濁った白目の男
「野村先生、ご子息のご結婚おめでとうございます」
「深見さん、お会いできるかと思っていましたよ」
「井上先生、ますますご活躍で」
一之介はその後も精力的に挨拶をしてまわり、紅もそれについて回った。
別室に準備された軽食にはほぼ誰も手をつけず、そこら中で挨拶と短い会話が繰り返される空間。
ただ目の前の人の顔色ばかり見る人たちを収容した会場は、建築家が細部にまでこだわったであろう、その美しさを持て余していた。
その場にいる八割ほどと言葉を交わした後、一之介の視線に紅が頷いた。
二人はまた幾人かに声をかけ、かけられながら会場の外に出た。顔なじみのポーターが芝山家の車を呼んでいる間、一之介と紅は並んで待つ。
この後二人は大切な話をするが、誰が聞いているかわからない場所では決して話題を持ち出さない。ただ無言の時間が続いた。
「それで、どうだった」
車に乗るや否や、一之介は短く聞いた。
「お一人だけ。愛知の尾崎先生のご子息よ」
「春から秘書をしていると言っていた、あれか」
「そうです」
「『光』の程度は」
「三又紡績の取締役になられた方と同じくらい」
ずばぬけて強い茉由子の『光』を知っている紅にとっては中程度の『光り』方だったが、一之介には伏せている。
咄嗟に出てきたのが、一年ほど前に父が縁をつなげた人物の名だった。
「なるほど、わかった」
一之介は答え、ヘッドレストにもたれかかった。さすがに疲れたようだ。
紅は実のところ、総一郎ほどに一之介を人として嫌っているわけではない。
ずっと仕事ばかりしており、家庭を顧みない人だとは感じるが、明治中期生まれの男はそんなものだと言われれば、そういう気もしている。
自分が物心つくまでは違ったようなので、それを知っている総一郎の方が辛いのだろう。
ただ自分の能力をあてにされていることはよく理解しているので、何かのきっかけで『光』が見えなくなったら、父は自分をどうするのだろうか、とはよく考える。
紅にとって一之介が、血を分けた父親だという認識は薄い。芝山商事と芝山一家を並列し、両方を冷静に管理する人だという理解だ。
だから用件しか話さずとも、用事を言いつけようとも、特に腹も立たなかった。
「お父様、先ほどの…」
「林のことか」
目を閉じたまま一之介が言った。
「ええ。あの方、長くご存知なのですか」
どういう風に尋ねようか迷った結果、紅は無難な表現をした。
「繊維業界の重鎮だ。年々没落しているから商売上の害はないが、あいつには気をつけろ、紅」
「うちのことを色々とご存知なんですか」
「確証は持っとらんが、カマをかけてきただろう」
紅は林の目を思い出し、背筋を凍らせた。全身を舐めまわした、探るような無遠慮な目つきが頭から離れなくなる。
「窮鼠猫を噛む、と言うだろう。なりふり構わず何か仕掛けてくる可能性がある。
総一郎にも言っておけ」
「はい、お父様」
総一郎には言わなければいけないことがたくさんある。紅は車が自宅に着くまで黙って考えていた。
一之介も目を閉じたまま静かだった。
「林昌蔵。
享保の世に創業した近江の糸絹問屋の末裔で、大政奉還の頃に廃業してからは一族で江戸に出てきて、絹織物問屋を生業にしている。
十年ほど前までは皇室御用達の呉服店の仲買をし、滋賀方面の生産者を抱え込んでいたようだが、先代が亡くなった頃から徐々に商売が傾いている。
うちにみたいに仲買人を挟まず産地と取引する所が出てきたせいもあるが、昌蔵の人望のなさも少なからず影響しているらしい。
昼間から十二階下にしけ込んでは、酔って遊女を馬鹿にし、貶めることで有名だそうだ」
「ろくでもない人ね」
離れで総一郎から林の情報を聞いた紅は、露骨に顔をしかめた。
宴で林と遭遇した夜から五日しか経っていないが、総一郎は驚くべき速さでその素性を突き止めてきた。
夏季休暇の終わりと共に耕介は下宿先に戻ったので、聞かれる心配はない。
「ああ。年々商売が細っているのに遊びはどんどん派手になっていて、世間が思う以上に財政状況がまずいようだ。
羽振りが良い演技をしているというよりは、やけになっているように見えるらしい。
あと、気に入った遊女に着物を贈って、それを他にやるから返せと後になって迫ったという話もあった」
「お兄様、そんな情報一体どうやって集めたの?」
「秘密。
とにかく、あの人が言った『窮鼠猫を噛む』は無いとも言い切れない話だと思う」
情報源は何度問うてもきっと言わないだろう。大枚をはたいている可能性も高いが、総一郎は株の投資でひと財産築いており、その中でどうにかしたと思われる。
紅は追究しないことにした。
「呪術、まじない、人外の力って言ってこちらの反応を見ているようだったけれど、具体的に何かを知っている素振りはなかったわ。
直感だから確証はないけれど」
「そうだね。
けれど、いくら芝山が急成長していると言っても普通は『政治家にカネを積んだのか』とか『有力者に取り入ったのか』という発想になるだけで、呪術なんて考えもつかないと思うんだ」
総一郎が真剣な眼差しで続ける。
「林は、面と向かって堂々と言ってきたんだろう。
何かそういう考えに至るだけの確固たる証拠を握っているのかもしれない」
「私、『光』のことを紙に書いたことなど一度もないから証拠なんてないわ」
「証言という可能性もある。どこかで耳にした人の」
「こわいわ」
紅は両肩に手を回した。黄色く濁った林の白目を思い出す。
「もちろん、呪いやまじないに頼ることしか発想できないくらい、経済的に追い込まれているだけかもしれない」
「どちらにせよ、怖ろしいわ」
「ああ。なりふり構わぬ人間は怖い」
総一郎は手に持った手帳を閉じ、言った。
「当面の間、学校以外はどこにも行かない方がいい。
茉由子さんと耕介にも、うちに来てもらうのはしばらくよそう。誰が見ているか分からない。
茉由子さんには今、営業先を絞ってもらっているからしばらく集まらなくても問題ない。
クリームの方はどうなっている?」
「坂東先生のお陰で、耕介さんも私も完璧にクリームを再現できるようになったわ。今は、生産を引き受けてくれる町工場を耕介さんが探してくださっている。
私は製造方法を文書にまとめる役割よ」
紅の言葉に総一郎は頷いた。
「順調だな。坂東先生が機械を譲ってくれると言っているから、工場が決まって種が日本に着けば、すぐ生産できるんじゃないか」
「そうね、でも結構工程が多くて複雑だから、発売までに相当練習が必要だと思うの。
坂東先生に分けてもらえる種は、営業に使うクリームを作る分と練習に使う分にしっかり分けて、有効活用しなくちゃ」
「そうだな。ああ、あと容器も考えなくちゃいけない」
「それは茉由子さんと私でいまちょうど話しているの。学校で隙を見つけて話す感じだから、ゆっくりしか進まないけれど。
お兄様、硝子瓶の製造工場は見繕っていただける?」
紅の言葉に総一郎は頷いた。
「ここからって時に、集まって話が出来ないのはやりにくいな。
しばらくの間は、耕介と茉由子さんにはそれぞれ学校で連絡を取って、進めるしかないな」
総一郎がため息をつき、椅子にかけた自分の足元にすり寄ってきた猫をそっと撫でた。
林がどうなれば一件落着となるのか。
考えてみたが答えが出せなかった紅は、気付くと思い出してしまう林の顔を必死で頭から振り払った。
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