思わぬ訪問者
翌朝八時ちょうど、西條邸の門前に車が停まる音がした。待ちきれず玄関に座っていた茉由子は飛び上がり、門へと駆け出していった。
「紅さん待ってたわ!」
そう言いながら勢いよく門を開けると、そこにいたのは紅ではなく総一郎だった。
「総一郎さん?おはようございます…」
茉由子は急に恥ずかしくなり、門の陰に隠れた。
「茉由子さん、おはよう。ごめん、紅が来れなくて僕が来ました」
「いえ、こちらこそ失礼しました。母がいるので、どうぞ中へ」
しばらく会わない間に総一郎の雰囲気が変わっていた。何が違うのか。茉由子は前を歩く総一郎をこっそり凝視した。髪を短く切ったようだ。
「あらまあ総一郎さん、いらっしゃい」
扉を開けると、美津子は驚いた顔で総一郎を出迎えた。
「突然すみません。すぐに失礼しますので」
「お気になさらず。朝食は召し上がった?」
「はい、食べてきました」
美津子と総一郎が話す後ろを茉由子はついていった。梅屋百貨店で変な空気のまま分かれたことを思い出し、少し気まずい気持ちになる。
「あとでお茶をお持ちするわね」
そう言って美津子が去り、茉由子と総一郎は応接室で向かい合って二人きりになった。
「それで、油について何かわかったって?]
総一郎は特に変わった様子はなく、はやる気持ちを抑えられない様子で茉由子に説明を促してきた。
「はい、シアの種というものがあるそうです」
茉由子は昨日急いで図書館に走り、調べた内容に基づいて丁寧に話を続けた。
アフリカの中でも一部の地域でしかとれないシアの実の中に入っている小さな茶色い種であること。
古くから神秘の木として崇められ、現地では保湿剤として重用されてきたこと。
「ただ、それだけではなくて私がシアの種が鍵じゃないかと思ったのは理由があります」
総一郎は真剣に茉由子の話を聞いている。
「原産国の一つであるガーナは、英国の植民地です。英国船で運ばれてきた、という情報と辻褄が合います」
茉由子はぐっと力を込めて言った。
「そして根拠というには推理小説っぽすぎるとは思うのですが、坂東道子で最後に提供されるチョコレートは、ガーナ産のカカオで出来ていました。それをわざわざ顧客に言うという点で、何か意味を感じます」
一気に話し終えて一息ついた茉由子は、ここまで黙って聞いていた総一郎が
「いいと思う」
とあっさり言ったので、拍子抜けしてしまった。
「あの、もっと突っ込んだりしないんですか?」
いささか間の抜けた茉由子の質問に総一郎はふわっと微笑み、
「茉由子さんが思いつく限りの方法で『茶色い種』について調べてくれていたこと、僕は紅から聞いて知っているよ。それで導き出した答えなら信じるし、もし違っていたとしても試してみる価値はあるよ」
と言った。半月以上の五里霧中の日々が報われた気がして茉由子の胸は熱くなったが、山積みの課題を思い出して冷静になった。
「ただ、どのように入手したらいいのか分からないんです。実験する分も、その後生産するための分も」
「そこはね、僕考えていたんだけど」
総一郎が姿勢を正した。
「坂東道子と組もう」
茉由子はその突拍子もない提案に思わず
「えっ」
と蛙のような声をあげてしまった。しかし総一郎は意に介した様子はなく、
「すでに輸入ルートがある坂東道子なら、量を増やすだけだから入れやすいだろう。実験する分だけなら、農学部の教授に良くしてくれる人がいるから、そこから手に入れられる」
と澄ました顔で言う。
「坂東道子監修、と銘打てば店に置いてもらいやすくもなると思う。シアの種で試作がある程度成功したら、茉由子さん、社長として坂東道子のところへ交渉に行ってほしい」
茉由子は総一郎の意図がうっすらと分かってきた。
「どこの誰だか分からない状態で製法を教えてくれ、と言っても門前払いされるけれど、同じようなクリームを作れることを証明すれば、向こうもちゃんと考えてくれるだろうということですね」
「そういうこと」
総一郎が満足そうに頷いた。
「いつからこの計画を?」
「坂東道子の話を茉由子さんが持ってきた時から、その知名度と技術を引き込めないかなと考えてた」
「言ってくださればよかったのに」
ふくれた茉由子に総一郎は笑い、
「潜入前にそんなことを言ったら余計に緊張しただろう?まあもう少し早く言おうと思っていたけれど、タイミングがなくてね。
もう秘策はないよ、あとは製品の完成に向けて邁進するのみ」
と言った。
話し込む二人を見て、気を利かせた美津子が扉の脇の小さな台に置いて去ったお盆を持って、茉由子は総一郎と自分の席にお茶を配った。少し冷めてしまっているが、暑いので気にならない。
「ありがとう。ああ、しみわたる。うちは紅茶が多いから、緑茶は新鮮だ」
総一郎が美味しそうに半分ほど飲んだ。
「いつもダージリンを出していただいていますね」
「そう、母と紅が好きでね。あまりによく来るもんだから、最近は耕介も紅茶派になったみたいだ」
総一郎につられ、茉由子も笑った。
「茉由子さん、夏休みは何か予定を入れた?」
「そうでした、今日から夏休みでしたね。
母が教えている学校も来週から休みになるので、家事をして少しゆっくりさせてあげたいと思っています。あとはこの事業の予定が分からないので、特に何も予定は入れていなくて。
総一郎さんは?」
「父の仕事関係で出なくちゃいけない行事がいくつかあるのと、地方に行く用事も二回かな。でも僕も、それ以外はなるべく空けている。
学生の僕たちにとっては一番動きやすい時期だしね」
「おうちのお仕事ももうなさっているんですね。お忙しい」
「言われた通りにやっておかないと、こっちの件がばれたら困るから」
総一郎は表情を変えず、穏やかにまた一口お茶を飲んだ。
「茉由子さん、八月後半に一日付き合ってくれないかな?」
「ええ?はい、もちろん。坂東道子のところへ行く日ですか?」
「いや、それは耕介の試作次第だけど」
「じゃあまだ手をつけていない販路開拓の話?それとも容器ですか?」
わくわくする気持ちを抑えながら茉由子が聞くと、総一郎はなぜか一瞬置いてから
「えっと、また連絡するよ」
と言って目をそらした。
「気になります。ご連絡お待ちしていますね」
茉由子がそう言うと、総一郎は意味ありげな顔で茉由子を見つめてから頷いたのだった。
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