牛鍋・胡椒亭
夏休み最後の日、茉由子の姿は原宿駅にあった。
電車が来たばかりの改札口には人があふれており、茉由子は押し出されるように駅舎の外に出た。幾分涼しくなったが、まだまだ暑い日が続いている。
「茉由子さん、お待たせしました」
本を読んでいた茉由子が顔を上げると、総一郎の姿があった。濃紺色の紗の着物が涼しげだ。
「いえ、まだ二ページほどしか読んでいないですよ。総一郎さん、こんにちは」
「何を読んでいたの?アガサ・クリスティーか。エルキュール・ポアロだったら僕も二冊読んだ。
ちょっと変だけれど、頭脳明晰で面白い」
「昨年出たポアロです。私が読み終わったらお貸ししましょうか?」
「ぜひ。茉由子さん、少し歩くけれど大丈夫かな」
総一郎が茉由子の赤い鼻緒のついた草履を指差した。茉由子が頷き、
「底にゴムが張ってあるからいくらでも歩けます」
と答えると、総一郎は微笑んで頷いて表参道の方向を指差した。
「明治神宮に向かう人波とは反対方向に行くから、次第に混雑はましになっていくはうだよ。ここはとにかく人だらけだ。歩こう」
総一郎に庇われながら、茉由子は歩道を歩き始めた。
「平日だし、正月でもないのになんでこんなに混んでいるんだろう」
首をかしげながら言う総一郎に、茉由子は答える。
「明日から新学期の人って多いから、何か願掛けでもしに来ているのではないですか」
「なるほど、ありえる。茉由子さんも寄りたかったら寄ろう」
「私は大丈夫です。さっき駅のところから心で参拝しておきました」
総一郎は吹き出し、
「僕もそうしよう。大事なのは気持ちだ」
と言って振り返ってしばし手を合わせた。その様子に、茉由子もつい吹き出してしまった。
「この間、脇田さんが総一郎さんからの言伝を持っていらしたでしょう?
私、それからこの界隈の洋品店や薬局がどこにあるか、電話帳と地図を見比べながら考えてたんですよ」
再び歩きながら、茉由子は言った。
芝山家の離れに所属するメイド、脇田は数日前、茉由子の家まで総一郎の言伝を持って訪れた。その約束の日が、今日だった。
「総一郎さんが金沢にいらっしゃった時に電話で、月末に一日あけておいてとおっしゃっていたのも思い出して、これはきっと作戦会議と営業の下調べだな、と思って、私、張り切りました」
茉由子が総一郎の方を向くと、なぜか微妙な表情をしている。
「ありがとう、茉由子さん。今日はそこまで根を詰めて何かしようとは考えていなかったんだけど、せっかくだからその話も聞かせてほしいな」
「あら、私勘違いしてましたか?もしかして、工場探しとか容器の意匠とか、そちらが先でしたか?」
茉由子が慌てて聞くと、総一郎はなぜか更に微妙な顔になって
「ううん、そういうわけじゃないよ」
と言った後、何やら気を取り直したように
「お腹は空かない?この少し先に、とてもおすすめのお店があるんだ」
と提案した。
総一郎の表情が意味するところが気になりつつ、茉由子はその案にのっかることにした。
総一郎がいう店は、表参道の緩い坂を昇りきって細い路地に入ったところにある、小さな牛鍋屋だった。
「胡椒亭」というその十坪ほどの店は、比較的若い客でいっぱいだ。
「最後の一席に入れて良かったですね。私、牛鍋って大好きです」
茉由子が品書きを見ながらそう言うと、総一郎が微笑んだ。
「それは良かった。僕もすごく好きで、その中でもここが東京中で一番だと思ってる。茉由子さんに食べてみてほしくて、ここにしたよ」
「期待してしまいます!私、牛鍋御膳にします」
「僕もそうしよう」
総一郎が注文している間、茉由子は辺りをきょろきょろ見渡した。
「牛鍋って古い料理なのに、若い人が多いですね」
「文明開化の頃にできた料理だよね。僕の祖父は、若い頃に初めて食べて衝撃を受けたって言ってた。
それまであまり肉を食べる文化がなかったから、なんだか罪深く感じたとも」
「知らない料理を口に入れるだけでも勇気がいることなのに、食材自体が初めてなのでしょう?
頑張ってくれた先人たちのお陰でこうして私たちが食べられているのだから、感謝しなくてはいけないですね」
「うん、間違いない」
やがて、湯気をあげている小さな鍋がそれぞれの前に運ばれてきた。
ひとり用の鍋というのは珍しいが、ゆっくり自分のペースで食べられるという点で、理にかなっているなと茉由子は思う。
添えられた人参を一口食べると、甘味と塩味の加減が絶妙だ。茉由子は思わず
「おいしい…」
と口に出していた。その様子を見ていた総一郎が破顔した。
牛肉、豆腐、ごはんにさやえんどう。二人の鍋は瞬く間に空になり、お口直しにとスイカを出されるまで、あっという間のことだった。
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