人形町の専門家
「来れば分かる」
それだけ言って市電に乗り込み、穣が降りたのは日本橋人形町だった。
途中、目についた酒屋で閉店準備をしている店主からぶんどるように一升瓶を買い、ずんずんと早足で歩く穣に、茉由子はついていくのが精一杯だった。やがて一軒の古い家の前でようやく足を止めた穣は、呼び鈴も鳴らさずいきなり玄関の引き戸を引いた。
「しげちゃん!いる?」
大きな声で誰かを呼ぶ穣の行動に呆気に取られながら、茉由子はその少し後ろで佇んでいた。程なくしてどたどた、と音がし、ぼさぼさ頭の一人の男性が姿を現した。
「みのる、お前はいつも藪から棒に…まったく、酒さえ持って来ればいいと思ってるだろう。まあ上がれ」
しげちゃんと思しき人物はそこまで言ってようやく茉由子に気が付いたらしい。その不思議そうな視線を見た穣が
「娘、茉由子」
と言うと、「しげちゃん」は
「ふーん。ま、二人とも中へ」
と言い、茉由子と穣を招き入れた。
しげちゃんこと西田繁は、穣の一歳上で、幼い頃の数年間、近所に暮らしていたらしい。
「しげちゃんは途中で人形町に引っ越しちゃったんだけど、偶然学校で再会してさ。それからずっと仲良くしてる」
西田家の茶の間で穣が茉由子に説明する。
「いつでも突撃訪問してくるから、逃げる暇がないだけだよ。茉由子さんどうぞ。お前はこれな」
「ありがとうございます」
「これこれ、しげちゃんちと言えばこの杯」
「飲めればなんでもいいだろ」
茉由子の前に茶が置かれ、穣の前には欠けた杯が置かれた。酒屋で買ってきた酒がそこに注がれ、穣と繁が乾杯をする。
「それで、娘さん伴って一体なんなんだ」
一杯飲み干し、指先につけた塩をぺろりと舐めた繁が聞いた。
「しげちゃん、種とか実とか、植物の輸入には詳しいだろう?」
「五年くらいはそれ専門でやっていたからな。一通りは知っている」
「やっぱり!茉由子、しげちゃんは横浜税関東京税関支署で一年前まで働いていたんだ。色々あって今はやめたけど」
「含みのある言い方をするな。ただ大家に徹することにしただけだよ」
「しげちゃんはとにかく事務処理が速くて正確だったから、貿易に関わる人がたくさん嘆いたもんだ。僕も含めて」
「で、植物の輸入がどうかしたのか」
穣が頷き、説明をし始めた。
「茉由子が、ある理由で油が採れる茶色い種を探しているんだ。それは英国船に乗ってやってきて、採れた油はエステティックサロンで使われているらしい。食用にも用いられているかどうかは不明」
「なんだか謎解きみたいだな。要するにその茶色い種が何なのか、俺の見解を聞きたい、と」
穣の横で、茉由子は頷いた。
「もう少し情報はないのか?大きさとか、輸入量とか、どこの港に入っているとか」
「大きさについては、どんぐりくらいだと聞きました。それ以外はなんとも…でも東京のエステティックサロンで使っているので、関東の港に入ってきているのだと思います」
繁は腕組みをしながら茉由子の話を聞いている。
「その油が入ったクリームは、べたべたしないのですがとても滑らかで、肌がしっとりします。アーモンドやオリーブ、胡麻、椿の種は違いました」
「しげちゃんなら何か分かるかも、と思って来てみたんだけど、どうかな」
穣の問いかけに、繁は首を振った。
「すぐには思いつかない。ちょっと考えさせてくれ」
茉由子は内心がっかりした気持ちを隠しつつ、もちろんです、と答えた。
繁がぽつぽつと話す税関の思い出話は面白く、三人で長く話し込んでしまい、外に出た時にはすっかり暗くなっていた。
「美津子に電話を一本入れておいてよかったなあ」
市電の停留所へと歩きながら、穣が茉由子に言った。
「しげちゃん、そんな種は知らないとは言い切らなかっただろう。ちょっと待ってごらん」
「そうするわ」
親子の頭上にはもう、月が昇っていた。
茉由子の所に電報が届いたのは三日後、終業式を迎えた学校から帰宅した時のことだった。
「エイコクショクミンチ ガーナゲンサン シアノタネヲシラベラレタシ シゲル」
英国植民地、ガーナ原産シアの種を調べられたし。繁 ―
それを見た瞬間に、茉由子が思い出したことがあった。
坂東道子で施術が終わった後、提供されたチョコレート。ガーナのカカオを使って、英国で作られたと言っていた。
直接的には関係ないが、偶然とは思えないそのつながりに、茉由子は確信した。
「アスハチジマデワスレモノアズカル マユコ」
紅と決めておいた暗号を走り書きした紙を片手に、茉由子は電信局へと走り出した。
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