夜更けの来訪者

 それは日中の大雨が止んだばかりの夜のことだった。


 放課後と週末を使って東京中の店や問屋を訪問し、挨拶と説明をして試供品の容器を渡してくる日々を、茉由子は二週間ほど続けていた。


 門前払いを食らうことは少ないが、訝しがったり鼻で笑われたりすることはあり、気持ちが滅入ることも多かった。

 押し付けるようにしてクリームを渡してきた店もある一方で、感じ良く話を聞いてくれる店主も確かにおり、茉由子は手ごたえを感じていた。


 総一郎にそれを伝えるため、図書室で茉由子が手紙を書いていると、窓の外で物音がした。


(風が出てきたのかしら)


 茉由子はそう考え、閂をかけるため窓辺に近寄った。その瞬間、窓の外に人影が現れたものだから、茉由子は驚いて固まってしまった。


「私よ。こわがらないで」


 そう言って声をかけてきたのはなんと、小雪だった。


「小雪さん?なんでうちに?何があったの?どうしたの?」


 茉由子の質問攻めに小雪は小さく首を振り、静かに、と合図をしてきた。茉由子は一瞬迷ったが、窓から小雪を招き入れることにした。


 窓枠から手を差し伸べ、両手で抱きかかえるようにして中に引っ張りこむ。小雪の外套の裾は少し濡れて、泥がついていた。


「泥棒のような真似をしてごめんなさい。茉由子さんに会っておきたくて。

 生垣の枝が薄い所から無理矢理入ってしまったわ」


 小雪は立ったまま謝った。


「とりあえず、椅子にかけて」


「いいえ、時間がないの。このままで話すわ」


 仕方がないので茉由子も立ったまま話すことにする。ランプに照らされた小雪の顔はいつもよりぐっと大人びていて、知らない人のように見えた。


「私ね、お慕いしている人がいるの。その方と二人で東京を離れるわ」


 茉由子は驚きで固まってしまった。


「少し前に、英語の教室に向かいながらお見合いの話をしたでしょう?慌てて教室に入ったから話が尻切れトンボになってしまっていたのだけれど、実は続きがあったの。

 私、夏に恋に落ちてしまったの」


 茉由子は頷きながら、あの日授業をサボってでも小雪の話を最後まで聞かなかった事を後悔した。夜、人目を忍び家宅侵入してまで自分に会いに来てくれたこの友人とは、この先長い間会えない予感がする。



「彼、ここの先の曲がり角のところで私を待っていてくれているわ。

 あなたに紹介したかったのだけれど、またいつか、ね」


「良い方なの?」


 涙が出そうになるのを堪えながら、茉由子は辛うじてそう言った。

 そんな茉由子を優しい目で見つめながら、小雪はふんわりと笑って


「家柄もお金も、何もなくても、この人が白髪になって老いていく姿を隣で見ていたいと思うほどに」


 と答えた。その小雪の姿があまりに美しくて、茉由子は思わず小雪の手を取ってぎゅっと握った。


「小雪さんとお相手が、素晴らしい人生を歩めますように」


「茉由子さん、ありがとう。これまでいろいろな話を聞いてくれて、それを他の人には秘密にしておいてくれて、ありがとう」


 小雪も茉由子の手を握り返していた。


「もっと話を聞いておけば良かった、とさっきからずっと後悔しているのよ」


「そんなことないわ。私にとって、とても心地よかったの」


「幸せになってね、小雪さん。落ち着いたらお便りをくれるかしら」


「ええ、きっと」


「そうだ、少し待ってて」


 茉由子はそう言うと小雪から離れ、机の引き出しの一つを開けてクリームが入った小さな容器を取り出した。


「実はね、お父様の事業は畳んでしまったの。私が今やっている仕事が、これ。年が明けたらこれを色々なところで売り始めるわ。


 最初は東京だけになってしまうかもしれないけれど、すぐ他の地方でも売ってもらえるように頑張るつもり。


 小雪さん、薄桃色のガラス瓶に入ったクリームを見たら、私のことを思い出して」


「これ、何のクリームなの?」


「毛を剃る前に塗るクリームよ」


「まあ!」


 小雪は目を白黒させた後、クスクスと笑い出した。


「茉由子さんったら。あの話はこれにつながっていたのね」


「そうなの。けれど誰にも言えない契約で、ひっそり活動してきたの」


「私は誰にも言わないわ。茉由子さん、応援してる」


「ありがとう、小雪さん」


 小雪は腕につけた華奢な時計をちらりと見て、窓を開けた。


「もう行かなきゃ。クリーム、ありがとう。学校もお仕事も、頑張ってね」


「小雪さん、きっと幸せになって」


 茉由子の言葉ににっこり笑って大きく頷いた小雪は窓枠に手をかけ、ひょいっと乗り越えて外に出た。


「洋装ってやっぱり便利ね。それじゃ、私行くわ。さようなら」


 小雪は闇の中へと走っていき、すぐに姿が見えなくなった。程なくして生垣からがさがさという音が聞こえ、やがて物音一つしない静寂が訪れた。


 その夜、茉由子は総一郎への手紙を書き終えるまでずっと窓を開けたままにしておいた。




 小雪の駆け落ちは秘密裡に処理されたらしい。家が家だけに、新聞などに載ってしまう可能性があると茉由子は心配していたが、学校では「急病」という説明がなされただけだった。


「小雪さん、突然の入院ですって。心配よね。お見舞いに行きたいってお願いしてみたのだけれど、気持ちだけでって言われてしまったわ」


 美代が弁当の鮭をつまみながら言った。

 小雪が学校に来なくなって四日が経っている。人が減っていくのに慣れてしまっている感はあるが、寿退学とは異なる理由とあって、皆が心を痛めていた。


「もうすぐ結納のご予定だから、小雪さんもやきもきされているでしょうね。バイオリンと柔道の君も心配されているでしょうに」


 桜子が小雪に同調する。


「小雪さんに早く会いたいわ」


 茉由子は本心からそう言った。


 彼女は誰にも見つかることなく、新天地に着いたのだろうか。

 愛する人と過ごし、幸せだろうか。


「そうね、彼女のふわっとした笑顔が見たい」


 桜子がため息をつきながら言った。


「桜子さんまでなんだか暗いわ、何かあったの?」


 美代が問いかけると、桜子は首を振って


「ううん、細かいことよ。婚礼衣装がなかなか決まらないだけ」


 と答えた。


「ああ、あるわよね」


「清治さんのお母様と私のお母様が、二人して私の趣味に合わない振袖を勧めてくるのよ。一生に一度なのだから、私が選びたいのに」


「わかるわ、私もおばあ様まで巻き込んで、決まるまで半年かかったわよ」


「そんなに?それじゃあ私、四月までに間に合わないわ」


 茉由子は美代と桜子の会話を聞きながら、小雪の覚悟を決めた顔を思い出していた。


 小雪がこの二人みたいに、花嫁衣裳を着られますようにと、ひそかに願いながら。



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