銀座の女傑
八月七日は夏らしい快晴で、どこに潜んでいるのやら、銀座の街にも蝉の声が響いていた。
茹で上がりそうな暑さのせいか、人通りはいつもより少なく感じられる。坂東道子との約束の時間は十分後だ。
茉由子は心臓が飛び出そうになるのを感じながら足早に歩いていた。
総一郎からの電報は無事昨晩届き、内容はしっかり頭に入れた。連絡事項に続いて記されていた
「ソノママノアナタデ」
という文字を思い出し、気を静める努力をしてみる。
母が嫁入りに持ってきたとっておきの訪問着に身を包み、髪もしっかり結い上げた。戦闘態勢としては百点満点なはずだ。これ以上できることは思いつかない。同じことを五回目に反芻した後、茉由子は覚悟を決めて指定された料亭の暖簾をくぐった。
「熊笹亭」は六十年以上の歴史をもつ店で、茉由子は幼い頃に祖父に連れられ、一度だけ訪れたことがある。名物はうなぎで、あまりの美味しさに小さい体で完食したらしい。祖父は三年前に亡くなるまで何度もその話をしていた。
「坂東道子さんとお約束なのですが」
茉由子が言うと、女将と思しき女性は頷き
「どうぞこちらへ。坂東先生はつい先程到着されました」
と言って歩き出した。
想像していたとおり、個室のようだ。美しい石庭を横目に回廊を歩き、女将は一枚の障子を開けた。
「先生、お連れ様が到着されましたよ」
茉由子はこれ以上伸ばしようがない程背筋を伸ばし、表情を引き締め、女将の傍らを通って部屋に入った。
「ごきげんよう。どうぞ気楽になさって」
当たり前だが、部屋には坂東道子がすでにいた。
「ご連絡ありがとうございました。西條茉由子です」
茉由子は深く一礼し、坂東道子の前に腰かけた。六十近い年齢のはずだが、たっぷりした黒髪は華やかに結い上げられており、肌には目立った皺がない。いささか大きめの眼鏡の奥には意志の強そうな目があった。
「お若いお嬢さんで驚いたわ。失礼だけれど、ご年齢は」
「肌には気を使っておりますもので。実際はそんなに」
茉由子は澄ました顔で誤魔化した。実際にとんでもなく若いのだが、まだ手の内は晒したくなかった。
「お先に注文をいただいてもよろしいでしょうか」
女将が入ってきた。
「今日は私がご馳走するわ。鰻重がお薦めなんだけど、同じでいいかしら。飲み物はお茶をくださいな」
道子は瞬く間に注文を終え、茉由子の方を向いた。
「それで、私はまんまとおびき出されてしまった訳だけれど」
茉由子の目をじっと見つめ、道子は言った。
「シアの油だと特定してきた人はあなたが初めてよ」
「やはりあの素晴らしいクリームについては、お問い合わせがたくさんあるんですね」
茉由子の問いかけに、道子は頷いた。
「そりゃあもう、全国津々浦々から。美成堂も定期的に来ているわ」
「皆さん、広く一般に販売しませんかというお誘いではないかと想像します」
「そうね、基本的にはそう。ただ製法を教えてくれれば後は自分たちでなんとかする、なんてものもあるし」
「それはなんとも、厚かましい…」
茉由子が思わず正直な感想を口にすると、道子は初めて笑った。その表情のまま、道子は話し続ける。
「私があなたにお聞きしたいのは、二つよ。うちと似たクリームをどこまで完成させているのかと、エステティックサロン『坂東道子』、もしくは私自身とどうしたいのか」
「私も、その二点をお話したくて今日ここに参りました」
茉由子はそう言い、耕介に渡された紙片を取り出した。そして何度も見たそれを今一度見返し、机の上を滑らせて道子の前に差し出す。
眼鏡を少し上にずらした道子は、無言でそれに目を走らせた。
「なるほど。それで二つ目の点については?」
成分表を見てどう思ったのか、今すぐ感想を聞きたい。
茉由子はその衝動に負けそうになったが、ぎりぎりの所で平静さを保ち、総一郎から届いた電報の内容を書き起こした紙を道子に渡した。
「お目通しいただいた後、なんでもご質問ください」
それだけ言い、目の前に置かれたお茶に口をつける。
成分が書かれた紙片と、茉由子たちからの提示要件が書かれた紙を並べ、見つめ続ける道子の表情に変化はない。
茉由子が壁の掛け軸を見飽き、鰻丼が提供されて、ようやく道子が口を開いた。
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