必死の否定

「あー美味しかった。

 最近ろくな食事をしていなかったから、ひとつひとつがしみるように美味しかったです」


 茉由子はうっとりしながら言った。


「普段は自分で作っているの?」


「ええ、大体は。学校が夏休みの間はお母様が家にいる日も多かったのですけれど、新学期の準備で何かと忙しそうで、私が食事担当です。


 父の職場は昼食を出してもらえるから、お弁当の準備は免れています」


 茉由子の回答に、総一郎は感心したように眉を上げた。


「すごいなあ。

 茉由子さん、前に英語以外の成績は良くて凡、って言っていただろう?今ならきっと、炊事は優だ」


「そんなことないんです。同じような煮物や焼き魚を、数日周期で回転させるだけ。

 洋食なんてとても作れなくて、貧弱な食卓です」


 慌てて謙遜する茉由子を総一郎は優しい目で見つめ、


「そういえば」


 と壁に貼ってある紙を指差した。


「このお店、夜には洋食も出すんだよ。牛鍋と同じ肉を使ったカレーが隠れた人気らしい」


「えっ素敵だわ。ライスカレー、ビーフシチュー、ミックスフライ、コロッケ…どれも気になるわ…」


 その時、茉由子は初夏の梅屋百貨店での出来事を思い出した。

 壮麗な着物を着た美しい女性の目元にあるほくろが脳裏によみがえる。


「あの、総一郎さん」


「ん?」


「私、こうして総一郎さんと二人で食事などして、ご気分を害されないでしょうか?」


「誰が?」


 総一郎はきょとんとしている。


「やましい気持ちはお互いないし、仕事の都合なのですけれど、状況的にランデヴーのように見えて好ましく感じられないかもしれない、と今思い当たりました」


「誰が好ましく感じないって?」


 茉由子は総一郎の反応が不思議だった。


(この人は、嫉妬や独占欲という感情を知らないのだろうか)


 そう思いながら茉由子は答えた。


「先日梅屋でお会いした、華乃子さんでしたかしら。


 あの美しい方、総一郎さんの恋人でいらっしゃるのでしょう?」


「え?いや違う違う、違うよ」


 いつも割と冷静な総一郎が、驚くほどの速さでぶんぶんと首を横に振るので、茉由子は驚いた。


「彼女は、父の仕事相手のお嬢さんだよ。あの前に一度しか会ったことがなかった」


「そうなのですか?コロッケを食べに行くお約束をされていた様子で、私てっきりそういう仲でいらっしゃるのだとばかり」


「たしかにあの場で誘われていたけれど、約束していないし、結局コロッケは食べに行っていない。むしろ、あれから会っていない」


 存外に強く否定する総一郎の必死さを見るに、本当に関係はないようだ。目の前の青年の赤く染まった耳を見て、茉由子は意外に思った。


 女性には困らない人だろうと思っていた総一郎が、少年のような反応をしている。


「私の勘違いだったんですね。こんな話をよく友人としているもので、お恥ずかしいです」


 茉由子はおどけて言ったが、総一郎の顔はやけに真剣だ。


「茉由子さんは?」


「私?」


「茉由子さんは、許嫁やお付き合いされている人はいる?」


 妙にゆっくり聞く総一郎に、茉由子は笑いながら首を振った。


「いませんよ、そんな」


「そうか、良かった」


「総一郎さんのお父様への借金、順調にいけば五年ほどで返せそうなんですって。私たちの事業が大成功すれば、もっと短くなるかもしれないです。


 その後、こんな私でもいいって言って下さる方がいらっしゃれば、考えようかなと思っています。


 けれど、仕事に生涯を捧げるのも職業婦人という感じで、モダンな生き方かもしれないですね」


 総一郎は何か言いたげだが、お互いの微妙な関係を意識してしまうこの話題を終わらせることに関しては、双方の思惑は一致したらしい。

 暗黙の了解でそれ以上深堀りすることはなかった。


 茉由子が最後の一口のスイカをほおばっている間に、総一郎は会計を済ませた。




 店を出た二人は茉由子の提案で、近隣の店を偵察しながら営業の方針を話すことにした。

 何しろもう夏は終わりだ。計画的に動いていかないと、いつの間にか時間が経ってしまう。


 比較的大規模な店を狙うか、小規模な店を狙うか。

 キリスト教系の学校のそばを歩きながら、長い時間をかけて二人が話したのがその議題だった。


「今までにない製品だし、小さな店で濃密な接客をしながら売ってもらうのがいいと思うんだ。


 坂東先生のところでは、細やかな説明をしながら施術してくれていたんだろう?販売員が使い方の説明をすれば、その気分を味わってもらえる」


 総一郎の主張に、茉由子は頷く。


「総一郎さんがおっしゃること、分かります。念入りな接客が好きな方もいらっしゃいますから、そういったお店があると良いでしょうね。


 けれど製品が製品だけに、そうとも言い切れない場面がありそうだと私は思っています」


「というと?」


「大正の若い女性はあけっぴろげだ、と諸先輩方に言われますけれど、案外奥ゆかしいのですよ。


 買っているのを見られたくない、店員にも素知らぬ顔をしていてほしい、という女性は多いのではないかしら」


「なるほど」


 総一郎がうなった。


「だから、石鹸や白粉なんかと一緒にごくごくさりげなく購入したいという需要はあると思います」


「それは、使用する量や注意点の説明を受けたいという気持ちよりも強いだろうか?」


「すべてを百貨店で揃える方なら違うと思うのですけれど、白粉や眉墨は皆、誰にも教わることなく使えるようになるでしょう?」


「なるほどねえ。女性誌の特集や広告で補うという手もあるか」


「そういうことです。皆、自分が興味を持ったことは研究しますから。総一郎さん、話していて閃いたのですけれど、こんなのはどうでしょうか」


 茉由子が提案したのは、大都市に少数の接客販売店舗を確保し、その他はすべて大規模店を狙うという計画だった。


「東京は、坂東先生のサロンでの店頭販売があるから、しっかり話が聞きたい方はそちらに行っていただければいいでしょう?」


 総一郎が頷く。


「たしかに、あえて坂東先生の所で買う最大の意味はそこだろうな」


「いえ、『あの坂東道子で買い物している私』、みたいな陶酔感も演出できますよ、あそこは」


 茉由子が真顔で言った言葉に、総一郎は笑ってしまった。


「僕も行ってみたかったなあ、サロンの内偵」


「先生にお願いすれば、総一郎さんも施術していただけるのではないかしら」


「男子禁制じゃないかな、どうなんだろう。


 まあとにかく、東京で言うとあのサロンをお客さんとの接点にしながら、基本的には大きな店で量を裁いていく、というのはいい案だね」


「ええ、そう思います」


「他の地方に関しては、販売店は確保しつつ、坂東先生のサロンみたいな位置づけの店は東京の反応を見てから決めよう」


 総一郎はそう言い、一呼吸置いた後静かな声で付け加えた。


「春までにはそこまで間に合わないかもしれないから、どうにか冬の間で軌道に乗っているといいな」


 茉由子は唇を噛んだ。夢中になっていると忘れてしまうが、この事業には期限が切られているのだ。

 もしそれまでに形にならなければ、すべては夢のままで終わってしまう。


「総一郎さん、お嫌だったらお答えいただかなくていいのですが」


「ん?」


「大学をご卒業された後は、どうなさるんですか?」


「家業を継ぐ話?」


 総一郎は変わらず微笑んでいるが、わずかに表情が曇ったのを茉由子は感じた。


「そうです。あの、もしこの事業がうまくいったら、両方されるのはきっととてもお忙しいのではないかと思って」


「そうだね」


 短く答えた総一郎は、市電の停留所にあるベンチを指差した。目的地の小間物屋は目の前だから、その前に少し座って話そうという意図だろう。


 茉由子は総一郎の隣に腰かけた。

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