愛人

 九月も終わりに近づいたころ、紅との昼休み会議を終えた茉由子は一人、英語の授業が行われる教室に向かって歩いた。

 営業先の候補リストも渡し終え、一仕事終えた気分である。


 もともと少なかった英語の上級組は、生徒たちの寿退学によりどんどん減っており、今や五人だけだ。

 校舎のはずれにある教室に向かう通路には、誰もいない。卒業が近づいていることを肌で感じた茉由子は感傷に浸っていた。


「茉由子さん」


 背後から声をかけられ、振り返ると小雪がいた。


「一緒に行きましょうよ」


「ええ」


 小走りで茉由子の隣に来た小雪から、ふんわりと良い香りが漂った。


「小雪さん、金木犀みたいないい香りがするわ」


 小雪は驚いた顔で言った。


「茉由子さん、鼻がいいのね。塗ってもらったのは昨晩よ」


「ふふふ、当たりね。エステティックサロンに行ったの?」


 茉由子の何気ない問いに、小雪が恥ずかしそうに答える。


「坂東道子よ。だいぶ前に美代さんがいいって言っていたの、覚えている?」


「ええ、銀座だったわよね」


 覚えているも何も、濃いやりとりがあった場所だが、茉由子は素知らぬ顔で言った。


「私、夏に勇気を出して行ってみたのよ。それから気に入ってしまって、二週間に一度は通っているわ」


「小雪さん、すっかり上顧客じゃないの!」


 茉由子が感心して言うと、小雪が照れて笑った。


「ええ、昨日みたいにマッサージだけの日もあるけれど、以前茉由子さんに相談した話は一応解決したわ」


「良かった。私、実は小雪さんが困っていたらと思って剃刀と石鹸を一組、買って教室の道具箱に潜ませてあるのよ。


 人前で話せないから、ずっと眠ったままになっているけれど」


 茉由子は総一郎と表参道に出かけた日、小間物屋でこっそり調達していたのだった。


「まあ、ありがとう!一応それはお守りとしていただいてもいいかしら」


 小雪が素直に大喜びしているのが可愛い。


「もちろんよ。本当は一緒に買い物に行きたかったのだけれど、なかなかそうもいかなくて。ごめんなさいね」


「そんなのいいのよ、課題がたくさんあって大変だったでしょう。茉由子さんの気持ちが嬉しいわ」


 茉由子はなぜだか胸が締め付けられるような気持ちになり、振り払うように違う話題を振った。


「課題と言えば、今週の読解はなかなかの文量だったわね。私、訳文を作るのに随分時間がかかっちゃったわ」


「茉由子さんでも?私なんて、三時間ほど辞書を引き引き試行錯誤したわ。


 後ろの方を訳すと、前の方が矛盾していることに気付くでしょう。それを直してもっと進むと、結局最初の解釈が合っていることに気付いて、全部やり直し。泣きそうになったわ。


 一応出来たけれど、自信がない」


 腕に抱いた紙の束を見せながら小雪が言った。


「私も同じよ。先生はなぜここまで難解な課題を選ばれたのかしら」


「なんだか卒業が近いのを感じるわね、茉由子さん」


「そうね、こうして学校で毎日会えるのも、あと半年ね」


 小雪と遭遇する前にも考えていたことだ。


「茉由子さんは卒業したらどうするの?」


 この類の質問にはこれまで曖昧に誤魔化して答えてきたが、なぜかその時、茉由子は少しだけ話してみたくなった。

 なんの確証もないが、どんな打ち明け話をしようとも、小雪は受け入れてくれる気がした。


「父の事業がね、順風満帆というわけではないの」


「お父様の貿易のお仕事?」


 小雪があえて、何気ない口調で答えてくれているのが伝わってくる。


「ええ。それで今、家族皆で頑張っているのよ。だから私、卒業したらきっと働くことになると思うの。


 うちの学校、卒業して仕事に就く人ってほとんどいないでしょう?だから奇異の目で見られそうで、まだ誰にも言っていない」


「そうだったのね。私、あなたを尊敬するわ」


 まっすぐ茉由子の目を見て、小雪が言った。


「芝山さんのご親類に家庭教師をしていることや、課題や勉強をたくさんしていることは、ご家庭のためだったのね。


 素晴らしいと思うわ」


「そうかしら。うちは兄弟がいないから、三人で頑張るしかないのよ」


「例え必要に駆られてだとしても、皆にできることではないわ」


「そんな風に言ってもらえるなんて、思っていなかった。ありがとう、小雪さん」


 茉由子は本心からそう言った。同情ではない感情を向けられることは想定していなかったので、不思議な気持ちでいっぱいだった。


「心配をかけたくないから、桜子さんと美代さんにはまだ秘密にしておいてくれる?」


「もちろんよ。あなたのことはあなたが決めて、言うものだから」


 優しい小雪の微笑みを見てふいに涙が出た茉由子は、着物の袖で目尻をおさえた。


「小雪さんは?柔道とバイオリンの君とはお話が進んでいるのでしょう?」


「ええ、十月に結納よ」


 やけに静かな声なのが気にかかったが、慶事だ。茉由子は躊躇しながらも祝うことにした。


「そうなのね、おめで…」


「でもあの方ね、愛する女性がいるんですって」


「なんですって」


 茉由子は信じられない気持ちで小雪の言葉を聞いた。


「新橋の芸妓さんとね、相思相愛なんですって。


 身分があまりに違うから結婚は許されないけれど、近い将来、愛人として身請けしたい。君のことは家族として大切にするから、受け入れてくれって」


 小雪は淡々と話す。


「お見合いの席でね、二人で庭園を散歩でもって言われて歩いている時にそう言われたの。


 さすがに私、信じられなくてお父様に抗議したのよ。でも相手は華族の血筋で、私が将来男児を産めなければ妾を何人作ってでも産ませるのだから、最初から一人決まっているだけだと考えればいいって言われてしまったの」


 茉由子は開いた口が塞がらなかった。何か言おうとすると小雪の父親を批判してしまいそうで、黙って話を聞いた。


「相手にも自分の父親にも当然のようにそう言われると、そういうものかと思うじゃない?だからあまりその点を考えないようにして、これまで結納に向けて準備してきたの。


 けれどね」


 小雪は一拍置き、悲しそうに微笑んだ。


「桜子さんがとても幸せそうでしょう?それにどんどん綺麗になっているわ。


 彼女を見ていると心が苦しくなって、やっぱり私はあの方に嫁ぐのは嫌だって実感してしまったの。友達の幸せを喜べない自分にも嫌気がさして、四六時中落ち込んでいるわ。


 私が坂東道子に頻繁に通っているのも、本当のところは現実逃避」


「小雪さん、お相手には嫌だっていうのはお伝えしたの?」


 茉由子の問いに小雪が首を振る。


「お見合いの後は一回だけお会いしたんだけれど、先方のご両親も一緒だったから、話を出していいのか分からなくて、していないわ」


「そうなのね。お相手、縁談が進んでいることで、小雪さんがそれに不満を持っていないと考えていらっしゃるのかしら」


「わからないわ」


 もっと話していたかったが、先生が教室に入るのが見えて二人は慌てて走り出した。


「小雪さん、もっと気の、利いたことが言えると、いいんだけれど、」


 茉由子は息を切らしながら言った。


「あなたの、感覚、間違っていないわ。桜子さんの、結婚を、手放しで、お祝いできないっていうのも、小雪さんの、立場なら、私も一緒。私に、できることがあれば、なんでも言って」


「ありが、とう、茉由子さん。あなたも、大変、なのに」


 その日の英語の授業中、茉由子は終始上の空だった。


 月並みなことしか言えなかった自分が悔しかった。

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