光の恩恵

 楽しく、少し苦い思い出となった鎌倉から帰宅した茉由子を美津子が出迎えた。


 台所で水を入れ、立ったまま一息で飲んだ茉由子が少し日焼けしたことを指摘したあと、美津子は紙包みを渡してきた。


「これ、あなたにってさっき置いていかれたわよ」


「え、どなたが?」


 受け取りながら首をかしげる茉由子に、美津子は


「総一郎さんよ。ご自分が北陸に行っている間に、あなたが随分頑張ってくれたはずだって話していたわ」


 と言った。


「ふーん、何かしら。早めに全員で集まりたいって紅さんにお願いしたから、そのお返事かしら」


 茉由子はそう言いつつ、なんとなく違う気がして、包みは部屋に行ってから開けることにした。


「桜子さんの別荘は楽しかった?」


「ええ。桜子さん、結婚が決まったのよ」


「あら!それは素晴らしいことね。お祝いを準備しなくちゃ。桜子さんは喜んでおられるの?」


「ええ、幸せそうだったわ」


 茉由子の話に美津子は目を細めて頷いた後、


「茉由子ちゃん、違約金は精一杯頑張れば五年ほどで返せそうよ。


 少し遅くなってしまうけれど、あなたにも幸せになってほしいと私たちは思っているわ」


 と言った。


 私はいいの、と口から出かかった茉由子だが、思い直して口をつぐんだ。

 それを言うと美津子は悲しそうな顔をし、また自分たちのせいで娘を不幸にした、と落ち込むだろう。


「そうね、二十二歳や二十三歳での結婚って理想的な気がするわ。学校を出てしばらくは、職業婦人として自由を謳歌するの」


 茉由子は笑顔でそう言い、微笑む美津子に荷物を片付けてくる、と声をかけて自室へ行った。


 旅行鞄からほとんどの荷物を取り出し、洗濯すべきものを仕分けたあと、机の上に置いておいた包みを手に取る。

 包装紙を丁寧に開けると、中には便箋と共にリボンが入っていた。



「金沢の土産です。良かったら使ってください。

 坂東氏の話は、盆が明けた十七日の正午、うちの離れで。総一郎」



 手のひらより少し小さいくらいの深い赤色のリボンはちりめんで出来ており、濃い桃色の組紐で装飾されていた。

 結び目部分にはつまみ細工の花があしらわれていて、手の込んだ品だ。


 茉由子はリボンのあまりの美しさにしばらく見惚れた後、髪を半分結い上げてつけてみた。その華やかさで、鏡の中の顔がいつもより明るく見える。


(十七日にはこれをつけていこう)


 浮き立つ心で茉由子はそう決め、丁寧にリボンを外して鏡台の引き出しにしまった。




 八月十七日は相変わらず蒸し暑い日で、四人で顔を突き合わせて日中に会議をするのはなかなか大変だった。

 茉由子の話を聞いて皆で喜び、反省し、決意を新たにして、道子の追加条件を飲む形で契約を結ぶことが決まった。


「とにかくもう、幼児を見る母親のような目で…」

「子どもを諭す先生のように…」

「小娘と馬鹿にしたりせず、寛大すぎる対応で…」


 茉由子は様々な表現で道子の説明をした。彼女は何枚も上手で、同じ土俵で勝負したというよりも、土俵際から指導してくれたような印象だったらしい。

 しかし時間をかけた交渉を覚悟していた中、一度会っただけで契約を決めてくれたのは、茉由子がうまくやったからだろう。本人は


「耕介さんと紅さんがクリームをしっかり作ってくださったのと、総一郎さんが考えた条件がぴったりあてはまっただけで、私は鰻を食べただけです」


 と謙遜したが、総一郎はそう確信していた。


「ねえお兄様」


 茉由子が帰り、耕介が所用で大学へ、と言って出かけた後、人口密度が減って幾分涼しくなった部屋で紅が話しかけてきた。


「『光』のことなのだけれど」


「うん」


「『光』って得体が知れないでしょう?経験則で、『光る』人は芝山の事業に恩恵をもたらすのだと私たちは認識しているけれど、確証はないわよね」


「そうだね。家同士で過去に結びつきがあったのかとか、先祖が何かしら相手の先祖に善行をしたのかとか、調べたことがあったけれど特に脈絡がなかった。


 経験で、うちの家業になぜか利益をもたらすと知っているだけだ」


「ええ。それでね、初めて茉由子さんを家に連れてきた日、お父様に見つかって利用されないようにしてあげなくちゃって、私たちは話をしたでしょう」


 総一郎は紅が何を話そうとしているかぴんときた。


「紅が何を言いたいか、わかる。僕も最近、その点は考えていた。


『光る』人はうちの家業に恩恵を与えると思っていたけれど、実は家業ではなく、一族にとってメリットになるんじゃないか、ということだろう」


「そう。そうなると…」


「僕たちが茉由子さん、つまり『光』を利用していることになる」


 紅が頷いた。


「東京クローバー堂、色々と山はあるけれど、ここまでそれなりに乗り越えてきているでしょう。必要な時に求める人脈があったり、謎を解くために必要な最低限の手がかりが手に入ったり。


 私、これが偶然なのか、茉由子さんの『光』の影響なのかが分からないの」


 総一郎は黙った。紅が言っていることとそっくり同じことを、油の正体が解明できた時からうっすら考えてきた。

 頭に浮かぶたびに、考えても確定的な答えは出せないのだからと振り払ってきたその疑問を、紅も抱いたのだ。


「『光』のことは、私たち家族しか知らないはずでしょう。そしてきっと家族以外の誰かに言う日はない。


 けれど、もし。もし茉由子さんが何かのきっかけで知ってしまったら」


「知ることはないと思うけど、知っても自分が『光って』いるとは思わないんじゃないか」


 総一郎の楽観的な返答に、紅が首を振った。


「茉由子さん、きっと未だに『どうして自分が事業に誘われたのか』っていう疑問は心の中に持っていると思うの。今は忙しすぎてそんなことを忘れているかもしれないけれど。


『光』のことを知ってしまった時に、それを思い出したら、彼女察するわよ」


 小さなうめき声をあげて、総一郎は天井を見上げた。


「僕は茉由子さんを利用するつもりじゃなかったし、今も違う」


「私だってそうよ。あの人、好きだし。お兄様もでしょう」


「ああ」


 紅とは違う意味で、だがそれは今重要ではない。


「紅。たとえば茉由子さんを完全に外して、その結果一気にこの事業が頓挫したら、ここまで進んでいたのは『光』の恩恵だったと言えるかもしれない。


 それでも偶然という可能性は否定できない」


「そうね」


「確認できないことと不確定な要素だらけな中で、僕たちが出来るのは、何がなんでも『光』の話を茉由子さんが耳にすることがなく、察することもないように注意することだけだと思う」


「全面的に同意するわ」


 紅が何度も頷いた。


「はっきりと『光』のことを知らなくても、あの人が突然不自然な行動を取って、その結果しばらく後に事業に好都合な展開が起きていることは、あの人の側近なら気が付いている人がいると思う。


 僕はこれからそれを探ろうと思う」


「お父様の近くにいる人なら十分あり得る話ね。

 私もお父様と会合にご一緒する時は、会話に注意して聞いておくわ」


「ああ、お願いする」


「お兄様、『夢』のことももちろん茉由子さんには言ってはいけないわよ」


「わかってるよ」


 話が終わった、と認識したのだろう。紅が席を立って部屋を出ていった。


 赤いリボンがよく似合っていた茉由子の姿を思い出しながら、総一郎は答えの出ない悩みで頭をいっぱいにした。


 物事をどんな風に感じ、考え、どういう風に育ってきて、何が好きで何が苦手か。

 もっと彼女のことを知りたいし、自分のことも知ってほしい。

 けれど自分の人生をこれまで大いに左右してきた『光』と『夢』について語らぬというのは、うわべだけを見せることと変わらないのではないか。


 総一郎は目を閉じた。


 過去、卒なく会話して、当たり障りなく付き合ってきた女性たちの顔を思い出す。

 家業のため、芝山の家のため、誰にも嫌われないようしてきた自分の振る舞いに呪われている気がして、総一郎は大きくためいきをついた。

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