籠の鳥

「まさかシアの種をあんな風に処理しているとは、想像してなかったなあ。いやあ楽しかったね、紅ちゃん」


 道子の作業場で三日間の集中講義を終えた後、耕介と紅は日本橋の「カフェーマグノリア」に来ていた。

 銀座の裏通りにある坂東道子の作業場から十分ほど歩いた小さな路地にあるその店は、座席が入り組んだ設計になっており人目につかない。


 坂東道子から製造方法を習う日取りが決まった時に茉由子が教えてくれたのだが、一日の終わりにはへとへとになるので、聞いておいてよかったと二人とも思っていた。

 冷たいカフェラテで喉を潤してからでないと、家路にもつけないのである。


「あの工程数をお二人でずっとされていたって、信じられないわ。機械で出来る部分は機械に任せていたけれど、最後の方に精製していく工程はかなり手作業だったでしょう?


 二人きりでは量産は無理だって心の底から実感したわ」


 小さな字が書き込まれた手帳を見ながら紅が答える。


「耕介さん、私とてもお腹が空いたわ。家まで我慢できないから食事を頼みたいのだけれど、構わないかしら」


「僕も倒れそうで、同じ提案をしようとしていたところ。洋食メニューがいろいろあるみたいだから、試してみよう」


 それぞれがビフテキとエビフライを注文した後、耕介が


「それにしても紅ちゃん、よく三日間も予定を開けられたね。運転手さんもなしで、毎日市電で帰っているだろう?


 ご令嬢は不自由な物だと相場が決まっているから、正直言ってびっくりしたよ」


 と言うと、紅は珍しくにっと口を大きく横に開けた笑顔を見せた。


「私、秋に学校で薙刀の大会に出ることになったの。その集中練習があることになっているわ。帰宅したらすぐ、道着を水で濡らして汗をかいたように偽装するの。


 そしてちょうど今学校の前の道が工事しているから車が入れなくて、近くの神社で合流するのよ」


「なるほど、じゃあ紅ちゃんは市電で家まで帰るんじゃなくて、その神社まで行って何食わぬ顔で車で帰宅する、と」


「そういうこと」


「考えたなあ」


「ちなみに、工事は偶然じゃないの。

 路面に亀裂が入っているのを見つけたから、新学期までに補修してもらえないと多くの生徒が学校に通えませんって役所に電話したのよ」


 紅が得意そうに言い、耕介は吹き出してしまった。


「茉由子さんが坂東先生に言われた足りないところ、図太さと抜け目なさだっけ?紅ちゃん身についてきている気がする」


「まあ!耕介さんったら!」


 紅が目を見開くと、耕介が慌てたように言った。


「いや、僕たちみんなだよ。僕なんて、訳の分からない理由で芝山家に夏中居候していて、一銭も払っていないし」


「それはお兄様が話を進めたからでしょう?


 けれど確かにこの三日間、偉そうな女と変な医者に扮していた二人組が、まじめな顔で先生に教えを乞うている状況、たまに冷静に客観視してしまって顔から火が出そうだった…」


 紅がうつむいた。


「うん、坂東先生の心の広さに救われた。僕たちに出来るのは、製品をしっかり売って恩返ししていくことだと思ってる」


「ええ。私も」


 注文の品が到着し、二人は食べ始めた。


「このお店、やるな。ビフテキの焼き加減が抜群ですごくうまい」


「私のエビフライも衣がさっくりしていて、タルタルソースの酸味がきいているのがとても美味しい。気に入ったわ」


「坂東先生の作業場に来るときには通ってしまいそうだ」


 耕介のビフテキはみるみる減っていき、紅がようやく半分を食べ終わった頃にはお皿の上にはきれいさっぱり何もなくなっていた。

 一口ずつ丁寧に食べる紅を見ながら、耕介が言った。


「紅ちゃん、大学で化学の勉強をする気はないの?」


 紅は驚いたのか片手で胸をおさえ、幾分早く咀嚼をする。


「食べている時にごめん。

 紅ちゃん、僕たちで実験していた時もとても熱心だったし、この三日間も楽しそうだったから、続けたらいいんじゃないかなって思ってたんだ」


「大学は男性のための場所でしょう?いくら興味があっても、女性はお呼びではないわ」


 ようやく飲み込んだらしい紅が答えた。


「私立大学が多いけれど、女性を受け入れ始めた大学があるらしいよ。紅ちゃん、研究者気質だしとても合っていると思う」


 耕介の言葉に、紅は考えてもみなかったという風に黙り込んだ。


「入学するためには試験があるけれど、その対策は僕が手伝えると思う。もし紅ちゃんが興味あれば」


「耕介さん、ありがとう」


 情熱や希望。そうした前向きな感情表現を望んでいた耕介は、柔らかく微笑んだ紅の目に垣間見えるのが諦観だと気付き、言葉に詰まった。


「勉学に一心に打ち込む青春時代を過ごすって、きっと素晴らしいに違いないわ」


 そう言って、この話は終わりとばかりに忙しなくエビフライを口に運ぶ様子を見て、耕介は不用意に提案したことを後悔した。


 紅は、今をときめく芝山家のご令嬢だ。

 もしその家が自分の未来を決められるほど自由な家庭なのであれば、総一郎は起業などという考えを持たなかったであろう。


 役所を巻き込んで状況を作り上げねばたった3日間の自由もない紅には、大学で勉強することなど見るだけ悲しい夢だと感じられるに違いない。


 耕介、紅、総一郎、茉由子。

 四人はそれぞれ違った事情を抱えながら共に仕事をしている。

 耕介については、継ぐ家業がないこと以上の込み入った何かはないのだが、来年三月までの事業の成否が、総一郎と茉由子にとって巨大な意味を持つことを耕介は知っていた。

 紅については最初は兄に巻き込まれ、今は個人的な興味で参加しているのだろうと思っていたが、実は彼女にとってもっと深い意義があるのかもしれない。


(彼女が自由に才能を発揮できるのがあと半年ほどで、その後はずっと籠の鳥だなんて、こんなに悲しくて勿体ないことはあるだろうか)


 耕介は考えた。


 卓上に置かれたままの紅の手帳に書いてある、シアの種を焙煎する機械の絵が頭に残った。

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