瓶底眼鏡
それから二時間、時に脱線しそうになりながら熱い議論は続いた。
「総一郎くん、かっこいいから『堂』って入れたくない?」
「銀座の大手と被らないなら、大いにありだ」
「Beautiful、elegant、gorgeous、ううん、glorious、charming…とかですかね」
「ちょっと長い言葉が多い気がするわね。prettyとかlovelyはどうかしら?」
「直球すぎてもうちょっと何か欲しい」
皆がピンとくる案が出ず議論がなかなか進まなくなったとき、茉由子はふと、以前に考えたことを思い出した。穣に会社の譲渡をお願いすることが決まった日だ。
「あの、こんな風に四人で若い人が集まって事業をすることってあまりないと思うので、それが伝わるような名前にするっていうのはどうでしょうか」
「いい!名前の一文字ずつ取る?…あまり意味を成さないな」
耕介が紙の端に全員の名前を書き、それをまたぐちゃぐちゃ、と消した。
「じゃあ何か四つで一つになるものはどうかしら?方角、四季…あとは何かしら」
紅の言葉に総一郎が小さくつぶやいた。
「クローバー」
「え?なあにお兄様」
「クローバーだよ。西洋の植物。
普通は葉っぱが三つなんだけど、四つついているものは幸せを運んできてくれると言われているんだ」
総一郎は興奮気味に早口で言い、ノートに書いた。
「東京クローバー堂…でどうかな」
こうして会社名は満場一致で決まったのだった。
二週間後、大雨が降る中で茉由子は霞が関にある裁判所の玄関ホールに到着した。
市電を乗り継いでやってくる間にスカートの裾が濡れてしまったことが残念だ。紙を提出するだけ、且つ便宜上の措置ではあるが、一応社長に就任するということでわざわざ通学袴から着替えてきたというのに、肝心なところで決まらないのが悲しい。
約束の時間まであと十五分あるため、茉由子は待合の椅子にかけて待つことにした。昨日受け取ったばかりの「東京クローバー堂」と彫られた大きな角印と、小さい頃から使っている自分の印鑑を握りしめる。
裁判所には初めて来たが、ひっきりなしに人が出入りしていて忙しない雰囲気だ。もっと厳粛な場所を想像していた茉由子は意外に感じ、案内窓口に並ぶ人を見ていた。
「あれ、茉由子さん?」
斜め上から声がし、見上げると総一郎がいた。茉由子が慌てて立とうとするのを制し、総一郎が隣に腰かける。
「洋装だとは思っていなくて、一瞬見過ごしちゃったよ」
ぱりっと整った服装とは裏腹に、今日の総一郎は少しくだけた感じがする。
「なんとなく、年上に見られた方がこういう時はいいんじゃないかと思いまして…舐められちゃいけないと」
拳を握りしめて見せる茉由子に総一郎が笑い出し、
「紙を提出するだけだよ」
と言ったあとで声を潜め、
「でも僕も一応、一番良い背広を着てきた」
と言ってジャケットの襟を整えた。良く見ると髪もしっかり固められている。
「総一郎さん、こういう場に慣れていらっしゃるのかと…」
「とんでもない、裁判所はさすがに初めてだよ。あ、そうだ危ない危ない」
総一郎は眼鏡を取り出してかけた。
「父の知り合いに見られる危険があるからね」
「…かなり雰囲気が変わりますね」
「人相が変わるように度を強くしてあるからね。僕、本来目は悪くないから今世界が歪んでいる」
レンズ越しにいつもの半分くらいの大きさの目を向けられ、茉由子は笑いでむせそうになった。
「だめ、見ないでください。息が、死んでしまいそう」
「僕には茉由子さんがムンクの『叫び』の絵みたいに見えてるよ」
声を抑えながら茉由子が大笑いしていると、穣が玄関に姿を現した。
茉由子は脇腹をおさえながら立ち上がり、総一郎も一緒に穣のもとに向かう。
「おお茉由子、ドレスも似合うじゃないか。えっまさか総一郎くん?」
穣のぎょっとした顔に、茉由子は耐えきれずしゃがみこんでしまった。
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