襟元のほくろ
期日の二週間が到来し、茉由子はまた紅と共に車にのって芝山邸(仮)にやってきた。
紅は相変わらず静かだったが、特段悪意があるわけではないようだ。最近できた美容室の前に差し掛かった際だけ、ふと思い出したように話を振ってきた。
「この前、あなたの学級の美代さんたちと…事業に関する話をしていたわね」
事業という時、紅はほんの少し言いよどんだ。おそらく毛、と言いそうになって躊躇したのだろう。前回の訪問時に総一郎と毛、毛、と何度も言ったことで羞恥心が薄れてしまった茉由子だが、紅はちゃんと、令嬢としての恥じらいがあるのだ。
「ええ、でも心配しないで。毛を剃ったことがあるかっていう普通の話をしていただけよ。ビジネスについては触れていないわ」
茉由子がそう答えると、紅はいつもの真顔で
「そう。兄が言うところのマーケット調査というものね」
と言った。
「なあにそれ?私、別に買い物はしていないわよ」
「兄は時々そういう不思議な言葉を持ち出してくるの。買い物をするマーケットとはあまり関係ないと思うわ」
人差し指をあごにあてながら、紅はそう言う。
「総一郎様は、大学で経済や商業について学ばれているの?もしかしたらそういう専門用語なのかもしれないわ」
茉由子がはっと思いついたように言うと、紅は首を振りながら
「いいえ、あの人はなぜか法学を勉強しているから違うわ」
と答えた。
自分で話を振ってきた割にふんわりしたことしか言わない紅に、茉由子はなんと返したら良いのかがよく分からなかった。結局、
「総一郎さんは博識なのね」
と当たり障りないコメントをしておいたら、紅はそれ以上何も言わなかった。
これからしばしばこうして車に同乗するだろうが、紅と話が盛り上がる日はくるのだろうか。
芝山邸の離れに着いた茉由子はちょっと着崩した和装で迎えた総一郎に対し、二週間で調べ、考察した内容を話した。
この話題に関する友人たちの反応、(本人の名誉のため名前は出さなかったが)小雪が抱える悩み、外国の女性向け雑誌で関連する製品がまったく見受けられないことなどを話していくと、総一郎はうんうんと頷きながら何やら手元のノートに書きつけていた。
茉由子にとって最も気になる「坂東道子の特製クリーム」に関しては報告の最後に細かく説明し、
「というわけで、私としてはこのクリームを調べてみるのが次の動きとしてはおすすめです」
と締めくくった。
総一郎はメモと万年筆を置き、しばらく茉由子の目をじっと見た後で
「茉由子さん、きみは大変かもしれないけれど、女学校を出て家庭に入るよりもこういうのが向いているよ」
とゆっくり口にした。出資者とその雇われ人という間柄だ。そもそもお世辞を言うメリットは総一郎にないだろうし、割と微笑みを絶やさない総一郎が真顔で言ってきたことで、茉由子は額面通りにその言葉を受け取ることにした。
「お褒めいただきありがとうございます。じゃあとりあえず課題は達成できたんですね」
ほっとして力が抜け、茉由子は冷めてしまった紅茶を一息に飲んだ。
「僕が言ったのは書物を調べてくることと、周りの学生たちの声を集めてくることだ。でも茉由子さんはそれをきっちりやった上で海外の状況を推察し、自分の意見をまとめ、次の行動についても提案してきた。
正直なところ、父のもとで働く社員でもそれができる者は少ない。想定していた三倍くらいの働きだよ」
茉由子にとって人生がかかっていることなのでとりあえず全力投球したわけなのだが、ここまで評価してもらえるとは思っていなかった。総一郎はこれまでのやりとりで悪い人ではなさそうだと感じていたが、坊ちゃんの気まぐれで
「やっぱりこの話はなしで」
と言われてしまう恐怖は常に頭にあった。
一寸先は闇、から一尺先は闇、くらいの進歩だけれど、首の皮がつながったと考えていいだろう。
総一郎は先ほど書いていたメモのうちの一枚をメイドに渡し、それを見た彼女は頷いて部屋を出て行った。メイドが戻ってくるまではどうやら休んでいていいらしい。
「今日は暖かいな」
そう言いながら離れの窓を開けた総一郎の姿を、クッキーに手をだしながら茉由子はなんとなく見た。ほっとするとお腹が空くなんて、体って現金だと茉由子は思う。
女性の平均より背が高い茉由子が見ても、総一郎は長身だ。綺麗に整えられた髪と男性の割に華奢な首筋をこっそり観察する。襟元に小さなほくろが一つあることに気が付いた。
(最初に会った時も思ったけれど、女性には困らなさそうね)
茉由子はこっそり心の中でつぶやいた。
(男性に使う言葉か分からないけれど、なんだかきれい)
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