長距離電話

 早朝に出発した後、取引先を五軒まわって作業の視察もした総一郎は、宿に帰り着いた時には疲れ果てていた。

 客先の訪問自体は特段負担にならないのだが、父と丸一日行動を共にするのももう四日目だ。これほど長時間共に過ごした記憶はなく、総一郎を後継にするという強い意志を感じる。


(明日からは秘書が合流するから、少しはましだろう)


 総一郎はそう考えながら、ごろりと横になった。しかし廊下に面した襖の向こうから声がし、慌てて起き上がる。入ってきた仲居が正座し、手をつきながら質問してきた。


「お食事をご準備してよろしいでしょうか」


「ああすみません、今日は少なめの量にしていただけますか。いつもの半分くらいの品数で」


「かしこまりました、ご用意いたします」


 仲居が下がった後、総一郎は改めて寝転んだ。父は最後の訪問先を辞した後、主計町の座敷に誘われてそのまま行った。総一郎も招待されなかったのは幸運だった。

 お供していれば、宿に戻ってこれるのは夜中だっただろう。


 数分間休んだ後、総一郎は起き上がって廊下に出た。受付に立つ事務員に声をかける。


「お電話をお借りしたいのですが」


「長距離ですか」


「はい、東京まで」


「高額の料金がかかってしまいますが、よろしいですか」


「ええ、構いません」


「こちらへどうぞ」


 のぞき窓がついた扉を開けた事務員は、


「電話を終わられましたらお声がけください。お時間を計っておりますので」


 と言って一礼をし、去って行った。総一郎は手帳を取り出してから受話器を持ち、ハンドルを回した。


「何番ですか」


「東京中央電話局三二四五番、麻布本村町の岩井常松さんへ。

 西條茉由子さん呼び出しでお願いします」


「お待ちください」


 かちっという音がしてすぐに、男性が電話を取った。


「芝山総一郎と申します。お隣の西條茉由子さんとお話させていただきたいのですが」


「話は聞いております。少々お待ちください」


 受話器の向こうが静かになったと思いきや、すぐまた音がして


「こんばんは、総一郎さんですか?茉由子です」


 と声がした。息が切れている。


「こんばんは。もしかして走ってきてくれた?これ、お隣の家だろう」


「そうなんですけど、早くお話したくて。お電話お待ちしていました」


 総一郎は思わず返答に詰まってしまった。茉由子は気付いていないようで、話を続けている。


「坂東道子から今日返事が来たんです。作戦会議がしたいです」


 安心したような落胆したような、形容できない気持ちになりながら総一郎は答えた。


「紅に託した住所宛てで、手紙を出してくれたんだね」


「そうです。そうしたら今朝、わざわざうちまで従業員の方がお手紙を持っていらしたんです。あさって、木挽町にある料亭で待っていると」


「展開が早いな」


「ええ。私、『近日ご挨拶に伺います』って書いて、こちらの住所は書かなかったのですが」


「登記簿を確認してきたか」


「そうだと思います」


 総一郎はあごをしゃくった。登記簿には、自分の名前も役員に記載されている。数か月前に訪問した、芝山紅の家族だと気付いただろうか。


「それで、どんな風に臨むのがいいかを朝からずっと考えていて。単刀直入に、組みましょう、と言うべきなんでしょうか」


「こちらで提示できる契約条件は、今晩まとめて明日の朝電報で送るよ。話の進め方に関しては、茉由子さんの直感に任せる」


「私の直感?」


「そう。坂東道子が出す空気が敵対的か、友好的か。

 娘と二人、門外不出の製法を長年守っているようだけれど、心境に変化は起きていそうか。

 契約できたとして、どの程度協力を望めそうか。

 会話の中で探りながらこちらの話を展開していってほしいんだ」


「脳みそが爆発しそうです…」


 電話の向こうで頭を抱える茉由子が想像できた。


「茉由子さんなら、きっと大丈夫。それに、初めて会うんだから話をまとめ切ろうなんて思わなくていい。

 会った瞬間より、さようならの瞬間に向こうの態度が柔らかくなっていれば成功だよ」


「なるほど…可能性が見えてきました」


 そう言いながらも不安が隠せない様子を感じ取り、総一郎は話をずらすことにした。


「裁判所に行った時みたいに、少し背伸びしてめかしこむといいよ。身に着けるものが違うと、自分の振る舞いもそれに合ったものになるから」


「そうですね。母の訪問着を借りようと思っています。…ふふっ」


「ん?」


「あの時の総一郎さんの眼鏡を思い出してしまいました…ふふふふっ」


「そんなに!?」


「ふふふっ、ごめんなさい、つい」


「いや、僕の雄姿で茉由子さんの緊張が少しほぐれたみたいで良かった」


 茉由子はひとしきり笑い、ふうっと息をついた。


「お電話代が心配なのですが、もう少しだけいいですか?」


「もちろん」


 僕もまだ切りたくない、と言いかけて総一郎は思い留まった。


「加賀はいかがですか?私、北陸の方へは行ったことがなくて」


「金沢市内に滞在しているんだけど、江戸時代みたいな街並みが広がっていて、とても美しいところだよ。僕はその中をひたすら車であちこち引きまわされているだけだけど」


「ご出張、長いから大変ですね。けれど古い町屋が並んでいるところ、きっと素敵だわ」


「訪問先も、何百年と続いているような反物の店とかでね。ああ、でも案外今の時代に合った小物の店も結構あった」


「私が総一郎さんだったら、商品に目を奪われて仕事にならないですね」


 茉由子が笑う声が耳に心地よい。


「目利きの力は女性の方があると思うよ」


「学校でもそうおっしゃる先生がいるんですけれど、男女というより、本人の客観性かもしれないですね」


「それは確かに」


 その時受話器から不明瞭な男性の声がし、茉由子が謝るのが聞こえた。


「総一郎さん、ごめんなさい。岩井さんの旦那様がお電話を使いたいみたいなんです。そろそろ切りますね」


「長々と電話してしまったこと、お詫びをお伝えしておいて」


「最後、引っ張ってしまったのは私ですから」


「それじゃ、茉由子さんおやすみなさい」


「おやすみなさい」


 総一郎はハンドルを回し、電話を切って一度しゃがみこんだが、思い出して電話室を出、言われたように受付に声をかけた。その後どうやって部屋に戻ったかは、覚えていない。提供されるままに食事をし、床について両腕で顔を覆った。



 いつからだったのだろう。

 始まりは分からないけれど、昨日今日じゃないことは分かる。きっと随分前からだし、意識せず行動に表してしまっていたこともあるだろう。

 それでも気付いていないふりをしてきた。

 それなのに数分間の何気ない電話で、どうしようもなく実感してしまったのだ。


 この夜、総一郎は茉由子に対する自分の気持ちを認めた。

 それは紛れもなく、恋だった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る