笑みを絶やさぬ美青年

 顧客の個人情報に関して、穣はあまり詳しく話さない。茉由子が知っているのは、芝山家が急激に財を成したということだ。

 一代前にはそれほど大きくない呉服屋を営んでいたが、現在では反物の輸出から新たな染料の輸入、洋装の百貨店向け納品から職業婦人の制服製造まで広く遍く衣料関係を手掛けているらしい。広い廊下の壁には舶来の珍品と思しき絹織物が架けられ、飾り棚には写真で見ても上質だと分かる着物に身を包んだ紅の写真がある。


 出された紅茶を紅と向かい合いながらまた無言で飲んでいると、玄関の扉の開閉音が聞こえてきた。続いて何やらぼそぼそと話す声が聞こえ、応接室の入口に現れたのは背の高い男性だった。

 年の頃は茉由子より三つほど上、二十歳くらいかと思われる。

 明らかに仕立ての良い洋装を身にまとい、すっきりとした短髪が似合うこの青年は、すっとした切れ長の目が印象的だ。

 きっとこれが紅の兄なのだ。

 なんとなく既視感があるのは、少し紅に面差しが似ているからだろうか。


 「それで、あなたが茉由子さんですか」


 椅子に腰かけながらそう話しかける青年に茉由子ははっとし、慌てて立ち上がってこう言った。


 「はい、西條茉由子と申します。この度は、父の不手際で紅さんとご家族様に多大なご迷惑をおかけすることになり、誠に申し訳ございません。

 違約金に関しては、両親と共に私が働き。なんとしてでもお支払いいたします。」


 「ああ、うん。僕は当主じゃないし、そういう意図で紅は君を連れてきたんじゃないよ。それは父親同士でやればいいから。とりあえず座って。

 あ、僕の名前は芝山総一郎。帝都大学の二年生だ」


 なぜかにっこりと笑い、着席を勧める総一郎。

 繰り返すが、紅は特に仲が良いわけでもない学友だ。家業に関する謝罪以外の理由で自宅に誘われ、その兄と対峙する理由など茉由子にはまるで思いつかない。言われるままに茉由子が座ると、総一郎はつづけた。


 「君の実家は今回の件で立ち行かなくなり、事業を畳むことになったということだよね。女学校はあと一年間残っているけれど、君と紅が通うあの学校は学費が高いことで有名だから、卒業まで通い続けることは難しいだろう」


 「そうですね。学費は今学期末分まで支払っていますが、仕事が見つかればすぐ退学しようと今日考えていました」


 茉由子がそう答えると、総一郎はきゅっと目を細めた。


 「今学期だけでも通わないのかい?」


 「もう令嬢ではなくなった私に必要なのは、良妻賢母としての意識を知ることよりもお給金の稼ぎ方を知ることです。現れるか分からない旦那様との結婚に夢を見て、パーティーのお礼状のしたため方などを学んでいる暇などないのです」


 「ははははは、現実的だ。運命を儚んで泣き濡れるタイプではないと見える。一晩でそこまで考えて覚悟しているとは、すごいな」


 総一郎は笑っているが、不思議と嫌味なところを感じない。茉由子に対して、憐憫も抱いていなければ嘲る気持ちもないのが分かるからだろうか。茉由子の心情の変化に対して、心から感心している。

 不思議だ。

 取りとめもない世間話をしばししているうちに、壁にかかる時計が四時を告げた。


 「大変申し訳ございませんが、歩いて帰るためにそろそろお暇させていただきたく思います。これから家族一同一所懸命働いて違約金はお支払いいたしますので…」


 そう言って茉由子が腰をあげようとした時、総一郎がぐっと体を茉由子の方に寄せ、目をのぞき込みながら言った。


 「茉由子さん、紅によると英語の成績は学年でダントツ一位だとか」


 「えっ、ああはい。裁縫や作法なんかは良くて凡ですが、英語だけは幼い頃から父に習っておりましたので…。」


 突然のことにたじろぎながら茉由子が答える。


 「何かに取り組むのは好きかい?」


 「ええ?好きなことであれば集中力はある方かと…あの、それが何か?」


 総一郎が紅を見、紅は真顔でうなずいた。

 なぜか沈黙しながらきれいな指でティーカップの持ち手をなぞる総一郎を前に、さあ本当に帰ろう、と茉由子が思った時、総一郎は微笑みながらまっすぐ茉由子を見、口を開いた。


 「茉由子さん。僕とビジネスをしよう」



 総一郎がペンと紙を持ち出し、さらさらと何かを書いている間、茉由子は先ほどの総一郎の言葉について考えていた。紅は何事もなかったように膝の上の猫をなでている。

 しばらくして総一郎が 、


  「条件としては、これでどうかな」


 と言いながら見せてきた紙には、契約書という文字に続き、およそ以下のような内容が書いてあった。


 ・総一郎が立ち上げる新しい事業を、表向きは代表者として運営していくこと

 ・期間は本日から大正十七年三月末日まで。更新は未定

 ・総一郎は事業にかかる費用の一切を出資するが、その事実は軌道に乗るまで隠すこと

 ・茉由子は代表者として活動する

 ・卒業までの学費および芝山呉服店の新人販売員と同水準の給与を、総一郎の個人資産から支払う

 ・利益が発生した際には、その一割を茉由子に支払う

 ・この事は茉由子の両親にしか話さない。総一郎と紅の両親にも秘密で進める


 つまり一年弱の間、茉由子は新しい事業の社長として活動し、その見返りとして学費と給与を得られるということだ。

 茉由子にとっては願ったり叶ったりだが、正直言って怪しさも感じる。


 「私にとってあまりにも得な話に聞こえるのですが、なんのビジネスですか?」


 茉由子の問いに、総一郎は


 「まだはっきりとした全体像は見えていないけれど、こんなのが欲しかった!と思ってもらえるものを作っていくつもりだ」


 と答えた。


「身を売るとか遊郭を経営するとか、そういう話ではないのね」


 ほっとして心の中でつぶやいたつもりが、うっかり口に出ていたらしい。総一郎が慌てて付け加えた。


 「いや、そういう類ではないし、公序良俗に反するものじゃないことは約束するよ。確かに条件だけ見たら怪しくてそう見えたかもしれないな。すまない」


 想像力がたくましいと思われただろうことは想像に難くなく、茉由子は顔から火が出そうになった。

 よく考えれば、相手は御曹司だ。可愛い可愛いと育てられてきた茉由子だが、自分が絶世の美女でないことは理解している。そんな女衒のような真似をし、家名を汚す危険性を冒してまで茉由子に身売りさせて、はした金を得る理由はないだろう。

 紅が聞こえないふりをして顔を背けているのが目の端に見える。


 「不躾なことを申し上げて、大変失礼いたしました…」


 真っ赤な顔で消え入りそうな声で謝る茉由子に、総一郎はもらい泣きならぬもらい照れでうっすら耳を赤くしながら 、


 「君のご両親もおなじように不安を感じるかもしれないから伝えておくと、女子学生が欲しがる全く新しいものを製造しようと思っているんだ。肝心の製品が決まっていないから、それを考えるところから一緒に始めたい」


 と言った。しばしの沈黙の後、


 「ありがたいお話だと思うのですが、私、普通の人です…なんで私に?」


 茉由子がそう問うと、余裕を取り戻したらしい総一郎はまたにっこり笑ってこう言った。


 「全然普通じゃないよ。契約成立だ。帰りはうちの車で送っていくから、支度をする間にこの紙に署名をしてほしい。拇印も欲しいな」


 茉由子が言われたとおりにするのを見届けた総一郎は、立ち上がって握手を求めた。


 「ありがとう。これからよろしく。ご両親以外には秘密にするという条件-これはくれぐれも頼むよ」


 笑みを絶やさない総一郎が一瞬だけ真剣な表情を浮かべたのが、茉由子の印象に残った。何か事情があるのだろうが、茉由子にとって今それはさして重要なことではない。


 「よろしくお願いします」


 茉由子は総一郎の手を握り返した。


 こうして茉由子は違約金という名の借金を背負う相手の息子と奇妙な契約をし、家路に着いたのだった。

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