日比谷公園を抜けて
「はい、全ての書類が揃っていますのでこちらで受理します」
係員が書類をまとめながら淡々と言ったので、総一郎はほっとした。
もともと茉由子を前面に立て、自分は陰で活動するつもりであったが、株式会社である東京クローバー堂を法律に則って動かすためには、どうしても役員名に名前を連ねる必要があった。
社長には予定通り茉由子を据えているので、誰かがわざわざ登記を確認しない限りは見つからないだろうとは思っているが、危ない橋であることは確かである。
それでも、新しく会社を作るよりは遥かに楽で、静かに船出が出来るのだからありがたいことこの上ない。
「いつになれば登記簿を取得できますか」
はっきりとした声で茉由子が質問した。良く見えない眼鏡ごしではあるが、茉由子が終始堂々としていることは感じられる。とても十七歳には見えない。
「二週間ほどで登記簿に反映されます。税金の手続きもお忘れなく」
「わかりました。ありがとうございます」
茉由子が頭を下げ、総一郎と穣も続いた。三人が歩いて裁判所の玄関を出ると、思いがけず晴れ渡っている。
「東京クローバー堂、幸先がいいじゃないか」
穣が両腕を高く上げ、伸びをしながら言った。
「新会社に、監査役として名前を連ねていただいてありがとうございます」
総一郎が頭を下げると、
「いやいや。形を変えてまだ会社に少しでもつながっていられるのは嬉しいよ。でも基本的には何もしないつもりだから、四人で頑張りなさい」
穣はそう言って遠くを見つめ、仕事に戻るからと言って市電の乗り場へと去って行った。
眼鏡を外し、自分も家に帰るか、と考えた総一郎はふと思い直して茉由子に言った。
「茉由子さん、この後少し時間はある?」
「あ、はい特に予定はありません」
「よければちょっと、銀座まで一緒に来てくれないかな?耕介が一つ化粧品を欲しがっているんだけど、紅が今週忙しくて。僕だとちょっと買いづらい」
「もちろん!いきましょう」
茉由子はなぜか嬉しそうに笑い、市電をちらっと見た後、日比谷公園を通れば歩けますね、と言った。
「足は大丈夫?」
「毎日自転車で鍛えていますのでご心配なく」
園内を歩いていると、音楽堂から弦楽器の音が聞こえてきた。雨水で濡れた木々の緑が日光で輝き、総一郎は落ち着いた気分になった。隣を歩く茉由子はそこら中に咲いている紫陽花を静かに観察しているらしい。
「あの、総一郎さん。ご趣味ってありますか?」
唐突に茉由子に尋ねられ、総一郎は現実に戻った。
「うーん、小さい時からやっている剣道は、趣味というよりはもう習慣かな。強いて言うなら、知らない世界を知ることかもしれない」
「行ったことがない場所について調べるとか、食べたことがないものを食べるとか?」
「そうそう」
「本に載っている実験を自分で再現したくなったり」
「そう」
「行く予定もない場所について、延々と調べた後にはっと我に返るとか」
「あはは、なんでわかるの。最近はあまり没頭できないけど、紀行文が好きで何回も読み返した」
「私も同じだからです。父は、『読みたがり やってみたがり 知りたがり 茉由子の興味は どこへ広がる』ってからかいますが」
やれやれ、という風に茉由子が腕を組んでため息をついた。
「しかも未だにやっちゃうんですよね」
茉由子が総一郎の方に顔を向ける。
「私もあと数年で好奇心を制御できるようになるんでしょうか」
そういって微笑みかけてきた茉由子のまつ毛が太陽を浴びてキラッと光った。背伸びした白いドレスと相まって、別人のように見える。
総一郎は、少し茶色い瞳に吸い込まれるような錯覚を覚えた。
「そのままが、いいと思うよ」
じっと見てしまった総一郎の視線に気付いたのか、茉由子が首をかしげる。
一瞬の間があり、総一郎は慌てて話の方向を変えることにした。
「なんで突然、僕の趣味を聞いたの?」
茉由子ははっとした顔をした後ころころと笑い出し、
「ごめんなさい、いきなりでしたね。
友人が先日お見合いをしたのですけど、そのお相手の方のご趣味が柔道とバイオリンだったんです。しかも写真がないっていうので、どんな方なのか私たち、随分想像を逞しくしてしまって…。
そのことを音楽堂から聞こえる音色で思い出して、ふとお聞きしてみたくなりました」
と言った。
「そういえばまだお見合いがどうだったか聞けてないんですよね。ああ、気になってきました」
独り言のようにつぶやき、視線を前に戻す茉由子の横で、総一郎は妙な気持ちになった。
大人のように見えたり、年相応の女の子に見えたり。
今日の茉由子は分からない、と総一郎は思った。
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