東京ウエスト商会あらため…
会社名を決める日、紅は学校を休んでいた。
置きっぱなしにする予定だった自転車で芝山邸に乗りつけ、呼び鈴を鳴らした茉由子の背後から
「自転車でここまで!?」
と紅の声がしたものだから、茉由子は驚いた。早朝からの行事で父母に同行せねばならず、学校を休んでいたらしい。
車から降りた紅はメイドに迎え入れられ、茉由子と共に門をくぐった。
「大した距離じゃないわよ、学校から15分もあれば来れるわ」
胸を張った茉由子に、
「帰りのことを忘れているでしょう。暗くなってしまったら自転車では帰さないわ。それ、うちに置いていくことになるわよ」
と紅はあきれ顔で言う。
「あ…そうね、どうしましょう…」
頭をかく茉由子に紅は吹き出し、
「茉由子さんのアンバランスなところ、嫌いじゃないわ」
と言って笑いながら茉由子を離れに促した。紅とはたまに学校でも話をするようになったが、声を出して笑っているのを見るのは初めてだった。
「アンバランス?」
「ええ、お兄様が驚くくらい賢いことを言うかと思えば、後先考えずに自転車で疾走してしまったり、かばんが開いて中身がはみ出していたり…」
茉由子は慌ててお弁当の包みをかばんに押し込んだ。紅は
「ああ楽しい。自転車はそこに置いておいてね」
と言いながら離れの扉を開ける。いつものメイドが出迎えてくれた。
一か月強来ていない間に、いつも集まっている離れの部屋の様相がまるで変わっていた。耕介が使っているのであろう器具が並べられ、その隣にはありとあらゆる化粧品や石鹸などが転がっている。
一応布は敷いてあるが、その下にある美しいテーブルにも傷やシミがいっているのではないか、と元家具屋の娘としては心配してしまう。
「おぉ二人とも、待ってたよ。いきなりだけど紅ちゃん、この鈴屋っていうところのクリームなんだけどさ」
器具の間から耕介が笑顔で顔を出し、小さな瓶を掲げた。
「月曜日にお渡ししたものでしょうか。私はかなり坂東道子のクリームに近いと思ったのだけれど、耕介さんはいかが?」
「いい、かなりいいよ。これまでに試した中で一番近いと思う。石鹸成分を足したらどうなるかはこれから検証するけれど」
「よかったわ!それ、どんな油分が使われているか公開されているかしら」
紅が話しながら耕介の隣に移動し、手元を覗き込んだ。茉由子は二人の打ち解けた様子に戸惑った。先ほどは声を出して笑っていたし、今日の紅は上機嫌なんだろうか。紅と耕介がクリームの中身について話している間、茉由子は積まれた化粧品をなんとなく見た。手持ち無沙汰な様子に気付いた耕介が声をかける。
「茉由子さん、総一郎くんは母屋の方に忘れ物を取りに行っているからもうすぐ来るよ。それまで自由にしてて」
「はい」
「あ、それなら茉由子さんの手も貸して。鈴屋のクリームを試して感想を聞かせて」
紅に言われ、手の甲にクリームを塗りたくられていると玄関の扉が開く音がした。
「ごめん、ノートを忘れちゃってて。茉由子さんと紅も着いたね。早速始めよう」
そう言いながら総一郎がにっこりと笑い、椅子に座った。いつもの総一郎だ。
先日芝山家の内情や総一郎の思いを知って以来、次に会う時はどういう顔でどんな話をしたらいいのか、と茉由子は考え続けていた。しかし目の前の総一郎は極めて落ち着いていて、何ら変化がない。隙を見せない、とすら言える。
茉由子はいささか心を乱しながら席に座った。総一郎から一番遠い席に座ったのは、多分無意識だ。
「それぞれ別々に話をしたけれど、茉由子さんのお父様の会社、東京ウエスト商会を譲り受けられることになった。二週間後に新社名を登記しにいくから、今日絶対に会社名を決めないといけない」
茉由子は手の甲を撫でながら総一郎の発言を聞いている。
「はい、じゃあ僕から。
僕は東京ウエスト商会っていう名前が実は気に入っていて、使えるならそうしたいとすら思っていたくらい。異国の響きがするカタカナの言葉と、日本っぽい地名や言葉を組み合わせるのがいいと思う」
耕介が言った。話の内容に集中することにし、茉由子も言う。
「私も似た考えで、和洋折衷とも言えるような名前がいいなと思っています。まだ見ぬ舶来品に憧れる気持ちと、身近なものに感じる安心感の両方を取り込むような名前です。
あとはやっぱり、若い女性をひきつけるには美しさとか幸せとかを象徴するような言葉を入れたいです」
「地名は善し悪しあると思うわ。たとえば地方に行くと、銀座が指す場所が違ったりする。とにかく覚えやすい名前がいいと思います。全体の響きとかリズムが大切」
紅も自分の考えを言い、総一郎が書き留めながら答えた。
「いいね、いいね。僕が考えてきたものであてはまりそうなものがあるから、それを基にしてみんなでアイデアを出し合おう」
「あるんかーい!それなら先に出しておいてくれよ!」
耕介のツッコミに皆が笑った。
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