美女の値踏み

 梅屋銀座は数年前に開店した巨大な百貨店だ。

 吹き抜けの天井にはガラスが貼られ、館内には柔らかな日差しが降り注いでいる。行き交う人は綺麗に着飾っており、華やいだ空気が充満している。必要品の買い出しのために来たが、茉由子の心はうっかり躍っていた。


 目当てのローションを入手した茉由子が吹き抜けを見下ろすソファへと向かうと、待っているはずの総一郎はいなかった。茉由子はそれに気付いた途端、なんだか自分が場違いに思え、なるべく目立たないよう端の方でひっそりと待つことにした。

 小さな女の子が片手に人形を抱きながら一所懸命階段を昇ってくるのが見え、小さい頃はじめて百貨店を訪れた時のことを思い出す。茉由子も父親にねだり、人形を買ってもらったのだった。


(しばらく見ていないあの人形を出して、図書室に持ってこよう)


 茉由子がそう考えていると、


「ごめんね茉由子さん。お待たせしました」


 総一郎が階段を駆け下りてきた。


「いいえ。何かお買い物でしたか?」


「うん、ちょっと。化粧品は買えた?」


「ええ。大きい方の瓶にしました」


 茉由子が紙袋の中身を見せると、総一郎がうんうんと頷いた。どちらからともなく階段を降りかけた時、


「総一郎さん?」


 後ろから女性の声がし、二人は振り向いた。

 薄桃色の振袖を着た美しい女性がそこにいた。小柄なその女性は見るからに良家の令嬢で、身にまとう全てが超一級品であることが一目で分かる。


「これは華乃子さん、こんな所でお会いするとは」


 総一郎がにっこり笑い、会釈をした。


「上の階で父の作品の展示会をしているのよ。こちらの方は?」


 華乃子が茉由子の方を見る。茉由子は、上から下まで一瞬で値踏みされたことを感じ取った。


「妹の友人で、西條さんですよ。これから妹と待ち合わせで」


「ごきげんよう」


 茉由子は無理して笑顔を浮かべ、挨拶をした。一体華乃子は何者なのだろうか。


「あらそうなの。ごきげんよう西條さん。ねえ総一郎さん、私またこの前ご一緒したところへコロッケを食べに行きたいわ」


 最低限の挨拶を終えた後、華乃子は総一郎の腕にそっと触れた。茉由子の存在は気にしないことに決めたらしい。


「父も総一郎さんに会いたがっているの。そうだわ、これから展示会にいらっしゃらない?」


「すでに妹を待たせていまして。これ以上遅れるとへそを曲げてしまう。お父様にはよろしくお伝えください」


 総一郎は笑みを崩さず、微動だにしない。腕に触れた華乃子の手もそのままだ。


「残念だわ。お食事のこと、お電話するわね。じゃあまた、来週にでも」


 総一郎の腕をさらりと撫でた華乃子は、去り際に上目遣いの美しい微笑みを浮かべてから背を向けて化粧品売り場へと消えていった。

 茉由子と総一郎の間に流れる奇妙な沈黙に、いたたまれなくなった茉由子が


「行きましょうか」


 と言うと総一郎はもの言いたげな顔で頷いたが、市電でいいと主張する茉由子を無理矢理タクシーに押し込んだ時以外は、何も話さなかった。



 裁判所に行った翌週、茉由子は学校で紅に呼び出された。急いで弁当を食べた茉由子は桜子たちに断り、待ち合わせ場所の音楽室に向かった。


「来たわね」


 茉由子の姿を認めると紅はピアノの演奏を止め、扉を閉めるよう手で合図をした。そして扉から一番遠い椅子に座った。


「ピアノ、とても上手ね」


「ありがとう。弾いていると落ち着くから好きなの」


 紅が微笑む。


「それで、話ってなあに?」


 茉由子の質問に、紅の顔が曇った。


「それがね、耕介さんがすごく頑張っているのだけれど、やっぱりまだ坂東道子のクリームに匹敵するものが出来上がらないの」


「総一郎さんがとてもたくさんの種を準備していたと思うけれど、どれもだめだったの?」


「良さそうに思えてもすぐに酸化してしまったり、べたべたが肌に残ってしまったりして、売れる製品が出来そうな見込みが立たない」


 紅が悲しそうな顔で言う。


「油分に追加する他の原料で調整できるかとか、色々試しているのだけれど、行き詰まっているわ」


「そうなのね…」


 朗らかな熊のような耕介が落ち込む姿を想像し、茉由子も悲しい気持ちになった。


「会社の書類は無事提出できたと兄に聞いたわ。帰宅した時、なんだか変な様子だったから心配したのだけれど、特に問題はなかったみたいね」


 茉由子は別れ際の総一郎を思い出した。あの美しい女性、華乃子の目元のほくろも一緒に脳裏に浮かび上がる。


「ええ、来週には新しい会社の名前で外向けの活動ができるようになるはずよ」


 華乃子の残像を振り払うかのように首を振り、茉由子は続けた。


「ねえ紅さん、私も調べてみるわ」


「本当に?ありがとう。あなた、外国のことに詳しいからお願いしたかったの」


「外国に行ったことはないけどね。うちの図書室にはあふれるくらい本があるから、何かヒントが見つかるかもしれない」


「何か分かったらすぐに教えてちょうだいね」


 紅は茉由子の手を取ってぎゅっと握りしめ、茉由子もその手を握り返したのだった。

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