子に特に変化はない。茉由子はなるべく落ち着いた声で言った。


「ええ、行きましょう。三日に友人の家に行くので、その日以外なら」


「三が日に親戚以外のお誘いって珍しいね。東京ってそういう文化?」


 耕介が興味深そうに聞く。


「いえ、確かに東京でも珍しいと思います。友人のご両親が私に紹介したい人がいるから、と誘ってくださったんです」


「それ、縁談の匂いがするわね」


 紅がずずい、と乗り出してきた。


「えっ本当に?何も聞いてないわよ」


「本当よ。本人たちの波長が合えば、親経由で改めてお見合いを打診するらしいわ」


 真剣な顔で説明する紅に、茉由子は心配になってきた。


「私、そんなつもりじゃないのだけれど」


「あら、案外運命的な出会いが待ち受けているかもしれないわよ。気楽に行ってらっしゃいよ」


「他人事だからってもう……。紅さん、そもそもどうしてそんなこと知っているのよ」


「最近、学級の子たちと話すようになったのよ。なかなか面白い話が聞けるわよ」


 紅はけらけらと笑って言った。


「とりあえず、三日以外で初詣に行きましょう」


 茉由子が総一郎の方を向いて言うと、


「じゃあ四日で、絶対に」


 総一郎が食い気味に言ってきた。少し怒っているようにも見える。


 茉由子がその点について口を開こうとした時、


「皆様に、軽食をお持ちいたしました」


 と言って脇田が部屋に入ってきたので、タイミングが失われてしまった。


 もやもやしたような、でもふわふわしたような気持ちを抱えたまま、茉由子は新年を迎えることになった。

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