鰻と山椒

「驚いたわ。あなたのところの製品開発屋さん、相当に優秀ね」


「それは、そちらで使われているクリームと似ているということでしょうか」


「似ているも何も、ほぼ同じよ。うちは一週間で使い切るから保存を想定した材料が入っていないけれど、違いはそれだけ。


 あ、食べてね」


 道子はそう言いながら、箸を持った。茉由子も道子に合わせて箸を持つ。


「これまでにたくさんのスパイさんが来たのよ。けれど、芝山紅さんとそのご友人さんは大したものね。


 あの、山にいそうな大柄なお医者様もかしら」


 茉由子は鰻丼に入れようとした箸を止め、道子を凝視した。


「気付いていらしたんですね…」


「あの場では、お嬢さんのいたずらかなと思っていたわよ。特にあのお医者様が怪しさ満点だったわね。


 でも会社の住所を調べるために登記簿を見て、芝山の名前を見た時に合点がいったわ。

 総一郎さんというのは親族の方ね」


「紅さんのお兄様です…」


 茉由子が言うと、道子は眉をあげて納得、というように頷いた。


 道子は、想定していたよりも遥かに上手で、口先で丸め込める相手ではない。茉由子は今、はっきりと理解した。


 同時に、道子の立場から見た時に自分たちの行動がどう見えているかも分かった。


「あのう」


 茉由子は立ち上がり、深々と頭を下げた。


「大切になさっているものを探るなんて、おうちに汚れた草履で入るような真似をしてしまったことをお詫びいたします。


 このお話はなかったことにしていただいてもいいです」


 心から誤った茉由子に、なぜか道子は大きく目を見開いて手を振り始めた。


「謝ってほしいんじゃないの。私、純粋に感動しているのよ。


 あなたたち、お若いのにすごいわ」


「え?」


 聞き間違えたのかと思い茉由子が顔を上げると、道子が微笑んでいた。


「今ね、日本で定期的にシアの種を輸入しているのはうちだけなの。他にも一部仕入れているところがあるらしいけれど、ほぼ学術利用ですって。


 だから、シアの油だということを特定して、種を手に入れて、クリームを試作するところまでいっただけで、あなたたちの知識や人脈、行動力、そして持っている運が分かるのよ」


 道子が言っている意味は、茉由子にも分かる。どれか一つでも要素が欠けていたら、未だに油の特定のところで苦しんでいただろう。


「正直言って私も若い頃、流行しているサロンに技術を盗むために通ったこと、一度や二度じゃないわ。だからスパイさんになったことはこの際、不問」


「ありがたいお言葉です」


 茉由子は今一度頭を下げた。


「さあ、もう一度あなた座ってちょうだい。契約に向けた前向きな話をしましょう。


 でもその前に、冷めるから鰻重を食べてちょうだい」


 数分前の絶望から一点、茉由子は夢でも見ている気分で一口目の鰻を口に運んだ。

 甘辛いたれがじわっと口の中に広がり、なぜか泣きそうになった。




 お仕事の話は後で、ということで二人は鰻重を食べながらいろいろな話をした。

 道子には娘が一人いて、彼女は嫁ぎ先の家を切り盛りしながら、手があいた時に道子の手伝いをしているらしい。その娘の三人の息子たち、つまり道子にとって孫にあたる三人は揃って父親の仕事に興味を持っており、長じても道子の後を継いでくれそうにないようだ。


「でもね、私ももう五十八歳よ。このまま私に何かあって、娘もこの仕事にかかりきりになれない身だと、近いうちに将来のことを考えないといけないと思っていたのよね」


「あの素敵なサロンがなくなる未来は考えたくないですね。優雅で上質で、街中とは思えない体験でした」


 茉由子は思い出しながら言った。

 内装の一つ一つにこだわりが見られ、清潔に磨かれた器具。そしてゆっくりと低い声で話すスタッフたち。


「そうでしょう。働いてくれている子たちもみんな娘みたいなもんだから、彼女たちがしっかりごはんを食べていけるようにする責任もあるしね」


 最後の一口はいつもこうするのよ、と言いながら道子は山椒の粉を多めにふりかけた。こってりしたうなぎをあっさり食べ終わるコツらしい。


「クリームは娘と毎週手作りしているけど、これが本当に手間でね。

 西洋の魔女みたいな大きな鍋で、時間をかけてやるの。店の子たちに手伝ってもらうことも何度も考えたけど、サロンもサロンで大忙しだから、なかなかお願いできなくて。


 娘も、早く製造をお願いできるところを探してくれって言っていたのよ」


「秘密の製法を守るために、あえて娘さんと二人だけで製造されていたというわけではないんですか?」


「うふふ、違うわよ!もしかして皆さんそうお考えなのかしら?


 剃毛クリームは一子相伝の鰻のたれじゃないわよ、ああ面白い」


 口をおさえて笑う道子を前に、茉由子はサロンの従業員に聞いた話であることは黙っておこう、と思った。

 だんだん理解できてきた道子の人柄を見るに、話の出処を知っても笑い飛ばしそうではあるが、あの梅原という従業員にわざわざ言及する必要はない。


「それで、東京クローバー堂についても聞きたいわ。どんな顔ぶれでやっておられるの?」


 道子にならって山椒多めの一口で鰻重を締めた後、促されて茉由子は話し出した。


 本業は学生である四人がそれぞれ役割を担い、女学生に受ける新しい製品を世に送り出そうとしていること。

 茉由子の父の事業が頓挫したことをきっかけに始まったこと。

 来年の三月までに結果を出さねばならないこと。

 そして、芝山兄妹は両親に秘密にしていること。


 道子は、相槌を打ったり質問を挟んだりしながら茉由子の話を真剣に聞いてくれた。


「つまり、剃毛クリームを発売できれば記念すべき第一弾製品となるのね。ただその分、工場を持っていないし、製造をお願いできるところもないし、販路も未定ということ」


 道子の眼鏡がきらっと光った。


「そのとおりです。でも、」


 茉由子は言葉を選びながら心をこめて話した。


「私には、これに人生を賭ける理由があるし、覚悟もあります。

 他の三人についても、これまで四か月程活動してきた中で、情熱と能力を疑ったことは一度もありません。先程言っていただいたように、運にも恵まれていると思います。


 絶対に成功する、なんて私には言えませんが、クリームが日本中の女学生に愛される日まで、身を捧げて走り続ける覚悟をしています」


 しばしの間、人差し指でとんとんと机を叩いていた道子はやがて、すうっと息を吸った。


「いいわ、全面的にそちらの提示条件で契約しましょう」

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