間諜

 程なくしてノックと共にメイドが戻ってきた。

 洋装に着替えた紅も共に入ってくる。いつも離れに招き入れてくれるこのベテラン風のメイドは脇田さんといい、芝山家というよりもこの離れに所属しているらしい。総一郎によると「この屋敷で唯一、話を聞かれてもいい相手」なんだそうだ。

 渡されたメモを見て、うなずいた総一郎は笑顔でこう話しだした。


「さあ紅、茉由子さん、仕事だよ。明日の放課後、君たちは銀座の坂東道子に行くんだ」


 先程脇田が出て行ったのはその予約の電話を入れるためだったようだ。晩さん会の出席を控えた紅とその友人の美容をお願いしたい、という体になっているという。


「もちろん顔と全身の剃刀をお願いしてあるから、存分に体験して知見を持ち帰ってきてほしい」


「お兄様、話が違うわ!私は茉由子さんをお兄様のもとにお連れする部分で協力するとは言ったけれど、事業の内容にまで協力するとは聞いていない!」


 無表情なことが多い紅が、珍しく怒った表情で総一郎に詰め寄った。


「それに関しては申し訳ない。その代わり、週末に来る大岡の叔父さんの対応は僕が全部するから、紅は仮病でも使って部屋に籠っていい。

 叔父さんが持ってくる縁談に愛想笑いしなくていいっていうのはいい条件じゃないか?」


 何やら目線で静かな戦いが行われた後、紅は仕方なさそうに座って兄に紅茶を注ぐよう、これまた目線で伝えた。きれいな顔で家の心配もない紅だけれど、色々と気苦労は多そうだ。


「体験してくるのは、むしろ私がとても気になっているので良いのですが、おそらくどんなクリームを使われたとしても友人以上の感想は伝えられないと思います。誰か化学の知識が豊富な人が行った方がいいのではないかと思うのですが…」


 茉由子がそう提案すると、総一郎はいたずらそうな笑顔を浮かべて言った。


「それに関しては、適任に心当たりがあるから同行させるよ。あしたの迎えの車に乗っていると思うから、仲良くしてね」



 帰宅し、風呂に入りながら茉由子は考えた。

 存外スピーディに事が運んでいるような気がする。

 半月ほど前には会ったことがなかった総一郎とビジネスを始めることになり、あれよあれよという間に製品が決まった。残念ながら芝山の伝手で米国の男性用シェービングクリームを入手することは難しそうだが(この点においては、「ビジネスについてはうちの家族で紅以外に知らせる予定はないから」と総一郎は一刀両断だった)、坂東奈津子への潜入、もとい調査も決定したし、順調だと思う。

 総一郎に褒められた瞬間は、気持ちがなんだかふわっとした。


(きっと、しばらく張りつめていた気持ちが少し安心したのね)


 しかし何はともあれ明日だ。

 総一郎が満足し、製品の開発が前に進むような「何か」を持ち帰らないといけない。


(頑張ろう)


 茉由子はぴしゃりと両頬をたたき、自らに喝を入れた。



 翌日、茉由子は授業が手に着かずひたすら坂東道子のことを考えていた。

 あいにく、理系の知識は学校で習う以上のものは何も持ち合わせていない。

 そんな自分が探れることはなんだろうか。質感や色合い、香りは伝えられそうだが他にも何かあるだろうか。

 明らかに授業を聞いていないことが先生に伝わったらしく、昼休みには呼び出されて説教されてしまった。きっと今日は書く時間がないので、反省文を食らわなかっただけ幸運だろう。

 ようやく学校が終わると、茉由子はまた紅と共に芝山家の車に乗り込んだ。これまでと違っていたのは、すでにもう大柄な男性が乗っていたことだ。


「紅さん、茉由子さん、僕は村山耕介と言います。総一郎くんに頼まれて来たんだけど、今日はよろしくね」


 どうやら、昨日総一郎が言っていた「適任」というのがこの目の前の男らしい。


「僕は総一郎くんと同じ大学で化学を勉強しているんだ。秘密のクリームの成分を探るんだろ?総一郎から話を聞いて、面白そうだから来たよ。間諜みたいでわくわくするよね!」


 熊みたいな見た目に子犬のような笑顔で間諜などというものだから、茉由子は少し緊張が解けた。

 たしかに、間諜と言えなくない行動だが総一郎は一応「競合の調査」だと言っている。しかし茉由子たちがしようとしていること、すなわち坂東奈津子にしかないクリームの秘密を探ろうとしていることがばれたら警戒され、二度と訪問はできなくなるだろう。

 事は慎重に運ばねばならない。


「それでね、総一郎くんと考えたんだけど…僕は芝山家のお抱えの医者という設定にする。肌がとても弱い紅さんのために、紅さんに使う薬剤はすべて僕が先に試し、許可を与えるという風に言うよ。

 実験室で使う白衣も持ってきたから大丈夫」


「それは名案ですね!そうすれば村山様も件のクリームに直接触れることができるわけですね!」


 茉由子はそう言いながら思わず両手をぽんと打った。


「そう。まあ触ってみればベースになっているのが水なのか油なのかが大体わかるし、溶け込んでいる成分もあたりがつけられる可能性が高いからね。あ、耕介でいいよ」


 いたずらな笑顔を浮かべながら、耕介は答えた。

 紅はというと、茉由子と二人丸腰で挑むよりも遥かに安心のようで、明らかにほっとした顔を見せている。それは茉由子とて同じだ。

 ざっくりとした流れの打ち合わせの後は、共通の話題とも言える総一郎の話をしていた。

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